第38話 駿我杏香の手記 6/6
「旦那さんが娘と二人で出掛ける頻度が増えたと思いませんでした? 本当に
そう言って笑った彼の顔が今でも瞼の裏にこびりついている。これを実行していたのが当時十一歳の子供だ。私は一人何も知らず、秘密も隠せていると信じて彼に弄ばれていたのだ。
そして彼が私に言った「
私は彼に従うしかなかった。娘が大事だったこともあるが、すでに私は彼に囚われていた。彼が怖くて怖くて仕方ないのだ。彼に逆らってはいけないと、本能が叫んでいる。
そうなると、なぜ私が彼を告発するようなこの手記を書いたのかと、疑問に思う方もいるかもしれない。それは簡単な話だ。おかしくなってしまいそうなのだ。何故こんなことになったのか、どうして私は今、こんなことをしているのかが分からない。
少し前に夫は離婚届を置いて行方不明となった。私は彼が殺したのだと思っている。彼が娘と仲良く話している所を見ると、頭がおかしくなってしまう。彼は私も娘もいずれ殺すはずだ。だが彼は証拠を一つも残していない。彼は時間をかけ、絶対に自分が疑われることのないように立ち回る。
怖い。怖い怖い怖い。例え私が今彼を告発したところで、彼の異常性を示すものは一つも出てこないだろう。私にあるのは彼の日記を書き写したものと、私の記憶だけ。日記に関しては、いつの間にか原本を破棄されている。そうなれば、頭のおかしくなった私の妄言として処理されるだろう。
夫の失踪に関しても私が疑われるだろうし、場合によっては私が犯人に仕立て上げられるのかもしれない。なぜなら彼の両親のように私と夫も、気付けばお互いを傷付け合うようになっていた。いや、果たして私と夫は自分の意思で傷付け合っていたのだろうか、今となってはほとほと疑問だ。
せめて私の頭が完全におかしくなる前に、事の経緯を纏めたのがこの手記だ。いつか、誰かが彼の罪を暴いた時のために記しているのだ。私には彼の罪を暴くことは出来ない。私は完全に彼の支配下だ。もしかすれば、この手記も彼に書かされているのかもしれない。なぜなら今私の背後には彼がいる。あれ? いつからいた? 私がこの手記を書き始めてから? 私は自分の意思でこの手記を書き始めたのではなかっただろうか? 分からない分からない分からない。
耳元で彼が「ここのセリフは少し違いますよ。出来るだけ忠実に自分の中身のなさを思い出してください。汚く馬鹿で、穢れたぐずぐずの自分の中身を思い出してください」と囁く。ああそうだ。思い出した。私は狂っていたんだ。頭がおかしくなって、色々と忘れていたんだ。
そんな私に彼は、優しく教えるために手記を書かせたのだ。彼の狂気を思い出し、私が彼の所有物であることを思い出すために。そんな私の手記を見て彼は「なかなか文章が上手いですね? これなら旦那さんのように作家になれそうだ」と笑っている。
すっかりと全てを思い出した私は、彼に問いかけた。「娘は元気ですか?」と。私と兄の愛の結晶。私と兄が愛し合っていた証拠。私はそれだけは失いたくない。それを失ったら私にはなんにもない。娘がいるから私の心は
その問いかけに対して彼は「大丈夫ですよ? 娘もしっかり狂っています」とだけ答え、とても優しく微笑んだ。
──ある日記と手記(了)
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