人称篇「ほとんど誰にでもなれる」

 村上春樹は次のように述べています。


『小説を書いていて、いちばん楽しいと僕が感じることのひとつは、「なろうと思えば、自分は誰にでもなれるんだ」ということです』

(村上春樹『職業としての小説家』(新潮社)p.246)


 小説を書く上で初期に決めることのひとつは、一人称で書くか、三人称で書くかだと思います(二人称・神視点については、私個人が書いたことがないため、申し訳ありませんが、ここでは割愛させていただきます)。

 村上は、一人称視点で長編小説を書いていた時、ある種の限界を感じたそうです。

 というのも、一人称が「僕」であった場合、「僕」が知り得ない情報の開示は、なんらかの工夫が必要だからです(他の登場人物の語りや、書簡であったり)。


 とはいえ、私があえて言うまでもありませんが、一人称には一人称の良さがあります。

 私的に一人称は主観的な描写が得意で、特に心理描写が書きやすいと感じます。

 ここで個人的に好きな心理描写が記述されている、一人称小説を列挙してみます。本棚や床に山積みにされている本、押し入れにしまい込んでいる本をひっくりかえば、まだまだ出てきそうですが……。


 村上龍「限りなく透明に近いブルー」(講談社)

 梶井基次郎「檸檬」(新潮社)

 開高健「夏の闇」(新潮社)

 J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)


 ただ、村上に限っていえば、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』あたりから、一人称の機能限界を感じていたらしく、たしかに本作は文庫にすると上下巻構成で、『ねじまき鳥クロニクル』に至っては三部構成と、非常に長い。

 実際、村上が一人称だけを用いて書いた長編小説は、『ねじまき鳥クロニクル』が最後らしいです。

 村上は、一人称に別れを告げて、三人称だけを使って小説を書けるようになるまで、デビュー以来ほぼ二十年かかったと言っています。


 三人称へチェンジしたことで、村上は、自分が「ほとんど誰にでもなれる」という感覚を得たと言います。

 一人称小説を書くときは、主人公の「僕」を実際の自分ではないにせよ、場所・時間を変えられたなら、こうなっていたかもしれない自分の姿――〈広義の可能性としての自分〉として捉えていたそうです。

 最初の村上は、様々な可能性の中で「僕」を分割して枝分かれさせ、物語に放り込むやり方が合っていたのです。


 そして、村上は三人称へチェンジしたことで、自己を分割すると同時に、他の登場人物に自己を投影できるようになりました。その結果、この語りも複合的に枝分かれし、様々な方向へと広がっていきました。


 それこそ、私が言うまでもありませんが、やはり一人称・三人称はそれぞれ別の良さがあり、優劣をつけることはできません。村上の場合は、一人称から三人称に切り替えたことで、物語の広がり、登場人物のリアリティや自立性が生まれたようです。


 そのようにして、自分の書き方に合った人称を選び取る、そして、書き続ける内に変えてしまっても良いというのが、今回の結論です。

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