迷い少女と怪奇譚
@Mimizuku_in_the_night
第1話 成る
「こんにちは」
振り返ればにこにこと微笑む黒づくめの男が木に凭れていた。こんな気候だというのに手首足首まで覆われた格好をしている。暑そうだなと彼女は思った。今日はよくこういう人に出会すな、とも。山の上だというのに、彼の持っているものといえば左手の古びたぼろぼろのロープと小さな鞄だけだ。普段の彼女ならば登山に慣れてるんだろうなと、ちらりと思うだけだろう。しかしこれが本日五度目であれば話は別だ。一人目は彼女と同い年くらいの少女。次は老婆、次は女性、次は小さな少年。そして。
「そろそろ日が暮れるね」
どれほどの時間が経ったのだろう。蝉の声はいつの間にか止まっていた。冷たいものが背中を撫でたような気がして、彼女はふと身震いする。
黒黒とした鋭い瞳孔が彼女を捉え、柔らかくなる。笑みの形をした口がゆっくりと開いて、今までの彼らと同じ言葉を吐いた。
「喉、渇かない?」
***
昔から兎に角道に迷った。ぼんやりしているからよとよく母にも叱られた。しかし彼女自身歩くのが好きで、新しい場所が好きで、「冒険」に行くのは時間のある時だけだったから、特に気にしてはいなかった。それにいくら変な場所に迷い込んでも、彼女の祖母が絶対に迎えに来てくれたので。
祖母が亡くなった後、彼女に刀が届いた。刀と言っても、どんなに力を込めても鞘から抜けることはなかった。ただ一言お守りだと手紙に書いてあった、少女が片手で持つには重すぎるそれを、彼女は肌身離さず身につけていた。そしてそれを持って出掛ければ、どんなに知らない場所を彷徨っても。どうしてだか必ず夕暮れまでには見覚えのある道に戻れるのだ。
今日も変わらずその刀は彼女のリュックサックに収まっている。
──けれど今、日没が迫っていた。
***
きっと逃げることもできたのだ。しかし今まで同様断り身を翻したとて、六人目に会うだけなんじゃないかと、歯の根の合わないのを誤魔化しながら彼女は考える。かといって打開策があるわけではないのだけれど。
ありがとうございますと彼女はか細く言った。震える手で手渡された小さな水筒を覗き込む。色はわからない。酷く血生臭い匂いが鼻を刺した。
「君もそろそろ帰りたいでしょう」
男は歌うように語る。ようやく彼女が望み通りの行動をとって喜んでいるようだった。
「僕も事を荒立てたいわけではないんだ。ただ、海にもここにももう飽いてしまった。もう一度だなんて真っ平御免なだけ」
彼女には彼の言うことが微塵も理解できなかった。彼女はただ、今日の訳のわからない繰り返しを絶って、目の前の人の形をした何かから解放されて、家に帰りたいと心から願っていた。
その時、リュックサックがふと震えた気がした。
「あの、その前に、お礼を差し上げてもいいですか。お水をいただく、お礼」
「へえ?もちろんだとも」
彼は上機嫌に笑ってみせた。
「この僕に献上品だなんて、随分と見る目があるじゃあないか」
彼女は一度水筒を返却し、藁にもすがる思いで男に背を向け鞄を開けた。充電の切れた携帯電話に新品のロープ、絆創膏と包帯と、食べかけのおにぎり、それに。
──鞘が外れている。
手に取ればずしりと重いそれは不思議と酷く手に馴染んだ。西日を照り返すその澄んだ刀身に彼女はしばし、息を呑む。
だけどどうしろというのだろう。両手で持つのが精一杯の刀で相手を倒せるとは少女にはどう頑張っても思えなかった。中途半端に傷つけてしまえば、逆上されはしないか。
考えて、考えて、そして。──彼女は思い出した。
「それで、君は何をくれるって言うんだい」
弾んだ声がかかる。ちらりと後ろを見遣った少女は小さく息を吐いてもう一度柄を握り締める。そうしてゆっくりと立ち上がり、振り向く力で刀身を振るった。
──男の、左手に向けて。
ぶつりと何か太いものを断ち切ったような感触が彼女の腕に響く。信じられないものを見るような瞳とかち合う。崩れるように地に落ちたぼろぼろのそれ(ヽヽ)から、水筒の液体と同じ臭いの赤が噴き出した。
──五人の彼らは皆一様に、到底使い物にならなそうな、今にも朽ち果てそうな縄を手にしていた。
彼女は鞄を掴み駆け出した。背後からは地を揺るがすような叫び声。振り返ることなく彼女は走った。いつの間にか刀には鞘が戻っていることに彼女は気づかない。方向もわからず駆けて、駆けて、見覚えのある道路に出た頃には、もうとっぷりと日が暮れていた。
***
後日その山で大きな蛇の死骸が発見されたと風の噂で耳にした彼女は、しばらく山に近寄るのはやめようと決意したのであった。
迷い少女と怪奇譚 @Mimizuku_in_the_night
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