第23話 下野正樹 5


 正樹まさき凛花りんか──数え切れない程の男性に抱かれていたことなどを忘れ、かといって凛花りんかを愛していた気持ちは消えずに日々を過ごしていた。相変わらず世間では凛花りんかに対する様々な憶測や情報が飛び交い、書き込まれ、それは正樹まさきの目や耳にも届いていたのだが……


 もはや正樹まさきの脳内は、そんな流れてくる凛花りんかを留めておくことは出来なかった。


 心の底から愛した凛花りんか──


 自分の性癖のことで傷付けてしまった凛花りんか──


 ストーカー行為で怖がらせてしまった凛花りんか──


 だけど自分は凛花りんかを殺してなどいない。こんな辛い記憶は早く忘れてしまおう。凛花りんかのことは大好きだったけれど、未練も消えてはいないけれど、凛花りんかを思う気持ちを消さなければ、自分はおかしくなってしまう。そんな毎日を過ごし、一年が経過した頃には凛花りんかに対する想いは薄れていた。


 人間の脳が精神を守ろうとする作用なのだろうか、とにかく正樹まさき凛花りんかに対する想いは薄れ、凛花りんかが行っていたを忘れ、一人称までからへと変わり、引っ越した先のマンションで普通……とまではいかないが、それなりに普通に暮らしていた。


 新しい職場も正樹まさきに理解があり、それこそ陰では噂されていたのだろうが「私はやっていない」と呟きながらも懸命に生きていた。


 このまま時間を重ねていけば、いずれは穏やかに暮らせる日が訪れるのかもしれない──


 そう正樹まさきが思い始めたある日、唐突に正樹まさきの日常は終わりを迎える。


 あの


 あれは仕事を定時で終え、正樹まさきにとっては自宅へ帰る途中の、普通に普通の日常。いつも通り「私はやってない。私はやっていないんだ」と呟きながら帰る道の途中、唐突に男に話しかけられたのだ。「りんちゃんの元彼の下野しものさんですよね?」と。


 「ああ、またか」と正樹まさきは思い、初めは無視をした。なぜなら今も時折、週刊誌の記者や心無い人間が、無遠慮に当時のことを聞いてくることがあったからだ。決まって彼らは「犯人に心当たりは?」「田村凛花たむらりんかさんの男性関係をご存知だったんですか?」「下野しものさんも特殊な性癖をお持ちだと伺いましたが」「精神の病で病院に通っているのは警察の違法捜査のせいでしょうか」「下野しものさんがストーカー行為を働いている間、つまり田村凛花たむらりんかさんの男性関係を覗き見ていたということでしょうか」と、凛花りんかが殺された事件のことや、凛花りんかの男遊びが酷かったというを問いかけてくる。


 もちろん凛花りんかの男遊びが常軌を逸していたのは事実なのだが、正樹まさきは嘘だと思っている。正樹まさきの脳が嘘だと判断している。あれほど可愛かった、愛しかった、儚げで可憐だった凛花りんかがそんなことをするわけはないと、正樹まさきは信じている。事件も自分には関係がない。凛花りんかを侮辱するような嘘情報も聞く意味がないと、無視をし続けた。


 だがそんな無視を決め込んで立ち去ろうとする正樹まさきに、男は更に言葉を続けた。「そんなに警戒しないで下さい。僕の名前は中野拓真なかのたくま。週刊誌の人間でも野次馬でもないです。りんちゃんの知り合いですかね?」と。


 どうやらいつもの週刊誌や野次馬とは違うらしい、中野拓真なかのたくまと名乗った男の言葉に、正樹まさきが足を止める。後に正樹まさきと思うことになる瞬間である。

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