2.美術館


「美術館、行って来る」


「えっ、一人で? 大丈夫なの?」


「大丈夫、電車とバスくらい」


 美月さんがやって来た昨日は、お父さんもお母さんも機嫌がよくて助かった。お客さんを招いてるから、そう振る舞っていただけかもしれないけど。私は一人っ子だから、どちらかの機嫌が悪い時にはその被害を受けてしまうのだ。


「知らない人に話しかけられても、着いて行ったらだめ。お年玉があるからって、無駄遣いはしないように。夕方には寒くなるから、なるべく早く帰るのよ」


「そんなに言うなら、お母さんも一緒に来てくれればいいのに」


「それだと、もう一人分交通費も入場料もかかっちゃうじゃない」


「……そうだね。じゃ、行って来ます」


 お母さんの言うことには、時々矛盾がある。『お金はなるべく使わないと経済が回らない』と言っておきながら、こういう時ケチになるのはおかしいと思う。指摘するのは面倒だから、いつも『そうだね』と言っておく。


「あら、海凪ちゃん、お出かけ?」


「あ、はい。美術館に行くところです」


 玄関のドアノブに手をかけたところで、藤色のワンピースを着た美月さんが二階から降りて来て私に尋ねた。


「私も一緒に行っていい?」


「えっと、大丈夫だけど、ピアノの練習は……」


 美月さんは「夜にやらせてもらうから。ちょっと待ってね」と言い残して階段を上がり、コートと小さなバッグを手に持って来た。


「長浜さん、本当にこの子と一緒でいいんですか?」


「はい。では行って来ます」


 お母さんの言い草は、謙遜だとわかってはいるけど、何だか傷付く。スーパーの野菜売り場で『本当にこれでいいのか』と、旦那さんが奥さんに聞いている光景が思い浮かぶ。その手に持っている六割引きの腐りかけレタスも。


「ごめんね、お待たせ。……邪魔じゃないかな?」


「全然、邪魔じゃないです」


「本当? よかった」


 私は険しい顔でもしていたのだろうか。心配そうに言われて、なるべく明るい口調で答える。美月さんは悪くない。


 美術館までバスと電車を乗り継いで行く途中、美月さんと色々な話をした。西瓜は皮の濃い緑色と薄い緑色、中身の白い部分と赤い部分の調和がきれいで、黒い種もいいアクセントになっているということも。誰にも話したことはなかったのに。


「素敵な感性ね」


「……そうなのかな。お母さんは、嫌がるんですけど」


 電車はすいていて、余裕でシートに座ることができた。隣同士で座るのはうれしい。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。


「すごく素敵よ。でも、海凪ちゃんみたいに感じられる人は少ないの」


「えっ、そうなんですか? 知らなかった……大人になったら忘れちゃうのかと……」


「だから、お母さんはそういう話でびっくりしちゃうんじゃないかな」


 ふふ、と美月さんは笑って私を見る。私はまた照れてしまい、肩にかかる髪を意味もなく背中にずらした。



 ◇◇



 美術館では二人ともほとんどしゃべらずに、展示されている芸術作品を見て回った。美月さんも『ピアノに寄る少女たち』を気に入ったようで、その絵の前では二人でずっと立ち止まっていた。


 私が特に好きなのは、ピアノの前に座る金髪の女の子ではなく、その向こう側で楽譜を覗き込むように身を寄せる、はしばみ色の髪の女の子だ。白いレースの襟と紅梅こうばい色のワンピースが似合っていて、背景の柔らかい青碧せいへき色のカーテンともよく合っている。そして何より、ピアノと金髪の子を優しく包んでいるような姿が美しいと思う。


 一通り見て回ると、二人で美術館のカフェに入った。お年玉もあるし、こんな時くらいは贅沢してもいいよね、などと自分に言い聞かせる。


「メトロポリタン美術館って、ニューヨークなんですよね。もうすぐ戻って行っちゃう……」


 『ピアノに寄る少女たち』は、もともとメトロポリタン美術館が所蔵しているものなのだ。今は日本にあるけど、戻ってしまったらとても寂しい。


「作者のルノワールは、ピアノを弾く女性を描いた作品が多いって聞いたことがあるわ。他の美術館にもあるかも」


「そうなんですか……! 大人になったら調べて見に行ってみたいなぁ」


 美月さんは、他にもたくさんのことを私に教えてくれた。私の見える色は『共感覚』によるもので普通は見えないこと、少ないけど他にも仲間がいること、それを数字の計算や語学や暗記に利用している人もいることなどを。


「私、英語得意なんです。何か関係あるのかな?」


「あるかも。海凪ちゃん、将来は通訳になれるね。あ、あと、調律師もおすすめよ」


「調律師って、楽器の?」


「うん。楽器の音階を調整して直す人のこと。ピアノの音で色が見えるなら、有利になるんじゃないかな」


「……すごい。美月さん、何でも知ってるんですね」


 私が手放しで褒めると、美月さんは「違うわよ」と柔らかく言った。


「ピアノに関することだから知ってるだけ。でも、褒めてもらえてうれしいな」


「私も、いっぱい色々知っていきたい、けど、学校には行きたくない……。普通になれなくて、恋バナになんかついていけないから、いつも一人で……」


「そうなの……」


 そんな話をしながら、ミルクティーを飲む。美月さんはけっこう背が高いから立っておしゃべりする時には見上げないといけないけど、カフェのテーブルに着いているとそういうのも必要なくなる。


「海凪ちゃん、何か食べない? ケーキとか」


「……えっと、ううん、飲み物だけで」


「そう? 海凪ちゃん細いし、成長期なんだから食べないと。おごるから。お母さんには内緒で。ね?」


 誰かに聞かれても責められたりはしないのに、思い付いたいたずらを友達にこっそり話すように、美月さんは小声で言った。表情が子供みたいに無邪気でかわいい。


「あ、うん、じゃあ……ケーキを……」


「うん。秘密だからね、二人だけの。私は、ショコラオランジュタルトがいいかな」


「わ、私も、同じのがいいです」


 映画や漫画でよく見る『二人だけの秘密』。まさか自分が言われることになるなんて、思ってもみなかった。世の中にあふれているその『秘密』は、私に甘くて濃い感情を持たせる。


 店員さんが持ってきてくれたショコラオランジュタルトは甘くて、少しほろ苦くて、オレンジの酸味が合っていて、すごくおいしい。黒檀こくたん色と朱色の色合いもきれいだ。


「おいしいね、これ。大正解だったわ」


 にこにこしながらフォークでタルトを口に運ぶ美月さんのワンピースの藤色とタルトの黒檀色は、とてもいい調和を醸し出している。


「うん。美月さん、ありがとう」


「ここに連れて来てくれたお礼と、さっき褒めてくれたお礼よ」


 この美術館は特殊な作りなのだろうか。甘くて苦くて酸っぱい『二人だけの秘密』を、こんなに簡単に作れるなんて。


 ふわふわした気持ちのまま、私は美月さんがレジで会計を済ませるのをぼんやりと見ていた。

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