奥戸雪人/全6話

第1話 奥戸雪人 1

 ──二〇一六年九月、東京


 静かな室内に、かたかたとキーボードを打つ音が響く。それは脳内で構築された物語を、眼前のディスプレイに刻み込む不規則なリズム。と同時に、このキーボードを打つ男性にとっては、規則的な生活習慣に組み込まれつつあるリズムでもある。


 男性──と表現はしたが、ノートパソコンに向かい合っているのは栗色のボブカットにくりっとした二重、華奢な体に白い肌、一見して女性を思わせる中性的な魅力を漂わせた男性だ。


 ちゃんとレンズは僕の視力に合わせたけどね──


 最後の一文を打ち終えた男性がEnterエンターキーを力強く叩く。


「……なんとかなりませんか? そのEnterエンターキーを強く叩く癖。桜子おうこ先生の悪い癖ですよ」


 今しがた文章を書き終えた男性の後ろから、これまた男性の声が上がる。


「相変わらず駿我するがはうるさいなぁ。別にこれくらいはいいだろ? それにむず痒いからその名前で呼ばないでくれって言ってるじゃないか」

「僕にとって桜子おうこ先生は桜子おうこ先生です。それにEnterエンターキー問題は桜子おうこ先生の為でもあるんですよ? わりと嫌われる不快な音の上位だと思うので。それより……」


 「終わったんなら原稿見せてください」と、駿我するがと呼ばれた黒髪短髪の男が桜子おうこの背後からディスプレイを覗き込む。その際、駿我するがの左手が桜子おうこの左肩に添えられ、右手を伸ばして卓上のマウスをかちかちといじる。


「だ、だからいつも近いんだって! 俺の肩に手を乗せる意味を教えてくれ!」


 桜子おうこが抗議しながら駿我するがの顔を伺うが、当の本人は真剣な表情でディスプレイを見つめながらマウスをいじり、桜子おうこの抗議に無反応という反応を示す。ただ目を通している原稿に対しては反応を示し、「なるほど」「いいんじゃないですか」と、声を漏らす。その原稿に向き合う駿我するがの切れ長の目がようやく桜子おうこに向けられ、「お疲れ様です。桜子おうこ先生」と言って、柔らかい笑顔を見せた。


 桜子おうこは不覚にもこの笑顔にどきっとしてしまい、慌てて目を逸らせた。仮にも男同士。自分はなんで男にどきっとしているんだ──と、桜子おうこが頭を振る。


「どうしたんですか桜子おうこ先生?」


 そんな挙動不審な桜子おうこ駿我するがの顔が近付いて問いかける。長い睫毛。薄い唇。すっと通った鼻筋に、肌理きめの細かい肌。この駿我するがという男はため息が出るほど──


 美しい。


 駿我するがを見ていると、男だ女だという問題は些細なことに思えてしまう。人は圧倒的に美しいものを前にすると言葉を失うと言うが、桜子おうこ駿我するがを前にして度々たびたび言葉を失ってしまう。


 見入ってしまうのだ。


 美しい外見に。


 魅入ってしまうのだ。


 己の心が。


 そんな心の内を悟られまいと、桜子おうこは俯いて黙る。


「まったくしょうがないですね。桜子おうこ先生は……」


 そう言って駿我するがが俯く桜子おうこの顎をくいっと持ち上げ、優しく唇を重ねる。桜子おうこが「や、やめ……」と声を漏らすが、その声は駿我するがが無遠慮に侵入させた舌によって阻まれた。そのまま華奢な桜子おうこの体がふわりと持ち上げられ──


 間もなく寝室のベッドへぽすんと落とされた。もちろん桜子おうこは寝室へ移動するまでの間、「は、離せよ!」「やめろって!」と、抵抗の意思を示したのだが、その度に駿我するがの唇によって言葉を奪われた。


「だ、だから俺にその気はないって何度も──」


 ベッドの上で瞳を潤ませた桜子おうこが、場の流れに抗議しようとして再び唇を塞がれ、体の芯が熱くなる。抵抗してはいるが、寝室にはアナログの時計が刻む秒針の音と、駿我するがによってもたらされる湿った音が響く。


「……その気はないと言いながら、ここは素直なんですね?」


 駿我するがが意地の悪い笑みを浮かべ、桜子おうこの体をまさぐる。


「それにしても桜子おうこ先生は本当に。体はしっかりと男性なのに、触れるまでそのことに気付かせないほどに女性的な外見……」


 「僕は整った外見が好きなんです」と言って、駿我するがが自身のシャツのボタンを外す。ボタンが外され、するりするりと現れる彫刻のような駿我するがの裸体。ほくろの位置まで計算されたように美しく感じてしまう。そのまま駿我するがは濡れた瞳で見つめてくる桜子おうこの服に手をかけ……


 快楽の沼へとずぶずぶ沈めていった。


 

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