文字を読めない小説家——それは夢

ナナシリア

それは夢

 僕が小説家を志し続けて三年目の夏、僕は文字を失った。


 失読症。


 学習障害の一つで、会話能力にも眼にも異常がないのにも関わらず、文字の読み書きや文章を読むことが困難になる識字障害。


 そこに文字があることはわかる。


 他人が話している言葉もわかる。


 ただ、確かにそこにある文字を読むことだけが――。


 それでも諦めきれない。


 僕はどうしても言葉が好きで、僕はどうしても文字が好きだった。




「わたしは、言葉が好きで、文字が好き」


 その少女は、僕と同じように、言葉が好きで、文字が好きで、でも僕と違って文字を持っていた。


 だから。


「なんで、君だけ。僕だって言葉が好きで文字が好きで物語が好きで心が好きで、どうしようもないほど小説が好きだ。なのになんで君だけ」


 溢れ出してしまう、黒い感情が。


 息を継ぐよりも言葉を継ぐ。怒りと嫉妬と羨望を継ぐ。


「僕は小説を愛して、愛して愛して、僕がどれだけ言葉に文字に触れて――おかしい」


 滅裂になった言葉に、それでも少女は、君はなにも言わなかった。


 今から思い返してみれば、彼女はきっと僕を気遣って黙っていたのだろうと思う。


「卑怯だ。自分の幸福さを棚に上げて、僕の言うことから目を逸らして無視して都合の悪いことからは目を逸らす」


 僕は意味もなく彼女を糾弾した。


 完全に八つ当たりで、彼女になにを言っても僕の失読症が治ることもないのに。


「ごめん」


 彼女はただそれだけ言って、醜い僕を包み込んだ。


 愛したはずの「言葉」を武器に使うようになってしまった僕を救った。


「わたしが、出来る限りのことをするから。だからわたし、きみの物語が聞きたい」


 僕の頭の中には、無数の物語が綴られていた。


 それを一つ一つ、言葉にしていく。


 彼女は、ノートになにか書き込んでいた。


「きみの物語、ノートにそっくりそのまま写したよ。きみは読めないかもしれないけど、なにかの役に立つといいな」


 文字は読めないし認識できないけど、彼女の書く文字の形が、どうしてか好きだった。


「わたし、きみの物語を色んな人に届けたい」


 彼女は思いを語り始めた。


「この小説、インターネットに投稿してみない?」


 思えば、彼女の提案がすべての始まりだった。


「この文字をわたしがパソコンに移しておくから、一緒に投稿しよう」


 彼女は宣言通り、僕の言葉をノートにメモし、それをパソコンに移してきた。それも、翌日。


 どれほどの労力がかかったのだろうか。それを考えると、僕は強烈な違和感を覚える。


 言葉が好きだというただそれだけで、これほどのことができるのか。


 不審がる僕の面持ちを読み取ったのか、彼女は説明する。


「きみは、言葉が好きでしょ?」


 返事は明らか。


 僕の返事を聞いて満足して、彼女は続ける。


「それと同じ」


 僕はそれでも不思議だった。たったそれだけのことで。


「きみは、言葉が好きだから小説を書き始めた。三年、強く惹かれ続けてる。わたしも同じ。ただ、手段が違っただけ」


 彼女は、諭すように、彼女のできる最大限の説得力を込めて言った。それは、僕を一瞬で納得させ得る言葉。僕は、言葉を扱う者として、その日本語力を羨む。すごい言葉だ、心に留め置きたいほどの。


 そこでようやく、彼女の言いたいことが既に体現されたことを理解する。彼女は、心に留め置きたいものを、別のところに保存しようと、そう思っているだけ。


「僕と、同じ」


 彼女は満足して笑った。僕も、それが嬉しくて笑った。


 ひとしきり笑い合うと、彼女は本題を告げた。


「それで、この作品をインターネットに投稿するかどうか、きみに決めてもらいたい。作品はきみのものだから」


 彼女はあまりにも、素晴らしいマネージャーだった。僕もそろそろ、インターネットに挑戦する頃合いだと思っていた。


「ありがとう、素晴らしい提案だ。ただ僕はインターネットをほぼ使えないから、作業はお願いしたい」


 無口になりすぎていた僕は、やっとまともに口を開いた。ここまで長く喋ったのは、彼女を糾弾した時以来だろうか。


「もちろん。任せて」


 そう言って、彼女はパソコンを動かした。しばらくの後、僕の方を向いて笑顔でサムズアップする。作業が終わったということだろう。


「ありがとう」


 言葉に余計な装飾は必要なかった。彼女はそのくらいシンプルな方が好きだし、なにより、互いに自分の本質を語り合った仲だから、短くても伝わる。


「どういたしまして」


 彼女の短い言葉にも、それ以上のものが詰まっている。


「ちょっと、わたしの話をしてもいい?」


 一仕事終えた達成感からか、彼女は珍しく自分のことを語ることを提案した。


 僕は彼女の話をもっと聞きたくて、即座に彼女の言葉に賛成する。


「わたしが、言葉を好きになった理由」


 そう前置きをして、彼女は語りだす。


「ずっと、本を読んでた。現実は誰もわたしのことを必要としてくれないって、実感したから」


 よくある話なのに、そうは思えなかった。


「それで、実はわたしも小説を書いていたことがあるの。でも、わたしじゃ届かなかった。そんな時に出会ったのが、きみだった」


 僕とのあまりの共通点の多さに、彼女との出会いが運命だったのではないかと錯覚する。


「きみの小説を、作品を、文章を、言葉を見て、惹きつけられるような魅力を感じた。きみならいける、って」


 彼女の言葉に持ち上げられて、僕は気恥ずかしい気分になる。しかし、その言葉に心を動かされているのは事実で、彼女に聞き入る。


「だから、文字を読めなくなったきみに声をかけた。きみは、執筆するときは集中してたから……ごめんね、その間に、ノート見ちゃった」


 彼女が突然声をかけてきて、どうして僕が小説を書いていたことを知っているのか、と疑問に思ったこともある。


 そういうことか、と納得する。あの時なにを書いていたかが少々気になるが、彼女が僕の才能を見出すくらいだから、恥ずかしいものではなかったのだろう。


「わたし、本当はきみみたいな小説が書きたかった」


 彼女が吐露する思いは、僕にも刺さった。将来の僕も、今の彼女と同じことを思っているかもしれない。


 どれだけ時間をかけて、どれだけ本気で食らいついても、「小説家」という存在から、引き剝がされる可能性。


「わたしは結局、辞めるまで何一つ受賞できなかった。でも、きみなら」


 それは、酷く悔しいはずだ。


 自分は努力相応のものをなにも得られなくて、自分以上に才能のある人を見つけてしまう。僕だって何度か経験がある。この人には、勝てないんじゃないだろうかと思ったことがある。——今でも。


 悔しさを理由に諦めてしまいそうになる。「悔しさをバネに」なんて虚言だ。悔しさはバネにならない。


「なれるかな、小説家に」


 今が嫌いで、将来が怖くて、つい言葉が零れる。拾おうとする気力すらなく、ただそこに立ち尽くす。


 でも、それを拾ってくれる人がいた。


「きみはもう、わたしにとっては小説家だよ」




 目を覚ます。


 乾いた口腔が、喉が、途轍もなく不愉快で、冷蔵庫から取り出した二リットルの水をコップに注ぐ。


 なにか、幸せな夢を見ていたような気がする。いったいどういう内容なのかは思い出せない。


 そこにはただ、僕は文字を読めないという事実だけが残っていて、真っ暗な無音の部屋の中をブルーライトが照らす。習慣のように、乾いたタイプ音がリズムを刻む。


 不快な眠気に飲まれそうになって、ゆっくりと、なにも読めない画面のパソコンの上部に手をかける。


 目を閉じたら、幸せな夢を見れるかもしれない――

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文字を読めない小説家——それは夢 ナナシリア @nanasi20090127

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