辰の落とし子
有明 榮
辰の落とし子
今となっては昔のことだが、大陸の東の海に浮かぶ小さな島国の小さな池に、それはそれは年老いた辰が卵を産み落とした。
その辰は千年近くその国の山と川を行き来し、すべての生き物に慈愛を注いできた。しかし、それを続けるにも年を取りすぎてしまったと悟った辰は、芥子粒程の小さな卵に自分の命の全てを託し、池の中に静かに産み落として、その卵と池を守るようにうずくまって死んだ。その地は後に辰の亡骸を苗床としてたくさんの葦が生い茂ったので、辰ノ葦池と呼ばれている。
さて、数百年という永く静かな眠りから覚め、卵から孵った落とし子は、親と異なりヒトの形をしていた。親の辰は千年近くの永い永い命を抱えていたのに対し、その子の命は五十年生きることができるか否かの儚いものだった。むろんその子は命の短さも親の顔も知ることなく、裕福な若い夫婦に拾われ他の子らと同じようにすくすくと育っていった。その子は葦池のほとりの、蓮の花が咲いているあたりで拾われたことに基づいて、「華蓮」と名付けられた。
「葦池の神様が、子のない我々を哀れに思って授けてくださったのだろう」
「この子には、できる限りのことをしてあげましょう」
夫婦には子がなかったので蝶よ花よと愛情を注ぎ、その子が学校から帰ると優秀な教師に勉強を手伝わせ、休みの日には街中に連れ出してその子が望むものを与えた。華蓮は眉目秀麗だったので、親子三人で歩いている姿に目を止めない者はいなかった。暑中や新年の挨拶に周囲の人間や親戚が集ったときは、誰もが華蓮をかわいがり、華蓮もそれに応えるように、誰に習ったわけでもなく三つ指をついてちょこんとお辞儀をするので、それがますます笑いと驚きを誘った。
「ガサツなアンタと違って、妹に似たんでしょう」
「でもお義姉さん、うちの女房もあんなことは教えていないと言うんですよ。やはり葦池の神様のお遣いですよ」と、座敷で旦那は煙草をふかしながら首をひねっていた。
ある年の正月、曇天の街の市場を一人歩いていると、華蓮、と背後から呼び止める声がした。
「清太さん、明けましておめでとうございます。一人?」
「こちらこそ、明けましておめでとうございます。うん、さっき初詣に行ってきて、父さんと母さんはこれから親戚回りだって。大変だから先に帰ってなさい、って馬車で行っちゃったよ。華蓮は?」
「僕は、なんとなく。いつもお正月はいろんな人が来て疲れるから。街中が気楽だよ」
「でも、よくお許しが出たね」
「お母さんは渋い顔してたけど、もう十二だし、そろそろ一人で歩けるようになるのがいいだろうって、お父さんが」
「それで、いつもと同じ格好なんだね」
まあね、と灰色の羽織と小袖に黒い裁着袴という、いつも通りの簡素な服装をした華蓮は肩を竦めた。対する清太は灰色の袴に紫色の羽織という、いかにも晴れ着という出で立ちだった。遠くでは笛と太鼓のお囃子の音がしていた。
「そういえば、初詣はもう行った?」
「まだ行ってないよ。だって、どこも人多そうだもん」
「だと思って、ちょっと離れてるけど、静かなところ知ってるんだ。一緒に行こうぜ」
市場の大通りにはたくさんの人が詰めかけ、足元も見えない状態だった。先を行く清太は、はぐれるなよ、と華蓮の手を握った。その指先が、冬場とはいえ陶器のように冷たいので、清太は一瞬はっとして、その壊れそうな手を優しく握りなおした。
大通りを脇にそれた山のふもとにある神社は、清太の言う通り人が少ない。
「よくこんな場所知ってたね」
「この近くまで、ウチの山でさ。小さいときからよく走り回ってたんだよ」
「ふうん。めったにこっちにはこないから、全然知らなかった――あ、雨だ」
ぽつり、ぽつり、と雫が落ちる程度ではあったが、曇天の空がこらえきれなくなったように雨粒を落とし始めた。雨足が次第に強まり、次第にそれに合わせて風も次第に冷たくなっている。境内の軒下で「寒いね」と体を縮める華蓮に、清太は「――ああ」と少し肩を寄せた。
自分の手に残っている冷たくて柔い掌の感覚とは打って変わって、すぐそばに華蓮の体温があった。
華蓮は雨に濡れた枯れ葉がまとわりつくのも構わず、ただひたすら走った。山中に整備された道があるはずもなく、時折折れた枝や草が顔や腕に小さい無数の傷を作った。振り続ける雨に濡れ切った体が次第に動かなくなるのを感じながらも、それでも逃げるように走った。
「華蓮、待て、待ってくれ。俺はそんなつもりじゃ」と、背後から声がする。
うるさい、急にあんなことをするやつなんか、と、声にならない叫びが口の中で何度も木霊した。
「それ以上はだめだ。街に戻れなくなるから……その先は禁足地だぞ!」
立ち止まって見上げた先には二本の大きな苔むした樹が聳え立ち、その間には細いしめ縄が渡されている。帰ろう、と掴まれた手を振りはらって後ろも見ずに突き飛ばすと、華蓮は軋む体を無理やり前に動かした。
どれくらい走ったのか分からない。よほど空気が冷えているのか、霧ができて周りの景色が白み始めている。木々の間を縫うように走った先に、ぽっかりと開けた池があった。池の周りを守るように葦が生え、さらにその周りを太い木々が囲んでいる。池の向こうは霧で見えなくなっていた。
華蓮、と呼ぶ声が耳を打ち、華蓮は意を決して葦の間に分け入って行った。自分の背丈よりも高い葦が視界を塞ぎ、溺れそうなほどだった。不意に足元が空っぽになり、華蓮は池の中に吸い込まれた。無数にできた切り傷が染みるのも気にならないくらいの冷たさで、見た目とは裏腹に深く、足がつかない。頭を出そうとしたが、葦の茎が倒れるように伸びて水面を覆っており、頭を出すことができない。
水を吸った着物はずっしりと重くなり、ついに華蓮の口から一際大きな泡が吐き出された。沈んでいく華蓮の足先に、ふとごつごつと触れるものがある。その太さと表面からすると、木の根が伸びているらしい。池の底を覆う泥の中から、木の根の一部が顔を出しているのだ。
華蓮はふわりと寝転がるようにその根に重なった。池の底は時が止まったように静かで、それでいて指先が触れる泥は暖かい。鼓動が木の根に吸い込まれていくように、自分自身が同化していくように、世界が遠のいていく。
(なんだろう……こんな時なのに、何か懐かしい匂いがする。母さんのものでも、父さんのものでもない、懐かしい匂い……。嗅いだことはないけれど、知っている匂い)
その年の春頃、池を囲む葦の花が一斉に咲いた。同時に、池のあたりから何かが天に昇るのを見た、という噂が広まった。全国的に作物は不作で、飢餓が蔓延した。その街の人々は、葦池のほとりに小さな石の祠を建てた。
辰の落とし子 有明 榮 @hiroki980911
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます