紅灯籠
六畳庵
紅灯籠
そろそろ日付が変わる頃だったと思う。仕事の接待でまぁ飲まされた後、二軒目をどうにか断って一人で有馬川沿いを下っていたところ、柳の下から声をかけられた。
「……チョイと。チョイと、そこの人。えェそうあんた、あんただよ。この世の全てが退屈みてェな顔して、ずいぶん暇そうじゃないか。……そんな怪訝な顔をしなさんな、なにも怪しいモンじゃねェ。見ての通り噺家さ。な? 地面に手ずから御座敷いてよう、せんべい座布団の上に正座。どっからどうみても噺家だろ。エ、せんべい布団とは言うがせんべい座布団とは言わない? 難儀なことを言いなさんな。
なァ、お前さん、一つ噺を聞いていかないか。イヤ、なに、金を取ろうってんじゃない。あんたみたいな奴のためにあたしみたいなモンがいるのさ。こんなとこでわざわざ呼び止めてんだ、つまらない噺はしないよ。それともサッサと家に帰ってやることがあるのかい? …そうこなくっちゃ。さァ座りな。
暑そうだねェ、まったく近頃は夜になってもちっとも涼しくならない。こういうときこそ怪談噺さ。エ? 怖い話はやめとくれ? わかったよ、怪談噺に見せかけた人情噺にしてやろう。イヤ、逆かもしれねェけどな。
湯女ってわかるかい。……あァそうさ、温泉で客をもてなした女たちのこと。ここァ温泉街だろう? はるか昔、お偉いさんが来ると唄や舞をやって喜ばせたのさ。彼女たちは皆美人だったが、中でもきいという子が人気だった。あまりにも軽々と楽しそうに踊るもんだから、きいが舞うと天女も霞む、と言われたものさ。さて、そのきいには想い人がいた。湯屋の一人息子の松彦だよ。密かに二人は愛し合っていた。
けれどある日、湯屋のおかみさんがそれに気づいちまうのさ。松彦に良い家との縁談を組ませたかったおかみさんは、湯屋の上客だった有馬庄次郎を利用することにした。きいに惚れてた庄次郎は、おかみさんからきいをもらい受けないかという話を聞くとすぐに大金を用意した。これでおかみさんは、松彦ときいを別れさせられるし大金が手に入るし大儲けだ。
困ったのはきいだよ。
「おかみさん、私は舞がしとうございます」
「だから有馬様のところで好きなだけ踊ればいいでしょう。何を渋ることがあるの。きっとあの人の元なら今より贅沢をつくして暮らせるよ」
「でも……これではまるで、身請けではないですか」
「つべこべ言うのはおよし」
まさか松彦との間がばれたのかと思ったが到底口には出せない。困り果てたまま、いつものように人目を忍んで有馬川の橋の下へ赴くと、これまたいつものように松彦が待っている。
「ごめんねぇ松さん、遅くなって」
「いや大丈夫だよ、それよりきいさん、なんだか顔色が悪くねえかい」
どうせわかることだろうからと、きいは洗いざらい話した。口を引き結んで聞いていた松彦は、頭を掻いてそうかぁと唸った。松彦とてきいと別れるのは辛い。しばらくそうしていたが、ふと頭をきいの肩口へ乗せた。
「逃げちまおうか」
「え?」
掠れた声を、かろうじてきいの耳は聞き取った。生ぬるい風が吹いて、点々と川原に置かれた提灯の光が、水面に揺れている。水底の都を、信じたくなる有様だった。
「……私は、」
細く息を吸って、きいは声を絞り出した。
「舞がしたい」
きいが俯くと、絹糸のような髪が一筋垂れ落ちる。じゃあ、と松彦はきいの目を見る。
「正面から行くか」
実の息子であってもおかみさんを説得するのは難しい。松彦はまず父である湯屋の主を味方にすることにした。すると意外にも湯屋の主、涙もろくてすぐ絆された。
「そうかぁそうかぁ、若ぇモンの恋路を邪魔しちゃあ悪いよなぁ、エ、相手が湯女なのがなんだい、好きになっちまったモンはしゃあねぇだろ」
湯屋の主にそう言われちゃあおかみさんも強くは出られない。結局庄次郎との話はなくなって、「きいがここのおかみになるんだったら勝手もわかってるしやりやすい」ってんで、きいは晴れて松彦と
いっしょになれることになった。
さて、一方身勝手に話を取り上げられた庄次郎、腹の虫がおさまらない。きいに会いに行くと、人気のないところで囁いた。
「有馬川のほとりで、松彦がお前を待ってるとよ」
きいが向かったのはいつもの橋の下だった。月の光からも隠れられるその場所は、かつてはきいと松彦に、今は庄次郎にとって最高の場さ。庄次郎は、隠し持っていた小刀を後ろからきいに突き刺した。
明け方、下流できいの死体が見つかった。その日の内にお役人が庄次郎を連れて行った。人々は驚き悲しんださ。特に松彦はね。きいにもう一度会いたくて会いたくて仕方がなかった。夜になるとその気持ちは強まって、もういっそ川に飛び込んでしまおうかとふらふら外に出た。ちょうど川へ降りる階段の近くに柳の木があってね、そこから聞き慣れた声がする。
「松さん、松さん」
見てみればなんということか、きいの姿があるじゃないか。
「きいさん、きいさんかい。……きいさんだ、やっぱりきいさんだ」
慌てて寄ってみれば、愛しい人は穏やかな笑みを浮かべている。けれど肌は青白い。手に触れようとすれば嫌がって避ける。
「ごめんねぇ松さん」
「ごめんじゃないよ……」
幽霊なんだということは簡単にわかった。わかったが、それでもよかった。二人は夜通し喋り倒したさ。空が白んできた頃、きいの体が透け始めた。
「あぁきいさん、体が……」
「松さん、どうか明日もここに来て。私は毎晩ここにいるから」
それだけ残してきいは消えてしまった。松彦はしばらく呆然としていたが、やがて湯屋へ戻った。
それから松彦は、夜な夜な川へ赴いてはきいと会った。そうして一週間が経った。
「きいさん、今日は内緒で太鼓を持ってきたんだ。君は舞うのが好きだろう。俺も見たいし、久しぶりに舞ってみせてくれないか?」
「私、あなたと話すだけで十分だわ」
松彦がそれでもせがむと、きいは笑って、ちらりと着物の裾を持ち上げる。そこには何もない。
「ごめんねぇ、ほら、今私、足が無いから踊れないのよ」
さて、これで噺は終いだよ。どうだい、楽しかったかい? エ、なに、女の噺家なんて珍しい? お前さんそんなことを思いながら噺を聞いてたのかい。まァそうかもしれないね、でも良かったろう? おやまァおひねりをくれるのかい、ありがてェ。
さて、今日はそろそろ店じまいか、ヨイショ……。やれやれずっと座っていたから立つのも一苦労だね……あァしまった。お前さん見ちまったかい? へへ、どうぞ内緒にしてくんな。それじゃァね」
ぬるい風に、柳が揺れた。
「どうだい涼しくなったろう!」
そんな声だけが、どこからか聞こえた。
……なかった。
紅灯籠 六畳庵 @rokujourokujo
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