みぶり

海屋敷こるり

みぶり

「近所にさア、ほら、あったじゃない? カフェだか喫茶店だか」

 起き抜けにコーヒーを淹れながら、妻の冬子が言った。

「ああ、あった……かなぁ」

 寝起きの回らない頭で、私は適当に相槌を打つ。冬子は低血圧というものを知らない。ついさっき起きたばかりだというのに、湯を沸かす傍らでちゃきちゃきとキッチンの掃除をし、ついでに噂話まで繰り出している。

「適当だなぁ、ほら、駅に行く途中にあったじゃない。ツマミが全部高いくせに少なくてさ、二人で『こりゃ繁盛しないだろうね』とかなんとか言ったやつ」

「ああ、あのレンガ造りの建物の」

 「こりゃ繁盛しないだろうね」という会話を交わした店なら、確かに記憶にある。家から駅に行く途中の、住宅街のど真ん中にあるカフェバーだ。まだ若い女の店主が全てDIYで作り上げた内装がオシャレだと、地元の情報誌で小さく取り上げられていた。

 近所に行きつけの飲み屋が欲しいね、と常々思っていた私たちは、喜び勇んでその店に足を運んだが、正直言ってあまりいい店とは言い難い出来だった。

 この物価高の時代仕方のないことと言えばそれまでではあるが、酒も料理も高くて量が少ないのだ。結局、カクテルを一杯ずつと料理二品程度でそそくさと店を出て、それ以来一度もそこには行っていない。

「そうそう。あそこ、結構前に潰れたじゃない」

「えっ、そうなんだ」

「あんた知らなかったの? もう二年くらい前だよ。それからずっと空き家だったじゃない」

 実を言うと、そのカフェは私の通勤ルートの途中にあり、今まで毎日その店の前を通っていたはずなのだが、私は今の今までそのことに一切気が付いていなかった。

 バツが悪そうな私の返答を待たず、冬子は「まあいいや」と言って話を続けた。

「あそこ、最近外国人のたまり場になってるみたい。大麻とかやってそうでちょっとやだなぁ~、とか思っちゃう。あんた、なんか知ってたりしないかなって。それだけ」

 もちろん、「なんか」どころか外国人が出入りしているという事実すら知らない。

 冬子は話にならないと悟ったらしく、淹れたてのはずのコーヒーを一気に飲み干してさっさと家事を始めてしまった。

 

 *

 

 翌朝、通勤のため駅までの道のりを歩き出した私は昨日の冬子との会話を思い出した。例のカフェまでは、この道を三十秒ほど進んだ先にある。

 冬子の言う通り、確かにレンガ造りのカントリー調の建物は、カフェではなくなっているようだった。ガラス張りの入り口のドアには、英語や中国語、中東の言語など、複数の言語で刷られたチラシがいくつも張り付けてある。さらにドアの横の壁には、中東かインドネシアのどこかの国旗がでかでかと吊り下げられている。

 冬子は「外国人のたまり場」と言っていたが、さすがに月曜の朝七時とあってはドアの向こうはまっ暗である。

 

 その日の夜二十二時を過ぎてから、私はまた元カフェの建物の前を通りかかった。十メートル先からでも分かるほど、オレンジ色の光が煌々とドアから漏れ出しているのが見える。中の人に怪しまれないよう、若干歩く速度落としつつ横目で様子を確認すると、室内では数人の外国人が酒を片手に談笑している。確認できただけでも十人以上はいるようで、人種や性別、年齢はバラバラのようだ。

 あまり長く立ち止まっていると通報でもされそうなので、私はそのまま帰路へと戻った。

 風呂に入り夕食にありつき、寝る前に軽く妻と始めた世間話の流れで、先ほどの確認結果を報告してみる。

「やっぱり外国人がたむろしてるよねぇ、毎晩夜中までどんちゃん騒ぎして、後から事件でも起こさないといいんだけど」

「なんの集まりなんだろう。何か行政が開放してたりするのかな」

「えぇ~? 知らないけど……」

 冬子は真相よりも、とにかく近所に異邦人が集合して何かを催していることが気に入らないらしく、私の疑問に付き合う気はないようだ。その後、さっさと寝息を立てている彼女の横で、「●●市 外国人 集まり」「●●市 カフェ 跡地」などで検索をかけたが、有力な情報は得られなかったので私もすぐに眠りについてしまった。

 

 *

 

 週末、昼前に例のカフェ跡地の前を通りがかると、丁度中からヨーロッパ人らしき夫婦が出てくるのを見かけた。さすがにその二人に「すみません、ここは何の施設なんでしょうか?」などと話しかけることはできないが、休日はどうやら午前中から何かが開催されている、という情報を得ることができた。

 また次の日、スーパーに行った帰りに通りがかったときは、なぜか入り口のドアが開放されていて、ドアの真ん前で大きな柴犬が日向ぼっこしているのが見えた。

 

 相変わらずあの手この手でネット検索してみるも、なかなかそれらしき情報は見つからない。

 私は何かと理由をつけ、例のカフェ跡地の前をうろつくようになった。ここ最近は毎晩周りをうろついているが、ドアの向こうではいつも変わらずどんちゃん騒ぎが行われているようである。

 「ようである」というのは実のところ、ガラス戸越しに中の様子は伺えても、中で再生されているであろう音楽や人々の声が全く漏れ聞こえてこないからである。元が住宅街のど真ん中に建てられた飲食店であったからだろうか。騒音対策はばっちりと言うわけか。

「なあ、なんで夜中までどんちゃん騒ぎしてるって思ったんだ?」

 帰宅するなり、私は冬子にそう尋ねた。よくよく考えてみると、ただ前を通りがかるだけでは「明かりが洩れている」ことは目についても「中で連日パーティーが行われている」ことまでは気にならないはずだ。

「ああ、例のカフェの外国人のこと? ……べつに理由はないけど、なんかあんなに英語のポスターをベタベタ貼ったりして、明らかに不自然じゃない?」

「なんだそんなことで勝手に決めつけてたのか。あの店、騒音対策はばっちりみたいだし、どんちゃん騒ぎで近所迷惑にはなってないみたいだよ」

「それならいいけど……」

 まだ何かいいたげな冬子をよそに、私はさっさと床に着いた。この頃には私は半ば自棄になっており、明日の午前中、ついに勇気を出してあの建物に入ってみようと思っているのだ。

 

 翌朝、私は手持ちの中では一番若く好青年に見える服を選び、あの建物に向かった。外から様子を窺うと、夜とは違い飲酒はしていないものの、数人の男女が明るく談笑をしている様子が伺える。

 おそるおそるドアノブに手をかけ右腕で引っ張って開けると、厚みのある扉に遮られていた彼らの話し声や、やや大きめに掛けられた外国語のポップミュージックが、まさに堰を切ったように流れ出して

 

 

 こなかった。

 

 

 中にいる数人の男女は、私という来訪者に気付いていないのか、おしゃべりを止める様子はない。大きな身振り手振りとダイナミックな表情で会話を楽しんでいるようだ。

 「ようだ」というのはつまり、肝心の会話が全く聞こえてこないのである。

 私が英語が話せないから、会話の内容が分からないと言っているのではない。会話そのものが、声そのものが一切聞こえてこないのだ。

 彼らはひたすら、遠目で見れば楽しくおしゃべりに興じているようにしか見えないほど自然なパントマイムをし続けている。

「あの、すみません」

 一か八か、私は店内に向かって呼びかけた。しかし、案の定誰も私の声には反応しない。

「すみません」

「すみませーん」

「すみませーーん!」

 私は引っ込みがつかなくなり、何度も何度も声を張り上げ、同じフレーズを繰り返す。

「おーい!すみませーん!ごめんください!」

 徐々に喉が痛くなり、声が掠れて来たのが分かるが、一度引っ込みがつかなくなった行為を簡単に諦め、すごすごと去る余裕はない。

「す・みません!」

「す・・せ・!」

「・・・せ・!」

「・・・・・!」

 普段使わない大声で叫ぶうち、喉が完全に擦り切れてしまったらしい。私は声にならない声で叫び続ける。

 気づけば、こちらのことなど一瞥もせずに店の奥で談笑していたはずの数人が私を取り囲んでいる。

 相変わらず声は一言も発さないまま、私の背に手を回して店の奥へと誘ってくれる。ああ、楽しい。やっぱり大麻なんてやってないじゃないか。ここはただの地域のコミュニティだ。だって、こんなに楽しいコミュニケーションができるのだから……。

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みぶり 海屋敷こるり @umiyasiki

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