3.個性


「あれ、長浜?」


 カフェをあとにして美術館を出ようとしていた時、後ろから男性の声が聞こえてきた。先に美月さんが振り向き、私も同じ方を見ると、背の高い男性が立っている。


「来てたのか、言ってくれれば案内したのに」


「あ、武藤むとうくん」


「俺がここの職員だって知ってただろ」


 男性の顔を見ながら、前に読んだ小説に出てきた『屈託のない笑顔』ってこういうことを言うんだなと静かに思った。確か国語辞典で『屈託のない』を調べた時、『さっぱりしている』という意味が載っていたはずだ。


 美月さんを見ると、頬が珊瑚さんご色に染まっている。


「うん。でも、いつもは奥の部屋にいるのよね? それに、今日は海凪ちゃんとデートだから」


 そう言って、美月さんは私の背中に手を添えた。


「もしかして、今のステイ先の?」


「そうよ。かわいいでしょう」


「初めまして、ようこそ」


「……初めまして」


 男性と目が合い、仕方なくぺこりと頭を下げながら、私は挨拶の言葉をひねり出す。


「時間が大丈夫なら、カフェでも行かないか?」


「カフェ、さっき行っちゃった。二人でおいしいタルト食べたのよ。ね?」


「何だ、そうか」


 何と、『二人だけの秘密』は、簡単に他人に知られてしまった。『秘密』を言い出した美月さんの口から。


 馬鹿みたいだと思った。酔ったら馬鹿なことをするものだと大人は言う。私もきっと、酒に酔った大人みたいに、甘い香りと美しい色合いに酔っていたのだ。


「先に帰ります」


「……えっ?」


 短くそう伝えると、私は美術館の目の前のバス停まで走った。ちょうどよくバスが到着していて、すぐさま乗車口の手すりをつかんで乗り込む。次のバスは、四十五分先までないはずだ。


 酔いが覚めた今となってはオレンジの皮の苦味だけが残る口に、私はのど飴を放り込んだ。



 ◇◇



 美月さんは、私が帰ってから一時間後くらいに戻って来たようだ。お母さんが何か叫んでいたけど、私はベッドで布団をかぶって、夕食の時間までずっとうずくまっていた。


 夕食の時にも、お母さんから小言を浴びせられた。何で先に帰って来ちゃったの、なんて言われても答えられない。どんな答えだって怒るくせに、いちいち尋ねる神経がわからない。


「ごちそうさま」


 夕食はほとんど食べられなかった。胃がきゅっと縮んでしまったようだ。痛くはないけど、何も受け付けない。


 席を立った時に美月さんをちらりと見たら、心配そうに眉尻を下げていた。秘密を暴露した人がする表情じゃないよね、なんて嫌味な物言いを、心の中だけでしておく。


 部屋に戻って和色辞典を眺めていると、心が落ち着いてくる。少しずつグラデーションで変わっていく日の出や日の入りの空のように、色がうまく並んでいるからかもしれない。ここはお母さんの声が聞こえないから、その静けさも手伝っていると思う。


 私がベッドの上で寝転びながら和色辞典に見入っていると、コンコンとドアがノックされた。


「海凪ちゃん、入ってもいい?」


「……どうぞ」


 自分の口から出てきた存外に低い声に驚きながら、入って来る美月さんを見上げる。


「今日、ごめんね。びっくりしたよね」


「何がですか?」


「あの人、同じ大学だったの。彼は西洋美術専攻、私はピアノ専攻で」


「……ふぅん」


 あの人のことなんかどうでもいい。学歴がどうだろうが、痩せていようが太っていようが、感じが良かろうが悪かろうが。


「……ごめんね」


「何で謝るんですか?」


「急に知らない人に会って、びっくり……」


「そんなの関係ないです」


 「え?」と、美月さんは驚いた顔になった。目を見開くと、大きな目がよけいに大きく見える。こんな顔もかわいいなんて。


「……何で、言っちゃったんですか」


「何を……?」


「秘密、……二人だけのじゃ、なくなっ……」


 言いながら、涙がどんどんあふれてきた。二人だけの秘密ではなくなったと、自分の口から言葉にするのがとても悔しくて悲しい。


「そうか、ごめんね、そうだよね。私が言い出したのに……」


 美月さんが私の背中にまたそっと手を添えた。ベッドの上の掛け布団には、涙のしみがいくつもできている。


「……本当に、ごめんなさい。私が悪かったわ。お詫びに何か好きな曲を弾くから、許してくれないかな……?」


「……い、ま? うちの、ピアノ、で?」


「うん」


「……ショパン、の、かくめ、いの……」


「うん、わかった。ピアノの部屋に行こう」


 ティッシュの箱を抱えて、美月さんと一緒に部屋を出る。お母さんはまだリビングにいるみたいだから、邪魔はされないだろう。


「もしかしたら、海凪ちゃんはもやもやするかもしれないけど」


 そう前置きして、美月さんはショパンの革命のエチュードを弾き始めた。


 美月さんの演奏はとても上手で、心を打つものだった。さすがコンクールで優勝しただけある。


 でも、前置きの通り、聞いているうちにもやもやしてきた。音楽の授業で聞いた革命のエチュードとは違った色が見えたのだ。あの鮮やかで美麗な黄蘗きはだ色や瑠璃るり色はくすんでしまい、美しい調和を見せてはくれなかった。


「どう? もやもやしなかった?」


 演奏を終えると、美月さんは床に座る私の前で、同じように床に座って尋ねた。


「……しました」


「原因はね、調律が必要なピアノだからだと思う。ちょっと音階が狂ってるのよ」


 「でも、私は」と、美月さんが続ける。私の涙はもう止まっている。まだ頬が濡れている感覚が少しあるけど。


「音階が狂っていても、それはピアノの個性だと思ってるの。他の奏者は嫌がるし、正式なコンサートなんかだと調律は必要なんだけど」


「……ピアノの、個性……」


「人も同じ。他の人と違うところがあったって、それはその人の個性だから」


「う、ん……」


「恋バナができなくてもいいの。色が見えるのは、素敵なことよ」


「……うんっ……」


「ね、海凪ちゃん。二人だけの秘密、また作らない? 今度は絶対に誰にも言わないから、秘密の約束」


 また泣き出してしまった私の耳のそばで、美月さんは小声で言った。誰にも聞かれたりしないのに。


「あのね……」

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