第2話 異変

 その発表は、あまりにも唐突だった。


 地球環境や気候変動などを専門にしているという、アメリカのトレイシー研究所が、『人類全体にとっての極めて重大な問題』として緊急会見を開いたのだ。


 会見の模様は日本を含めたアメリカと親しい国々でもテレビ中継されたから、俺もよく覚えている。


 研究所代表の肩書を持つ初老の男性、トレイシー博士が説明を始める。それによれば、過去数週間にわたるデータ分析の結果、地球の自転速度が急激に低下しているという。


 最初の異変は、二秒弱程度の遅れであったらしい。計測機器の誤作動か故障だと思い、動作チェックを複数回にわたって行なったが、動作異常が認められなかった。

 おかしいと直感し、継続的に測定を続けた結果、自転速度の低下が明らかとなったのだ。


 速度低下はじょじょに拡大しており、会見前日までの観測記録では、通算で五分三十九秒だという。つまり、昨日の一日の長さは二十四時間五分三十九秒だったということだ。


 原因は現段階では不明。今後についても、一時的な現象なのか、永久的に自転が停止するのか等は現状では判断不可能だという。


 トレイシー博士は、『人類の生存に関わる重大問題に発展する可能性がある』と警告し、原因究明と対策のため、すみやかに全世界規模の研究組織を起ち上げるべきだと提言して会見を締めくくった。


 騒然となる会場を映し出しながら、テレビ中継が終わる。

 すると今度は、一時間後にアメリカ大統領が全世界に向けて緊急演説をおこなう、というニュースが流れた。こちらもテレビ中継される。


 大統領は、研究所の発表が事実であることをアメリカ政府も正式に確認したと認めた。そして、この問題に関する国際研究機関をただちに設立するので、各国はぜひ協力してほしいと要請する。最後に人々に向けて、冷静に行動し、全世界が団結してこの難局を乗り越えよう、と呼びかけた。


 大統領演説に引き続き、わが国の内閣総理大臣が日本国民に向けてメッセージを発表した。アメリカ大統領が提案した国際研究機関に全面協力するとし、国民には冷静な行動を呼びかけたが、アメリカ大統領の直後では、やっぱり印象が薄い気がしてしまった。なにしろコメント内容がほぼ同じだから、どうしてもそうなってしまう。


 のちに世界のありようを大きく変える端緒になった、この一連の報道を、俺と美由紀はテレビの前のソファで二人並んで聞いていたのである。数時間、まさに固唾かたずをのんでいた。


 美由紀がぽつりと言った。


「ねえ、謙ちゃん(俺の名は謙介けんすけという)。これ、現実だよね?」

「ああ。信じられないけど」

「これから、どうなっちゃうんだろう」


 美由紀が、俺の手を握った。美由紀の顔は不安に青ざめている。俺は彼女の手を、そっと握り返した。




 その夜、俺はネット検索してみた。

 「地球」「自転」「止まる」などのワードで検索すると、思った以上に事態は深刻そうだとわかった。


 地球の自転速度は恐ろしく速いらしい。

 それが急に止まると、慣性の法則が働いて、地球上の物体は時速千七百キロのスピードで吹き飛ばされる。自動車で急ブレーキをかけたときに、体が前方へ投げ出されそうになるのと同じ理屈だ。


 さらに地磁気が発生しなくなるため、人体に有害な宇宙からの放射線をまともに浴びることになるとも書いてあった。地獄絵図となることは避けられないらしい。


 ただ今のところ、人間も物も吹き飛ばされてはいない。

 推測だが、急ブレーキではなく、五分程度のゆっくり減速だからかもしれない。どこまでセーフでどこからはアウトだとか、そこまではわからなかった。


 いずれにせよ、やるべきことは見えた気がした。

 俺には、地球をどうこうすることはできない。俺がやるべきことは、美由紀と彩奈、家族を守ること、これしかないのだ。


 俺はそんな覚悟を決めて、眠りについたのだった。






 翌日から、事態はめまぐるしく動いた。


 アメリカは翌日さっそく、ワシントンD.C.に『自転遅延問題研究所』を設立した。トップはあのトレイシー博士である。


 その日のうちに、各国から物理学者、天文学者、地質学者など、幅広い学者が参加要請をされた。日本からも、研究者が何人も参加することになった。


 緊急といいながら、じつに手際がいい。実際には、入念に打ち合わせがされていたのだろう。


 後日、まことしやかな噂が流れた。実はアメリカはもっと前から兆候をつかんでいて、自国のみ準備をして、有利な立場になれるタイミングで公表した。だからあんなに手回しがよかったのだ、と。


 もちろん真偽はわからない。だがともかくこうして、自転遅延問題はアメリカ主導で対策が図られることになった。


 世界中のスーパーコンピュータや最新のAIなど、最高峰の研究リソースは、この問題のための利用を最優先するよう、申し合わせがなされた。






 国連も『地球自転の遅延に関する特別委員会』を設置した。


 この委員会が出した『標準時に関する暫定勧告』は、思い切ったものだった。


 これは一日の長さが二十五時間を超えたときに出された勧告である。すなわち、宗教的行事などの特殊な場合を除き、一日を二十四時間と定め、各国の国ごとの標準時を一時停止して国際原子時(TAI)に統一するというものだ。


 これにより、昼夜の別と時刻が切り離された。たとえば正午が夕焼け空だったり、午後八時に朝日が昇ったりする。当然、出社時間が夜中などということもある。


 ものすごく荒っぽい方法ではある。

 だが一日の時間が毎日伸び続けているなかで同じ日常を繰り返そうとすれば、時刻に関してなんらかの明確な基準が必要なのだ。仕事も、学校も、さまざまな予定も、時刻をもとに決められているのだから。


 そんなわけで、俺たちはやむなく真夜中出勤も受け入れざるを得なかったのである。「一日」と「自転周期」という言葉を意識的に使い分けるようになったのも、ちょうどこの頃からだった。

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