Return EnD〜いっぱい満たしてあげるから〜

お餅。

Return End

もう寒ささえわからない。ほんの数分前、倒れた身体の末端にまで冷たい痛みを感じていたのに、もう何もない。指や関節の方に意識を向けようとしても、頭の中が霧がかったみたいで、うまくいかない。胃の中だけが軽い。昨日、空腹を誤魔化すために腹に溜め込んだ水が、ぼちゃぼちゃと音をたてている。ゆっくりと死んでいく時でも腹が減っているんだから、自分に呆れる。

 カトリーはどうしたかな、クランは飯にありつけたか。そこまで考えて、この思考がもうなんの意味もないってことを思い出した。

もうみんな死んだから。

仲間たちの匂いがぶわっと蘇ってくる。大好きだったあいつらは、泥やアカに塗れて臭かった。俺と同じだった。

死にたくないなぁ。何度か押し殺していた気持ちは、弱っていた俺の隙を狙って飛び出す。ひどくさびしい。世界にまるで、俺一人しかいないみたいだ。どんなことをしたって俺の存在が誰にも知られることはない、そんな地獄にいるみたいだ。

あと少し、1秒でも長く、生きていたい。何度も死んでしまおうかと思ったけれど、実際に死ぬ番になったら、死にたくないと思ってるなんて滑稽だ。変だよ、死ぬ直前になって、やっぱり生きてたいだなんて、勝手だ。

ただ本当は、欲しかったんだ。俺のことを、異常じゃないと言ってくれる人。


ラット・ブラウンはそこまで思考して、息を止めた。

アメジストの月、13日、月曜日。ポルシエという田舎町、小さな宿の裏側で倒れている瀕死の少年を、野次馬が囲んでいた。真冬だというのに、ラットは一枚の布切れしか身につけておらず、腕も足も枝のように細い。目は細く切長で、身体は頼りないほどに小さい。煤や泥をかぶっているせいで、元々焦茶色の髪も汚らしく見える。体から泥っぽい悪臭がするし、爪の先に鼠や蝿が集り始めている。それでも茶色い瞳だけは半分開いていて、何かにすがりつく様に、僅かな光を残していた。

そしてちょうど同じ場所。野次馬の中に、真っ黒なコートを着たある男がいた。背が高くスラリとしているが、必要なだけの筋肉はついていると傍目でもわかる。そんな体つきだ。

男はラットを心配げな顔で見つめていた。濃い蜂蜜の様な金色の瞳、瞳と同じ色の長髪を一括りにして、背中の辺りまで垂らしている。鷲のような隙の無いただ住まいと、きりりとした顔立ちだ。彼の名は、ストライダー・イェーゴー。町の外れにある、巨大な屋敷の執事であった。

「こりゃあ、もうだめだな」

 イェーゴーの隣で、中年の男性が呟いた。その顔には同情が浮かんでいる。ポルシエには、騙される方が悪いという風潮が流れている。治安も良くない。ただ、死が近づいている者には、祈りを捧げる。それがたとえ、人殺しであってもだ。

イェーゴーはコートを脱いで片手で持つ。そして自分でもわかりきっていることを尋ねた。

「・・・失礼。だめ、というのはどういう意味でしょう」

 男はイェーゴーの顔をチラリと見、世間を知らない召使いだと思って小馬鹿にした様な口調になった。

「みりゃあわかるだろうよ。顔は青白いし、棒切れみたいに細いじゃないか。もうこいつはおしまいだよ。まだかろうじて生きてるみたいだが。構うことはないさ、こんなことはこの町じゃ、珍しくないんだから」

そして答えると、ため息をついて野次馬の群れから抜けたのだった。イェーゴーとて、今晩の食事の買い出しにと市場に向かう途中だったのだ。長居はできない。

十分、二十分、三十分が過ぎた。気づけばイェーゴーの周りにいた野次馬は、綺麗さっぱり消えていた。

 イェーゴーはラットを見下ろし続ける。その頬の、もう乾きかけた涙の跡から、目が離せなくなってしまった。あまりに無惨なその姿から逃げたら、自分はもう生きていく資格さえないと思った。少年の中の何が、ここまでイェーゴーを引きつけるのか、わからないままだった。

 その時だ。ラットのもとに巨大な袋を担いだ男がやってきた。そして、

「もうダメだな」

吐き捨てるように呟くと、袋をどすんと地面に置いて、ラットの細い脹脛をがっと掴む。イェーゴーは思わず顔を顰める。男の背中から、肉が腐敗したような死の匂いがした。随分前に、よく嗅いだ匂いだ。男は死体片付け人だった。

「待ってください、彼はまだ生きています」

自分でも気がつかないうちに、イェーゴーは男に話しかけていた。だが男はイェーゴーの声を無視して、ラットをずるずる引きずって袋に詰め込もうとしている。聞こえないふりをしているらしい。

ポルシエでは道端で亡くなる人間が少なくない。子どもでさえ、ものが食えなければ生き倒れだ。死体片付け人にとっては、道端で寝ている動かない人間は皆、死人だった。

 とうとうイェーゴーは、男の肩をがしりと掴んだ。ラットはもう腰まで袋の中に入れられていた。

「まだ死んでない」

先ほどまでの柔らかな物腰とは一転、冷たい声が響いた。イェーゴーの瞳から発せられる殺気が、男の自由を奪った。ひやりと背中が冷たくなる。

「出せ」

命令されるがまま、男はラットの体を袋から引き摺り出していた。


 イェーゴーは、片手で持っていた分厚いロングコートでラットの体を包み込んだ。自身の手袋やシャツが汚れるのを構いもせず、ラットに触れた。その長すぎる前髪を撫で上げる。小さな鼻と口が見えた。息はかろうじてまだある。

「たすけ」

 少年の声で何かが小さく呟かれる。イェーゴーの首筋の皮膚が、雷に撃たれたかのように粟立った。

「て・・・」

 ラットがまたか細い吐息を漏らす。

イェーゴーはラットの骨の様に軽い体を、ふかふかしたコートに丸ごと包んで持ち上げた。そして空っぽの買い物籠を肩に下げながら、元来た道を戻り始めるのだった。


死体片付け人は、暴れる心臓を押さえつけながらふっと息を吐いた。

思わず命令を聞いてしまうくらい、凄まじい殺気だった。

「あいつ、何者だ・・・」

呟いた時にはもう二人の姿はなかった。


その日は冷たい雨が降っていた。廃れた工場の跡地で、ラットは一人、座っている。色が剥げた壁が、雨音を反射している。セメント色の室内には派手な色の塗料や細長い管の入れ物が残っている。仲間たちはついさっき盗みから帰ってきて、シャワーを浴びているところだ。もうすぐラットの側に戻るはずだ。戻ってきたら、赤布の上のご馳走に、みんなでニヤリとするのだ。彼らが小さな食料品店から盗んできたものを数える。オレンジ色のホールチーズ、朝焼けのような色の生ハム、白パンはどっさり。10人の仲間達全員が夕飯にありつけそうだ。そして、藤色の葡萄ジュースも10人分。アジトの見張り役だったラットの分も、仲間たちはとってきてくれていた。

 このボトルで乾杯をするのが待ちきれない。宴が始まるともう、みんな訳もわからないままで踊って騒ぐのだ。それはラットにとって、不景気や、酒癖の悪い父親や、将来のことを忘れられる滅多にない幸福な時間だった。

そろそろあたたかいシャワーから、みんなが帰ってくる頃だろう。ラットは冷たい床に裸足で立って、アジトの入り口近くまで駆けて行った。

足音がした。

「おいおい、お前ら遅いぞ!全部食べちまってもいいのかよ!」

ラットは悪戯っぽく笑いながら足音のした入口に向かい、そして、言葉を失った。

人間が立っていた。ナイフを持った男が、ズボンに赤い染みを作っていた。切先は紅かった。

「お前が最後だな」

男は、ラットたちがよく盗みを働いていた店の、主人だった。



夢はゆっくりと終わっていく。



頭がうまく働かない。

ラットは、目覚めてもまだしばらくぼんやりとしていた。ここがまだ夢の中なのか現実なのか、判断できなかった。地面がこんなに柔らかいわけがない。外に天井があるわけもない。それに、アメジストの月なのにこんなに温かいわけがない。体から石鹸みたいないい匂いがするわけもないし、何より自分の体がもう動くわけがない。パチパチと目を瞬かせる。天井には手を伸ばしても届かない。掌を見つめた。ボロボロの爪だ。だが、汚れてはいない。

ゆっくりと、警戒しながら上体を起こしてみる。柔らかい毛布が、掌に弾力を返してきた。

さっきまで頭を預けていたらしい大きな枕も、ベッドも、怖くなるぐらい柔らかくて、これはやはり夢なんだと悟った。きっと死ぬ前に、神様が見せてくれた幸せな夢だと。

  その時、静かに扉が開いた。ラットは、ベッドから飛び起きようとした。しかし、すぐに立ちくらみに襲われる。開いた扉から、手押し車に乗せられたトレーが現れた。同時に一人の男が寝室に入ってくる。頭まで毛布にくるまったラットに、男は恐る恐る話しかける。気まずい沈黙が立ち込める。

「具合はどうですか?」

 ラットはできる限り扉の方を睨みつけながら、毛布を体に巻き付けて身を守ろうとする。無意識での行動だった。

「・・・お身体の調子はいかがですか」

 男はトレーが置かれた手押し車を、ベッドの脇に持ってきた。そこには丸い蓋が載っている。

「御夕食を、と思ったのですが・・・起き上がることはできますか?」

 男の手が丸い蓋をパカっと取り除くとそこには、蒸した若鳥に赤いソースがかけられた、なんとも香ばしい匂いのする料理があった。ラットの顔が僅かに毛布から出る。その時、男の容姿がわかった。

紫色を基調とした燕尾服とピシっとしたパンツ、茶色い革靴はよく手入れされて光っている。白いシャツの胸元で鮮やかな紅いリボンが結ばれてあった。

金色の目が心配げにこちらを見ていた。身長は180cmを超えているだろう。大きな男だ。ラットの緊張がさらに高まる。

イェーゴーは無理に毛布を剥ぎ取る様な真似はせず、ただベッドの脇で待ち続けた。

そうして五分程が経った。

「あの・・・食欲がない様でしたら下げましょうか」

 イェーゴーが蓋を料理に被せようとすると、とうとう我慢がきかなくなり、ラットは毛布からもぞもぞと出てきた。イェーゴーはその姿を見て安心していいのか心配していいのかわからなくなった。寝巻きにと着せた青いパジャマから覗く褐色の肌には、かすり傷や火傷の跡が目立つ。艶もない。栄養が足りていない証拠だ。

「それ、くれるのか?俺に?」

 ラットは、料理を指さした。警戒心を無視して質問するほどに空腹なのだ。男は微笑み、トレーを持ち上げた。

「ええ。あなたのものですよ」

 ラットは目を見開いた。ただで食べ物がもらえるなんて怪しい。何か裏があるとしか考えられなかった。そう考えでもしないと、男の優しい笑顔に絆されてしまいそうだったのだ。

ラットは料理に毒が入っていないか確認することさえせず、肉を奪い取って両手で鷲掴みにした。舌に肉の感触だけが広がり始める。何かに取り憑かれたようにがっつき始めた。男はトレーを手にしたまま、ラットの食いつきっぷりを、呆気に取られて見守っていた。喉が、肉が通るたびにごくんと動く。むしゃむしゃと下品な音を立てながら、肉はどんどん侵食されて消えていく。甘いと同時に酸味の効いたソースの味が、ようやく口内に染みてくる。うまい、うまいと声がする。それは脳内での声なのか、実際に自分が呟いているのか、ラットにもわからなかった。「ここがどこなのか」だとか、「彼は誰なのか」を考えるだけの余裕がなかった。ラットの命が、別の命を欲していた。いますぐ腹を満たさないと、死んでしまうと勘づいていた。仲間がいた時には食べ物の安全性についてはよく忠告されていたのだが・・・。

 肉を食いながら、頭の端の方でうっすらと生活のことが思い出されていた。誰かが過去に使ったもの、所謂ごみで、ラットの地域は溢れかえっていた。誰も彼もが切羽詰まった顔をして、下を向いて歩いていく。地べたに並べられた食材はどれも、喉から手が出るほど欲しいのに、高価すぎて買えはしない。川の水は濁っている。飲んで腹を壊す人間もいる。ラットがこの十六年間生きてきたのは、そういう世界だ。生き延びることができただけでも幸せと言うべき世界だ。

 ラットは両方の指にへばりついた美味しいソースを舐った。鶏肉は、もう完全にラットの腹の中に収まっていた。自我が戻ってきた頃、ラットは自分が長く長く息をついていることに気付いた。

 はーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 体中の酸素が抜けていって、力もみるみるうちになくなっていって、そうして頭が、すとんと枕の上に落ちた。ラットは再び寝息を立て始めた。男は、トレーと皿を手押し車へと戻す。これほどまでに素直に食べ物に食らいつく人間を、男は初めて見た。

こんなに貪欲に無我夢中で食べてもらえたら。

「この御料理は幸せだ」

 男、イェーゴーは微笑み、ラットの髪をそっと優しく撫でた。元気にしてあげたい。庇護欲が高まっていく。自分の胸が締め付けられるのを感じるのだった。そしてこの感情が、人間的な正しい優しさであると信じた。


イェーゴーが、眠り始めてしまったラットの汚れた指をナプキンで拭こうとした。するとラットは、気配を悟ったのか、パッと目を覚まして後ずさった。追い詰められた様な顔をして。

「・・・触られるの好きじゃないんだ」

その声は何かを恐れているかのように暗かった。

少年が指を舐っている間、イェーゴーは自己紹介のタイミングを見計らい、ここだと思ったところで、丁寧な動作で腰を折った。

「申し遅れました。私はこの屋敷の執事を務めております。ストライダー・イェーゴーと申します」

 金髪の尾が、お辞儀をした拍子に肩から垂れ下がった。少年は少し焦って名を名乗った。

「俺はラット・・・そう呼ばれてた」

 ラットはいっぱいになった腹を撫でる。そして、つぶやいた。

「料理、うまかった」

イェーゴーはを綻ばせた。

「ではラット様、今夜はこのままお休みください。明日の朝、お着替えを用意しますので」


急にラットの胸に焦りが生まれる。今絶対に言うべき言葉が、もう頭の中で何度もループしていた。あとは、口に出すだけ。そうこう考えているうちにもうイェーゴーは行ってしまう。ラットは勇気を振り絞った。

「あー、イェーゴー・・・さん?」

「ストライダーで、構いませんよ」

 イェーゴーは小さな声をちゃんと聞き取るために、ベッドの横にしゃがみこんで目線を合わせた。

「どうかしましたか?」

 見つめられた瞳が妙に艶めいていてラットは一瞬戸惑った。

「その、初めてだったんだ。こんなに美味しいものも、こんなにいい寝床も、あんたみたいに俺に優しくしてくれる大人も。ほんとに、あ、ありがとう。最後にこんな良い思いができて良かった」

 ラットは早口で言い切って、すぐに毛布の中に潜り込んだ。ありがとうだなんて言葉、言い慣れていなくて頬が熱い。

イェーゴーは何も言わず、ベッドの中で布の擦れる音を聞いていた。

「・・・嬉しいです、そう言っていただけて」

 怯えさせない様にゆっくりとベッドに膝を立てる。

 ベッドが悲鳴のようにぎしりと音を立てる。イェーゴーは悲しみと安堵の中間のような笑みをした。頭まですっぽりと毛布にくるまってしまっているラットを、毛布越しにそっと撫でた。

しばらく音のない部屋でじっとしていた二人は、互いの存在に安らぎを得ていた。感情の種類が、波長が合っているのだろうか。なんの言葉もなくても、まるで昔からずっと一緒にいたかのような心地のいい沈黙が広がっていた。

「・・・そろそろ、お休みになった方が良いでしょう」

ラットが丁度布団の中であくびをした頃、イェーゴーが言った。ラットは何も答えなかった。眠れる気がしないのだ、あのことがあって以来。目を閉じると、雨の音と紅が、蘇ってくる。

 布団の中でも身体はがくがくと震えた。


「・・・眠るのが怖いですか」

 イェーゴーは何かを悟って、静かにそう尋ねる。毛布がピクリと動いた。

「わかります。目を閉じると闇が浮かんできて、不安と焦りに絡みつかれるような気持ちになる。そしていつの間にか闇に飲み込まれている。耐えられないくらい、恐ろしいことですよね」

 ラットは夢の中を思い出してぎゅっと目を瞑った。息を呑む。その時、

イェーゴーがベッドに上がってくるのがわかった。隣に寝転び、肘をついて頭をもたせかける。そしてラットがくるまっている毛布に囁きながら、ラットの頭の位置を優しく撫でる。

「大丈夫です。私が側にいて、あなたが何にも襲われないようにばんをしていますから」

 大丈夫、大丈夫と言い聞かせるように囁き続けると、ゆっくりとラットから緊張が抜けていく。撫でつけられる感触が、ラットの中の焦りや不安を緩めて消し去っていく。魔法のように。

イェーゴーの手が、毛布の中に入ってくる。それは迷うことなくラットの震える掌を包み込む。じわりとあたたかくなる。気づくとラットはぎゅうっと目を瞑っていた。

今まで自分が一番必要としていたものが、こんなところで与えられるなんて想像もしていなかった。恐ろしい夜に誰かが隣にいて手を握ってくれるような、そんな愛がずっと、必要だった。

 

 柔らかな朝の日差しがラットの瞼に触れた。鳥の囀る声が、もう夜ではないと教えてくれる。僅かに空気は冷たいが、なぜか体はあたたかかった。目元のシーツだけが、雨が降ったようにずぶ濡れだ。頬を拭う。まだ涙の雫が垂れていた。徐々に意識が戻っていくにつれ、掌の感触も始まる。まさかと思い反対側を向いた。そこにはイェーゴーがいた。本当に、朝まで自分の隣にいた。見つめていると、彼の目が急に開いて、少しだけ驚く。

「ね」

 イェーゴーはふわりと微笑む。金木犀の甘い香りがした。

「夢じゃないでしょう」

 そして重なり合っていたラットの掌を、もう一度ぎゅっと握ったのだった。

この人に、いつか自分を打ち明けるかも知れない。ラットがそう思った瞬間だった。


 その後、イェーゴーは手押し車を片付けたり新たな仕事をこなした後、中庭へと入った。夜に主人が帰ってくる。それまでの、ほんの少しの休憩時間だ。


この屋敷には本館とそれを囲む背の低い左右の別館がある。本館は頭が2つに分かれていて、その間のスペースが中庭になっている。2つの頭と左右の別館のてっぺんにはそれぞれ煙突が経っていて、料理や風呂焚きに使われる薪が燃えたときに、煙が出ていく。一階の奥には食堂室、その隣にはイェーゴーの控室兼個室がある。屋敷の主人は中庭で作業をすることが多く、本館の頭の1つに通路を繋いでいる。そこに寝室があるので、彼女はほとんど一階には降りてこない。2階の隅には音楽室がある。それ以外の本館の部屋はほとんど空いていた。主人が急に使いだしたり客を呼んだりしない。ラットを入れた部屋は2階の最も目立たない小さな部屋だ。屋敷が建てられた役40年前から、一度も使われなかったらしい。廊下の壁一列に並ぶ。紅いカーペットは使用人たちの手によってしみ一つなく、清潔に保たれている。木製品ばかりの内装はあたたかみを生んでいるがどこか不気味でもある。この屋敷には紅が多い。


中庭には、色とりどりの薔薇が咲き誇る薔薇園が周囲を囲み、その真ん中にベンチが二つ並んである。

。イェーゴーは、ベンチに腰掛けた。不思議なことに中庭だけは、アメジストの月のような真冬でも、あまり寒くない。日当たりが非常にいいことも関係しているのだろう。ラットのことをもう少し考えていたかったが、新しい仕事のことで一杯一杯だ。

ふと、指の先に何かが触れた。左手を見ると、ベンチの板と板の間に紙きれが挟まっているのが見えた。イェーゴーはなんの気無しにそれを手に取る。数字が羅列された表だった。意味は全くわからないのになぜか必要なものに感じて、イェーゴーはその紙きれを折って胸ポケットに差し込んだ。紙切れから、気のせいかと思う程微かにヴァニラの香りがした。

 その夜もイェーゴーは、ラットが安心して眠れるように側にいてあげた。いまだに毛布を被ったままではあったが、昨夜に比べてラットは早く眠りについていた。リラックスしていることに、イェーゴーはほっと胸を撫で下ろす。子どもの頃の自分に、何かが似ている。だから、ここまで執着しているのだろうか、イェーゴーは自分もゆっくりとまどろみながらそんなことを考えていた。


 イェーゴーは、ポルシエの市場に出ていた。雨が降り出しそうな濁った空だ。なるべく早く、夕飯の食材を調達して屋敷に帰りたい。足が自然と速くなる。

 ポルシエの市場は、左右にテントが並び、商品がシートの上に置かれてある。時には衛生的とは言えない店もあり、主人に満足してもらえるようなものを選ぶのはいつも骨が折れる。肉、魚、野菜、果物、それらの店を順にまわってから、最後に最も大事な、ワインの店にたどり着く。なるべく紅に近い色のものを選ぶ。それなりに値は張ったが、主人はワインには目がないのだ。店舗で営業をするのは男性ばかりだ。この町では、女性のほとんどが家事や子守をしたりと家の中で日々を過ごしている。

数時間かけてやっと満足のいく仕入れができた。市場を後にしようとした時、イェーゴーの目に小さな宿屋が映った。ラットが倒れているのを見つけた場所だった。そこには少女と少年がいて、地面に手をついて何かを話していた。髪も服もボロボロだ。

少しぬかるんだ地面を手で退けようとしているようにも思える。何かを探しているのだろうか。

気になってしばらく影から眺めていると、少女が言った。

「ねえ。ラット、ほんとに死んじゃったのかな」

イェーゴーの耳がぴくりと動く。

この二人はラットを知っているのだ。

「・・・もう忘れるんだ。俺たちだって今そんなこと言ってる場合じゃないだろ。生き残った奴らだけでやっていかなきゃならないんだ」

 少年は悔しさをぐっと堪えたまま少女に言った。

イェーゴーは二人に何か、声をかけるべきなのかわからなくてその場に立ち尽くしていた。その時間は少し長過ぎたようだった。

 少年がふとこちらを向いたのだ。目が合う。嫌な予感がした。

「うわぁあああ!」

市場に悲鳴が響き渡った。少年は腰を抜かして、怯えきった目をイェーゴーに向けていた。

 その時気づく。この少年のような淡い髪色が、イェーゴーの故郷の人間の、特徴だったことを。同じ故郷の少年は、イェーゴーのことを知っていた。

「化け物ッ!」

彼はそう叫んで、少女の手を引いて走り去っていった。頭を水につけられたような悪寒が、イェーゴーの心に溜まった。


 3日目の朝、イェーゴーは、ラットが食べ終わった朝食の皿を片付け始めた。客室のダイニングテーブルから、朝食のトレーをいつもの手押し車に乗せた。

完全にはこの場所に慣れきっていないようで、ラットは時々まだ、きょろきょろとあたりを見回している。やはり育った環境と違うと、落ち着かないのだろうか。緊張をほぐしてあげようと、イェーゴーは世間話を持ちかける。

「今日の朝食はいかがでしたか?」

 ラットはおずおずと答えた。

「う、うまかった。パンが、ふかふかで。だけど少し多かった。なるべく食べるようにはしたんだけど」

ラットは霜焼けができている足の指を擦り合わせながら、申し訳なさそうに言う。何が言いたいのか察したイェーゴーは、くすりと笑う。

「仕方のないことですよ。むしろ、あなたの健康状態であんなに食べられるわけがありません。お気になさらず。これからはもう少し量を減らします」

 ラットは食べ物を残してしまったことで,この屋敷から追い出されると本気で心配していたのだ。拍子抜けだった。

「なあ、俺、もう出て行った方がいいよな?」

 するとあたりに沈黙が立ち込める。だだっ広い部屋が静かになると、一気に恐ろしくなる。

「や、こんなにでかい屋敷に俺みたいなのがいたら迷惑だろうし」

 何も物音がしなくなって奇妙に思い、恐る恐るイェーゴーの顔色を伺う。

「体が完全に回復しきるまで、ここにいてもいいと主人は仰っていました」

イェーゴーは嘘っぽい笑顔を貼り付けて、嘘をつくのだった。

 その夜のこと。屋敷の右奥の食堂室で、イェーゴーは給仕をしていた。紅いソファが扉を背に設置されている。巨大な窓が食堂室の壁を取り囲んでいる。黒い床と、窓から見える夜空が融合して見える。ソファから覗く白い手が、その隣に待機するイェーゴーにワイングラスを傾けた。イェーゴーは透明なグラスに血のようなワインを音もなく注いでいく。二人は無言で、窓の外を見つめていた。

「・・・何か、異常はあった?」

 艶のある声が部屋の隙間にまで響く。

「いいえ、何も」

 ソファがきしりと鳴る。壮年の女性が座っている。ショートボブの黒髪は丸いシルエットを描いており、黒い瞳は細められる。どこか近寄り難い、思考が読めない雰囲気を醸し出している。真っ赤な口紅が、微笑んでいる唇によく映えている。

「嘘ね」

 屋敷の持ち主は音もなく笑ってグラスに唇を合わせた。紅色がグラスに残った。

「いつもよりもワインが苦いもの」

 イェーゴーの身体が僅かに硬くなる。

マートレッド・スマイルはこの屋敷の主人だ。15歳で貴族の家に嫁いで、あの手この手で家を乗っ取り、手にした金で自分の事業と、この屋敷を立ち上げた。退屈を憎み、狂宴を好む。

陰で食い物にしてきた者達に憎まれているが、そのこと自体も面白がっている。そういう人間だ。力を得ることには貪欲であり続ける。だからこそ、のしあがった。

「ねえ、ストライダー」

 そして今、マートレッドが面白いと思っているのは、ストライダー・イェーゴー。彼がこの屋敷に執事として入ってきた5年前から、そうだった。

「はい、マートレッド様」

 イェーゴーは暗闇の中で笑みを作る。マートレッドはいつも、何かを諦めているような目で微笑む。今夜もそうだ。

「あなたがここにくる前のことを思い出すわね。あなたはまだ少年だった。自分の欲望のまま、相手をめちゃくちゃにするあなた・・・本当に、そそられたわ」

恍惚な笑みでワイングラスを思いきり傾けた。真上に上げた首、ごくりと鳴る喉から妖気が醸し出される。マートレッドが熱い吐息を漏らした。


思い出す。腹が減って泣き出す妹と弟。体が弱いために寝たきりの母から臭ってくる、垢まみれの肌。イェーゴーは振り払うように静かに目を閉じた。

ワイングラスはイェーゴーの手に渡った。いつもなら食事が終わったサインだ。彼女は満足そうに微笑むと、椅子にその身をゆったりと委ねるのだった。

イェーゴーが安心したのも束の間っだった。

「何か隠しているのね」

 冷酷な声が響き渡った。食堂室の扉が勢いよく開いて、現れた使用人たちが現れた。マートレッドは振り向きもしないまま、夜の闇を見つめながら告げた。

「捜せ」

 使用人たちはすでに示し合わせていたかのように、また食堂室を出て行った。

 イェーゴの心臓がどんどん高鳴っていく。しかし、ここで動揺を見せるのは相手の罠にはまるのと同じことだ。

「マートレッド様。捜す、というのはどういう・・・?」

 マートレッドの肩が上下し始める。彼女は、笑っていた。

「そういえばねぇ、昨夜ドルチェ嬢の屋敷で行われたパーティは素晴らしかったの。悲鳴や断末魔が幾重にも響いて。インテリアも豪勢だった。いろんな色に塗られたのがたくさん吊るされていたわ」

マートレッドは試すような視線を、イェーゴーに浴びせかけた。明らかに何かを知っている笑い方だった。

「ネズミを、ね」

ぞくりとする。

闇の向こうで、木々の葉がざわめいている。

「吊るしたものを飼い猫に襲わせるのよ。余興だったけれど、私は一番あれが楽しめたわね」

屋敷中で扉を開ける音やものを動かす音が鳴り始める。やがてそれはどんどん大きくなる。使用人たちがばたばたと走る音がこだまする。思わず両耳を覆った。ラットが、もし見つかってしまったら。

 イェーゴーは侮蔑に満ちた目で、笑うばかりのマートレッドを睨んだ。この主人の考えていることは今まで一度だってわからなかった。見つかったらラットはきっと、狂った遊戯のおもちゃにされる。マートレッドの唇が、魔女のように紅い。

イェーゴーは出口に向かった。いけないと頭では分かっていた。マートレッドに自分が焦っていると思わせてはならない。それは彼女の思う壺だ。しかし、考えに反して足は止まらなかった。

食堂室の扉を開け放そうとした時、悦ぶ彼女の声に捕らえられる。

「あらあら」

足がぴくりと止まる。彼女の声が、あまりに冷たくて、身体が凍りつくような気がした。

「いいの?ここから出ても。異常は何もないのでしょう?」

 頭上で誰かが移動している音がする。使用人がとうとう2階に上がったのだ。焦りと不安に駆られ、歯を食いしばる。マートレッドがハイヒールの音を鳴らしながら近づいてくる。扉の前で固まるイェーゴーのすぐ背後に、ぴたりとくっついた。

「うまく騙せてると思った?」

「・・・っ」

イェーゴーは歯を食いしばる。

こうしている間も、扉は派手な音を立てて次から次へと放たれていく。捜索されていく。心の中が蹂躙されているような恐怖さえ感じる。

「あなたは誰かを匿っている。主の許可もなしに、ねぇ」

マートレッドは意地の悪い考えに顔を綻ばせる。

「思うのだけれど、あなたってそんなに優しかったかしら?」

毒牙は心を蝕み始める。

「うふふふ、ぜんぶ、自分のためなのよね」

ヴァニラのコロンがふわりと香った。

「世話をすることで、自分は残虐な化け物じゃないと証明したい、それだけよね。それは誰かのための優しさではないわ。ただの自己満足じゃないかしら。いい人の皮を被っていながら胸の中で、人間のはらわたを思い出しているんでしょう」

 マートレッドの赤い爪がイェーゴーの首筋にかかった。それは戯れのようにイェーゴーの肌に爪痕を遺していく。

「もう一度聞くわ」

 イェーゴーの頭の中に浮かぶのはあの少年だけだった。

 ラット・ブラウン。その怯えた瞳も、遠慮ばかりの態度も、今まで生きてきた苛烈な環境を想像させる小さな仕草も、イェーゴーの胸を抉ってきた。包んであげたい、守ってあげたいという優しさを呼び起こしたのだ。そのはずだった。

気の所為だ。掌にべっとりと絡みつく血の生温かい感触や、あの満足感なんて、思い出すはずもない。気の所為のはずだ。イェーゴーの心音だけが自分の身体中に響いてくる。そして、彼の背中から囁かれる声は、冷たく、残虐だった。

「異常はあった?」


  その頃、ラットは2階の、客用のトイレにいた。用を済まして手を洗う。冷たい水が指を伝って金色のシンクに落ちていく。冷たさは鋭い。ラットの指の温度を奪い、痺れるような感覚を与えてくる。ラットは正面を見た。自分の顔がある。鏡はピカピカに磨き上げられている。宿の裏側で倒れる前、どこかで鏡を見たことを思い出す。

空腹で力が入っておらず、あまりはっきりとは覚えていないがその時も自分を見た。死神のような恐ろしい顔をしていた。しかし、今は違う。確かに頬は痩せこけているが、目はちゃんと開いている。ラットは胸の内に喜びがぶわりと巻き上がるのを感じた。

「まだ生きてるんだ」

 鏡の中の自分の頭を撫でてやった。今度は勝手に情が込み上げてきて、頬に涙の筋が通った。ラットが部屋に戻ってきた頃にはもう、足音は消えていた様に思われた。昼間、イェーゴーから自室の鍵を閉めておくように言われたことを思い出す。なのできっちりと扉の鍵を閉め、何度か確認さえしてから、もうすっかり冷えてしまった体をさすりながら毛布に潜り込んだ。

  そして、ラットがようやくうつらうつらし始めた時、トト、とノックの音がした。ラットはビクッと飛び上がって、震えながら毛布の端をぎゅっと握り込んだ。ノックの音は均一なリズムで続く。思考が固まった。得体の知れないものが外から入ってくる時、ろくな事にならない。ラットはそれを身を持って知っている。

 扉は勝手に開いた。革靴が鳴る、小気味いい音がゆっくりと近づいてくる。ラットは布団から出ることさえできなくなってしまった。ぎゅっと目を瞑る。イェーゴーだろうかと思ったが、彼ならば入る時に、必ず声をかけてくれる。と言うことは誰か、別の人間なのだ。恐ろしくなる。いつも、自分の命がどうなるのかは自分にさえわからない。


足音がベッドの側に辿り着く。静かな数分が経った。

足音の主は、背の高い男だった。右手に隠し持ったナイフの、刃の感触を味わう様に指で弄ぶ。その目はアルコールを摂取した時のように夢見心地だ。前髪が、かかんだ拍子に一瞬だけふわっと浮く。男は毛布をじっと見つめる。いつでも獲物を仕留められる。

ラットは助けて,と心の中で呟いた。しかしラットが縋ろうとしているのは、神ではなかった。自分がイェーゴーに無意識のうちに助けを求めているということに、まだ気づいてはいなかった。

ナイフが毛布の表面をそっと撫でた。表面がわずかに剥がれ、白い綿が出てきそうになる。男は綿が赤く染まるのを妄想した。ネズミの血でだ。

男はしばらくじっとしていたが,ナイフを腰元のポケットに静かに仕舞い込んだ。そして、毛布に掌をべたりと付けた。何度か手を左右に動かした。毛布が手に従って揺らされた。

 ラットの目が大きく見開かれた。見知らぬ人間の掌、それは気味の悪いもののはずだ。しかしどういうわけか、嫌悪を感じなかった。むしろ、安心感があった。 信じられないことに、ラットはこのまま眠ってしまいそうだった。こんなに危機的な状況の中、心地よくてうとうとしている自分が、信じられない。

やがて男はベッドから離れていった。その足音が完全に消えた時、ラットは男が部屋から出ていったのだと気づいた。毛布を恐る恐るどかす。ラットの目は、闇に少しだけ慣れていた。

「・・・なんだったんだ」

 ちゃんと鍵をかけたはずだ。何度か確認もした。イェーゴーに言われていたから。この部屋の鍵を持っている人間が入ってきたのだろうか。また不安になってきた。先程のように、また誰か入ってくるかも知れない。この部屋から出ていった方がいいのではないか。ゆっくりと立ち上がった。鼻をくすぐる香りがした。花の香りだ。不思議に思い、すんすんと鼻を鳴らした。金木犀に似た、甘くて優しい香り。瞼の裏に、イェーゴーの甘い微笑みが映る。

『夢じゃないでしょう?』

 絡み合った細長い指、彼の体温。きゅううと締め付けられた、心。

「・・・ッ!」

 これ以上にないほど胸がどくんと高鳴った。

「な・・・なん・・・」

 苦しい。顔に熱が集まってきて、目を瞬かせる。いてもたってもいられなくなり、ベッドから飛び出した。イェーゴーの笑顔が、ビデオテープのように何度も頭の中で再生される。こちらを見て微笑んでいる。きゅんきゅんとラットの胸が締め付けられる。

「ーー〜〜〜っ!!」

 ラットは力が抜けてぺたんと尻餅をついた。頬が、燃えるように熱い。初めての感情に戸惑い、涙目になるラットを、幻想のイェーゴーは追い討ちをかけるように包み込む。しばらくしても、心身の異常はさっぱり収まらない。恐ろしくなる。イェーゴーのことで頭がいっぱいになっていく。このままだと、自分はどうなってしまうのだろう。どこまでも深みにはまってしまいそうで、底が無さそうで怖い。

「どうしちゃったんだよ、俺・・・」

 震えるため息は誰にも届かない。


先程ラットの部屋から出てきた背の高い男、イェーゴーが取り出したのは、いつか拾った紙切れだった。その表の意味が、今ならわかる。理解できてしまった。一見なんの意味もなく並べられたかのような数字、これはイェーゴーが闘技場の闘士として稼いでいた時の、記録だ。

縦の欄は戦闘不能にした人数、横の欄は年月。例えば、10歳の頃の初試合があったルビーの月は5。その半年後の、ガーネットの月は12。

そして表の最後、アメジストの月では、79。一月で79人を絶望に陥れた。

イェーゴーの口元が自然に上がっていた。あの頃。相手の闘士の泣き顔に、心が昂っていくのを抑えようがなかった。斬りつけただけで、痛いと泣き喚く彼らのことが大好きだった。もう一度、人間の恐怖の味を知りたいと体が疼く。本能が、身を任せてみろと艶かしく囁いてくる。

 ポルシエから南に渡った先のプラナという街で、イェーゴーは生まれた。プラナは貧しいものと富める者との格差が非常に激しい街で、ありとあらゆる人間が歩いていた。雨漏りを起こすようなほったて小屋で生まれて、イェーゴーは病弱の母親と家族のために思春期の時間を捧げてきた。プラナで若者が技術やコネなしで大金を稼ぐには、闘技場の見せ物になるしかなかった。


イェーゴーは瞼の裏にこびりついた乾いたワインレッドを思い出す。


 10歳から20歳の間、朝から晩まで闘技場で過ごした。一日中働いていないと真っ当に金を稼げない。イェーゴーは必死で戦った。周りを興奮した1000人もの観客が囲む。彼らは場内のイェーゴーと相手を見下ろして席についている。命のやり取りは一日に何十回も行われる。どちらかが死亡しなければ試合は終わらない。幸か不幸か、イェーゴーには殺しの才能があった。いつしかイェーゴーは闘技場の殺戮兵器という異名をつけられ、彼の試合には多くの人が詰め掛けるようになった。そのせいでイェーゴーが1日に相手をする人間は、年々増えていった。

しかし夜、プラナの街中で見かける少年たちに憧れた。彼らは喜びや悲しみ、怒りを知っていたからだ。イェーゴーにはわからない。殺戮の興奮と死への恐怖と、家族を養う義務感しか知らなかった。誰も、闘技場の殺戮兵器に人間らしさを教えてはくれない。

 そんな日々を過ごしていた時、妹が15歳になった。

これでもう闘技場で働かなくてよくなった。イェーゴーは喜び、安堵していた。これでもう、殺戮兵器じゃない、人間だと言える。そう思った。20歳になっていたイェーゴーは、プラナの名所である巨大な滝を訪れた。荘厳な雰囲気ではなく、小さな花々が地に咲きこぼれ、虫がのんびりと歩いているような緩やかな所だ。闘技場に行き必要もなくなって暇を持て余しているときに、母に提案された場所だった。たどり着くと、滝の雫がこちらにひやりとした触手を伸ばしてきた。イェーゴーは先客に気付く。小柄な少女が、ほとりに立っていた。

 彼女は振り返る。イェーゴーと目があった時、その頬はときめいたように色づいた。恋が始まったように思われた。

しかし、イェーゴーの胸に広がったのは沼のように濃い絶望だった。目が合った時に彼が感じたのは、ナイフの感触だったのだ。少女が照れて柔らかく微笑んだ時、彼女の絶命する姿を想像した。恥ずかしそうに駆けて行った時、逃げ惑うふくらはぎが浮かび上がった。

それらの暴力的なイメージは、どうやってもイェーゴーの頭から離れなかった。どうにかしてもっと穏やかな、平和的なイメージに変化させてみようとしても、彼女の死体しか、連想させることができないのだ。悟った。自分は人を傷つけすぎたのだと。

それからマートレッドに気に入られて屋敷の執事となって、もう5年が過ぎた。このまま一生屋敷に閉じこもろう、誰かを傷つけないように。そう決めた。もうこれ以上、人間から遠くなるのを防ぐために。


アメジストの月が終わった。さらに極寒の真冬が到来する。


 イェーゴー以外の使用人は左の別館に住んでいて、使用人の風呂もそこにある。二人は最大の注意を払って、屋敷の外に出る。本館を出て別館に移るまでには歩いて3分ほどかかる。闇の中とはいえ、使用人たちが眠っている館へ行くのだ。一瞬の油断もできなかった。

 びくつきながらも別館に着き、階段を上がった。

脱衣所で、言われるままに、タオルを腰に巻き、他は脱いだ。そして今、更に奥の扉に手をかけようとしている。風呂場がある所だ。

「さあ、行きましょうか」

 問題は一つだけだった。

「なんであんたまで入ろうとしてるんだよ!」

 ラットは振り向いて、後ろからついてきていたイェーゴーに叫んだ。イェーゴーはきょとんとして、腕捲りをする。彼はいつのまにか燕尾服から、濡れてもいい質素な服装に変わっていた。

「ラット様はまだ回復しきってはいないはず。勝手ながら、私が」

 両手に持ったタオルを持ち上げにっこりした。

「あなたのお背中をお流します」

 ラットは押し黙った。呆れもあるし、少しの恐怖もある。今まで生きてきた環境を考慮すれば,ラットがイェーゴーをまだ完全に信頼できないのは仕方のないことだ。ラットは息をついた。なんだかイェーゴーは嬉しそうにしているし、それに回復しきっていないという彼の推理は当たっているのだ。

「…せめて様付けはやめてくれ」

  扉を開ける。その瞬間蒸気がぶわりとラットの身体に当たった。あまりにも大きな浴場だ。端に湯を汲む壺が10ほどあったり、身体を洗う為のスペースが8つある。浴場の半分は巨大なバスタブで、檸檬色の泡がぷかぷか浮いている。ラットは言われるがまま、小さな椅子に座った。イェーゴーがその後ろに膝を立てている。

 白い泡はイェーゴーの指で滑っていく。それはラットの肌を動いていき、つるつると照っている。背中を撫でつけられながら、くすぐったい感覚を抑えた。まだバスタブにも入っていないのに、もう顔を真っ赤にしている。こういった熱い風呂に慣れていないので、すぐにのぼせあがってしまいそうだ。

「言っておくが、今でも触られるのは嫌いなんだからな。さっさと終わらせてくれ」

文句を言ってはみたが、なんだかんだ言って悪くはない。きっと、イェーゴーとなら何をしたって悪くはないんだろう。ラットはそう思った。

 白い泡と蒸気に包まれていると、だんだん思考が薄くなってきそうだ。ラットは頭を振って意識を戻す。人に背中を見せているときは油断してはいけない。幼い頃から知っていることだった。

「ちょ、ちょっと、あんま触るな」

 とうとうラットから文句が出た。

「申し訳ありません。すぐ終わりますので」

 イェーゴーがうなじにそっと触れると、ラットの胸に違和感が生まれた。自分の鼓動が、大きい。ふと後ろを振り返り、ラットは驚く。イェーゴーが目を伏せてラットの背中を見ていた。泡の感触が背中をじわりと熱くしたのだ。イェーゴーの綺麗なまつ毛が下を向いていて、その丸くカールした姿は,どういうわけかラットの目に鮮明に焼き付いた。とくん、と心臓が跳ねたような気がした。

それからと言うもの、ラットの心臓は急に暴れだす。背中を動く指の感覚が、どうにもじわりと肌に染みてくる感じがして、落ち着かない。

「・・・っ」

 小動物のようにふるふると身体を震わせるラットを、イェーゴーはじっと観察していた。

 その時だった。浴場の扉の外で、何か物音が聞こえてきたのだ。イェーゴーが身を強張らせる。使用人たちの入浴時間はもうとっくに過ぎている。どれだけ遅くても、午前3時に入浴するものなどいない。まさか、マートレッドが差し向けた追手だろうか。イェーゴーに緊張が走った。

 ラットは、急に手を止めたイェーゴーを不思議に思って振り向きかけた。その時だった。

いきなり声が、耳元に囁かれた。

「隠れて」

イェーゴーが、背中に覆い被さってきた。ラットは仰天する。いきなりなんだと叫ぼうとしたが口を塞がれた。彼の鎖骨が正面の鏡に映っている、サボンの香りがする。

近い。

身体中が溶かされるような熱に、足が眩む。シャワーの雫か汗かわからない水滴が、ぽたりぽたりと髪先から落ちて音を立てる。耳が熱いこと、肌が触れていることが妙に恥ずかしくて、身体が逃げ出そうとしている。

 それなのに、逃げ出せないでいる。

もうどのぐらいの時間をそうして過ごしていただろう、密着した体温はまるで一つに溶け合っていくように、ラットには感じられた。羞恥と緊張で、頭がどうかなってしまいそうだった。

 しかし不思議と、嫌ではないのだ。むしろ、あと一秒でも長くこうしていたいと感じている。こんなことは初めてだった。イェーゴーが、自分の頭や胸に触れている指に、ラットは淡い期待を抱いているのだ。

もしかして俺は、この人のことが。

ラットがそう気づくのに、さほど時間はかからなかった。


しばらくしてやっと、イェーゴーの身体が離れていった。

「・・・行ったようですね。大丈夫ですか。深夜だと誰かが来ることはほとんどないのですが迂闊でした」

やはりマートレッドの命令で、屋敷中が常に捜索されているのだろうか。これからはもっと警戒しなければならないだろう。そこまで考えてラットを覗き込んだイェーゴーは、目を丸くした。

 ラットは、イェーゴーの瞳を見ることができないまま、その鼻の辺りをぼんやりと見つめるのだった。

「・・・のぼせてしまいましたか。ゆっくり出ましょう」

 イェーゴーは、放っておくと倒れてしまいそうな状態のラットを支えて風呂場から上がった。


ラットを部屋のベッドに寝かせる。数十分すると、ラットは眠り始めた。彼の隣に腰掛けて、静かな寝息に耳を澄ませる。

イェーゴーは目を閉じる。先程のラットの潤んだ瞳が蘇る。月光が部屋を青白く見せている。ラットの熱っぽい瞳が頭に焼き付きかけている。イェーゴーは小さく息をついて頭を抑えるのだった。巨大な滝で出会った少女と、ラットが同じ表情をしていた。

恐怖が胸を掠める。必死で、暴れ出しそうになる心臓を押さえる。ナイフの感触もラットが絶命するシーンも、考えてはいけないのだ。しかしそう念じるほど、イメージが近くなってくる。恐ろしかった。殺戮を望む自分が現れることが。


しばらく、二人は会うことができなかった。主人であるマートレッドが、休暇をとっていて、日中も屋敷に滞在していたからである。ラットは訳もわからぬまま、イェーゴーからの『部屋の外に出ない様に』という言いつけに従っていた。きっとお偉いさんが来るんだろうとラットは思っていた。自分の様なものが屋敷を彷徨いていたら困ることがあるのだろうと。

その間、ラットは部屋でひたすら本を読んでいた。文字を読めないと言うと、イェーゴーが文字表を作って持ってきてくれたのだ。子供向けの文学集は、ラットにとっては中々面白かった。そうやって、イェーゴーのことを考える自分を振り払おうとしていたのだった。

そして、一週間が経った。日付は27である。 日中に外に出ることを許可すると、召使の伝言で聞いたラットは、イェーゴーを探しに部屋を出た。もう二週間ほどこの屋敷にいるのに、ラットはこの屋敷の内装をほとんど知らないままだった。どこまでも続いていそうな長い廊下の左右の壁に、ドアがついている。壁に埋め込まれたチョコレートチップのように。ラットはどこまでも続く青いカーペットの上を遠慮がちに歩いていきながらイェーゴーの姿を探す。彼に会ったら話したいことが山ほどある。ラットの目は、少しの緊張と期待を帯びていた。調理室を通り越した。ドアの向こうから包丁を研ぐ音や骨を削る音が聞こえていた。悪臭のする倉庫のドアを二つ通り過ぎると、廊下の突き当たりまで来てしまった。

最後のドアがラットの目の前に現れた。二階にはいないのかもしれない。ラットはそう思いながらも、なんとなくドアノブに手をかけた。回す。

すると、ギギ、という音の後に、抵抗力がなくなった。なんとドアが開いてしまったのだ。ラットは、室内をぐるりと見回した。奥の方に黒いピアノが置かれてあった。蓋が上がっている。

「・・・なんだろうあれ」

 ラットは、それが楽器であるとも知らずに部屋に入ろうとした。しかし、急に足が止まった。金色の髪が視界の端に映ったのだ。どくどくと鳴り始める心臓を鷲掴みにする勢いで抑え、ラットは大急ぎで部屋の入り口に駆け戻る。一週間焦がれ続けてきたイェーゴーは、眩しすぎた。顔だけを出してそっと音楽室を覗き込む。

イェーゴーがピアノの椅子に座った。鍵盤からぽろんと音色が生まれた。ラットはギョッとして目を見開いた。指が単純なワルツを奏で始めた。決して多くはない音の羅列が、ラットの奥にある感傷を翻弄する。音が跳ねればラットの心も舞い上がり、音がしっとりと沁みればラットは笑顔になった。

しかし、どうにもイェーゴーの背中が寂しいものに見えた。

曲が終わる気配がし、イェーゴーに話しかけようとした。それを轟音が妨げる。ラットは急なことに飛び上がって、演奏者の背中を見つめた。鍵盤がたたき割れそうなほどきつく叩きつけた指は、次第に広がり、地が響く様な低音と天を呼び寄せる様な高音に生まれ変わっていく。体の中を血流が駆け巡る様な情動。音の全てがラットに襲いかかる、喰らい付くように。

イェーゴーの背中が今まで見たことがないほど大きく盛り上がっている様に見えた。人間というよりも化け物に見えた。とうとう恐ろしくなったラットは、叫ぶ。必死に、イェーゴーの名を。イェーゴーに、こんな曲を弾いて欲しくなかった。

 ぴた、と指が止まる。

「おや」

 イェーゴーがゆっくりと振り返った。

「ラット、お久しぶりです」

その微笑みは完璧だった。この一週間はどうでしたかとイェーゴーが尋ねた。彼は再び、穏やかな曲を演奏し始める。ラットは恐る恐る答えた。

「貸してくれた本、とても面白かった。最初の頃は暗号みたいだったけど、文字の読み方も少しわかってきたよ」

 クスリと笑う音がしてラットは安心した。やっぱりこの人はこの人じゃないか。何を心配していたんだろう、そう思った。ラットは身を乗り出し、ピアノの鍵盤が指で押されていく光景を眺めた。

 すると、

「ご覧になりますか」

 突然イェーゴーに言われてびっくりした。遠慮がちなラットが、ゆっくりとイェーゴーの脇までくる。鍵盤の上で踊るイェーゴーの指は美しく、ラットを赤面させる。

「こ、これはなんなんだ?」

ラットがピアノの黒いボディにそっと掌を置く。冷たくてしっとりした感触だ。

イェーゴーは奏でながら答える。

「ピアノという楽器です」

ピアノ。その言葉の響きは、ラットにとっては非常に高級感があって上品だった。まるで、自分の目の前にいる執事のような。ラットは近くなったイェーゴーの横顔をマジマジと見つめる。金色の髪はよく手入れされている。服にも皺ひとつ見られない。ラットにはこのような人間と関わり合う機会など無かった、本来は。

「弾いてみますか?」

揶揄うように、ラットの手を持って、イェーゴーは微笑んだ。

「え!?」

急なことに飛び上がったラットは、自分の手が鍵盤に誘導されるのをドキドキしながら見守った。

「どうぞ」

イェーゴーの大きな掌がラットの手に重ねられる。二つの手は一つになって鍵盤を押す。イェーゴーに導かれる、いや操られるようになりながら、ラットは短いワルツを指で体感した。

 ただ、イェーゴーの掌はまるで死人のように冷たい。いつもと何かが違う。ラットは、胸の中の小さな違和感を無理矢理押し込めて、背中に感じるイェーゴーの体温を感じていた。

イェーゴーはラットの日に焼けた指をちらりと見、目を細めるのだった。


 イェーゴーはベッドから上体を起こした。目の下には隈が広がっている。左の窓の外では雨粒がザーザー伝い落ちていて、一向に止む気配がない。こんな夜中は、痛めつけた人間達の顔を思い出す。痛みに耐える苦悶の顔、命乞いを始める顔、恐怖で涙を止められない、情けない顔。イェーゴーの口元が自然と微笑んだ。

 どの顔も、みな素敵だった。人を傷つけて、初めて強くなったような気がして、彼はまだその夢幻から逃れられないでいる。掌を閉じたり開いたりすれば、そこに浴びせた血の色の光景が蘇る。鮮血、少し濃くなった朱、もっと黒くなった紅。イェーゴーは無意識のうちに自身の掌を舌で舐っていた。血を拭き取っているつもりで。高揚が、身体の中に帰ってくるのを感じるのだ。まずい、と思いながらも、闘技場で闘士として生きていた頃に戻りたいと身体が訴える。

「何がいけない?」

 雨は止まない。それどころか、どんどん強くなる。人は人を虐げて生き残るものだ。古来からずっとそうだったではないか。なら、人を傷つけることが生きがいの私が、人を傷つけてはいけない理由などない。イェーゴーの瞳の中に渦巻く。人のもので無い、どす黒い闇が。

「何が・・・」


 その時、執事室の扉がトントンと叩かれた。

「あの・・・」

 ラット・ブラウンの声だった。

「ストライダーさん、いるー?」

「いますよ、どうぞ」

『ノックをしてから部屋に入る』。ラットが自分の教えを守っていることが、イェーゴーの心に薄暗い喜びを与えた。イェーゴーを指揮官のような気持ちにした。

ただ、深夜であっても用心しなければダメだとあれほど言い聞かせたのに、ラットがあまりこの屋敷の主人を恐れていないことに、イェーゴーは頭を抱えた。


 扉が開く音がして、少年が部屋に入った。イェーゴーは、どこか緊張している様子のラットを見て、自然と微笑んだ。

ラットは、ベッドの中で上体を起こしているイェーゴーが自分に向ける微笑みに、思わずどきりとした。それが妖しく美しいものだったからだ。思わず見惚れてからハッとした。まだ挨拶もしていない。

「その、遊びに来てもいいって言われたからさ。ああ、休んでいたならいいんだ。帰るよ」

 それは言い訳の様にも聞こえた。冷たくあしらわれることへの予防線を張っているのだ。

「そんなに怯えないで」

 イェーゴーはラットの瞳を見つめ続ける。今はまだ殺さないと決めた。今すぐ手にかけるのは、何か物足りない。特別に痛めつけてラットの全てを知り尽くさねばならないのだ。

手招きすると、ラットはおずおずとベッドに寄ってくる。イェーゴーがベッドに寝そべる。隣に来る様に命じると、ラットはかたまった。ラットの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。初日はできたことが、今はできないだなんて可愛い人だ、とイェーゴーは笑った。

「や、やめとくよ」

「あたたかいですよ、私が今まで眠っていましたから」

 ベッドの毛布を捲る。上目遣いのまま、ラットに視線を送る。

 さあ、ここに入っておいで。悪いようにはしないから。イェーゴーは瞳で囁き、誘った。

ラットがおずおずと布団の中に入ってきた。震えるその体を、イェーゴーはぎゅううと抱き締めた。

「あの、ストライダーさ・・・」

「ストライダー」

ラットの声に被せるように言う。

「呼んでみて」

 耳元で囁くとラットは気の毒なほど真っ赤な顔をして、ひ弱な声で繰り返した。

「ス、ストライダー・・・」

 イェーゴーはくすりと笑って、よくできましたと頬を撫でる。びっくりして肩を震わせ、逃げをとろうとしたラットの肩を、更に引き寄せる。

二人で眠るには小さなベッドの中で、ラットはイェーゴーの体にすっぽりと身を預けた。自分の心臓の音しか聞こえない。イェーゴーが頭上で息をついた。その吐息がラットの髪をわずかに揺らし、居た堪れなくなる。

愛したいのか、傷つけたいのか。その境界線はどこか。ラットをどうしたいと思っているのかが曖昧になってくる、こうして隣り合っていると。もしかしたら、傷つける傷つけられる以外の付き合い方ができるのではないか、そんな淡い期待を、抱いている。ただ言えるのは、この小さな少年がイェーゴーにとって、他の人とは違うと言うことである。それはなぜか、ラットの頭を撫でながら思考する。

 ラットに自分との共通点がいくつもあるからだろうか。出会い方が普通とは言えなかったからだろうか。

 よく懐いているペットのように、ラットは身を任せている。安心しきっているようだ。

 信頼されたものだ。イェーゴーの手が、今すぐに首を絞めることもできる。ラットの心を、立ち直れなくなるほどメチャクチャにすることだってできる。事実、イェーゴーの中の加虐的な欲望はそれを望んでいる。いつもならその欲望の波に、ただ身を委ねるだけでよかった。

「・・・あったかい」

 ラットが小さく呟く。ぼろぼろのまま、一人ぼっちで倒れていた少年が、絶対的な安心を寄せ、身も心も預けてくれている。イェーゴーにとってそれは、とても嬉しいことでもあった。己の欲望には関係なく。

思い出す。弱りきったラットが、意識を失った様にベッドで眠っていたあの夜を。あの時確かに自分は・・・自分はラットを守りたいと思ったのではなかったか。今となってはそれもわからない、か。イェーゴーの心臓はギュッと掴まれたように熱を帯びた。本当に、彼を殺していいのか、わからなくなってくる。ラットの拍動が響いてくる。

「あの、さ。ちょっとだけ、昔話をしてもいい?」

控えめな声がイェーゴーの胸のあたりからした。

ラットはぽつぽつと語りだす。アルコール依存症の父親、8歳の頃に姉と母親が出ていったこと、10歳で5人の同年代の少年少女と出会い、連むようになったこと。そして16歳になった今まで、家にはほとんど帰らずに、工場の跡地で仲間たちと暮らしていたこと。

 仲間の話になった時、ラットはおし黙った。

「多分、みんな殺された」

イェーゴーの指がぴくりと痙攣した。

「俺たちがよく盗みを働いていた店の、主人が立ってたんだ。ナイフが血塗れだった。相手が先に襲いかかってきて・・・側にあったナイフで、刺してしまった。その時から、眠るのも一人ぼっちでいるのも怖くてたまらなくなったんだ」

イェーゴーは頭を押さえた。視界がゆらゆら揺れだす。しかし無理にでも、目の前のラットに焦点を合わせる。

「大丈夫ですよ」

 イェーゴーのふっくらした唇から、思ってもいない言葉がポロポロ溢れていく。

「あなたは何も悪くない。そうでしょう?」

 ラットは顔を赤らめる。その目に涙が溜まっていくのを見て、イェーゴーは「いいなぁ」と思った。自分も誰かにそんなことを言われてみたい。イェーゴーはそう思う自分を止められなかった。


ラットに優しくしたいと思ったのも、ラットが現れてから自分の中の加虐性が再び甦ったのも。

「同じだったのか」

優しさでも運命でもなくて、無意識のうちに同じ匂いを嗅ぎつけていただけなのだ。殺戮の匂いを。

 『化け物ッ!』

 淡い髪をした少年の声を思い出す。化け物の自分に、優しさなどもう残っているはずがないのだ。

窓の外でピシャリと雷撃の音が落ちる。闇の奥から雨の匂いが立ち上ってきた。それは一瞬にして轟音になる。嵐が、イェーゴーの興奮を掻き立てていく。

 不気味な笑い声が反響した。世の中の狂気を煮詰めたような声だった。

ラットは、貧しさゆえに生き倒れてしまった哀れな善人などではなかった。むしろ、闘技場に現れた囚人たちと同じ。そして、イェーゴーとも同じ。悪なのだ。

 自分じゃない誰かが口の端を大きく曲げてニヤリとした。

そうだ、ラットが善人でないのならば、もう彼を守る必要はない。

彼を殺す理由ができたじゃないか。

「悪人を裁かなければ」

このまま任せてしまっても良いのではないか、欲望に。悪魔がイェーゴーの背中に手をかける。

「悪を裁かなければ」

 虚を見上げて呟かれたイェーゴーの言葉を、誰一人知る者はいなかった。


 夜が地球の裏側に去っていった。ベッドの中に入っていながらも、深夜の数時間だけしか眠りに費やすことができなかったイェーゴーは、まだ眠っているラットをじっと見つめる。

衝動は、感情よりも素早かった。

 イェーゴーは音もなくラットに覆い被さる。その細い首に、指を巻きつける。どこを押さえつければ息ができなくなるか、知り尽くしていた。

少し力を入れたら、もう動かなくなる。そうしたらゆっくりと彼の紅を確かめられる。

仄暗い欲望が、囁くのだった。

 その時ラットが小さく身じろぎをした。

「ん、おはよぉ」

まだ眠たげに寝返りを打って、その目がゆっくりと開いた。イェーゴーが自分に覆い被さっているのに気づくと、ラットは不思議そうに瞬きをした。

「なに、なんかあった?」

「・・・埃を払っていました」

身体をどかすとラットの頭に朝の光が当たった。


 会話が終わって、起き上がるまでのわずかな時間をまどろむ。

「あのさあのさ、ストライダーってなんでもできるよな」

イェーゴーは彼に目もくれぬまま、

「…そんなことはありませんよ」

呟いた。

「気が利くし、物知りだしさ」

思い描くだけのことをラットはつらつらと並べる。イェーゴーの好きな所なら、一晩中だって上げていられると思った。口にするのはほんの一部だが。

「できることが多いだけで、本当はろくでもない人間ですよ」

イェーゴーは、吐き捨てるように答えただけだった。

ラットは思い出す。昨日、ピアノを演奏するイェーゴーの背中が、一瞬だけ寂しそうに見えたことを。気のせいかもしれない。しかし、ラットはイェーゴーに優しい言葉をかけてもらったのだ。それで、心が救われた。だから、自分もイェーゴーのためになる事はなんでもする。ラットが昨晩部屋の中で決意した事だった。

「あんたも何かを抱えているのか」

 ラットのその声は、穏やかな空気をぶち壊した。イェーゴーの空な目がゆっくりとラットを映した。瞳の中にいる小さな少年が、一瞬、謎めいた存在に思えた。じっと見つめられたラットは、急に焦って、言い訳をする様にして声を発した。

「あんたって、何もかも完璧じゃん。そう言う人ってさ、心のどっかに疲れとかストレスが溜まっていっちゃうんだよ」

『家族のためだ』

 イェーゴーの脳内にちらりと掠めた記憶があった。すぐにそれを振り払い、ラットに作り笑いを見せた。

「・・・ありがとうございます」

完璧な笑みは、軽い拒絶のようにも受け取れた。ラットは少し寂しかったが、それを押さえ込んで笑顔を見せた。イェーゴーのためならなんでもできると思っていた。

「何か辛いことがあったら、言ってよ。俺、何もできないかもしれないけど、愚痴ならいくらでも付き合うから」

イェーゴーは試しに見つめる。ラットの瞳のどこを探しても、迷いがなかった。

ラットは弧を描いた目を向けて、こう言いきった。

「俺、どんなあんたでも、好きだからさ」

嘘のない笑みが、イェーゴー瞳の奥に焼き付くのに、そう時間はかからなかった。視界が、一瞬光に覆われた。

あ、いや好きっていうのは、違うくて・・・とラットが誤魔化し始める。

 イェーゴーは、一瞬、委ねそうになった。この小さな少年に、自分の中のぐちゃぐちゃしたものを全てぶちまけてしまいそうになった。この人なら、あるいは。この人と共に過ごす時間が、自分を泥沼から救いあげてくれるとしたら。殺さずに済むとしたら。

そこまで考えてみて、イェーゴーは止めた。

「ラット、もう私に近づかないでください」

 重苦しい沈黙が広がった。ラットは、突然曇ったイェーゴーの表情に呆然とする。

「あ・・・ごめん、悪かったよ。軽々しく、好きだなんて・・・」

自分が発した言葉が、何か怒らせるようなものだったかと、ラットはごくりと唾を飲み込む。イェーゴーは何も答えない。じっと俯いていて表情さえわからない。

「なぁ、悪か・・・」

「もっとはっきり言ってやる」

ラットの言葉を遮って、刺々しい声が発せられた。

「お前が嫌いなんだ・・・!」

怒鳴り声が響き渡り、ラットの胸にざわめきに似た恐怖が走った。胸が焼けるような焦燥感が、襲ってくる。怒らせてしまった。

イェーゴーがこのように激しく怒りを表現することなど、今までなかったことだった。

「明日、出ていけ。もう二度と訪ねてくるな」

 吐き捨てると、イェーゴーは出て行った。言葉を失ったラットが一人、残された。「好き」と言った自分を、思いきり殴りつけてしまいたかった。

 夜、イェーゴーはラットの部屋にとうとう現れなかった。この一ヶ月で初めてのことだった。ラットは、自分の言ったことにひどく後悔した。ここまで胸が痛くなったのは生まれて初めてだった。それこそ、人をあやめた時よりも。

 結局一睡もできないまま迎えた朝で、ラットは怠く重い身体を無理矢理持ち上げた。いつも隣にあった体温がない。それだけのことがなぜこんなにも、傷口を抉るのだろう。

 腫れた瞼を、決まりきったルーティーンのように窓に向けた。ウォーターメロンのような色合いが目に入ってくる。ただ、目に入ってくるだけでそこにはなんの感情も無い。

 息苦しさをどうにかしたくてため息をついた時、背中に気配を感じた。知らない人間の匂いがした。振り返る。そこには、イェーゴーの服装によく似た3人の女がいた。

 「なん・・・」

叫びかけたラットの口が、布で塞がれる。柘榴にも似た濃い薬品の匂いがすると、一瞬で意識が飛ばされた。


 次に目を開けた時、ラットは音楽室で倒れていた。

あたりを見回す。

すると、足の輪郭が視界に入り込んだ。暗くてぼんやりとしか見えないが、目の前で、女が椅子に腰掛けているらしい。


「あら、お目覚めね」

いつもより黒に近い紅色の唇がにっこりと弧を描いた。艶々とランプの灯に照っている。

「初めまして。男の子くん」

暴れだす心臓をどうにか抑えつけ、冷静に見えるように努める。

「・・・お前は誰だ」

「うふふ、威勢がいい割には震えているけれど大丈夫かしら。ゲームについてこられる?」

女は椅子にゆったりと腰掛けたまま、ラットを見下ろす。笑ってはいるがその目に溢れているのは、貧しい者への侮蔑だった。

「何を、言って・・・」

只者ではない気迫に押しつぶされそうになりながらも、ラットは女を睨み続ける。

女は自分のことをサロメと名乗った。、彼女は細長い指で、ピアノの鍵盤を数度叩いた。

「そんなに怯えないで。あなたに一つ、忠告をしたいだけなの」

椅子が小さく音を立てて、サロメがラットに近づいてくる。ヴァニラの香りがうなじから立ち上る。そしてじっくりと時を待ってから、吐息を含ませた囁きのように告げる。


「ストライダー・イェーゴーは殺人鬼なのよ」

言葉だけが右から左の耳に抜けた。ラットは、何を言われているのか意味が掴めなかった。

「10歳から20歳までの10年間。闘技場でたくさん殺してるわ。あいつはね、傷つけることでしか人との関わり方を知らないの。とんでもなく狂ってる。かわいそーな境遇のあなたに優しくして、人間になろうとしたみたいだけれど」

無駄だったようね。だってあいつはこうしている間にも、化け物に近づいているもの。


 サロメは真紅のドレスを翻して、舞うように歩んだ。

5年も待っていた。闘技場で死闘を繰り広げていた頃の、野獣のような目を。

もうすぐ、もうすぐだ。あと一度水をやれば花が開く。蕾はもうはち切れそうなほどに膨らんでいる。

ラットの頭にかっと血が昇る。イェーゴーの穏やかな微笑みを思い出した。

「あの人はちゃんと人間だ」

反論すると、マートレッドは、そうこなくてはと言うような含み笑いをした。惑わせるように、ヘビが絡み付くように、ねっとりとラットを追い詰めていく。

「おかしいと思わなかったかしら?時々あいつ、人が変わったようになるでしょう」

ピアノを弾いていたイェーゴーの背中が怪物のように見えたこと。触れた指が酷く冷たかったこと。そして昨日の朝「出ていけ」と言われた時の、殺気。

違う、とラットが怒鳴る直前、扉が数回ノックされた。イェーゴーのノックの仕方と同じだった。

ラットは、自分の心臓が緊張するのを感じた。怖くなどない、イェーゴーのことを恐れなどしないはずが、どうして身震いしているのか。自分でもわからなかった。

 その時だった。

「失礼いたします」

執事の声が、ノックの音とともに、静かな部屋に響き渡った。

サロメは、固まっているラットにニヤリとして、その肩をぐいと押した。ラットの身体が、タンスの影にすっぽりと収まって誰にも見えなくなる。

「入りなさい」

ゲームが始まった。


 主が使用人を音楽室に呼び出すことなど、滅多にない。イェーゴーは身を引き締める。

淡いオレンジのランプだけが、彼女の左半身をぼんやりと照らす。相変わらず不気味な人だと思う。だから自分はこの人に気に入られたのだろう。

イェーゴーは何も言わないマートレッドの目を見ないようにしながら、じっと耐えている。目を見たら、彼女の中に取り込まれてしまうような気がするのだ。まるで自分の何もかもを見透かされているようでざわざわする。それは、闘技場で嫌というほど味わった死への恐怖に、どこか似ていた。


 そうして何分が経ったのだろう。窓の外で深緑の梢が揺れている。生き物の声は、何一つしない。


 それは槍が突き刺さったようにイェーゴーに響いた。マートレッドが声を発したのだ。

「私を殺して」

赤い唇は言葉をこぼした。イェーゴーはギョッとして、椅子を見る。マートレッドの表情は伺えない。

「って言ったら、あなたどうする?」

しんと静まり返る。イェーゴーは自分の唇が、潤いを求めて乾いていくのを感じた。駄目だ。いけない。自分の中でまだわずかに残っている部分が悲鳴を上げる。マートレッドの声が頭の中を駆け巡って、止まらない。

「あら、返事がないわね。もう一度言ってあげましょうか」

彼女がワインを飲み干した。その喉はクククと笑い震えている。

「私をーー」

「やめっ・・・て下さい・・・」

イェーゴーは俯いて目をギュッと瞑る。マートレッドは立ち上がる。その掌にはナイフが握られているのだった。

「・・・苦しいのね」

可哀想に、とマートレッドが悲しそうな顔をする。グラスをテーブルに置くと、空いた両手でイェーゴーの首を引き寄せた。二人の鼻先が擦れる。

「欲しいって、言って」

マートレッドの甘い息がかかる。

「私が欲しいと望んで」

解放してあげる。そう囁き、マートレッドは、イェーゴーの震える片手にナイフを、握らせたのだった。そして羽織っていたものを無造作に脱ぎ捨てると、自身のゆったりとしたローブの胸元を、ビリビリと開け放した。マートレッドの白く光る肌は、目眩を引き起こすのには十分だった。

さあ。

恍惚な微笑みも、肌も、ぐらぐらする視界も、イェーゴーの意思を奪っていく。しかし思いとどまる。手のひらが真っ赤になるほどきつく握りしめて、化け物を抑える。

 イェーゴーが耐えていることを悟ったマートレッドは、面白くなさそうに真顔になって、

「・・・そう、なら仕方ないわね」

告げた。

「手伝ってあげる」

次の瞬間、マートレッドは左手に隠していたナイフを、さっと振り上げた。

それは、彼女の腹に突き刺さった。紅がじわりと滲み出てきた。衝撃が空気を占めていった。

「あはははは、どう!?たまんないでしょ、ねえもっと、ちゃんと見て」

 影の中でラットは、狂気の高笑いをするマートレッドになんとも言い難い不気味さを覚えた。

 何年も浴びてきた血の音。イェーゴーの記憶が頭の中で、やけどしそうなほど速く、速く回る。身体の芯が熱くなってくる。


「ぐ、う・・・」

自分がうめいていることすら気づかないまま、イェーゴーはナイフの感触を無意識に掌で確かめている。一歩踏み出していく。こちらに胸元を開けて両手を広げている主人の元へ。獲物の元へ。

切り裂いて血の色を確かめたい。楽になりたい。イェーゴーは涙を流していた。

誰も傷つけたくないと、胸を掻きむしるほど祈っていたのに、ナイフは獲物の胸を掻き切った。


 イェーゴーは倒れている獲物の前にしゃがみこんでいた。ナイフに彼の歪んだ笑顔が映りこんでいる。泣きながら笑っているようだ。マートレッド・スマイルは異様なほど口角を上げて

死んでいた。赤が、絡みつく糸のように美しく彼女を彩っていた。

「あははは、あはは、はははは」

イェーゴーがナイフを振り下ろすたびに糸は飛び散って食堂室を染める。狂った画家がキャンパスを染め上げていくように。


その全てを影から見ている者がいた。ラットの顔から血の気が引いていく。

「ぁ・・・う・・・」

後ずさる。その瞬間動きがピクリと止まる。執事はゆっくりと振り返った。

「ひっ・・・!」

執事は、にたあとわらうと、獲物を一度見てまた少年に笑い掛ける。音もなく立ち上がる。少年の喉から恐怖がこぼれ落ちる。

無意識のうちに声が漏れていた。

「おまえだれだ」

あったこともないような誰かがそこにいた。背中が壁についた。いとも容易く追い詰められる。

「や、嫌だ」

少年は力なく怯えた顔を見せ、執事はそれに目を見開いた。本当に、ぞくぞくさせてくれる。イェーゴーはラットの左右の壁に手をつく。唇の辺りに返り血がぼんやりと移っている。事態が呑み込めず混乱するラットの瞳を、覗きこんだ。

「逃げな」

血と金木犀の匂いがラットの鼻腔をくすぐる。嫌悪感と恐怖で、吐きそうになる。

「逃げろよ、ねずみ」

ナイフがラットの白い頬を滑る。一本の直線から美味そうな赤が垂れて、落ちた。

さあ。

さあ。

さあ。


ラットは声にならない声を発した。それが最後、少年は理性の糸を放して、無意識の内に走りだしていた。

虚ろな目をした執事がナイフを片手に持ちながら、屋敷の中をふらふら歩きだした。

何も映していないような、何かだけを見つめているような、形容し難い不気味な瞳に変わり果てていた。

ねずみの姿を探す。

「小さくて、傷つけてしまいたいほど可愛らしくて、慎ましくて、イイ子。そうですね、君は」

独り言だ。

「人一倍純粋で、優しく正しくあろうと日々努力して、精一杯己に抗ってきたのですね」

今解放してあげますからね。執事はそう呟く。ふふ、と薄い笑いが漏れる。薄暗い闇の中を、執事は進んでいるのか後退しているのかもわからないまま、ただ探し続ける。焦る必要はない。出口をねずみは知らないのだから。

「ぁぁ、別に、今は他の召使でもイイのか」

最後に一番のご馳走を残しておくと言う程で言うのなら、今は誰でもいい。見つけた人間の血を吸わせればいい。執事は右手に握るナイフに目を向けた。この闇の中でもそれは不自然なほど銀色で、執事の脳を楽しませるのだった。

ラットは、いつの間にか中庭に入っていた。脳が、警鐘を鳴らしている。どこかに隠れないと、身の安全を守らないと。本能の部分がそう叫んでいた。

「はあ、はあ・・・」

恐怖ですくむ足を無理やり動かしながら進む。闇の中が混乱して赤に見える。人を殺した時と同じ、自分が自分でなくなっていくような感覚。だめだ、この感覚は強すぎる。得体の知れない何かに呑み込まれて消えてしまう自分を妄想した。

茂みに身を隠そうとした。どうにか逃げなければと、体が勝手に動いているような感覚だった。

あいつは誰だ、あんな人間は知らない。あれはイェーゴーじゃない。

隠れなければ。彼の目に見つかったら殺される、そんな確信があった。

頭の中を半狂乱にして、中庭の影を探した。本能だけがラット

しかし、ピタ、と足が止まる。

「・・・何、考えてるんだ。殺されそうになってんのに・・・ッ!」

ラットは湧き上がってきた考えに自分でも驚愕した。

『逃げないで、ストライダーと向き合う』

それはラットの胸に、天使が息を吹きかけたようにふわりと浮かんだ。ありえない、意味がわからない。とうとう頭がおかしくなったのか。命の危機に晒されて、『彼』の異常さに当てられて、気が狂ってしまったのだろうか。イェーゴーに殺されそうになっているのにイェーゴーのことを考えるだなんて。

『もう、好きな人を失うのは嫌だ』

ラットの中の何かが、そう囁きかけた。否定すれば消えてしまいそうな儚い声だった。

しかしそれは他のどんな恐怖よりも強かった。仲間の顔が浮かび上がってくる。

ラットは自分の体を抱いた。そもそもなぜ、イェーゴーがあんなことを?荒くなる呼吸を必死で整えようとしながら、『彼』の姿を脳内で反芻した。

逃げな

返り血のついた唇がゆっくりとそう動いた瞬間、イェーゴーに何かがあったと悟った。どう見ても、あれは『本当の彼ではない』。そう感じた。なんの根拠もないけれど・・・。

「何か、あったんだ。あの人に」

ラットの唇は恐怖で青く染まりながらもそう呟いた。あの、いつも正しくあろうとする優しい人が、あんな目をするだけの何かがあったのだ。

顔を上げる。

「それなら今一番苦しいのは、俺じゃないじゃないか」

革靴の足音が背後で響く。ラットは振り返らなかった。今一番苦しいのは、一番怖がっているのは。

「・・・見つけた」

声がした。

もしこれが、最後だとしても。彼に繋いでもらった命だ。

「あんたのために使うよ」

 立ち止まった。逃げるのを、やめたのだ。中庭の薔薇園は、この状況が嘘だと思えるほど美しい。深緑の葉も棘も、夜露に濡れている。赤い花弁はほとんど黒く見えた。闇の向こうから人影がこちらに歩いてくる。ラットの足が勝手に逃げ出そうとする。

 ふと、イェーゴーの足音が止まる。闇の気配に呑まれて互いの表情が見えない。そんな中、低く艶のある声が生まれる。

「逃げなくていいのですか」

イェーゴーは無感情に尋ねた。

「ああ、俺はあんたから逃げない」

風が優しく、さやさやと二人を包む。まるでこれから起こることを知っているかのように。どこかでみみずくが鳴いている。夜が二人を見つめていた。

 

 ラットは影を睨みつけてから、スッと息を吸った。そして腕を軽く広げた。

「好きにしたらいい」

それは獣を解き放つ言葉だった。


 次の瞬間、世界が白黒と点滅した。イェーゴーが1秒にも満たずに、ラットの間合いに入り込む。刃が鋭い音を立てて空を切った。ラットの左側の鎖骨に長い傷が走った。紅が二人の視界を奪った。呼吸が、できなくなる。

 その動きは全く見えなかった。人間技とは思えない。

「そんなに殺されたいですか・・・っ!私に近づくなと、出ていけと言ったのに・・・!」

 再びナイフが空を切る。それはラットの肌をかすめて傷つけていく。じくり、じくりと痛みが走る。肩や腕、胸に走る鋭さに、歯を食いしばる。ラットの頬から血の気が失せていく。肩の血が止まらない。視界がくらくらして焦点が、だんだん定まらなくなってくる。

 そして次の瞬間、ナイフがラットの胸を目掛けて振り下ろされた。ラットは、まるで夢物語のようにぼんやりと、その光景を眺めていた。人生の終わりを悟って目を閉じる。

 しかし刃が胸を貫く直前、頬に熱い衝撃が走った。気がつくとラットは、地面に転がっていた。腕を薔薇園に突っ込んでしまったらしく、棘がピリピリと痛みを刻む。

 あとほんの少し、殴り飛ばすのが遅ければ、ラットを殺してしまっていた。寸でのことで身体を止めることができたが、こんなこと何度も続かない。今度こそ、自分はラットを殺めてしまう。イェーゴーの中の、消えかけているほど小さくなってしまった心が必死で叫ぶ。

 二人は息を荒げていた。薔薇に塗れたラットを見下ろすイェーゴーの目は、自分という化け物への恐怖でいっぱいだった。

「もう、嫌だ」

泣くことも知らないイェーゴーは顔を歪めた。声はひどく掠れていた。

「嫌だ、もう・・・殺したくない・・・傷つけたくない・・・!」

浮かぶ、思い出す。生臭い血の匂い、人を殺めた時に感じた、歪な興奮、幸福感。激闘の末勝利した時、イェーゴーは初めて自分を好きになれた気がした。相手の心と繋がれた気がした。しかし心のどこかでわかっていたのだ。人を殺めるたびに、ナイフで切りつけるたびに、人間ではなくなっていくことを。

命が身体から出て行ってしまった死体たちの、落ち窪んだ目。そのどれもが自分を、見つめてくる。殺戮兵器になんて、化け物になんてなりたくない。

ラットを傷つけたくなんかない。

「あんたの死顔を見たくない・・・っ!」

ラットと話したい。ラットと笑いたい。ラットの心に触れたい。もっと深くまで知りたい。

ラットと食事がしたい。ラットと同じ時間を過ごしたい。もう一度、ラットの隣で眠りたい。

「どうして」

ラットを殺したくない。

「私は、俺は、俺はあなたを、あんたを、殺すことしか知らないこんなの、こんなの狂ってる・・・!」

側にいたいと願ってしまったら、ラットは死んでしまうのだ。それだけは耐えられなかった。初めて、戦わずに心を繋げられた気がしたのだ。ラットが死んでしまったらもう、本当に壊れてしまうのだ。恐ろしくて仕方がなかった。隣で眠っていたラットのほやほやとした寝息が、自分を血の通った人間だと思わせてくれたのだ。ラットの言葉が、灼熱の地獄に差し込んだ風のように思えた。

ラットは、何かを追い出そうとしているように頭を抑えるイェーゴーを見上げていた。流れすぎた血のせいで、その輪郭が朧げになって左右に揺れている。よろめきながら立ち上がった。棘が自然に腕から抜けていった。

「何回でも殺せ」

闇の中で焦茶色の瞳が光る。

「何回でも生き返ってやる。何回でも同じことを言ってやる」

 この先何度あなたが、底なしの恐怖に堕ちてしまっても。

「俺があんたを生き返らせる」

ラットは紅いナイフを両手で包み込んだ。無意識の唇が、イェーゴーの唇に触れた。それはまるで、イェーゴーの身体に新しい酸素を吹き込む儀式のようだった。

ナイフが落ちた。

「あんたが爺さんになって、誰も傷つけないで、幸せなまま死ぬまで、俺がここにいる」

また唇が重なった。

目を上げれば紅の月夜だ。

イェーゴーは泥沼の中で自分のされていることをぼんやりとだが理解した。あたたかくて何か、優しいものが中に流れ込んでくるような気がした。震える指の上にラットの手が重ねられている。次の瞬間、イェーゴーの視界が、どっと潤んだ。

「だめだ、ラット、死んでほしくないよ」

子どもがしゃくりあげるように、イェーゴーは息を詰まらせた。

彼は、涙というものを、知った。瞳から、小さな雫が滝のように、流れては落ちる。雨が降っているかのようだった。

「死なない。約束する」

また傷つけたいと思ってしまう。

「いやだ、いやだよ、怖い、俺は化け物だ」

手を振り払おうとするイェーゴーの頬を、両手でやさしく包んだ。ぐちゃぐちゃに濡れた黄金の瞳を真っ直ぐに見据えて、ラットはゆっくりと伝える。落ち着くように、ちゃんと息が吸えるように。

「あんたは人間だ」

人間は生まれ変われる。


 ラットの熱い唇が、触れるたびに新しい命が吹き込まれるようだった。イェーゴーは思った。自分は今ナイフの代わりに少年の掌の温度に触れている。溺れている。互いの意識の波に呑まれていく。どこまでも深い場所まで二人で潜っていくみたいだ。助けてほしい、許して欲しい。自分のしてきたこと全てを、ラットに赦されたい。いつしかそんなことを、思っていた。

今まで自分が一番必要としていたものが、こんなところで与えられるなんて想像もしていなかった。イェーゴーが生まれた時から最も欲していたのは、食料でも寝る場所でもなかった。それは愛だった。愛とは恐ろしい夜に、誰かが隣にいて手を握ってくれることだ、心からそう感じるのだった。

あの日、ラットを連れ帰ったのが、自分と似ていたからでもあり、優しさでもあったとしたら。そして、ラットに見惚れた、もしそうだったのだとしたら。

「・・・っ」

自分は、ちゃんと人間なのかもしれない。

イェーゴーの瞳の中に、涙がいっぱいに溜まっていた。


 夜の闇の中、誰も知らない二人の吐くあたたかな蒸気が、白い光のように映えていた。

End

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Return EnD〜いっぱい満たしてあげるから〜 お餅。 @omotimotiti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ