第46話 駿我雅隆 5


 そうして準備は着々と整い、次の段階へ進もうかどうかと雅隆まさたかが考え始めた頃、予想外の奇跡が起きる。それは……


 これまでの雅隆まさたかの行動によって母が完全に壊れ、それによって父が「」と思い始めたのだ。雅隆まさたかにとって実に都合のいい展開。更には父がその不安を杏香きょうかに話し、これまた素晴らしい展開へと転がっていく。


 どうやら父は雅隆まさたかにとって理想的な遺言書まで作成したようで、いつの間にか集めた、母の雅隆まさたかに対する性的虐待の証拠まで揃っていた。


 これはのちほど雅隆まさたか杏香きょうかを完全に支配下に置いた後で聞いた、その当時の父と杏香きょうかのやり取りなのだが、父は「自分が殺されることがあったら、雅隆まさたかのことを杏香きょうかにお願いしたい。雅隆まさたかは妻に性的虐待を受け、精神的におかしくなっている。正直な話、私は雅隆まさたかが怖い。だが愛してもいるのは確かだ。精神科医を目指していた杏香きょうかになら任せられる」と、杏香きょうかに言付けて遺言書を準備した。その上で自分のことは棚に上げ、「妻が息子にしている性的虐待の証拠も準備した。もし仮に自分が殺されたら、その証拠を使って妻の親権を剥奪して欲しい」と杏香きょうかに頼んだのだ。


 遺言書は「財産は杏香きょうか雅隆まさたかで折半し、杏香きょうか雅隆まさたかの未成年後見人になること」を明記した公正証書で準備。場合によっては養子縁組でも構わないといった内容である。更には遺言書とは別に、直筆でご丁寧に「私が死んだとしたなら、おそらく妻に殺されたのだろう。そんな妻には財産など与えたくはないし、息子を虐待している証拠もあるので、親権を剥奪して欲しい」といった主旨の文章まで書いて、そちらは例の金庫に保管した。


 これを聞いた杏香きょうかは困惑した。兄は自分がしている息子への性的虐待を隠すつもりだと。だが、だからといって杏香きょうかにはそのことを問い詰めることは出来なかった。問い詰めることで、自分と兄の関係が変わってしまうことを恐れた。


 ただ、もしかすればその事実を元に雅隆まさたかを精神病院に入院させられかもしれないと思った杏香きょうかは、「遺書なんて準備するのではなく、証拠があるなら奥さんを今すぐ逮捕してもらった方がいい」と、提案はしてみたようだ。


 だがやはりそれは受け入れては貰えなかった。そんなことをすれば兄自身の性的虐待がバレてしまう可能性があるからだろう。かといって杏香きょうかはここで色々と騒ぎ立て、自分と兄の関係が明るみになるのも困ると思っている。色々と調べられてしまえば、夫の智治ともはるに托卵のこともバレてしまう。


 想像以上に狂っていて、想像以上に雁字搦めな人間関係。それが膠着状態を作り出し、その間にも時間は過ぎていく。


 その間雅隆まさたかは、杏香きょうかが自分のことを解離性同一性障害だと疑うような日記を作成した。杏香きょうかを支配するために必要な工程。普通に雅隆まさたか自身のを教えるだけでは足りない。時間をかけて恐怖を醸成させ、真相を知った時の自分の立ち位置の落差を体感させた方がいい。自分が知らず管理されていたことへ対する一瞬の恐怖と、そこから思いを巡らせ、じわりと侵食されていたことに思い至った際の恐怖。逆らってはいけない存在だと思わせるための精神支配。


 おそらく杏香きょうかは日記を見たとしても警察には相談しないと雅隆まさたかは確信している。杏香きょうかが日記を見るタイミングは、雅隆まさたかの両親が死んでからの予定だ。となれば、杏香きょうかは愛しの兄が死んだとして、警察の捜査によって自分と兄の関係が暴かれることを恐れるはずだ。


 更にはその流れで夫の智治ともはるに托卵の事実がバレ、加えて智治ともはるの性的虐待のことが表沙汰にでもなれば、目も当てられない。杏香きょうかだが、家庭を壊そうとは思っていないはずだ。


 娘が性的虐待を受けていようが、そんなことはどうでもいいのだろう。とにかく娘に愛されていればいい。に愛されていればそれでいい。つまり托卵の事実がバレてしまうのはまずい。が娘に知られ、嫌われてしまっては元も子もないのだ。尊敬され、愛される母でいなければならない。と、他者を鑑みることのない、何らかの人格障害の兆し。


 もちろん日記を見た杏香きょうかが、警察に相談する可能性もない訳ではない。だがそれに関しても雅隆まさたかは手を打っている。それは……


 従姉いとこ──名前を聞いても答えないので従姉いとこと呼んでいる──と一緒に、日記を書き上げたのだ。従姉いとこ従姉いとこで狂っていて……いや、狂わされたのだろうが、何度か接するうちに、という性質であるということに気付いた。それは徹底していて、最初に約束したことを裏切ることは絶対にしない。


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