クレープと天使の羽根

佐熊カズサ

甘くて、ふわふわ

 室内にいる限り日向は暖かい昼過ぎ。ソファでくつろぎながらモバイルを眺めていると、キッチン兼作業場から宮村シュンが気が触れた狼みたいな唸り声を上げながら出てきた。出てきたといってもワンルームであるためあちらとこちらを仕切るドアはなく、つまりは作業台から離れて、私のいるメインルームに入ってきたのである。


 いらいらした様子で、パタパタとスリッパがフローリングに打ち付けられる。毛羽立った気配に思わず液晶から顔を上げ、シュンをちらと見る。寝癖の混じったビターチョコレートの癖毛を肩甲骨の上で揺らし、シュンはぼすん、と勢いを殺さずにソファに全体重を投げ出した。振動が伝わって尻の下がわずかに弾んだ。


「……何、どうかした?」


「…………」シュンは立てかけてあったクッションを抱きしめ、鋭い灰色の目で虚空を睨んでいる。おかげで空気が萎縮している。


「あー……新しく作るっていってた香水は?」


 調香はシュンの趣味のひとつである。……いや、ひとつだったというべきか。半年ほど前からSNSで依頼を募集し、もらったイメージを元に作成した香水を依頼主の元へ届けている。調香はもはや趣味ではなく仕事になっていた。


「………………………………だめだ、もう一度考え直しだ」シュンは膝を立ててクッションをさらに強く抱きしめ、口元を埋めながらいった。「あの匂いは甘すぎた。依頼には『太陽の届かないほど深い森での運命的な出会い』とあった。なら甘い匂いは間違いだ。もっと……草や土のような匂いが……花を減らすか……」


 もごもご。声はクッションに吸収されて聞き取れなくなっていった。


 灰色の目がぼんやりと現実には無い何かを眺めはじめているようだ。これは彼女にとって良くない兆候だ。さすがに1年近く一緒にいるとわかってくるものだ。


「よし」私はソファから立ち上がり、丸く小さくなっているシュンを見下ろした。「いい時間だし、一緒にカフェにでも行こうか」


「どうして、別に私は空腹じゃない」


「気分転換だよ。君、随分と煮詰まっているようだし。それに、最近ちょっと気になっている喫茶店があってね」


 私はモバイルを操作して、あるSNSの投稿を表示させる。シュンの前に差し出すと、彼女はクッションから顔を出して液晶を見つめた。


 しばらく眉根を寄せていたかと思うと、液晶から顔を上げて私に小首を傾げて見せた。


「ごく平均的で一般的なクレープに見える。コハルがわざわざ気になっている理由がわからん」


 シュンは液晶に指を伸ばした。何をしているのかと上から覗くと、その投稿につけられたハッシュタグをタップして画面遷移させ、他の投稿も見ているようだ。


「ブリッジコーヒー……近所だな……」シュンは思考がこぼれ落ちたような声でつぶやいた。


 どれだけスクロールしても同じようなクレープの画像が続いている。


 何が起きているのかわからない。口に出しこそしなかったが、シュンはありありと顔にその言葉を浮かべた。彼女は存外わかりやすい。


「幸運を呼ぶクレープだよ」私はいった。


「幸運を呼ぶクレープ?」シュンは鼻で笑い飛ばした。「ばかばかしい。君は本当に幸運や神様や運命なんて不確かなものを信じているのか?」


「それは、心の底から信じてはいないけど……でも信じていられる方が人生は豊かだよ。君は信じてないの、シュン?」


 シュンが口を開きかけたと同時、階下からブザーが鳴り、軽快に階段を駆け上がる音が聞こえたかと思うとA号室のドアがノックされた。


 開けると、満面の笑みを浮かべた藤堂ココロがいかにも幸せそうなオーラを振りまいている。


「やあやあ、どうも」ココロはにこにこ笑いながら、右手を顔の横でひらひらと振った。


 ただの挨拶すらも普段よりスタッカート気味に聞こえる。ミルクティーの髪がわだかまるタータンチェックのマフラーに少し隠れた頬が赤いのは、外の寒さのせいだけではないのだろう。


「すごく機嫌よさそうだね、何かあった?」


「その話もしたいんだけど、実はちょっと相談したいことがあってね。上がってもいい?」


 バスルームとキッチンに挟まれた短い廊下を通ってメインルームにココロを誘導する。私はソファに腰掛け、彼女を向かいのベッドに座らせた。座るには柔らかすぎるベッドに少し落ち着かないようだったが、いつの間にやらまた丸くなっているシュンの隣よりは随分と居心地がマシなはずだ。


「じゃあまずはひとつ目、私の機嫌がいい理由から」ココロはいった。「実はめっちゃレアなものをゲットしたの!」


 手に下げていた紙袋から、銀色のふたで閉じられた小さい透明な瓶を取り出した。その中にはコーヒー豆がいっぱいに詰まっている。


「コーヒー豆?」シュンが尋ねた。意外なことに、その声は少しもくぐもってはいなかった。


 匂いに反応したのか、シュンはソファから飛び出して鼻を瓶に近づけた。


「……ゲイシャか?」


「当たり!」


「この辺りにその豆を取り扱っている店はないはず。どこで買った?」


「買ったんじゃなくて、もらったの」


 ココロはここに辿り着くまでに起こった、奇妙で素敵なできごとの経緯を話す。噂のクレープを食べた帰り道、困っている人を助けたらもらったのだという。


「やっぱりあそこのクレープはすごいんだね。本当に幸運が舞い込んだよ」


 大切そうに瓶に頬ずりしながらココロはうっとりと微笑んだ。


「クレープは関係なく、ココロが良いことをしたから良いことが起きたのかも」


「幸運の原因をクレープに求めようが善行に求めようが変わらないだろう。どちらもコーヒー豆との因果関係が見られない。で、そんな素晴らしいお土産がありながら君をまっすぐに帰らせなかったその理由は? テキストで済ませなかったのだから、急ぎ、あるいは事態は深刻なのだろう。そのコーヒー1杯と引き換えに私の時間をやろう」


* * *


 ガガガガッとけたたましい音を立てて、コーヒーメーカーが豆を粉砕する。


 座っている私より立っている君が淹れるべきだ、とのシュンの最もらしい主張により、ココロから受け取った豆で3人分のコーヒーを用意するべくキッチンでコーヒーメーカーと睨み合っているのだ。


 ボコボコと火傷しそうな音を立てて、抽出されたコーヒーがマグカップの上に落ちていく。ゲイシャは、普段飲んでいるコーヒーよりも果物のような甘い香りがした。


 抽出が終わるのを見届け、フィルターを取り外して洗浄して再びコーヒーメーカーにセットした。それから豆と水を入れ直し、新しいマグカップを抽出口の下に置いた。


 3個のマグカップにコーヒーを淹れ、それらを手にメインルームに入り、盛り上がりにかける談笑をしている2人に手渡した。


 最近はシュンを訪ねてくる調香の依頼人もふえてきたことだから、いい加減にメインルームに応接間としての機能を持たせるためにローテーブルをプレゼントしたほうが良いのかもしれない。どうせシュンは自分では、自分に必要なもの以外は買わない。


「それで」シュンは空中で渦を巻く湯気を吹き飛ばしながらいった。「コーヒー豆ではない方の理由は何だ? 何の必要があってここへ寄ったんだ?」


 ココロは口に含んでいたコーヒーを飲み込むと、ぱっと顔を上げて少し挑戦的に口角をあげていった。


「単刀直入にいうと、君たちに『幸運を呼ぶクレープ』についての調査を手伝ってもらいたいの」


「調査? 確かにおもしろそうだけど、何のためにそんなことを?」私は尋ねた。


「来月の学内展示会に文芸部も参加しなくちゃならないんだけど、そこで提出する小説のネタにしようと考えてて」


「そういうことなら私たちに頼まなくても、文芸部に他の部員がいるだろう」シュンはいった。「むしろ、その方が勝手も理解しているだろうし調査がスムーズだ」


「そういうわけにはいかないの」ココロはいった。「今回どんな作品を提出するかは部員同士の間でも秘密にして、サンプルが手元に届いたときに初めて読み合おうってことになってるの」


「なら、私たちもその取材を手伝うべきではないな。コハルはしないかもしれないが、私がおもしろがって他の部員にリークするかもしれない」


「シュンはそんなことしないね」


「どうしていい切れる?」


「君はそういう人だから」


 にこりと純粋な笑みを浮かべるココロとは対照的に、シュンはなぜか呆れたようにため息をついてマグカップに口をつけた。それから強く主張したいときの彼女の癖で、少し前屈みになり手近なもの――今回ならマグカップ――を人差し指でコツコツと叩いた。実をいうと、シュンのこのあまり行儀がいいとはいえない癖が、兵士が銃に弾を装填しているようで好きなのだ。


「はっきりいって、調査などするだけ無駄だろう。さっきもいったがクレープとコーヒー豆に因果関係はみられない。いや、時間をかけて調査すれば何か見つかるのかもしれないが……。展示会というゴールがあるのだ。真相解明はリミットに間に合わない。時間を無駄にする前に他のテーマを探す方が賢明だと、私は思うね」


「せめてコーヒー1杯分の働きくらいはすべきなんじゃないかな?」


「……コハルがそこまでいうなら断らないが、ただし、つまらない結末しかないと判断した時点で私は降りるつもりだ」


「大丈夫! きっとシュンも気に入ってくれるようなおもしろいことが待ってるはずだから」


* * *


 例のクレープを提供している喫茶店ブリッジコーヒーは、私の暮らす学生アパートから歩いて8分程度のところにある。


 駅からもアカデミーからも近い特権的な立地、飾り気のない木や黒い鉄骨が目立つニュー・ブローク風のしゃれた店内や週に1度程度ならアルバイト代を圧迫しない手頃な価格帯から、近隣の学生からの人気が高い喫茶店である。


 店内に入ると、座席のほとんどはすでに埋まっていた。見回すと、入り口から離れた隅の方に空席を見つけた。私たちは役割を分担し、シュンとココロに席をキープしてもらい、私は注文をしにカウンターに向かった。


 すでに2、3人並んでいる列の最後尾につける。並んでいると、シュンからテキストを受信した。アプリを起動して内容を確認する。


『注文指示』


 その下には箇条書きでスイーツとドリンクが打ち込まれていた。なぜか私の分まで彼女に決められていた。私の自由意志は尊重されないらしい。


 シュンの提案により、シュンとココロ、私はそれぞれパンケーキとオペラ、クレープを注文した。


「まずは原因がクレープにあるのか、あるいは他のものにあるのかを調べる。クレープを食べた時にだけ幸運が訪れれば原因はクレープ。それ以外の商品でも起こりうるなら、原因は提供される商品すべてか、作り手かこの店そのものか……とにかくクレープではないどこかに原因があるはずだ」


「こんなにお店が近いのに、まだ食べたことないだなんて驚きだよ」


 その日、私に幸運が舞い込んだ。


* * *


「どうやら原因はクレープにあるようだ」


 私たちは再びブリッジコーヒーを訪れた。今回は空いている時間帯を狙った。店主代理に話を聞くためだ。


 話を聞くと、クレープのレシピは、最近雇ったばかりの住み込みアルバイトが見つけた至ってシンプルなレシピであり、クレープの仕込みは彼女に一任されている、ということがわかった。


 彼女を呼び出しレシピを聞いたが、門外不出で話せないと申し訳なさそうに断られた。食い下がって使われている材料を聞くと、どうにか教えてくれた。しかし、そこに何か特別な材料が入っている様子はなく、仕入れ先も近所のマーケットで、ごく一般的でシンプルな材料だった。


「……となると、考え得る原因はあのアルバイトの彼女自身であるわけだが」


「彼女自身って……君、まさか彼女がクレープに細工してお客さんに運が向くようにしているとでもいいたいの?」


「まだ仮設段階ではあるが、今はそう考えるのが最も妥当だと思うが」


「運を操るような細工なんて、彼女は魔女かなにかなの?」自分で言っておきながらあまりに非現実的な言葉に思わず笑ってしまった。


「幸運が魔術によるものかどうかまではまだわからないが、現時点ではその確率は相当高いだろう」


「普通に考えて、そういうことってあり得ないよ」


「私もそういうものの存在を手放しで信じているわけではないが、かといって否定できるに足る理由も十分にない。ならば可能性の一つとして考えに入れても良いはずだ」


「それはそうかもしれないけど……」


 シュンの言わんとすることは理解できるが、それでも心底理解することは難しかった。


「今日のところはこれ以上、大きな進展は望めそうにないな。今はとにかく情報を集めなければ。一応、クレープをテイクアウトできないか聞いてくる。知人の助けも借りて、もう少しこのクレープについて解析してみる。その間に君たちは——」シュンはジャケットの左ポケットを漁り、小さく折りたたんだオフホワイトのメモ用紙を取り出した。「この4人に話を聞きにいってくれ」


 メモを受け取り開くと、ボールペンで書かれた4つの人名と何かのIDが箇条書きで記述されていた。ココロが近寄ってきてメモを覗き込む。


「誰?」


 私はこの4人の誰の名前も聞いたことがなかった。ココロの知り合いかと彼女をちらと見る。しかしそうではないようで、ココロは目を不思議そうに見開いて小首を傾げていた。


「クレープのレシピ制作に関わった人とかかな?」


「違う」シュンが口を挟む。「クレープの幸運を授かった人の中で、特定できた一部の名前とSNSアカウントだ。投稿を見ればわかると思うが、行動範囲は近所だろうし年も近そうだ。君たちなら私がやるよりもうまく話が聞けるだろう。ただし、重要な点は逃すなよ」


* * *


 ココロと話し合った結果、二手に分かれて調べを進めることになった。私の担当は手書きリストの上半分だ。


 ひとりでするのは少々心細いが、学内展示会の締め切りや効率を考えれば当然だ。それに、実のところ心細さの奥では好奇心が疼いていた。


 リストの一番上に書かれた名前、双葉アズサの投稿を確認する。プロフィール欄の記載から彼女はキリスト教系の学校に通うクリスチャンであるらしく、投稿された文章の端々にも「感謝」「祈り」「神様」の文字が踊る。


 とにかく彼女との接点をつくならければ。


 スクロールして、彼女の過去の投稿を見る。すると、5日ほど前の投稿にブリッジカフェのクレープとその直後の幸運について書かれたものが見つかった。


 私は少し考え、偶然タイムラインに流れてきたクレープに強く惹かれた人物を装って彼女に近づくことにした。


* * *


 二番目、氷川アスカの投稿。


「解析したが、やはりなんの変哲もないクレープだ。しかし、その際に使用したクレープを食べたら私にも知人にも幸運が訪れた。となれば、原因はクレープの材料でも喫茶店でも食器でもない。確実にあの店員だ。そして、あの店員の正体も——まだ確証はないが——突き止めた」シュンはたっぷりと間をとった。「やはり彼女は天使かもしれない」


 私は自分の耳を疑った。


「え、何? 彼女は天使?」


「ああ、そうだ」


 耳は正常だった。


 となればおかしいのはシュンであるはずだが、残念ながら返す灰色の目は真剣そのものだ。


「双葉にコンタクトをとったとき、『光る白い羽』の話は聞かなかったか?」


「確かに聞いたけど、あれは彼女が信仰心ゆえに見た幻覚の類かと……いや、どうしてシュンがそれを知ってる?」


「双葉自身がSNSに投稿しているから、知ること自体は誰にでも可能だ」


 シュンはモバイルを手早く操作し、双葉がSNSに投稿した文章を表示させた。


「私が知りたかったのは、双葉がそのことを話して君たちに聞かせたのか、というところだったのだがやはりそうか」


「ちゃんとした説明がほしいな」


「クレープの解析後、部屋で偶然——まさに奇跡的に——今まで失くしたとばかり思っていた本を調香器具を入れている棚の奥で見つけた。本を手に取ろうとしたそのとき、視界の端で何かが光った。見ると、光る白い羽がビーカーの中に落ちて消えた」


「消えた?」


「そうだ、跡形もなく崩れるように消えたんだ。私1人が見ただけなら間違いの可能性もあるが、双葉が同じ現象を体験したのをSNSで事前に知っていた。確かに彼女と私しかこの現象に気付いた人はいなかったが、私が彼女に影響される理由はない。信仰心の強い彼女だけが気づいたのは、西洋神学との関係が深いからだ。となれば、その原因たるあのアルバイトは神か天使、またはそれに準ずるものだと推測できる」


「なるほど」私は未だ多少の疑問を残しながらもそういった。「で、そうだとして、これからどうするの?」


「決まってる」シュンはニヤリと笑った。「直接会って話して確かめる。正面突破だ」


* * *


 翌日、閉店後の店内を借りてアルバイトのカレンを呼びつけた。


 目の前に座るカレンは、いつもの笑顔を保とうと努力しているようだがしきりにその空色の目が泳ぎまくっている。


「な、なんでしょう……私、なにかしました?」


「単刀直入に質問しよう」シュンは言った。「君、天使か?」


 場の空気が瞬間的に氷結された。私は慌ててシュンの腕を引っ張り寄せ、耳元で訴える。


「いくらなんでも直接的すぎるよ」


「遠回りしてなんの意味がある? そんなの時間の無駄だ」


 状況の悪化を危惧する私に、シュンはあくまで冷静に、この方法こそが最適解でありそれはこの惑星において自明の理である、とでも言わんばかりに言い切った。しかしカレンはこちらのごたごたなど気にしていられないようで、青いガラス玉の眼が零れ落ちそうなほどに瞼を開いた。


「そそそんな天使だなんて、ち、違うに決まってるじゃないですか! 普通の人間ですよ、私は」


 カレンはわたわたと空中で手を振り回して狼狽してしまっている。かわいそうに、いきなりこんなことを言われれば無理もない。


「そうか。ところで話は変わるが、最近話題になっているあのクレープのレシピ、君が見つけたんだって?」


「はい。お借りした部屋の掃除をしていたところ、本の間に挟まっていたのを偶然見つけまして」


「なるほど。確かに新規性はなかったがシンプルでおいしかった。人気が出るのも頷ける……たとえ幸運にまつわる噂がなかったとしても」


「……!」


 カレンが目を見開いて息を詰めた。無音の悲鳴を上げたかに見えた。


 シュンは続けた。


「幸運を運ぶ奇跡のクレープ。本当にすごい、君以外には作れない代物だ。いただいた日にしっかりと私にも幸運が舞い込んでね、その直前には輝く白い羽が——」


「そんなはずないです!」カレンは驚いたような声を上げた。それから弁解するように言った。「奇跡の痕跡が残らないよう十分に訓練を受けて練習したのですから。まさかそんな初歩的なミスは…………あ」


 シュンはニヤリと笑った。


「やはり君か、君だったんだな。ではもう一度聞く、君は天使か?」


「はい、私は天使です。人間じゃありません」


 カレンが自らが天使である事を認めたその時、店内は一瞬にして目が眩むほど白い光に満たされた。


* * *


 少々話は前後するが、ここで天使であるカレンが地球へ来た経緯を記しておこう。


 実際に私がこの話を聞いたのは、すべてが解決して再び日常へとシフトした平穏なある日の午後だった。4コマ目の講義が解散したあと、偶然アカデミーの外で会ったカレンとドーナツ屋に入った。熱いコーヒーと甘いオールドファッションとともに、まるで雑談と大差ないとでもいうような流れでカレンは話してくれた。実際、彼女にとってはただの思い出話のうちのひとつなのだろう。


 以下、カレンが聞かせてくれた話をもとに私が編集。


 その日、広くて焼け付くほど清潔な白い部屋の中央で、カレンはその部屋の壁よりも白くて冷たい木製の椅子の上で目を覚ました。随分と深く眠り込んでいたようですぐには焦点が合わず、頭もまだぼんやりしていた。ふわふわと周囲を見回すが、ここがどこだか把握するのに時間がかかった。カレンを中心にして同心円形に、これまた真っ白な座席が並べられている。少なくとも、自室ではないことだけは確かだった。


 結論からいうと、ここは知らない場所だった。


「カレン」


 無機質な、限りなく機械の声に近い天使の声が反響する。その声は、彼女の正面で分厚い法典を開いた赤髪の天使から発せられたものだった。


 彼女のことは知らなかったが、制服についた腕章からして自分より上位の天使であることは明らかだった。慌てて立ちあがろうとするも、何故だか身体が椅子から離れなかった。力を入れて身を捩るが、椅子が多少軋んだ音を上げるだけだ。

 

「も、申し訳ございません。座ったままでいることをお許しください。信じていただけるかわかりませんが、何故かこの椅子から立てなくて……」


「いいのよ」赤髪の天使はいった。「私がそうさせたのだから。ひとつは、気を失っているあなたが椅子から落ちていかないようにするため。もうひとつは、あなたを脱走させないため」


 カレンは頭が真っ白になった。


「あなたに地球での奉仕活動を、地球単位で15年間行うことを命ずる」


* * *


 影もできないほど激しい光に反射的に閉じてしまった瞼を恐る恐る開けると、カレンの背後に、燃えるように赤い髪を耳の上で2つに結った少女が腕を組み、何やら憤慨した様子で立っていた。


 経験則がまるで役に立たない状況に、私の頭はフリーズしてしまったようだ。


「カレン」赤髪の少女はいった。その声には明らかに凄まじい怒気が含まれていた。


「……はい」


「あなたを地上へ降ろすとき、私たち懲罰委員会があなたに約束したことは何だったかしら?」


「私が天使であることは、決して誰にも知られてはいけない」


「そうね。覚えているのなら実践してほしかったわ」


「す……すみません……」


「いいのよ」少女は優しいような冷たいような、あるいはそのどちらもが入り混じったような判断しかねる声でいった。「起こってしまったことは仕方ないし、誰にも時間は戻せないのだから」


 少し軟化した少女の言葉に、カレンは息を吐いて縮こまっていた肩を下ろした。


「ああ……ありがとうござ――」


「でも、そうね。さすがにこのまま何のお咎めもなし、というわけにはいかないわ。残念だけど、これはすでに決まっていることなの」


 カレンは強く口を引き結び、それからそっと開いて震えたか細い声でいった。


「……ヒマリ様、私はどのような罰も受け入れます」


「良い心がけね」ヒマリ様と呼ばれた少女はいった。その表情筋は笑顔を形作ったが、金色の目の奥は冷ややかだ。


「カレン、あなたにはアウソニア不規則な凹地へ行ってもらうわ」


 私にはそこがどこだか全く見当もつかないが、カレンの血の気(そもそも天使の体内に血液は循環しているのか?)が引いたように青白くなった顔を見れば、少なくとも彼女にとってどのような場所であるのかは想像できた。


 声を出そうと空気を喰んで震えるカレンの唇は、私の心臓に熱い血液を装填させ、気づけば「待ってください」と口走っていた。叫んでいなければいいが。


 カレン以外の誰かに声を向けられるとは想定外だったのだろう。驚きがにじんだ金色の目とまっすぐに視線がぶつかった。しかしそんなものは一瞬で消え、すぐに落ち着き払った余裕を取り戻した。


「待たないわ」ヒマリはきっぱりと、深い溝を刻み込むようにいった。「これは天使の世界に根付くルールに基づいた話し合いよ。人間が口を挟む隙などないわ」


「人間としてではなく、カレンの……友人と呼ぶにはまだ浅いかもしれませんが、少なくとも彼女がしたかったことを知る者として口を挟んでいるのです」


 ヒマリがぴくりと眉根を詰めた。私は言葉を続けた。


「彼女は確かにルールを破ってしまったかもしれませんが、それは当然意図的ではなかったはずですし、その過ち以上に人間に――私たちに幸せをもたらしてくれました」


 ヒマリは深いため息をついた。


「カレン、あなたがなぜ奉仕活動を命じられたのか、その理由を全く理解していなかったのね。本来、天使のすべきことは、幸運をもたらすことではなく正しい方向へ導くことよ」


 ヒマリのまっすぐで澄んだ声が喫茶店内の空気を鋭く振動させた。


「あなたはなぜ生き物が死ぬように造られたのか、考えたことはある?」


「寿命があるからだ」シュンが素っ気なく口を挟む。「形あるものはいずれ壊れ、命あるものはいずれ死ぬ。この世の覆せない真理だ」


「あなたには聞いていないし、私も聞き方が悪かったわ」ヒマリは大げさなため息をついた。「質問を変えるわ。なぜその寿命があるのか、考えたことはある?」


 シュンは押し黙ってヒマリを睨みつけた。


「この世の――少なくともこの地球のバランスさせておくためよ。もし寿命という概念がなければ、地球は生命で溢れかえり、その重みや圧に耐えられなくなったときに起きるのは崩壊よ。死なないことはクローズアップした視点で考えれば幸せでしょうけれど、全体的な視点で考えるとただの迷惑で、総量的には不幸なのよ」


「話が見えない」シュンはいらいらを隠そうともせずに言い捨てた。「人間の寿命の話に天使の使命の話……。なんの話をしようとあなたの勝手だが、ぜひとも関係のある話だけを簡潔にお話し願いたい」


「つまり、規定以上に人間の運命に干渉して人間界に堕とされたというのに、なにも学ばず同じ過ちを繰り返している彼女に情状酌量の余地などない、ということよ」


 私はなにも言葉が浮かばなかった。おそらくその場にいた誰もが同じだったのだろう。


「わかりました」カレンはそういって、まっすぐに立ち上がった。「みなさん、私のためにありがとうございます。ですが、間違ったことをしていたのは私なのです。これから行かなきゃならないところはここからは少し遠いのですが、でも必ず、いつかまた会えますから」

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クレープと天使の羽根 佐熊カズサ @cloudy00

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