シャッターチャンス
詩人
The chance
涼しい部屋から重たい腰を上げ、私は夏に出る。
玄関のドアを開けた瞬間、堪えようもない熱気が押し寄せて、蝉のうるさい鳴き声。日光を反射した横断歩道の白が私の目を突く。外の世界に出たことを後悔するぐらい暑い。
しかし私には使命がある。このテンプレートのような夏の日に成し遂げなければならないことがある。
「
「おはよう、
家の前に立っている美少女は、お手本のように麦わら帽子をかぶっていた。そしてお手本のような白いワンピース。私が撮りたい絵に合わせてくれたのだろう、本当に美しくて可愛くて似合っている。
盗みがいがあるな──うっかりそんなことを思った。
私は背中に高級なカメラを携えている。数ヶ月分のお小遣いを一斉に使ったとしても買えないような金額の代物だ。そんなものを高校生の私が持っているのは、親父から譲り受けたためである。親父の撮る写真に憧れてカメラを始め、写真部に入ったはいいが夏休みの「写真甲子園」に出す課題に苦戦していた。
初戦のエントリー課題は「テーマ問わず、自由な発想で」という、簡単なようで実は最高に難しいお題だ。入り口を大きめに設定する意図があるのだろうが、テーマがなければ審査基準も分からない。やるからには、というかプロカメラマンの娘としてのプライドで絶対に優勝したいと思っているからこそ、このお題には頭を悩まされた。
そんな時に出会ってしまった。この天使のように儚い少女に。
希美は同級生だがクラスも部活も出身中学も違うため、ほぼ面識がなかった。新しく入学して、本来であればこのまま三年間巡り合わなくても不思議なことではない。しかし、私の判断は
ある日の放課後、写真部の活動が早めに終わったので一人で帰路につこうとしていた。グラウンドや体育館の方からは野蛮な少年少女たちの声が聞こえた。文化部だからああいうむさ苦しいのは苦手なんだよな、なんてふと考えていると一人の少女が体育館から出てきてすぐ傍にある蛇口を
汗が
思わず私は声をかけた。
──私の被写体になってくれませんか?
今思えば、なぜ希美が受け入れてくれたのか疑問だ。私が変質者であるという事実を既知であろうが未知であろうが、初対面の人間に「被写体になってくれ」だなんて言われたら普通の人は断るだろう。なのに希美は笑顔で快諾してくれた。自分に自信があるような性格には見えないが、人は見た目が全てじゃないということなのか。そんなこと言われてしまったら元も子もないのだが。
「どうしたの、急に改まって。他人行儀すぎない?」
「いや、暑いのになって思っただけだよ」
「そんなことで裏切ったりしないよ。私と美青ちゃんの仲じゃない」
希美は言いながら歩き出した。後ろに組んだ手を追いかけるように、私も希美に続く。
そんなものだろうか。希美はそう言ったが、まだ彼女と知り合って二週間も経っていない。もちろん私も希美と仲良くなりたいと思っているが、そこまで友達らしいこともしていない。学校では会う機会がほとんどないから話さないし、たまに夜中に通話をするくらい。バスケ部に所属していることと、誕生日程度しか知らない。それでも「私と美青ちゃんの仲じゃない」と言えてしまう希美が羨ましい。
私と希美を引き合わせたのは、私の突飛な発言だ。しかし、それ以来ずっと私は消極的だ。海で写真を撮ろうと計画しただけで、あとはやけに乗り気な希美に乗せられている。現に今だって先導しているのは希美の方だし、私は後ろから付いて行っているだけだ。
冷めているわけではないと思う。写真甲子園に対する熱も、希美を美しいと思った私の情動も。でも多分、希美の熱が上回ったのだろう。四十度のお風呂に沸騰したお湯を注がれ続けている気分。これではマイナスイメージすぎるか。しかも夏なのに熱を持った妄想をするのは得策ではない。考えただけでも汗が滲んでくる。
今向かっているのは駅だ。ここから一番近い立ち入り許可のある海岸へは電車を使う。たまたま路線が私の最寄り駅からだと便利だったので、希美にはこっちまで来てもらった。
トコトコと希美は可愛い歩幅で歩く。バスケをしているのなら不利なんじゃないかと思うけど、そういうところも可愛い。目に見える荷物は右手のカルピスだけ。ポケットにスマホとか定期券とか入れているのだろうが、ともかく今日の私の荷物よりは軽いことは明白だ。
そのせいか、希美は汗一つかいていない。私が初めて希美に話しかけた日のような艶めかしさはないものの、清潔感のある透き通った印象が白のワンピースによって強調される。希美にはいくつもの顔があるのだろう。私に見せえているのはほんの一部。希美に限らず、人間なら誰だってそうだ。
希美の歩幅と私の歩幅。チグハグなはずなのに、時々公倍数かのように揃う。足音が重なって一つになると、いけないことをしているような気持ちになって、わざとずらす。
多分、それに気づいているのは後ろから希美を見ている私だけだ。希美は私の方を振り返るでもなく、話す時でさえも前を向きながら発話する。駅に辿り着くまではせいぜい十分程度しかないのに、今までに使ったことのない神経を研ぎ澄ませていたことでやけに長く感じられた。歩いているだけで疲れた。それは夏のせいじゃない。
駅は田舎にありがちな二番までしかホームのない、つまり上り線と下り線だけで構成された古い駅である。一時間に一本来るか来ないかくらいの不便な駅なので、普段はめったに利用することはない。ましてこの路線で海なんて行ったことがないので、完全に未知の世界だ。
「希美はこの駅ってよく使うの?」
電車が来るまであと五分。思い切って私の方から話を振ってみた。希美はカルピスを最後まで飲み干そうとしていたところで、返事はしばらく帰ってこない。飲み終わって、希美は返事をしないまま空のペットボトルを駅に設置されている朽ちたゴミ箱に捨てに行ってしまった。
会話が噛みあわない。私が悪いとか希美が悪いとかそういう話ではなく、単純に波長が合わないんだろうなと思う。希美と話していると変に緊張してしまうし、適切な言葉を選んでいる時間も長い。お母さんや妹と話す時はそんな遠慮しなくていいし、無意識に会話が成立している。
冷房の効いた待合室の中に座る。希美がゴミ捨てから遅れて帰ってきて私の隣に座る。こういう時にも、私は窮屈さを感じてしまう。
「部活の遠征の時に使ったことあるけど、実は私の最寄り駅の路線の方が頻度高めで」
私は軽く頷き「そっか」と呟いた。それだけ。逃げるようにリュックに入れていた水筒のお茶を飲む。氷を大量に入れてきたので味は薄くなっているが、冷たくて気持ち良かった。しかしそれも束の間、頭がキィンとして右目だけに涙が浮かぶ。
それを希美に見られて面倒なことになることは避けたくて、必死にそっぽを向いて我慢した。そうしているうちに、電車がプラットフォームに入ってきた。結局会話という会話もないまま、電車に乗り込んでしまった。
不確かな私たちの関係に名前を付けるならなんだろう。私がカメラマンで、希美がモデル。ただそれだけの無機質な関係なのだろうか。希美には口が裂けても言えないけど、「友達」とは言い難いのではないかと思う。
「私ってさ、
誰も座っていない四人掛けシートに進行方向を向いて並んで座る。そんな開口一番がそれだった。希美は本当に自分がモデルで良かったのか不安に思っているのだろうか。そんな感じは一切読み取れなかったけれど、もしかすると気まずい雰囲気になったから本音を明かし始めているのかもしれない。
「なんでそう思う?」
「春休みに花見スポットを散歩してる時にも言われたんだ。『君を描いてもいいか』って」
「え」
「多分私たちと同年代だと思う。その人はスケッチブックを持って桜を描いてた。だけど、私を見るなりそう言ってくれたんだ。そんなに私って、映えるのかな」
ああ、そういうこと。不安がっているのではなく、逆に自信があるのだろう。その春の出来事があったから、私の申し出も断らずに快諾してくれたのか。
なんか、少しだけ心が
「美青ちゃんのそんな表情、初めて見た。怒ってる?」
希美が私の顔を覗き込んで言った。ニヤッとした
「ちゃんと目を見て言って」
電車が次の駅に到着する。軋んだ音を立てながらドアが開くが、誰も乗って来ない。目的地の駅までは六駅で約四十分かかるが、その間乗客は私たちだけかもしれない。こんな恥ずかしい状況、誰にも見られたくなかった。
「わ、分かんない……。モヤモヤするけど、なんで自分が苛立ってるのか説明できない。私は希美の何でもないはずなのに」
ドアが閉まって電車が加速する。私は言い訳をするように自分の本音を吐露した。せっかくの夏休みの計画が序盤から崩れることを予感した。私たちの関係が崩壊することも。
すると希美はふっと吹き出して笑った。冗談ではなく、腹を抱えて爆笑する。私は訳も分からず、ただ自分の言ったことを
「美青ちゃんって面白いね。それって嫉妬しちゃったってことじゃない? 心配しなくても、その子は女子だったよ。いや──そういうことじゃないか。芸術家として、悔しくなったのかな」
「分かんない。……じゃあなんで希美は私の誘いに乗ってくれたの?」
「興味が湧いた。それが美青ちゃんじゃない人だったとしても、乗ってたかも。友達って最初っから友達じゃないと思うんだよね。一期一会だと信じてる。美青ちゃんのことを知りたいってずっと思ってる。もちろん、美青ちゃんと私の間に不思議な空間があることは知ってるんだけど、それでもその空間を埋めたいって思ってる。それが今日の撮影で変わればいいな」
全部、希美は私の目を真っ直ぐ見て言った。瞬きすらもするのがおこがましくて、息が詰まりそうだった。しかし、ようやく希美の本音を聞けた。私と同じことを考えていたのか。希美も希美で、私たちの不確かな関係を気にしていたんだな。「私だけが」と塞ぎ込んでしまったのはお門違いだったようだ。
「だから、今日の私を盗んでみて」
「分かった。任せて」
海の駅に着く。改札を出た瞬間から、そこは海だった。
希美が「すごーい!」と言いながら駆け出した。私はその場にリュックを下ろして一眼レフを取り出した。
麦わら帽子が風にさらわれる。それをジャンプして掴み悲劇は免れる。
その一瞬の風景を、人物を、世界の全てを私はこのカメラで盗んでやった。
「どう?」
「最高に可愛いよ。お世辞じゃなく、本当に」
それなら良い、と彼女は叫んだ。
写真を見返しても、希美の笑い声も
不器用な関係も、
シャッターチャンス 詩人 @oro37
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