第3話 奥戸雪人 3


 これを聞いた瞬間、雪人ゆきひと鷹臣たかおみの頬をっていた。伽藍胴がらんどう殺人事件とは、今から四年前──二〇一二年の夏にした猟奇殺人事件であり、未だ犯人が捕まっていない事件の通称である。


 容疑者は被害者である女性の元交際相手とその弟。報道されている情報では下野正樹しものまさき下野学しものまなぶという名前だったはずだ。そんなことは鷹臣たかおみも知っているはずだが……


 あろうことか鷹臣たかおみは、まるで駿我するがが犯人のような言い方をした。もし仮に冗談なのだとしても度が過ぎている。雪人ゆきひとは心から信頼していた男の口から投げかけられた、信じられない言葉に涙した。そのまま鷹臣たかおみをテラス席から引き摺り出し、「最低だな鷹臣たかおみ。もう俺に関わらないでくれ」と、追い返したのだ。


 その際鷹臣たかおみは「待ってくれ雪人ゆきひと」「一度僕の話を聞いてくれ」と言っていたが、「いいから帰れよ! 二度と連絡してくるな!」と、取り合わなかった。


 その後雪人ゆきひとは茫然自失となって自宅に戻ったのだが……


 その傍らには駿我するががいた。駿我するがは寝室で泣き崩れる雪人ゆきひとを抱きしめ、唇を重ねた。柔らかい桜色の唇をこじ開け、侵入する駿我するがの一部。男に唇を奪われた雪人ゆきひとは突然の出来事に驚き、自身を抱きしめる駿我するがを跳ね除けようとしたが……


 気付けば駿我するがをその身の内に受け入れていた。鈍い痛みが走ったが、そんなものはどうでもよかった。体の奥が熱くなり、自分は男を好きな訳では無いのに異様に興奮した。雪人ゆきひと駿我するがに抱かれながら、鷹臣たかおみを喪失した穴を埋めようとでもしていたのだろうか……


 涙と嗚咽を漏らし、駿我するがに身を預けた。いや、お互いに求め合ったと言った方が適切だろうか──


 気付けば時間が飛んでいた。求め合っている間は他のことなどはどうでもよく、ふと見た時計は自宅に戻ってきてから三時間も経過していた。


「そう言えばあの時……」


 駿我するがに初めて抱かれた時のことなのだが、不思議な現象が起きている。ベッドボードに置かれた日記帳が、ばさりと落ちたのだ。続けてポータブルのゲーム機がごとりと動き、テーブルランプの柔らかな灯りが明滅した。


「あれがポルターガイストってやつか……?」


 当時の不思議な現象を思い出し、雪人ゆきひとがそう声を漏らしたと同時、ぞくりと嫌な悪寒が走る。寒くはないはずなのだが、がたがたと体が震える。寝室とキッチンを繋ぐ廊下からはただならぬ気配が漂い、言いようのない恐怖に身動きが取れない。


 ギィ──


 廊下とキッチンを繋ぐ扉が、ゆっくりと開いていく。開いた扉の先はただの廊下のはずなのだが……


 まるで異界へと通じているかのように、寒々しい空気が漏れ出ている。


 見てはだめだ。見ていてはだめだ。頭ではそう分かっているのだが、ゆっくりと開かれていく扉の隙間から、目を離すことが出来ない。呼吸することも忘れ、冷や汗が止まらない。


 どれぐらい見つめていただろうか──開かれた扉が作り出す、を繋ぐ裂け目。あの世とこの世の境。


 気付けば雪人ゆきひとの視線の先──


 黒く長い髪に、血の気のない華奢で真っ白な肌。両胸の膨らみや局部の形状から女性だと思われるが佇んでいた。雪人ゆきひとの口からは「ひっ……」と、短い悲鳴が漏れる。


 はゆらゆらと揺らめきながら、焦点の合わない目で雪人ゆきひとを見つめ、ゆっくりと近付いて来る。


「あああっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃっ!! こ、来ないで! 来ないでくださいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」


 そんな涙ながらの懇願も虚しくがじりじりと近付き、気付けば雪人ゆきひとの目と鼻の先まで迫っていた。あまりの恐怖にその場にへたり込んでしまった雪人ゆきひとを、更なる恐怖が襲う。


 眼前に迫った雪人ゆきひとの腕を掴み、ぐいぐいと引っ張るのだ。相変わらず焦点の合わない目でじっと雪人ゆきひとを見つめ、どこへ連れて行こうというのだろうか──


 仄白く生気のない指が雪人ゆきひとの腕に食い込み、血が滲む。


「嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! お! 俺がなにしたっていうんだ! はな! 離してぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 そんな雪人ゆきひとの叫びも抵抗も意に介さず、腕を引く力は更に強まっていく。そのままずるずると床を引き摺られ、このままでは扉の向こう側、へ連れ去られてしまう──と、雪人ゆきひとは無我夢中で暴れた。


 そんな半狂乱で喚く雪人ゆきひとの耳に「どうしたんですか桜子おうこ先生」と、聞き慣れた声が唐突に聞こえた。その声は扉の向こう側、廊下から発された駿我するがの声だ。それと同時、雪人ゆきひとの腕を引っ張るは消え去っていた。


「い! 今! そこ! そこに! 女の人が!! いや違う違う! 幽霊! そう幽霊がい──」


 「大丈夫ですよ」と、駿我するが雪人ゆきひとを抱きしめる。だが雪人ゆきひとは、「何が大丈夫だって言うんだ! 俺の腕を! そう! そうだ! 血が! 血が滲んだんだ!」と、先程の指が食い込み、血が滲んだ腕を見せた。


「血なんて出ていませんよ?」


 そう駿我するがに言われ、雪人ゆきひとが自身の腕を見る。確かに先程は腕から血が滲んでいた。引っ張られた感触も残っている。だが……


 に掴まれ、血が滲んでいたはずの腕にはなんの痕跡もなかった。あの恐怖は本物だった。あの痛みは本物だった。あれは幻覚だったとでも言うのだろうか……


 自身の腕を見つめ、困惑する雪人ゆきひと駿我するががそっと唇を重ねる。そのまま子供をあやすように背中をぽんぽんと擦り、名残惜しそうに唇を離して声をかける。


桜子おうこ先生は怖い夢でも見ていたんですよ。僕が忘れさせてあげますから──」


 そう言って駿我するが雪人ゆきひとの手を引き、再び寝室へと向かった。

 

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