第6話 ~どうしてこんな事になったんだろう~ 愁一郎の語り

 どうしてこんな事になったんだろう……。


 僕は過酸化水素水が入った試験管にリンゴ片をピンセットで摘んで入れながら、ため息をついた。

 昨日の午後、名取さんに取材依頼を受けてから、何度こうやって憂鬱を呼気に変えたか分からない。


 今日の生物ⅠBは、カタラーゼの実験。カタラーゼを使って過酸化水素水を水と酸素に分解する過程を観察するらしい。

 リンゴを入れると、過酸化水素水の中で気体が発生しだした。

 ただ今、リンゴの酵素(カタラーゼ)さんが過酸化水素水を分解中。


 ちなみにこれ、今はリンゴを使ってるけど、教科書には肝臓片を使うと書いてある。

 どうしてリンゴにしたんだろう。スーパーの生レバーじゃ駄目なのかな。煮れば酵素が変性するから、反応が起こらなくなるっていう違いも観察できるのに。……まあ、生徒の人数考えたらレバーよかリンゴの方が安くつくし、生臭いレバーよかリンゴのほうが見た目も匂いもいいしね。

 それより問題は、僕の隣だよ。


 僕は隣で摩り下ろしたリンゴを過酸化水素水の中に入れている人物をちらりと横目で見て、再びため息をついた。


 なにゆえ名取さんが僕の隣に居るんだろう? そりゃ、生物は自由席だけどさあ。友達のお誘いを断ってまで、僕と同じテーブルに座る必要はないんじゃないの?


「見てみて、谷原クン。同じリンゴなのに擦ったほうがブクブク凄いよ。ホラホラ、どんどん泡が出てくる。何でだろうねー」


 名取さんは化学反応真っ最中の試験管の中身を覗き込みながら、実に楽しそうに実況してくれている。


「擦ったら接触面積が多くなるから、それだけ反応も強くなるんだよ」


 て、先生がさっき言ってたはずだけど。きっと聞いてなかったんだね。そりゃそうか。ずっと僕に話しかけてたんだから。


「へえーナルホドねえ。谷原クンの隣はやっぱ勉強になるわー」


 調子のいいこと言ってるけど、名取さんは絶対この『ブクブク』の正体が何なのか分かっていないはずだ。そもそも、実験の主旨すら知らずにいるに違いない。彼女にとってこの実験は、『試験管の中の液体にリンゴを入れたら不思議と泡が出ました』というだけ。リンゴのカタラーゼを触媒として細胞の化学反応を見ているなんて、頭の片隅にも考えていないはずだ。


 せめて黒板に書かれた内容をノートに記入してくれれば多少なりとも理解できるんだろうけれど、彼女は僕への質問に忙しいらしくて、黒板に記された化学式やら酵素の性質なんかはまだ一文字も彼女のノートに写されていない。それどころか、オレンジ色のメモ帳が生物のノートの上を陣取ってしまっている。メモ帳には僕への質問項目が、ずらり。昨日家で考えたのかな。

 悪いけど、その中の半分以上は答えるつもりないからね。


「どうして髪伸ばしてんの?」


 また質問ですか。

 いい加減にしないと、都築つづき先生からゲンコツくらうよ。せめて声量落とすとかしなきゃ。ホラ、先生の背中めちゃくちゃ怒ってる。


「長いほうが便利だから」


「え? 短いほうが楽なんじゃないの?」


くくれば視界が開けるし、髪も落ちないからね」


 たった今、試験官の中の化学反応が終わった。実験結果を配られたプリントに記入する。


「ナルホド。長髪は機能性を重視。ファッションじゃない、と」


 一方、名取さんは実験結果じゃなく、僕のコメントをオレンジの帳面に熱心メモった。彼女の取材用手帳に潰されているプリントは、見る限り白紙だ。余計なお世話かもしれないけど、そのプリントは当日提出なんだよ。マズイんじゃない?


「じゃあ、じゃあね。時々食べてるジャムパンは、本当に谷原クンが――」


「名取ィっ!」


 仏の顔も三度までというけれど、先生はよく我慢したと思うよ。

 都築先生から放たれたのは、ゲンコツではなく、最近ではマンガやドラマでも珍しいチョーク弾。名取さんの額に見事命中した。


 チョーク弾のお陰で、名取さんは僕への質問攻めを中断し、プリントの空欄埋めに精を出し始めてくれた。僕のプリントに書かれてあった内容をそっくりそのまま写しただけだけど。


 ちなみにさっきの質問の答えだけど、僕がたまに間食用に持ってきてるジャムパンがお手製なのは事実だよ。

 何故かジャム作りだけは、薬膳のみならず洋を問わない料理の腕を誇る屋敷専属料理人の浅葱を抜いて、僕が村で一番上手なんだよね。素材別に砂糖を選んでるだけなんだけど。


 それにしても、この状況をどうするべきかな。勿論、嫌なんだから拒絶するべきだし拒絶してるはずなんだけど、名取さんは全然へこたれてくれない。「でへへ」って笑ってごまかす。

 今日もきっと『でへへ笑い』で僕の拒否拒絶をかわして、放課後まで僕に可能な限りつきまとい、挙句の果てに「明日もよろしくね」とか言って帰り際に手まで振ってくれるに違いないんだ。


 これはよろしくない。

 実によろしくない。


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