第5話 登録と出会い
近眼や弱視、耳の障害や跛行、手足いずれかの麻痺といった、前列で戦うのにひどく差し支える障碍がないことを一通り確認すると、受付担当の男はロランの前のカウンターに、自分が使った筆記具をひとまとめにして置いた。
「よし、じゃあこの羊皮紙に……書け、名前を」
「……ロラン・カリブルヌ」
一瞬迷ったあとで、ロランは自分の名前を可能な限り正確に発音した。
「いや、書けって……ああ、お前まさか、字が書けないのか?」
「あの、白墨でなら書いたことあります。でもこういうペンは使ったことなくて……ちょっと」
「っち。仕方ねえなあ……」
実際仕方ないのだ。父は何やら高等数学とか言うものまで身につけた航海士だったが、家にはほとんどいたことがない。
母は善良で利発な人だが、父の代わりに息子を教育できるほどの才覚はなく。
村には学校もなかった。加えて、この数年はロランの家は困窮して、とても筆記具をあつらえるような余裕はなかった。
「ああ、分かった分かった。俺が書いてやるよ……まあ、自分の名前もよくわからんで漠然と『おいら』とか『僕』とか言いだす奴もたまにいるから、まだマシか」
受付係はため息をつきながら鵞ペンを使った。描き終わった文字に細かな砂を振りかけ、乾いたところで払い落とすとあとには滲みもなくくっきりした筆跡が残る。
「よし、これでお前はブラディスドック戦士
「はい」
そのへんの説明はすでに一度受けていた。
「宜しい……で、今夜はどうする? 訓練はまだやってるが」
「えっと……」
ロランは内心で頭を抱えた。非常に悩ましい問題だ。現在の所持金は銀貨三枚。訓練施設の使用料は、すぐそばの壁に掲示してある――一セット一回につき銀貨五枚、だ。
食事はここで済ませればいいが、今夜の宿代も必要だ。今日はまだ訓練は受けられない、ということ。そして、訓練を受けられなければ酒場で仲間を紹介してもらうことも難しい。
「きょ、今日はいいです……食事だけ頂いたら帰ります。明日、また」
「そうか。宿はできるだけいい所を選べよ」
食堂らしき場所へ向かうと、床に切られた炉の上に鍋がつるされていた。だが火は消えていて、辺りには誰もいない。洗って伏せられた食器を手に取り、鍋の中の冷えたスープと、傍らのパン籠に入れられた平べったく固いパンを取って、空いた場所に座ってむさぼった。
腹は満ちたが、泊まる場所はない。この食堂には毛布の一枚もなく、こんなところで人目を盗んで眠れば、明日は冒険どころではなくなるだろう。
(詰んだかな、これ……)
ああ、そうだ――ふと、港で出会った片足の元船員を思い出す。パンはまだ半分ほど残っているし、これを持っていけばねぐらを分けてくれるかもしれない。言葉は粗野だが、あの男は思いのほか親切だったし――
(親切な人たちにはそこそこ沢山出会ったのに、僕にはどうも運がないな)
運がないというか、それ以前に金がない。今考えてみるとどうにも無謀だったような気もするが他にどうしようもなく、今さら帰ることもできなかった。何とか今夜寝る場所と、明日の訓練を受けるための元手を手に入れなければ。
そんな考えで頭を悩ませながら歩いていると、前方から歩いてきた誰かにぶつかった。あっ、と叫んだ時には平衡を失い、よたよたと数歩、たたらを踏んでいた。
「危ない」
ぶつかった相手に腕を掴まれ、すんでのところで転倒を免れた。
「あ、ありがとうございます」
「気にしなくていい……うん? 戦士組合から出てきたように見えたが……君は戦士なのかな?」
男のような口調と、甘やかな女声。見上げるとそこにいたのは、涼しげな眼に何やら憂いの色を浮かべた、黒髪の女だった。先ほど酒場で見かけた赤毛の冒険者よりはいくらか年かさのように見える。
「あ、はい。まあ一応――」
「ふうん……」
かがみこむように顔を近づけてきて、髪の一房がはらりとおとがいのあたりへ垂れかかる。
その時初めて、ロランは女の耳が常人とは異なる、百合の葉のような尖った形をしていることに気が付いた。
(
遥か北方の国々、人里離れた森と湖のあわいには、遥か
「戦士にしては妙だな。剣も持たず鎧も着けず、幼い様子で顔には傷の一つもない……なるほど、どこかから出てきたが路銀が尽き、身動きもままならない、といったところか」
「う……」
見事に言い当てられて、ふがいなさと羞恥に口ごもる。女は得心いったようにうなずくと口の端だけを吊り上げて微笑んだ。
「別に珍しい事でもない。似たような駆け出しの戦士はたくさん見てきている……そうだな、君も私のパーティーに加わらないか? 先ず差し当たって、宿の世話くらいはお安い御用だが」
渡りに船とでもいうべきか? 一も二もなく飛びつきたい話ではあったが、その瞬間なぜかロランの背筋をぞくりと冷たい物が走った。何かひどく危険な予感――だが、どうやら今はこの藁を掴むしかない。
「……お願いします」
「いい返事だ。君、名前は?」
「ロランです。ロラン・カリブルヌ」
どこかの英雄みたいだな、とつぶやいて、女はポンとロランの肩を叩いた。
――これは、いい拾いものをしたかな……?
かすかに聞こえたつぶやきに、またぞろなにか不穏な気配を覚えたが、女はもう一度彼の手首をつかむと、ぐいと引いた。
そうして彼女は戦士ギルドの塀沿いに、今来ていた道とは別の方角へ歩き出した。
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