第5話 奥戸雪人 5


 雪人ゆきひとは自身の本心が見せる幻覚だと思っている。おそらく駿我するがが薬物を使用していることに気付き、本心では逃げなければと思っている心が見せる幻覚。分かっている。分かっているはずなのだが……


「会いたいよ駿我するがぁ……早く……早く帰ってきてよぉ……うっ……うぅ……」


 もはや駿我するがなしでは生きられない。駿我するがが欲しい。駿我するがに抱かれたい。駿我するがにめちゃくちゃにされたい。


「あぁ……あぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁああっ!!」


 狭いトイレの中、雪人ゆきひとが絶叫する。自分ではどうしようも出来ない。逃げたいけれど、逃げてしまえば駿我するがに会えなくなってしまう。それは考えただけでも身震いする程の喪失感。無理だ。


 無理だ無理だ無理だ。


 無理……だ。


 自分は完全に駿我するがに依存している。分かっている。逃げなければ。分かっている。会えなくなる。分かっている。それは無理だ。分かっている。このままでは廃人になってしまう。分かっている。欲しい。分かっている。分かっている分かっている分か──


「分かってるんだよぉぉぉおぉおぉぉぉおぉぉぉおぉおぉぉぉおっ!! あぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁああっ!!」


 再び雪人ゆきひとが絶叫する。それと同時、リビングからごとんと何かが落ちる音がして、ふらふらの足で向かう。リビングに辿り着いてみれば、そこには前に鷹臣たかおみから貰った日本人形が落ちていた。能面のような顔に、肩口で切りそろえられた漆黒の髪。鮮やかな着物を身に纏った日本人形が、床に転がっている。「災いから身を守ってくれるから」と、半ば強引に鷹臣たかおみがくれたものだ。


「いらないっていったのになぁ……本当にあいつは趣味が悪い……」


 そう言って床に転がる日本人形を拾い上げ、とても大事そうに抱きしめた。


「たす……助けてくれよ鷹臣たかおみぃぃぃぃ……うぅ……」


 雪人ゆきひとが泣き崩れる。鷹臣たかおみはもう助けになど来てくれないと分かっている。それこそ鷹臣たかおみ雪人ゆきひとに拒絶された日から三日程は「話を聞いてくれ!」と、家にまで来ていた。


 だがそんな鷹臣たかおみ雪人ゆきひとは冷たく追い返していた。「二度と来るな!」「顔も見たくない!」「もうお前なんて友達でもなんでもない!」と、酷いことを言った気がする。


 壊れてしまった鷹臣たかおみとの友情。駿我するがとの歪んだ関係。薬物の使用と幻覚。雪人ゆきひとが「なんでこうなっちゃったんだよぉ……」と声を漏らすと、玄関のドアノブががちゃがちゃと音を立てた。続いてテレビががたがたと揺れる。何度となく起きているポルターガイストだ。


「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ! 分かってるよぉぉおぉおおぉおっ! 逃げなきゃないっ! でも駿我するがが欲しいんだぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁああっ!!」


 ポルターガイストの意味も雪人ゆきひとは理解している。初めての時は記帳、ーム機、ーブルランプの順だった。今も本人形、関のドアノブ、レビの順。


 このポルターガイストは「ニゲテ」と伝えている。本当は逃げ出したい雪人ゆきひとの本心が見せる幻覚。だが果たしてそうなのだろうか──


 実際に物は動き、落ちている。更に言えば、最初のポルターガイストは雪人ゆきひと駿我するがタイミングで起きている。あの時は男である駿我するがに抱かれ、ショックもあったが同時に満たされてもいた。薬を盛られていることも知らないし、駿我するがに対して「男が好きなんだな」と思っただけで、強い嫌悪感や不信感を抱いた訳でもない。その状態で雪人ゆきひとの本心は「逃げて」となるだろうか──


 だが雪人ゆきひとにはそんな判断力など最早ない。あったとして、普通の人間にはポルターガイストなど理解の範疇を超えている。


 正直な話、雪人ゆきひとはいるし、あるとは思っている。そのと思われるについて書き上げたのが処女作の【知りたがりの丸眼鏡】だ。


 つまり普段の雪人ゆきひとであれば、薬物の作用による幻覚などではなく、おそらく有り得ざる現象としてのを信じていたはずである。だが論理の崩壊とでも言えばいいのだろうか、


 これが幻覚などではなく、が自分を逃がそうとしてくれていると判断出来ていたなら、逃げ出すことも可能。そう、可能のだ。

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