第一章:海が哭く

第3話 迷宮の誕生

 それ自体が城塞かと思わせる巨大な埠頭には、横づけに繋留された(※)四本マストの帆船が一隻、二隻――指折り数えて七つは下るまい。


 しかしその甲板に、人の姿はなかった。


 港の淀んだ水面をかすめて、カモメならぬカラスが一羽、嘲るような鳴き声を上げて飛び過ぎる。ノルゴラント王国で最大を誇るブラディスドックの港には、無数の船が舳先を並べたまま、帆桁ヤードに括り付けた帆を広げる機会もなくじわじわと朽ちつつあった。


「何だよ、これ……」


 想像もしたくなかった惨状を前に、少年はがっくりと膝から崩れ落ちた。では故郷からの旅の間、何度か小耳にはさんだ不吉な噂は本当だったのだ。

 王国の東に面したバルデル海は海流が乱れ濃霧に閉ざされて、いまや船を出すことなど到底かなわぬありさま、と。


 これなら、故郷のスーリガ村にとどまった方がマシだったのではないか。給金は安くともあの小さな漁港で働くか、もう少し背が伸びて腕も太くなったら漁船に乗り込むか、何とか生計たつきの道もあったろう。

 だが、彼を育てて働くうちに病を得た母と、まだ幼い妹を養い助けるには、それでは到底収入みいりが足りない。


 スーリガから遥か北にある、軍港都市ブラディスドックで仕事を得るしかあるまい、そう心に決めて家を出たはずだったが。


 ――よぉ坊主。何か食い物か、酒でも持っとらんか?


 背後から物憂げな声がかかる。振り返れば倉庫めいた建物の壁にもたれて、片足のない男が杖を小脇に抱いて座り込んでいた。


「ごめん。何も持ってないよ……軍艦の下働きにでも、もぐり込めればって思ったんだけどさ」


 ――ち、こっちもアテが外れたぜ。


 そうぼやいた男は、杖を支えにずるずると伸び上がるように立つと、体を不格好に傾けたまま、こつこつと石畳に足音を響かせて少年に近づいてきた。


「あのな、坊主。軍艦なんぞ、もう三年前から動いてねえぞ……食いぶちを探すなら他を当たりな。俺と違って五体満足なんだ、迷宮にでも潜れば飯と寝床くらいはどうにかなるだろうよ」


「迷宮……?」


 よく分からないが、そんなものがあるのか?


 いぶかしみながらもっと詳しい話をとせがむ彼に、片足の男はまず一言告げた。


「生きてられれば、の話だがな」



         * * *



 ロランの父は定期商船「パラロン号」に乗り組む上級船員で、役職は一等航海士だった。

 父が死んだときの海難の状況は詳しく分からない――なにせ急な嵐に見舞われて、船一隻と乗組員が積み荷もろとも沈んだか、どこかへ漂流したかの消息さえ知れないのだ。

 ともかく一家は支えを失い、ついに母の細腕が持たなくなった。一四歳のロランは、今や父の代わりに家族を養わねばならない。


 ならば迷宮とやらにも、首を突っ込まぬわけにいかなかった。片足の男は――元は船員だという話だったが、おおよそのことは教えてくれた。


 バルデル海に船を出せなくなったのはおおよそ三年前。ロランが父を失ったのとほぼ同じ時期だ。


「そんで、半年くらい経ったころだったか。いきなり街中で陥没が起きてな……地下の下水道がむき出しになって排水が滞り、総督府の玄関まで汚水が溢れた。

 繋船になった軍艦に押し込められて仮暮らしをしてた船員俺らにも、復旧の仕事が回って来たわけよ」


 港には起重機があるからな。運ぶのは大変だったが――


 片足の元船員はつぶやき気味にそう言い添えて、懐かしそうに苦笑いした。


「総督は手当てをはずんでくれた。半給でくすぶってた俺らは、そりゃあ張り切って働いたもんよ」


「じゃあ、その足はもしかして、その仕事で怪我を?」


 気遣う視線を自分の右足に向ける少年に、元船員は酢を飲んだような顔で首を横に振った。


「いんや。ようやっと水が退いたところでな、亡者どもが湧いて出たのよ。奴らは人を襲って食い殺す。そうして食われたやつも、食い残しの体そのまま、起き上がって動き出すんだ」


 船員が足を失ったのは、その亡者との戦いでだったという。


「それでも俺たちは艦から持ち出した武器で、何とか奴らを平らげた。だが、悪いことはなおも続いた。総督の顧問を務めてた魔術師が、海神テチスの神殿から宝珠を盗んで姿を消しやがった」


 陥没事故の原因を作り、亡者の起き上がりを招いたのはその魔術師だと、まことしやかな噂が流れた。懸賞金が掛けられて捜索が行われるうちに、街の運命を変える出来事が起きた。


 亡者たちを吐き出し、再び吞み込んだ地下の下水道。その一角から広がる、広大な迷宮が見つかったのだ。

 もしや魔術師がここに逃げ込んだのではと、何組かの傭兵や食い詰め者たちが分け入ると、そこには不死の者ども以外にも得体のしれない怪物がひしめいていた。

 だが生還した少数の者たちは、ブラディスドックの住民たちが見たこともないような、多額の金品を持ち帰ったのだ。







※ オールを用いない純粋な帆船はその特性上、桟橋や埠頭から自力で離れて沖へ出ることはできない。通常、運用中の帆船は港のやや沖に停泊し、陸との連絡は都度ボートで行った。

 つまり、埠頭に繋留してある帆船とは、長期にわたって出航の見込みがなく、破損や流失を防ぐために繋留されているのである。これを繋船という。


 こうした船を再び海に出すにはボートでけん引することになる。

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