四(了)



 銀色の盥に、春の花びらを目一杯に敷き詰める。

 日差しがたっぷりと差し込む部屋のことだった。


 肇が何をしているのか、櫻子にはよくわからない。これからすることの何となくは教えてもらったけれど、妖に関する道具作りのことなんて、まさかたったの一年を店番として働いたくらいでは、爪の先ほども理解できていない。


 だから櫻子は、その隣で外の景色に目をやるばかりだった。


 春の窓は明るい。この部屋に満ちているものが、外に出てもずっと続いているような、そんな気さえもしてくるくらいに。


「料理教室では」

 と、盥に筆を差し込んで、肇が切り出した。


「どうだったんですか」


 穏やかな語り口だ。

 最近櫻子は、この人の声を聞いていると妙に落ち着いてしまう。そうですね、と大して意味もなく頷いてから、本当にゆっくりと答えた。


「やっぱり、皆さん驚いていました」

「ですか」

「でも、真鍋先生はやっぱり何も気にされないみたいで。かっこよかったです」

「ああ。何となく、真鍋さんはそんな感じのする方ですね」

「それから千枝さんも。ただ、千枝さんの場合は他のことで頭が一杯だっただけなのかもしれませんけど」


 はは、と肇は笑った。


「もし困るようなら、ぜひご相談をと伝えておいてください。私もこれで、洋行の経験はありますから。もっとも、親元を離れてとなるとまた勝手は違うかもしれませんが」

「そうですね。今度、もしかしたら水曜の帰りに連れて帰ってくるかもしれません」


 ぜひ、と肇は優しい声で言う。ちゃぷ、ちゃぷ、と川の浅瀬に明かりの差すような音が響く。ふと彼の手元を見ると、水面には鏡のように花びらが広がる。


 もう、光と花の区別が付かない。


「店番も、」

 訊かれてもいないことまで話したのは、春の陽気に当てられたからだろうか。


「思ったよりはでした。妖の方は特に皆さん気にされませんし」

 でしょうねえ、と肇は頷く。


 その鷹揚な肯定に、人も、と続けようとして、櫻子は止まる。

 疑問が、胸に落ちた。


「……私が、怯えすぎていただけだったんでしょうか」


 どうしてこうなったのか、自分でもわからないのだ。


 きっかけは、やっぱりあの日だったのだと思う。エリカと肇が崖から落ちて行った、あの冬の日。応援を求めて、町の中を駆けまわったあのとき。


 頭の中に、不安がなかったわけではない。

 いくら慌てていたって、すぐに存在を忘れてしまえるほど、この髪の色との付き合いは短くない。子どもたちに話しかけるとき。千枝を捕まえるとき。バス停に駆けていったとき。全ての場面で、「今の自分の髪は」と思う気持ちが、確かにあった。


 でも、それどころではなかったから。

 それよりも優先しなければならないことが、あったから。


 それだけが理由で櫻子は、これまで『普通に』暮らしてきた日々を投げ捨てる覚悟で、人々の下に駆けていったのだ。


 結果として、この日々は呆気なく続いている。

 そうなると、やっぱり疑問が湧いてくるのだ――『普通』とは、一体何だったのだろう。


 元から自分は『普通』であって、ただ、勝手に怯えていただけなのだろうか。


「そう単純な話でもないと思いますよ」


 櫻子は彼を見た。

 彼は「私的な見解ですが」と、珍しく自信なさげにして、


「実際、その髪のことで嫌な思いをされてきたこともあるんでしょう」

「……はい」

「じゃあ、櫻子さんの気の持ちようだけの話ということもありませんよ。そうやって嫌な経験をしてきたなら、『またここでも同じ思いをするんじゃないか』と心配するのは当たり前のことです」


 私だってそうします、と彼は言った。


 本当かな、と櫻子は思う。肇は要領が良いから、そういう事態に陥っても、さらっと躱してしまいそうな気がする。


「しかし環境が変わったおかげかというと、やはりこれもそうではない気がします。確かにこの町は多少、隣人の事情に頓着しないところはあると思いますが、そこまで……」


 そうですね、と彼は言葉を選んで、


「そこまで『人間離れ』した人たちばかりじゃないと思いますよ。人と接するときに何の失敗もしないような、特別優しい人たちばかりが住んでいるわけでもありません。ここはどこにでもある、他と大きく変わるところのない、『普通』の町です」

「普通の町、ですか」


 言われて、確かにそうなのかもしれないと櫻子も思う。


 少なくとも自分は、家族からこの髪のために嫌なことを言われたことはほとんどない。エリカのような友達だってできた。それから先も、『普通』に接してくれる人が全くいなかったわけではない。この町で暮らしているのと、同じように。


「じゃあ、」

 櫻子は言う。


「どうしてなんでしょう」

「そう訊かれると、つい『櫻子さんが頑張ったからですよ』と言いたくなってしまうんですが」


 微笑みながら、肇は答えた。


「実際、その側面もないではないと思うんです。今回は、順番が良かったのではないかと」

「先に仲良くなったから、ということですか」


 ええ、と彼は頷く。


「変わったところを見せる前に櫻子さんがその人たちと仲良くなったから、町に溶け込んだから。本当はみんなの心の中にあったはずの偏見を、櫻子さんの頑張りが覆してしまったんです……と言ったら、」


 困ったように笑って、


「櫻子さんは、これから先も『髪の色を認めてもらえるような、ちゃんとした人になろう』と頑張ってしまいませんか」

「え、……はい。そうですね」

「だから言いません。私は別に、それを櫻子さんが頑張らなくてはならないことだとは思っていませんから」


 す、と肇が水をかき混ぜる手を止める。それから彼は、畳の上に置いた布袋の中から石のようなものを取り出して、盥の中に優しく沈めた。


 花に溢れた水の嵩が、減っていく。

 今、きっと自分は優しくされているのだろうなと、櫻子は思った。


「でも、」

 言葉が口を突く。


「やっぱり私は、鴉さんの櫛を使わせてもらって、また髪を黒く染めると思います」


 この思いは、一体どこに繋がっているのだろう?


 多分自分も、落ち込んだエリカなんかを前すれば、肇と同じように言うのだ。あの日、彼女の姿を見て驚いた自分を見つけてから、なおさら強くそう思う。


 受け入れられる努力なんてする必要はない。ありのままでいい。だってエリカは良い人だから――良い人じゃない、普通の人だったとしても。誰かが受け入れられないのは、誰かが『変わって』いるからじゃない。その誰かを受け止める側が『変わって』いるからなんだと。


 ただ生きているために、誰かに認められる必要なんてないと、そう言いたくなる。

 なのに、どうしてか自分のことになると、てんでダメになる。いつでも胸を張って生きていくことなんてできない。慣れ親しんだ相手にすらどう思われているか不安になる。知らない人が相手なんて、ましてやずっと。


 人にかけてあげたい言葉だけが真実なら、こんなに幸せなことはないのに。


 相手を自分自身に置き換えた途端、「誰だって生きていくために周りと折り合いを付けている」とか、「ありのままなんて誰にでも見せるものじゃない」とか、そんな言葉ばかりが浮かんでくる。


「すごく、変な話をしてもいいですか」


 切り出せば、肇は「はい」と静かに答えた。だから櫻子は、大して迷うこともなく、そのまま口に出してしまう。


「私、今でも自分のことが、よくわからないんです」


 結局、最初からこういうことだったのだろう、と。

 エリカと話したあの日を思い出しながら、櫻子は言った。


 髪を黒くしたかったのか。白いままでいたかったのか。目立たないでいたかったのか。受け入れてほしかったのか。それとも、もっとたくさんの人がいる側に付きたかっただけなのか。


 そのどれかを答えにしてしまうには、自分は日々を過ごしすぎていた。今までの人生を真っ向から否定できるほど恵まれてこなかったわけではないし、これでよかったのだと簡単に締めくくれてしまえるほど、結果以外のものが目に入らないわけでもない。


 だからそれは――『わからない』というのは、ひどく頼りないけれど、それでも嘘偽りのない本音だった。


「そうですか」

 それを聞いた肇は、微笑んで言うのだ。


「じゃあ、私とお揃いですね」


 いつの間にか盥からは、水も花びらもほとんどなくなっていた。


 残されたのは、指ほどの小壜に収まってしまうかという程度の、白く透き通った液体だけ。よし、と彼は言う。


「できました。櫻子さん。いいですか」


 はい、と頷けば、肇はその盥を手に、そっと櫻子の後ろに付いた。


 ちゃぷちゃぷと水音が鳴る。

 ゆっくりと、髪に櫛が入っていく。


 冷たくはありませんか、と彼が言うものだから、いいえ、と櫻子は答えて、あの日のように瞼を閉じた。


「私も、自分のことはよくわかりませんよ」


 前よりも、ずっと慣れた手つきだと思った。

 何度も髪を染めてもらったからだろう。白く戻ってしまうたびに、肇には髪を染めてもらった。思えば本当のところ、そんなことをしてもらう必要はなかったはずだ。だって自分のことなのだから。鴉がくれたこの櫛は、髪を梳けばそれだけで構わないくらいの、とても良い髪染め道具なのだから。


 自分でやったって、よかったはずなのに。

 どうしても櫻子は、この時間を好きになってしまう。


「正直に言うと、それで悩んだこともあります」


 前に聞いたこともある話だったから、櫻子はつい頷きそうになる。でも頭は動かしちゃいけないはずだと留まって、「はい」と答えるのも素っ気ない気がして、「うん」なんて砕けた相槌を打つ。


「でも最近は――そうやってわからないでいるくらいの方が面白いのかもと、そう思うようになったんです」


 それからも、櫛は気持ち良く髪を梳いていった。

 冷たくはないですか。寒くはないですか。肇が訊ねてくる。そんなことはなかった。今日という日の昼は暖かく、春しかない国にいるような心地さえする。


 でも、そうじゃない。

 この春を迎えるためにいくつもの季節を巡ったのだと、瞼の裏に思い描く。


「さ。できましたよ」

 肇の声がして、その日々から覚める。あの日と同じように、ぱ、と櫻子は目を開ける。




 春色の美しい髪が、そこには映っていた。




「さっきも言った通り、妖にまつわる色であればこのくらい簡単に髪染めに使えるんです。どうですか、櫻子さんとしては」

「あの、」


 触っても、と訊ねる。肇が鏡の中で頷くから、恐る恐る櫻子はそれに触れてみる。


 桜色、としか言いようのない色だ。

 全てを染めたわけではないらしい。ところどころに、あの庭に咲き誇る霊樹と同じような、明るい色が光っている。一方で元の白色はそのままで、それがかえって、あの桜の印象にすごく近いものになっている。


 綺麗だと、その白を見て思うのは、一体いつ以来のことだろうか。


「あの、肇さん、これ」

「はい」

「すごく良い、と思うんですけど」


 自分で言いながら、ちょっとずつ自信がなくなってくる。けれど、この髪を染めてくれた他ならぬその人に対して言うことだから、最後まで続けられた。


「どう、ですか」

 振り向いて言う。肇が口を開いて、なのにちょっと止まる。


 彼は笑って、


「見ての通り」

 あの日みたいに、瞳を鏡にできるくらいの近くにまで顔を寄せてくる。




「とってもお綺麗ですよ。一目見て、恋に落ちてしまうくらいに」




 あの日みたいに心臓が高鳴るなら、きっと耐えられたはずだと思う。


 二度目のことだから。どきどきと跳ねる心臓を押さえ込んで、ああきっと、と。肇は今、そのままであることも、そのままでないことも、両方選ばずにいられるような、そんなものを自分にくれようとしているんだと気が付けた。そうしていつか自分は、元の真っ白い髪や、鴉から貰った黒い髪を、純粋に好きでいられる日が来るのかもしれない。そういうことに思いを馳せられたはずだと、櫻子は、後になってみればそう思う。


 でもこのときは、じんわりと胸に幸せが落ちてしまったから。

 温かい涙が湧くみたいに、心臓から指先まで、その温度が行き渡ってしまったから。


「私、あなたと会ってから」

 そうして言葉は、溢れ出てきてしまう。


「ずっとずっと、幸せです」


 昔、エリカに言われたことを櫻子は思い出している。座敷童みたいだ、と彼女は言った。あなたといると幸せなことばかりが起こるから、と。


 それは逆だと、今や櫻子はわかっていた。

 自分がいるから幸せになるんじゃない。その人がたくさんの幸せをくれるから、自分は傍にいたいと思うのだ。だから遠く離れていたって、ずっと相手のことを思っている。だから、近くにいるなら、


 こんな風に、傍にいるなら、


「ちょっとだけでいいんです。ちょっとだけでいいから……」


 櫻子は袖を引く。どこかに逃がしてしまわないように。強く強く、離さないように。


「あの日、このお店の扉を叩いたのが私でよかったって、思ってくれませんか」


 言い切って、心が軽くなったのはどうしてなんだろう。

 ずっと言いたかった言葉だったからか。それとももっと単純に、続きのない言葉だったからか。


 あるいは単に、そのときふっと風が吹いて、窓の向こうに桜の花が舞い上がったのが見えたからか。


 その奥でぼやけた人影が手を振って、祝福するような笑顔を浮かべているのが見えたからなのか。


「思っていますよ」

 肇が、袖を引く櫻子の手を取った。


「迎えに来てくれたのがあなたでよかったと、心の全部で、思っています」



 それは、うららかな春の日のことだった。


 どこか小さな端っこの国の、さらにその端っこの小さな町。その外れに、一つの古びた道具屋がある。


 でも、そこは前と比べれば、少し様子が違った。昔はお化け屋敷みたいに得体が知れない場所だったのに、今は人もそれなりに訪れて、人じゃないものはひっきりなしにやってくる。ときどき大変なこともあるけれど、ほとんどは笑って終われるような、他愛のないことばかりが起こっている。


 庭先で、花はいつまでも盛りに咲いている。

 まるで、誰かがこの世に生きていることを祝っているみたいに。


 櫻子はその祝い事の真ん中に、肇と一緒に座っていた。


 二人はずっと、永遠の中に身を置くみたいに見つめ合っている。お互いに熱くなっていた手が、いつの間にか体温を分け合って、どっちのものかわからなくなるくらいの時間が流れている。


 この人が好きだ、と櫻子は強く思う。

 そして同時に、今更こんなことも思う。



 

 この人はきっと、私のことが好きなんだ。




 それはほんの淡い、奇跡のような思いだった。

 もしかしたら一生かけたって辿り着けないこともあるだろう、そんな気持ち。ふっと指にかけた次の瞬間には、薄い花びらのようにその手からすり抜けてしまいそうな、ひと時の夢にも似た温もり。


 なのに、それを永遠にこの場所に留めておきたくなった。


 少しだけ櫻子は、彼の手を強く引っ張る。こんなこと、やれるのはこの一回だけ。あの日と同じだ。一回きりの勇気。これまでもこれからも、どれだけ長い時の中でも二度とはできないような、自分のものとは思えないような思い切り。


 二回目だから、またできる。


 肇が微笑んでいる。

 その頬が、瞳が、全てが、信じられないくらい綺麗なものだから――





 春の花咲く、どこにでもある日々の中。


 試しに目を、閉じてみる。




(最終話・了)

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