第2話 奥戸雪人 2


「あぁ……」


 なんでこんなことになっているんだ俺は──と、桜子おうこが汗ばむ体で後悔の声を漏らす。そのまま事後の熱で上気した肌をシルク製の毛布で包み、自身の隣を見る。そこには先程まで桜子おうこを快楽の沼へと沈めた張本人が、美しい顔で眠っている。


 本当になんでこうなったんだ──と、再び桜子おうこの口からは悔恨の声が漏れた。どれだけの時間求め合ったのか定かではない。ベッドからゆっくりと立ち上がるが、目が霞んでふらふらする。軽い嘔吐感と気怠い体。とりあえず気持ちを落ち着けるために寝室を出て、キッチンに置かれたウォーターサーバーの水を一気に飲み干す。水は桜子おうこの口腔内に残る駿我するが残滓ざんしを洗い流すかのようで、幾分か気持ちが楽になった。


 桜子おうこはこれまで男性を好きになったことなど一度もない。ましてや体を預け、こんな関係になるなど想像もしていなかった。


 だがその考えはいとも容易たやすく覆された。駿我するがに体を預け、快楽に身を委ねている間は「男だ女だなんて関係ない」と思ってさえしまう。結局は事後に後悔することにはなるのだが……


 駿我するがには抗いようのない魅力がある。もはや魔力と言っても過言ではないが、駿我するがの向こうに透けて見える。


「くそ……助けてくれよ鷹臣たかおみ……」


 桜子おうこが「鷹臣たかおみ」と口に出してハッとする。


「……何言ってるんだよ俺は……拒絶したのは俺じゃないか……」


 鷹臣たかおみとは桜子おうこ従兄弟いとこであり、よき友人のことである。事情があって高校卒業時からの付き合いなのだが、桜子おうこは今現在二十六歳。付き合いも八年目へと突入している。鷹臣たかおみとは語り尽くせないほどに色々とあった。信じられないような出来事に遭遇し、助けられ……


 その経験を元に本を出版するに至り、作家として生計を立てることとなった。くだん駿我するが桜子おうこの担当編集であり、桜子おうこという呼び名はペンネームだ。本名は奥戸雪人おくどゆきひとという。


 この桜子おうこというペンネームは、雪人ゆきひとの苗字である奥戸おくどをもじったものである。奥戸おくどを音読みすることで奥戸おうことなり、そこから字面じづらのいい桜子おうこへと変えた。ペンネームを鷹臣たかおみに伝えた時も「いいんじゃないですか?」と、柔らかい笑顔を見せてくれていた。


 デビュー作である【知りたがりの丸眼鏡】を書き上げた時も、まず初めに鷹臣たかおみに読んで貰っている。なぜならば知りたがりの丸眼鏡は──


 鷹臣たかおみをモデルとした物語なのだ。それもあって本人に了承を得てからでなければ公募に出せないと思ったから……


 というのは体のいい言い訳で、どうしても鷹臣たかおみに読んで貰いたかった理由がある。それは作中に鷹臣たかおみに対する感謝の気持ちを書き記していたからである。素直ではない雪人ゆきひとなりの感謝の形。一通り目を通し終えた鷹臣たかおみは、「相変わらず雪人ゆきひとは素直じゃないですね」と、とても嬉しそうに笑っていた。


 男性を好きになったことなど一度もないと自負している雪人ゆきひとだが、実はこの時の鷹臣たかおみの笑顔に心拍数が上がったことは内緒だ。鷹臣たかおみ駿我するがのように黒髪短髪で切れ長の目。トレードマークの金縁丸眼鏡の奥から注がれる視線は力強く、まるで自身の心も体も全て丸裸にされるようで──


「マジかよ……違うんだって……」


 鷹臣たかおみのことを考えながら力無い声が漏れる。拒絶したのは自分なのだが、今すぐにでも会いたい。初めての担当編集である駿我するがとの歪んだ関係から救い出して貰いたい。だがいくら望んでもそれは叶わない。自分から鷹臣たかおみに言ったのだ。


 最低だな鷹臣たかおみ──


 もう俺に関わらないでくれ──


 と。


 そう言ってしまったのにも訳がある。雪人ゆきひとは自分に担当編集が付いたことが嬉しくて、鷹臣たかおみ駿我するがを紹介したのだ。駿我するがが担当になったのは一年前なのだが、お互いに予定を調整し、ようやく一ヶ月前に都内のカフェで会う機会を設けることが出来た。お洒落なカフェ。開放的なテラス席。楽しい場になるはずだった。鷹臣たかおみ駿我するがを気に入ってくれると思っていた。だが……


 鷹臣たかおみ駿我するがに会った途端しばらく睨みつけ、開口一番とても失礼なことを言ったのだ。


 この男はやめておけ雪人ゆきひと──

 申し訳ないが雪人ゆきひとの担当から外れて貰えないか──


 と。


 雪人ゆきひとは突然の失礼な発言に憤慨し、「何を言ってるんだ鷹臣たかおみ! ふざけるな!」と、鷹臣たかおみに掴みかかった。だが鷹臣たかおみはそんな雪人ゆきひとを無視し、駿我するがに対して意味不明かつ信じられないほどに失礼な言葉を続けた。


 伽藍胴がらんどう殺人事件を知っていますか──

 田村凛花たむらりんかさんを知っていますか──

 ナカノタクマという名に聞き覚えはありませんか──

 ──

 ──


 と。


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