撫子色の秘密

祐里(猫部)

1.悪口


 私は、冬休みが終わっても学校に行かないことに決めた。


 まだ中二だけど、勉強なら家でもできる。大昔の映画のような、灰色の濃淡しかないような場所にはもう行きたくない。誰かがしゃべっている声や物音には色がついているけど、全然きれいな色合いじゃない。ルノワールの『ピアノに寄る少女たち』みたいに、素敵な色合いならいいのに。


「冬休みもあと四日ね。海凪みな、早く宿題やっちゃいなさい」


「……学校にはもう行かない」


「まだそんなこと言ってるの? 学校に行かないと、ろくな大人になれないわよ」


 お母さんは大きくため息をついてから、冷蔵庫を開けた。


「先生なんか大人だけど、意地悪だよ。集団行動も嫌い。体育のバレーボールで球落としただけで、睨まれたり舌打ちされたりするのも嫌。なのに授業でわからないところがあると、急にすり寄ってくるのも嫌」


「それ前にも言ってたけど、そんなに嫌なの?」


「嫌だから何回も言うの。……ねえ、お母さん、また美術館に行きたいな」


「画家にでもなるつもり? 入場料だって馬鹿にならないんだから」


「違うよ。ただ絵を見たいだけ」


 私の答えを無視して、お母さんはそれきり背中を向けてしまった。キッチンのトースターに向かって「何でこんなに気難しい子に……」とつぶやく声が聞こえてくる。わざと聞かせているのかもしれない。


 リビングのソファから自分の部屋に移動して椅子に座り、国語辞典で『気難しい』という言葉を調べる。国語辞典のつるりとしたカバーの蒲葡えびぞめ色は好き。桜色の文字と合っていて、落ち着いたデザインだ。


「我が強かったり、神経質だったり……扱いにくく、すぐ不機嫌に……?」


 私はすぐ不機嫌になんてならない。お母さんは、もしかして自分のことを言ったのだろうか。それに、我が強いっていうのは、体育館の床に落としたボールを取りに行く私に舌打ちした、菅原すがわらさんみたいな人を言うんだと思う。『私はあなたみたいなのろまな人は嫌い』という本心を、押し付けがましく見せているのだから。


 確かにお母さんには、私も『先生嫌い、集団行動嫌い』って本心を見せていたな。でもそれは、学校に行きたくない理由を聞かれたから素直に言っただけだった。気難しいなんて悪口を言われるのは悲しいし、納得できない。


「西瓜が今もあったらいいのに」


 今は冬だから、家の周りの畑に西瓜はない。隣の畑に大根ならあるけど、大根より西瓜の実がなっているところを見る方が好きだ。


 西瓜がなくても、私は外に行くことにした。コートを着て玄関を出ると、午後の日差しが降り注いでいる。風は弱い。


「海、今日は凪いでるかな」


 畑の向こう側の海が見える場所まで歩く。ここは小高い丘で、場所によっては眼下に海が見えるのだ。


 だんだん視界に入ってきた海は思った通り凪いでいて、西日が差す白っぽい青を見せていた。群青ぐんじょう……ううん、違う……紺碧こんぺきかな、などと和色辞典のページを思い出しながら、しばらく眺める。


 和色辞典を買ってもらった時は、とてもうれしかった。洋色も好きだけど、和色の方が色名と実際の色がぴたりと合っているように思える。


 そんなことを考えていると、畑の脇の道から誰かが歩いて来るのが見えた。


「すみません、足立あだちさんのお宅を探しているのですが……」


 きれいな女性が話しかけてきた。柔らかいその声と同じ撫子なでしこ色のスカートの上に、白鼠しろねずのコートを着ている。


「足立はうちです」


 たたたっと短い距離を走り寄って答えると、ふわりといい香りがした。強すぎない、甘くて優しい香りで、私の中の何かが喜んでいる気がする。


「あなた、足立さんの? よかった。案内していただけますか?」


「いいですけど……」


「私は、長浜美月ながはまみつきです。今日から少しの間、お世話になります」


 『みつき』という名前は、スカートの色と同じ撫子色だった。



 ◇◇



「海が凪ぐと書いてみなちゃん、かわいいお名前ですね」


 リビングのテーブルに出されたお茶の向こうに座っている美月さんの目はぱっちりと大きいのに、笑うとすごく細くなる。急に名前を褒められた私は、美月さんから目をそらして下を向いてしまった。


「美月さんって名前の方がかわいいです。海凪は蕎麦切そばきり色だけど、美月って名前はかわいい撫子色だから」


「……またその話? もうやめてよ」


 お母さんは、私が色の話をするとイライラするようになった。大人になると色が見えなくなるんだろうか。


「あら、色が見えるのね。ピアノの音はどうかしら?」


「……えっと、ピアノの音も見えます。今まで聞いたことがある中で、一番いいと思ったのはショパンの曲でした」


 美月さんが私の言葉を拾ってくれる。作り物じゃない笑顔は、漂ってくる甘い香りと同じでとても優しい。うれしくておしゃべりになってしまう。


「どんなところがいいと思った?」


「……うーん……、全体的にろう色……黒なんだけど、時々黄蘗きはだ……黄色とか青色とかが混ざってきて、それがすごく合っててきれいだなって」


 そう、合っていないときれいにはなれない。黒の中に、ただ黄色や青を混ぜるだけではだめ。調和が取れていないと、学校で聞こえてくる恋バナと同じ騒音だから。


「そうなの。学校で聞いたのなら、革命のエチュードかな」


「あ、そうかも……」


「ちょっと、海凪、長浜さんの邪魔になるわよ。コンサートは三日後なんだから」


 美月さんは全国ピアノコンクールの大学生の部門で優勝した人だそうで、何故かそんなすごい人が、この町の町民ホールで開かれる成人式典で演奏を披露してくれることになったらしい。お母さんが前に使っていたピアノがあるからという理由で、うちが滞在先に決まったのだとか。


「……わかった。部屋に行ってる」


 こうして言うことを聞く私は、素直だと思う。気難しくなんてない。


「邪魔じゃないです。こちらの方がお邪魔してるので。ごめんね、海凪ちゃん」


「ううん。じゃあ美月さん、またあとで」


 立ち去る直前、美月さんがまた目をすがめて笑いかけてきたのが照れくさくて、私は目を伏せてしまった。

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