第4話 奥戸雪人 4


「い……行かないでくれよ駿我するが……」


 テーブルランプの灯りだけが頼りの薄暗い寝室で、ベッドから出ようとする駿我するがの腕を、潤んだ目の雪人ゆきひとが掴む。


「仕事で少し出なければならないんです。しばらく自宅にも戻っていないですしね。桜子おうこ先生はゆっくり休んでいてくださいね」


 そう言ってベッドから起き上がった駿我するがの剥き出しの体に、雪人ゆきひとが抱きついた。鍛えているのだろうか、駿我するがの背中は逞しく、彫刻のように美しい。


 何度となく見た体。何度となく求めた体。鷹臣たかおみを拒絶し、あのの幻覚を見てから二週間。狂ったように駿我するがを求めた。二週間──とは言ったが、雪人ゆきひとにはもはや時間の感覚などない。


 欲しい──


 怖い──


 寂しい──


 壊したい──


 駿我するがとの事後、日に日に言いようのない焦燥感に襲われる。訳もなく暴れたくなり、キッチンの食器を壊したりもした。


「最近寝れないんだ……一人でいると不安で怖いんだよ……よく分からない幻覚も見えるし、イライラするし……お願いだから置いて行かな──」


 雪人ゆきひとの言葉を最後まで聞かず、駿我するがが乱暴に唇を重ねる。


 「わがままはだめですよ? 戻ってきたら……またたくさんしてあげますから」と、唇を離して駿我するがが優しく言う。だが雪人ゆきひとは「やだよ駿我するがぁ……」と言って離そうとしない。


「本当に最近変なんだ……前に幽霊の幻覚を見てから時間の感覚もおかしいし……駿我するががいないと俺はもう……」


 「桜子おうこ先生は友人に裏切られて心が疲れているんです」と、駿我するがの諭すような声が落ちてくる。


「信頼していたんですよね? 鷹臣たかおみさんのこと。裏切られて……ショックで……桜子おうこ先生は少し疲れてしまったんですよ」

「う、うるさい! 鷹臣たかおみのことなんて知るか! 俺には駿我するがが! 駿我するががいればいいんだ!」


 そう言って雪人ゆきひとが力任せに駿我するがをベッドへと押し倒し、夢中で身体を貪った。


「仕方ないですね……桜子おうこ先生は……」


 「ちょっと待ってくださいね」と、駿我するががベッドの下に脱ぎ散らかしたズボンのポケットから白い錠剤を取り出し、口に咥えた。そのまま口移しで雪人ゆきひとに錠剤を飲ませ……


「知り合いに処方して貰った精神安定剤です。一時間だけなら時間があるので……」


 「僕の中に桜子おうこ先生の気持ちを吐き出して下さい」と、優しく雪人ゆきひとを抱きしめた。


 そこからの記憶が雪人ゆきひとにはない。いや、断片的にだが、駿我するがに自身の欲望を叩きつけ、吐き出した記憶はある。気付けば駿我するがはいなくなっており、茫然自失の体でベッドで横になっていた。


「うぅ……気持ち悪い……」


 視界がぼやけ、堪えきれない吐き気に襲われて急いでトイレへ向かう。そこでげぇげぇと吐くが、何も食べていないせいで胃液しか出てこない。吐き終わった途端、今度は涙が溢れ、トイレの中でしばらく泣いた。


「……やっぱりあれって……ドラッグだよな……」


 雪人ゆきひとも馬鹿ではない。自身の身に起きている不調は薬物によるものだと察している。初めて駿我するがに抱かれた時は錠剤を飲まされた記憶はないが……


 あの後で薬物に関して色々と調べ、直腸から吸収させる方法もあると知った。そうなると色々と納得がいく。駿我するがとの行為中は時間の感覚が飛ぶ。気付けば三、四時間経過していることもあった。事後の体の火照りやその後の悪寒。視界がぼやけることや堪えきれない吐き気。それに加え……


 例のポルターガイスト現象や幻覚だ。あれからも何度か幻覚は見た。あの日と同じ、裸体で虚ろな目をした女性の幻覚。現れると必ず雪人ゆきひとの腕を引っ張り、どこかへ連れて行こうとする。決まって雪人ゆきひと駿我するがとは別の部屋にいる時に現れるのだが……


 幻覚は何度か言葉を発したこともあった。声はひどく聞き取りづらくはあったが、「ニゲテ」「ハヤク」と、まるで雪人ゆきひとをこの家から逃がそうと──いや、おそらく駿我するがから逃がそうとしているように感じた。


「分かってる……たぶんあれは俺の本心が見せる幻覚なんだよな……」


 そう雪人ゆきひとが呟くが、果たして現れる女性は薬物によってもたらされた幻覚か……


 それとも人ならざるなのか──

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