カワカミ様
高宮咲
カワカミ様
爺ちゃんが死んだ。父方の爺ちゃんは、孫が遊びに来ると顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。
爺ちゃんは畑を持っており、孫の為に大好きなとうもろこしを育て、収穫しては婆ちゃんが茹でて待っていてくれた。
爺ちゃん母が待っている田舎に遊びに行くのは、正月と盆の時期。遠方の為年に二度行くくらいだったが、俺はその二度の帰省が嬉しかった。
もっと会いに行けば良かったなと今更すぎる後悔をして、俺は爺ちゃんの遺影をじっと見つめる。子供の頃は毎年二回必ず会いに行っていたのに、いつの頃からだったか全く会いに行かなくなった。俺が行かないと言ったのか、それとも両親の仕事の都合だったのか、それは分からない。思い出そうとしても、頭の中に靄がかかったようになって思い出せないのだ。
「正樹、行くぞ」
「ん」
親父に声をかけられ、俺は火葬場に向かう爺ちゃんの棺を追いかける。着慣れない礼服は何となく動き難くて、成人式の時みたいだななんてどうでも良い事を考える。
スンスンと鼻を鳴らす誰かがいて、爺ちゃんは泣きながら見送られるくらい好かれていたんだなと何だか安心した。
「正樹」
後ろから声をかけられ、俺はそっちを振り向いた。母さんが呼んだんだと思ったのだが、母さんは親父と一緒に前を歩いている筈だ。
振り向いてはみたものの、葬儀会場の中はがらりとしており、もう誰も残っていない。
笑顔の爺ちゃんの遺影が外され、花しか残っていなかった。
おかしいなと首を捻り、親戚たちを追いかけたが、やっぱりあの声は気のせいじゃないような気がして落ち着かなかった。
◆◆◆
「直樹、すぐ帰りなさい」
葬儀も火葬も終え、婆ちゃんと一緒に爺ちゃんの家に帰った。帰るなり婆ちゃんは、親父に向かって厳しい顔をして言った。
「なんだよお袋…久しぶりに帰った息子に向かって冷たいな」
「お前、自分の息子に何があったか忘れたのかい!」
婆ちゃんが怒っている姿を初めて見た。驚いていると、隣に座っている母さんも困り顔で正座をしたまま膝の上でソワソワと手を動かしている。
「色々話す事もあるしさ…一晩泊まるくらい良いだろ」
「話す事なんか無いよ!帰りな!」
「そんな事言ったってよ…母ちゃん一人でこの家に住み続けるつもりか?免許も持ってないくせにこのド田舎で?買い物すら苦労するのに?」
親父の言う通り、祖父母が住んでいるこの土地はド田舎だ。駅すら無い、バスも一日数本しか無いようなこのド田舎に婆ちゃん一人にするのは親父も心配なのだろう。
「明子も良いって言ってくれてるし、東京で一緒に住もう。この家は手放して、土地も売れば多少の金になるだろうし…」
「そんな心配しなくて良い!」
目を吊り上げて婆ちゃんが怒鳴る。昔はいつもニコニコしていた筈なのに、どうしてそんなに怒鳴るのか分からなかった。
子供の頃遊びに来ると、いつもニコニコと穏やかに微笑みながら「いらっしゃい」と歓迎してくれていたのに、どうしてこんなに追い返そうとするのだろう。
最後に来た時に酷く揉めたのだろうか。俺は何も覚えていないし、両親は婆ちゃんに対して悪い感情は抱いていないように見える。もし何か揉めるような事があったのなら、同居をしようと誘う事は無いだろう。
「婆ちゃん、俺来たらまずかった?」
何だか不安になってそう聞いてみた。婆ちゃんはすぐに悲しそうな顔をして首を振って、声を震わせる。
「大事な孫なんだから、会えて嬉しいよ。お爺ちゃんも、まさちゃんにずっと会いたがってた」
「じゃあ、何で追い返そうとするの?」
東京の自宅からここまで、車で五時間もかけてきたのだ。少しゆっくりしてから帰るくらいは許してほしい。歓迎されない事も悲しかったが、また長時間車に押し込められるのが嫌だった。
「あーもう!ウダウダ言うな疲れてるんだから!正樹、風呂行け」
「あ、うん…分かった」
線香の匂いが染みついた礼服を脱ぎたかったし、気まずい雰囲気のこの場所に居続けるのは苦痛だった。これ幸いとさっさと抜け出し、久しぶりに脱衣場に向かって気付いたが、帰って来たばかりで風呂など沸かされていなかった。もう面倒だからシャワーで済ませよう。
玄関に置きっぱなしの鞄から着替えを出し、俺は服を脱いで風呂場に入る。ひやりと冷たいタイルの床に一瞬鳥肌が立った。そういえば正月に遊びに来た時、風呂に入るのが憂鬱だったのはこの冷たい床のせいだった事を思い出し、シャワーからお湯を出す。
水が温まるまで少し待つ間、寒さを紛らわせるようにその場で軽く跳ねた。寒いから早く温まれと胸の内で念じているうちに、思っていたよりも早くお湯が出た。
「さっむ…」
「正樹」
耳元で聞こえた女の声。母さんの声とは違う、若い女の声だった。誰だと振り向いてみても誰もいない。何だか今日はやけに聞き覚えの無い女の声がする。幻聴か?と首を傾げて姿勢を戻すと、湯気で曇った鏡に何かが映っている。
俺の体だけではない。俺の後ろに何かがいる。
ぼんやりと人の形を成しているように見えるそれは、俺の背中にぴっとりとくっ付いているように見えた。
恐る恐るもう一度振り向いたが、やっぱり誰もいない。何なんだと溜息を吐いてまた鏡の方を見たが、もう俺の体以外は何も映っていなかった。
◆◆◆
シャワーから出ても、まだ親父と婆ちゃんは揉めていた。帰る帰らないの話ではなく、同居するしないの話で揉めているようで、母さんも困り顔で俺に助けを求めていた。
「産まれも育ちもこの村なんだよ。今更出られるもんかい」
「絶対東京の方が良いって!病院行くのだって苦労しないぜ?」
「年寄り扱いするんじゃない」
「年寄りだろ?もう八十近いんだから」
呆れた溜息を吐く親父が、どう婆ちゃんを説得するか考える。居心地の悪そうな母さんにこっそりと「お風呂行きなよ」と耳打ちすると、母さんはこれ幸いと仏間を出て風呂に向かう。
「もー、爺ちゃんの葬式終わったばっかで揉めんなよ。婆ちゃんが嫌がってるなら無理して同居する事無いんじゃないの?」
「お前が口出すな」
親父に睨まれたが、婆ちゃんは「息子に当たるな」と親父を叱る。婆ちゃんが味方をしてくれたのは嬉しいが、廊下から聞こえた母さんの小さな悲鳴の方が気になって、俺は閉じられた襖をそっと開く。
「母さん、どうかした?」
玄関の荷物から着替えを出そうとしたらしい母さんは、玄関でへたり込んだまま震えていた。
「ま、まさ…あ…」
「母さん?!」
ガクガクと震える母さんは、玄関の扉を指差して俺の名前を呼ぼうとした。言葉にならないようで、顔色を真っ青にしている母さんに駆け寄ると、母さんは震える手で俺の腕を掴んだ。
「迎えが来た」
「迎え?何?」
今度は婆ちゃんのお迎え?とボケるタイミングで無い事は分かっている。そもそもこれだけ何かに怯えて震えている母さんに冗談を言っても怒られるだけだろう。
「明子、どうした?」
「迎え…迎えが…やっぱり来ちゃいけなかったのよ!」
後から出て来た親父に、母さんは泣き叫びながら靴を投げつける。痛いと怒った親父は、何が何だか分かっていないようだったが、仏間の前で動きを止めた婆ちゃんは顔を真っ青にして小刻みに震えていた。
「カワカミ様…」
「かわ…?何?」
「あなた、すぐ帰りましょう!正樹が連れて行かれちゃう!」
「もう遅いよ!」
婆ちゃんが叫んだ。がっくりと膝から崩れ落ち、婆ちゃんは顔を覆って泣く。迎えって何?遅いってどういう事?と聞きたいのに、泣き叫んでいる母さんに縋りつかれてそれどころではなかった。
「忘れたの?!この子が魅入られたって大騒ぎになったのに!葬儀が終わったらすぐ帰るって言ったじゃない!」
「ちょ…母さん何?ちょっと落ち着けって」
いい加減にしろと母さんの腕を掴んだが、母さんはギッと親父を睨みつけたまま俺の方を見ようとはしなかった。
「まさちゃん、今夜は眠っちゃいけないよ。朝になったらすぐ帰りな」
涙声の婆ちゃんがそう言った。疲れているのに眠ってはいけないとはどういう事なのか。意味も分からず、縋られているこの状況をどうしようか考えるしかなかった。
◆◆◆
婆ちゃんはひとしきり泣いて落ち着くと、俺を仏間に押し込んだ。ここなら少しは安心だからと言うのだが、何故仏間が安心なのかは分からない。
更に分からないのが、母さんは絶対に仏間に入ってはいけないと言った事だ。ついでに婆ちゃんも朝まで仏間に入れないと言って、俺に必要なものやらの世話は親父がする事になった。
仏間の中と廊下に別れての会話は何だか落ち着かないが、もう婆ちゃんは怒鳴ったりしない。真剣な顔をしてはいるが、以前の婆ちゃんと同じ、優しい声だった。
「直樹、お前の息子だよ、お前が守りな」
「お、おお…分かった」
何事かよく分かっていない親父は、眉間に皺を寄せながらコクコクと頷いているが、俺も俺で何から守られるのかよく分からなかった。
「トイレどうしたら良い?」
「桶持ってきてあげようね」
「マジで!?」
勘弁してくれよと頭を抱えたが、婆ちゃんは本気で俺を仏間から出さないつもりのようで、一歩でも出ようとすると「出るな!」と大声で怒鳴られた。
「良いかいまさちゃん、誰の声が聞こえても、絶対に返事をしてはいけないよ。朝になって、婆ちゃんが襖を開くまで出ちゃいけん。良いね?」
「ん…分かった」
これ以上怒鳴られるのも嫌だったし、先程仏間に入る前にトイレも済ませたし暫くは大丈夫だろう。荷物も全部仏間に持って来たからスマホの充電器もあるし、暇を潰すくらいは出来るだろう。
「明子さん、絶対に仏間には入らない。良いね」
「はい、お義母さん」
「それじゃあ二人共、また朝にね」
婆ちゃんはそう言って襖を閉じた。外で小さな鈴の音がしたが、きっとそれは俺か親父が襖を開いたらすぐに分かるように印のつもりなんだと思う。
親父と二人きりで仏間にいるのは何だか落ち着かないが、それは親父も同じなようでソワソワと落ち着きが無かった。
「なあ親父、色々聞きたいんだけど」
「…だよな」
「カワカミ様って何」
じっと親父を見つめながらそう聞いた。親父はごほんと咳払いをして、所々言葉を詰まらせながら説明してくれた。
カワカミ様とは、祖父母が暮らすこの村に伝わる荒神らしい。親父も詳しい事は知らないらしいが、昔から川の上流から流れて来たものを拾ってはいけないと子供たちはきつく言い聞かされる。もし拾ったら、カワカミ様が迎えに来る。村の外までは追って来ないが、村の中にいればどこまでも追いかけてくる。夜になると迎えに来たと言って家の中に現れるとされ、カワカミ様と会話をすると必ず連れて行かれてしまうのだそうだ。
「俺、川行ってないけど?子供の頃も川には行くなって言われてたし」
「…そうなんだよな」
おかしいねと二人で首を傾げていると、ふいにどこからか声がした。
「正樹」
女の声だと分かったが、誰の声なのかは分からない。返事をしようと口を開きかけたが、慌てて口を噤む。
カリカリと玄関の扉のすりガラスを引っ掻くような音がして、廊下で母さんが小さな悲鳴を上げた声が聞こえた。
「婿殿、婿殿」
ちらりと親父の顔を見ると、顔を青くさせてふるふると震えている。何か知っているのでは?と睨んでみたが、親父は襖を睨みつけたまま動かなかった。
「返事、すんなよ」
こくこくと頷くだけに留めたが、まだ廊下の先、玄関から俺を呼ぶ声がする。
いつまで耐えれば良いのだろう。正直まだ何かの茶番に付き合わされているような気がしているのだが、親父の様子を見ていると冗談ではないような気がした。
「お帰りください!」
婆ちゃんが叫ぶ声がした。カリカリという音が一瞬止まったかと思うと、今度はガラスが割れてしまうのではと思う程激しく殴る音が響く。
思わずびくりと体を揺らしたが、それは親父も同じだった。
「婿、返せ」
「ひっ…」
「お、おかあさ…お酒…!」
母さんの声がして、廊下の板が軋む音がした。婆ちゃんと母さんのどっちが歩いているのか分からないが、どちらにしても扉を殴りつける何かの元へ向かうのは危険だと思った。
「母さん!明子!大丈夫か!」
襖の向こうに向かって叫んだ親父の顔色は悪い。出ようと手を掛けたが、開く前に婆ちゃんが「開けるんじゃない」と叫んだ。
何がどうなっているのだろう。婆ちゃんが帰れと叫んでいる相手が、「カワカミ様」とやらなのだろうか。
動く事も出来ず、ただ黙って震える事しか出来ないのが不甲斐ないが、対処法が分からないのだから仕方ない。
「返せ」
ねっとりとした嫌な声と共に、悔し紛れなのかもう一度玄関の扉がバンと叩かれた。
母さんが悲鳴を上げたが、相変わらず何が起きているのか分からない。ただ一つ分かったのは、ひとまず危機は去ったらしいという事。
「何なんだ…」
「俺の…俺のせい…」
ぶるぶると震える親父が小さく呟く声がした。どうしたのだと聞いてみたが、親父は頭を抱えて畳に額を擦り付けて蹲っていた。
「不審者?警察呼んだ方が…」
「警察なんか役に立たない!来るんじゃなかった…」
警察なんて役に立たないと叫んだ親父にどう反応すれば良かったのか分からない。来なければ良かったと今更な事を言われても、葬儀に行くぞと言ったのは親父だ。どうして連れて来たんだと文句を言えば良かったのかもしれないが、見た事の無い親父の姿を見ていると文句を言う気にはなれなかった。
「なあ、これどういう事?」
「俺が、拾ったんだ」
「何を」
「石だ。黒くて…丸い石」
ぽつぽつと親父が話し始める。
子供の頃、親父は友人と共に川に遊びに行ったそうだ。その時川の上流から光り輝く何かが流れてくる事に気が付き、それが何なのか気になって手に取った。
パワーストーンとして売られている小さな水晶玉のような、丸くてつるりとした真っ黒な石だったそうで、それがとても綺麗に思えて幼い親父はそれをポケットに捻じ込んで家に持って帰って来たそうだ。
「持って帰ったその日、親父にそれがバレたんだ。ぶん殴られて、そのまま拝みさんを呼ばれて…」
拝みさんとやらが何なのかはよく分からなかったが、続いた話から推測するに霊能者のような人らしい。
拝みさんが来て暫くすると、先程と同じように玄関の扉をガンガンと叩かれたのだと言う。その時は何とか拝みさんのおかげで帰ってもらう事が出来たのだが、カワカミ様とやらは「育つまで待とう」と笑いながら帰ったそうだ。
「じゃあ、親父が東京に出たのって…」
「中学まではこっちにいたんだが、拝みさんが村から出した方が良いって言うから…」
わざわざ東京の高校を受験し、かなり遠縁の親戚に預かってもらったらしい。拝みさん曰く、村から出て匂いが薄まれば、カワカミ様も気付かない。更に結婚して村の外に根を降ろせば、村の者では無くなるため安心だとの事で、親父は拝みさんに言われた通り東京で出会った母さんと結婚し、子供を作ったそうだ。
「お前を連れて帰って来た時も何も無かったから大丈夫だと思って…でも、何で今更」
「知らねぇよ…」
ぶるぶると震える親父の背中を見つめながら、俺はどうしようかと溜息を吐きながら仏壇を見つめる。会った事も無い曾祖父母の位牌が置いてあるのだが、そういえば手を合わせていなかったなと思い出して手を合わせた。
「まさちゃん」
婆ちゃんが廊下から呼んでいる。そう思って襖の方を見たのだが、口を開こうとした瞬間気付いてしまった。
声がしたのは廊下からではなく、反対の窓の方だったのだ。恐る恐る窓の方を振り向くが、当然婆ちゃんがそちらにいるとは思えない。
親父にも聞こえたようだが、俺の顔を見ながらぶんぶんと首を横に振っている。つまりこれは、返事をしてはいけないという事だ。
「まさちゃん、お返事してちょうだいな」
駄目だと口の動きだけでそう言った親父に、俺はコクコクと頷いて返す。二人揃って黙っているが、窓の外から聞こえる声は止まらない。ドンドンと窓が叩かれ始め、その音は徐々に大きくなってきた。窓が割れてしまうのではないかと恐ろしくなるが、しっかりと閉じられた襖の向こうの窓ガラスは何とか無事なようだ。
「正樹、正樹、正樹正樹正樹正樹正樹」
「っ…」
部屋の壁がスピーカーになったのではと思ってしまう程の大音量で女の声が響く。
思わず耳を抑えたが、それでも耳の奥が痛くなる程の大音量からは逃れられなかった。
隣に座っていた親父は涙を流し、何事かぶつぶつと呟いている。
「ごめんなさいごめんなさい許してください…」
「親父、しっかりしろって」
親父の背中を摩ってみたのだが、親父は正気を失ったように呟き続けていた。気が狂ってしまったのではと不安になったが、ふいに窓を叩く音も女の声も止まった。
シンと静まり返った部屋の中、聞こえるのは親父のすすり泣く声だけだった。
不審者なんかじゃないと、この時漸く思った。カワカミ様とやらが来た。正樹と名を呼んでいるのだから、きっと迎えに来たのは俺なのだろう。親父のせいで俺は狙われる。どうしてこんな目に遭わなければならないのだと苛立ったが、今更言っても仕方が無いのだろう。
朝になれば村から出られる。スマホを見て、あと六時間で村から出られると思ったが、六時間も耐えなければならない事に絶望感を覚えた。
「婿殿」
ふいに背後で声がした。
親子揃ってびくりと肩を揺らしたが、振り向く余裕はない。
ダラダラと背中に嫌な汗が伝う。背中だけではない。体中の穴という穴から汗が溢れて止まらなかった。
「正樹」
親父の背中に何かが触れた。視界の端にちらりと見えただけなのだが、真っ黒な何かが触れているのが見えた。
それが何なのか分からないが、部屋の中を満たす嫌な空気。その原因はきっと、親父の背中を撫でる「何か」なのだろう。
親父はヒューヒューと細い呼吸を繰り返し、可哀想になる程ガクガクと震えている。助けなくてはと思うのに、何故だか動く事が出来なかった。
「婿殿…正樹、裏切った」
女の声は親父に向かってそう言った。親父を「正樹」と呼んだのだ。何故親父をそう呼ぶのだろう。親父の名は「直樹」の筈だ。
「ひ…っ」
俺の首筋に何かが触れる。酷く冷たい、ぬるりとした感触の何か。恐ろしくて跳ね除ける事も出来ず、ガタガタと震える事しか出来ない。
きっと、親父の背中に触れる黒い何かが俺の首にも触れているのだろう。
俺の首筋に触れていた何かが突然離れた。女の声は小さく呻いたが、どうしてそうなったのかは分からなかった。
「…キヒッ」
女は楽し気に笑うと、ぽんぽんと俺の背中を撫でた。悪意の無い、単なる挨拶のような軽い感触だった。
「ちが…俺は、直樹…!正樹はそっちだ!」
「え…?」
親父が俺を指差してそう叫ぶ。確かにその通りなのだが、女の声が「正樹」と呼んでいたのは親父の方だ。まるで売られたような気がして、信じられないと親父の方を向いた。
そして見てしまった。
親父の背中を撫でる、真っ黒な人影を。辛うじて人の形をしてはいるが、その顔は蛆が湧き、ぶくぶくと膨れている。見た事は無いが、溺れて亡くなった方はこういう顔をしているのかもしれないと思った。
「俺じゃない!俺は正樹じゃない!」
「何で…親父…?」
「ほほ…のう、婿や。どちらが婿かえ?」
崩れた女の顔が、にたりと歪む。べちゃりと蛆が畳に落ちた瞬間、鼻を突く異臭。本能的に背筋が泡立つ嫌な匂いだった。
そうして気付く、女の顔の違和感。目がある筈の場所にぽっかりと開いた穴。目が無いと理解した瞬間、生理的な吐き気が俺を襲う。
なんとか胃袋の中身をぶちまけないように呼吸を止めたが、視線は女から外せないまま。
もう駄目だ、もうこれでおしまい、ここで死ぬ。そう思ったが、何故だか女は親父の背中に触れたまま、俺の方には近寄ろうとしなかった
「俺じゃ…俺じゃないのに…」
「婿殿…約束」
親父の背中に女がしなだれかかる。圧し掛かっていると言った方が正しいのだろうか。もうどう形容すれば良いのか分からないが、とにかく女は親父に体を寄せたのだ。
情けない悲鳴を上げ、親父はどうにかして逃げようと藻掻く。仏壇に向かって手を伸ばし、涙や鼻水、涎でべちゃべちゃになった顔で「ごめんなさい」を繰り返した。
女を背中に乗せたまま、親父は叫んだ。
「助けてください!誰か!」
親父の絶叫に重なるように、女の笑い声が響いた。そこまでは覚えているのだが、次の瞬間俺の視界は真っ黒に染まり、ぐじゅりとした嫌な感触が顔面に押し当てられ、そのまま気を失っていた。
◆◆◆
「正樹」
耳に誰かの声がする。ぼんやりした頭で、俺の名前を呼ばれているのだと理解した瞬間、俺は反射的に両手で口元を抑えた。
絶対に返事はしない、会話をしてはいけない。まだ終わらないのか、朝はまだかと絶叫したい気持ちを必死で抑えながら、俺は横になっていた体を起こして壁に向かって移動した。
「まさちゃん、まさちゃん大丈夫、婆ちゃんだよ」
「正樹…正樹良かった!正樹!」
俺を見下ろしていたらしい婆ちゃんと母さんだった。二人共ボロボロと大きな涙を零しており、母さんに至っては逃げた俺を追いかけてきてしっかりと抱きしめた。
鼻に届いたのは異臭などでは無い。久しぶりに嗅いだ、母さんの匂いだった。
「母さん…」
「ごめんね、ごめんね正樹」
声を上げて泣く母さんの腕の中で、俺は何がどうなったのか理解出来ないままぐるりと部屋を見回した。
黒い人影がいた辺りの畳は真っ黒に汚れており、親父の姿が無い。
「親父は…?」
「ミズカミ様が連れて行ったよ」
「何で…何だったんだよあれ!」
「教えてあげるから、まずは神社に行きましょうか。汚れちゃったからね」
涙を流したままの婆ちゃんはそう言って、静かに立ち上がる。黒い汚れを踏まないようにと言われ、俺は言われた通り汚れを避けて仏間を出た。数時間ぶりに仏間から出たが、家の中は仏間に入る前と何も変わらないように見えて安心した。
だが、玄関に行くとその安堵は掻き消される。すりガラスにべったりと付いた黒い何か。所々手形のようになっており、何者かが執拗に扉を叩いたのだと分かる。
「う…っ」
「靴を持って、勝手口から出ましょうね。明子さんもそうしてちょうだい」
俺の腕に縋りつき、まだ泣いている母さんは小さく頷いて俺に靴を渡してくれた。母さんと婆ちゃんはそれぞれ自分の靴を持ち、俺たちは黙って勝手口から外に出る。
静まり返った早朝の村は、これから人々が起き出すのだろう。無事に朝を迎えられた事に感謝しながら、俺は母さんとしっかり手を繋いで歩き出した。
◆◆◆
神社に着くなり、大慌てで走って来た宮司に鳥居を潜るなと怒鳴られた。後ろを付いて走って来た女性が両手に一升瓶を持っており、中身を俺たちに向かってぶちまける。それだけで終わりかと思ったのだが、宮司が持っていた白い紙が沢山ついたふさふさで俺の頭を何度も撫でた。婆ちゃんに後で教えてもらったが、御幣と言うらしい。
「カワカミ様か」
「息子が…この子の父親が連れて行かれました」
「直樹くんがか!」
宮司さんは親父の事を知っていたようで、目を丸くしたかと思うと大きな溜息を吐いて「どうして」と呟いた。
「とにかく、お入りなさい。清めなければ…」
呆然としている母さんを支えながら、俺は鳥居を潜る前に頭を下げた。昔からそうしているからやっただけなのだが、宮司さんはうんうんと小さく頷いて微笑んでくれた。
本殿と呼べば良いのだろうか。大きな建物に入り、宮司さん曰く「清めの儀」とやらを受けた。何を言っているのかは全く分からなかったが、きっとこれでもう大丈夫だと思う事が出来た。
儀式が終わり、俺たちは本殿の中で話を始める。先程酒を持って来た女性は宮司さんの奥さんだそうで、俺と母さんの荷物、車を取りに婆ちゃんの家に行ってくれた。
「それで、何があったのです?」
「昨晩、カワカミ様が我が家へ…婿を迎えに来たようです」
「まさか、直樹君は以前しっかりと儀式をした筈…私が行ったんだ」
宮司さんは信じられないと言いたげな顔をしているが、俺たちは一晩中恐ろしい思いをしたのだ。見てしまった異形の者を思い出し、俺はまた吐き気と戦う羽目になった。
「カワカミ様は、正樹と何度も繰り返しました。息子ではなく、孫の名を…」
婆ちゃんは声を震わせて、そのまま蹲って泣き出した。母さんは呆けたままで、話を聞いているのか分からない。
「あの…カワカミ様って一体…あれは何だったんですか?」
「君のお父さんはね、昔カワカミ様に魅入られ婿にされようとしていたんだ。私がそれを阻止したんだが…」
宮司さんは穏やかな声で、俺にも分かるように詳しく説明をしてくれた。昨晩親父から聞いた話と重なる部分が多かったが、宮司さん曰くカワカミ様は、神様ではなく悪霊なのだそうだ。
神様に捧げられた生贄だった女性の霊らしい。結婚を間近にしていたが、婚約者が川の氾濫で亡くなり、それを沈める為に川の上流で無理矢理沈められた。川に婚約者を奪われ、村の為に命をも奪われた。その恨みのせいなのか、それとも結婚生活に夢を見ていたからなのか、若い男で気に入った者がいると、贈り物をして連れて行ってしまうのだと言う。
「君のお父さんは、子供の頃カワカミ様に気に入られたんだ。その時はどうにかお帰りいただいて、なるべく早く村から出るように言ったんだ」
それなのに戻ってくるなんてと溜息を吐いて、宮司さんはじとりとした目で俺を見る。
居心地が悪いが、あれだけ怖い思いをしたのだからきちんと話を聞いておきたい。
親父に何があって、どこに消えてしまったのかを聞いておかなければいけないような気がした。
「カワカミ様はまず名前を聞くんだ。多分直樹君は、その時本当の名前を言わなかったんだろうね。だから以前のお迎えはあっさり帰ってもらえたんだと思う」
ぽつぽつと言葉を続ける宮司さんの話を聞きながら、俺はふと気になった。
カワカミ様は正樹と何度も繰り返していた。正樹とは俺の名だ。どうしてカワカミ様とやらに会った事も無い俺の名前を知っているのだろう。そこまで考えて、俺は恐ろしい事に思い至ってしまった。
「正樹って…名乗った、かも?」
「そうだと思う」
「…あの人、昔酔っぱらって私に言ったわ」
呆けていた母さんが、ふいに呟いた。何処を見ているのか分からない目をしたままだが、口元を緩めてケタケタと笑う姿は、とても恐ろしかった。
「結婚してすぐ、あの人は子供が欲しい、息子が欲しいって言ったの…名前は正樹、絶対に正樹にするって」
「…そういう事か」
何てことをと呟いた宮司さんは、額を抑えて頭を振った。
俺はよく分からなかったが、婆ちゃんは何か察したのか「馬鹿息子!」と叫んで床に突っ伏して大泣きし始めた。
「君のお父さんは、自分の名を正樹だと偽ったんだ。村の外に出て、匂いが薄まればもう安心だと私は言った。けれど、お父さんはそれじゃ不安だったんだろうね」
そこまで言って、宮司さんは言葉を一度切った。そして俺の肩にそっと触れ、俯きながら声を震わせる。
「自分の代わりに、カワカミ様に差し出す生贄にしようとしたんだと、思う」
「は…」
「村に近付かなければ、それで良かったのに」
たったそれだけで良かったのに、親父はどうして村に近付いたのだろう。わざわざ俺を連れて村に戻ったのは、カワカミ様に生贄として差し出す為だったと知ってしまった今、親父に対する尊敬の念だとか、楽しかった思い出などは全て霧散してしまった。
「あの人が何を考えていたかなんてどうでも良い…息子は、この子はもう心配無いんですか?無事でいられるんですか!」
血走った目で、母さんは宮司さんに掴み掛った。どうなんですか!と喚いた母さんにガクガクと揺さぶられる宮司さんは、「わかりません」と小さく呟きながら首を横に振った。
「偽りの名を息子に名付けた愚か者を私は知らない。息子さんがどうなるかは…何とも言えません」
「そんな…どうしたら良いんですか…?」
「二度とこの村に近付かない事。そうするしか逃れる術はありません」
「近付かなければ、この子は無事なんですね?そうなんですね!」
まだ宮司さんの腕を掴んで離さない母さんに、俺はそっと背中を摩って、引き剥がすしかない。泣き叫んでいる母さんは、心から俺を想ってくれているのだと思った。親父とは違って。
「早く帰りなさい。良いね、二度とこの地に来てはいけない。次はどうなるか分からないからね」
「まさちゃん、婆ちゃんたちの事は忘れてしまいなさい。お父さんの事も思い出さなくて良い。明子さん、馬鹿息子が苦労を掛けました」
深々と母さんに向かって頭を下げた婆ちゃんは、小刻みに肩を震わせている。
俺は悟った。もう二度と、婆ちゃんに会う事はない。村に遊びに来る事も無い。俺は死にたくない。昨晩見てしまったあの恐ろしい姿の何かに連れて行かれるなんて絶対に嫌だ。
「さよなら、婆ちゃん」
そう呟いた俺の声は、自分でも分かる程みっともなく震えていた。
◆◆◆
爺ちゃんの葬儀から五年が経った。
俺はあれから怖い思いをすることなく、平穏な日々を過ごしている。
婆ちゃんとは電話すらしていない。一度だけ爺ちゃんの命日に電話をしてみたのだが、婆ちゃんは出てくれなかった。
母さんも、あの日の事には触れようとしない。家にあった親父の物は全て処分した。行方不明という事になっているが、あと二年もすれば死亡扱いとなるだろう。母さんはそれで良いと言っているし、俺には最初から父親なんていなかったのだと思えとも言っていた。
俺は、今でもあの日の事を忘れる事が出来ない。親父が息子である俺を身代わりにしようとしたことを、どうやって忘れろと言うのだろう。
それから、俺は自分の名前を呼ばれるのが怖くなった。もしかして…なんて考えて身構えてしまうようになったし、本当に母さんの声なのか信じられなくなっていた。
恋人も出来たが、女の人に名前を呼ばれるのがどうしても怖くて、関係はすぐに破綻した。もうそれで良い、俺はずっと独り身で良い。
「おーい、お待たせ」
「おせぇよ」
久しぶりに会う友人が大きく手を振りながら歩いてくるのが見えた。今日は仕事も休みで、男二人で遊びに行くのだ。
「いい歳して彼女のいない寂しさよ…」
「…それな」
友人には、あの日の事は話していない。女の人の声が怖くなった事も言えずにいる。職場の一部で俺が同性愛者なのではないかと言われている事も知ってはいるが、もう好きに言ってくれて構わない。
今年もそろそろ爺ちゃんの命日が来る。婆ちゃんはどうしているのだろう。たった一人、あの家で暮らしているのだろうか。
少し寂しいような、そんな気分で俺は友人と並んで歩き出した。
カワカミ様 高宮咲 @takamiya_saku
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