第8話 自分には書けない+矢口先輩の世界
■A
前回の自語り記事でも書いたのだけれど(6話。7話は諸事情により欠番)、自分には真似出来ないなと思う書き方や特技を持つ方というのはいっぱいいる。
真似出来ない、には、「やろうと思っても出来ない」はもちろんのこと、「無理したら(そしてそのまま練習したら)もしかしたら出来るようになるかもしれないけど、とても続けられそうにない」も含まれている。
「一生擦れる、擦っている」を“低きに流れた結果でもある”と仰っていた方もいたし、実際そういう側面もありうると思う。そこが“低き”でもあるなら、青く見える芝生には苦悩やウンザリがいっぱい埋まっているはずだ。芝刈りのような世話一つだって難儀だろう。
ただ、それでも僕が先輩と呼ぶ方々は書き続けている。そこが尊敬ポイントの一つ勘所でもある。
踏まえて、今思うのは「自分ではとても生存出来ない領域や分野で書き続けている」先輩たちのことだ。
単純に書くための原動力がそっち方面へ仕事してくれない、というのもあるし、どころか屈託が邪魔をして書くことを許さない、というのもある。
例えばそれは、ある種の無垢さ……純化された面白さを作中リアリティに取り込むことだ。
■B
先輩には『色のない虹は透明な空を彩る』、通称にじそらという代表作がある。
正確には違う(=カクヨムのプロフに出る代表枠には設定されていない)のだけれど、僕にとっては代表作だ。この作品を通して、伊草はある種の強い印象を持ち、先輩の名前を覚えた。
このお話……ひいては矢口先輩の特性は、寄せられるレビューがことごとく澄んで暖かいものであるところからも見てとれる。
伊草の語彙で当てはまる表現を探すと、「
小さいころ、夢中になって読んだ世界名作全集や、絵本や、童話。そういうものを彷彿とさせるエッセンスが、いまどきの読書欲増進成分と一体になって輝いている。
小説を書く人は、皆それぞれに「年齢がある時期で止まってるところ」を持っているんじゃないか……と、仮説ながら自分は思っている。今のところ。
その止まった年齢がいくつで、どんな風であるかで、書きたい&書いてしまうものが変わるのではないかと。
伊草のそれはありがちに思春期ぐらいなんじゃないかと思う。
成長期に入って、誇れるものは何もないけれど認められたい、何かが自分にあってほしい、と思って走り出す、そのくらいの時期。
そんなだから、(その歳の自分が)既にハシゴとして使わせてもらった、登り終えたお話たちの方へはあまり頭が向かない。背中を登らせてくれた作品たちのすごさにも偉大さにも気付かないまま、かえりみずただ前だけ見て、手元のせせこましい問題について悩み続けている。
そういう自分にとって、「通り過ぎたばかりの小さい頃の景色」は近すぎる。
遠いけれど、描きたいと思うほどには距離を置いていない。だから書くことが出来ない。
でも、読んだ時、それがいいものであることははっきりわかる。
何せハシゴとしてお世話になったのだから。その助けのありがたさを認識する知恵がついていなくても、「いいものだった」という気持ちぐらいは漠然と持っている。
矢口先輩の作品を読んで思い出すのはそういうものだ。
だから、僕は矢口先輩にはなれないし、真似をしようとも考えたりしないけれど、まぎれもなく先輩だと思っている。
……止まっている年齢を考えると、「わからせられている」と言った方が正しいのかもしれない。
■紹介
そんな矢口先輩にまつわって紹介するのは以下のタイトル。
レティと魔法のキッチンカー
https://kakuyomu.jp/works/16817330660608011217
「電撃の新文芸5周年記念コンテスト」に参加されてる真っ最中。
確か元々は別の賞に向けて書かれた中編だったはず。そのためか、『にじそら』よりも対象層がかなりはっきり絞られているように思った一本。
自分にとって衝撃が大きかった『にじそら』とどちらを紹介するか迷ったけれど、タイムリーさ的にはこっちか、と考えて選択。
初めて知ったぜ! 読もうかな! という方には、どっちもいいよ、とオススメしておきたいです。伊草のレコメンド基準的には迷いどころだったんですよ! ホントに!
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