エピローグ

 それからの話。今が平家の世と言わんばかりに夏真っ盛りといった猛暑の続く中を、毎日僕は汗水垂らしてちゃんと大学に通い、……はしなかったけど、それでも生活習慣の見直しを図って二日に一回は足を運ぶようになり、数少ない友人たちに頭を下げて晩飯一回分と引き換えに過去問を蒐集し、買って以来ずっと机の上に積んだままにしており初雪の朝のように表紙にうっすらと埃の被っていた教科書もちゃんと読み始め、そこに何が書かれているのかくらいは一応理解できるまでになり、日は暮れ、また昇り、昼は夜になり、夜は昼になり、そのサイクルを繰り返す内、自分でも気づかないくらいにほんの少しずつ僕の身体は老いてゆき、多分心は成長し、そうして大きくビハインドのあった状況から、ヘロヘロになりながらもなんとか、途中棄権することなく、期末試験期間を駆け抜けた。成績が出るのは二ヶ月先なので、あとは神に祈るのみであるが、それ程感触は悪くなかった。道すがら落としていたものがあるとしてもせいぜい自由選択科目が一つ、二つほどの見込みで、それくらいなら来期また気持ちを切り替えて履修し直せば良い。兎も角、僕は無事、後腐れなくさっぱりとした気持ちで夏期休暇を迎えることが出来た。

 今年の夏期休暇は一つ、或る待ち遠しい予定が入っていた。

 あの日から数日経った夜のことである。風呂上がり、インスタントのホットコーヒーを傍らに置き、うっすらと眠気を感じつつもぬるくなったそれをちびちび飲んでカフェインを体にチャージしながら教科書を読み進めていると突如、スマートフォンが霹靂の如く鳴り響いて、手に取ると液晶画面には実家の母親の名前が表示されている。日常的に連絡を取り合う習慣がないものだから、そう言えば彼女の名前はこんなものだったなと思う始末であった。

 何事だろうと訝りながら出ると、その電話は、交通事故で長らく昏睡状態であった幼馴染のハルが目を覚ましたことを報せるものだった。彼は全身の筋肉が衰え切っているため、暫くは病院でリハビリ生活を送らなければならないらしいが、しかし脳は正常に機能していて、意思疎通も問題ないとの話であった。

 そうして八月に、凡そ十年ぶりに僕は彼に会いに行くことが決まったのである。

 在来線で四十分かけて終点の東京駅まで出向き、そこから三島由紀夫の小説と同じ名前の特急に乗り込んだ。平日の昼間だからか車内に乗客は殆どなく、窓側の指定席で独り揺られること二時間弱、思い出の場所は、思っていたよりも近いところにあった。県境の川を越えて、暫くは郊外を走るけれど、県庁所在地の駅に停車したあとからは急速に民家は減り、代わりに緑が画面を占める割合が増えて、畑の中にぽつんとある、利用者は果たしてどれほどいるのだろうかと不安になる駅を何駅も通過して、時たま停車して、海の気配など微塵も感じさせないまま、やがて終点へと至る、そんな景色の変遷の全てを僕は、一睡もせずに、しかしながらどこか夢でも見ているような気持ちでぼんやりと、幼子のように飽かず眺めていたものだからきっと、余計にそう感じられたのかもしれない。

 それでも列車を降りると仄かな磯の香りが鼻腔をくすぐり、旅の実感が伴う。僕はホームで軽くストレッチをし、肩と首の筋肉を伸ばすついでに左右を見渡す。無論、そこにはたかだか二年住んでいただけであるため、ノスタルジアなんて大袈裟なものが胸を打つことはない。だからさっさと改札を抜け、最近建て替えられたばかりであるらしい小綺麗な駅舎の外観を一応写真に収め母親に送ってあげると、僕は指定されていた『待合室』というロータリー横の小洒落た外観の喫茶店に入った。案内されるまま窓際の席に着き、常連でもないのに特にメニューも見ないまま、流石にない訳ないだろうと思ってアイスコーヒーを頼んだ。店員が去った後で僕は辺りに目を向けてみる。其処には夏の午後のゆったりとした、そしてどこか気怠げな空気が流れており、そのうちに、移動の疲れからか欠伸が止まらなくなってしまったため、軽く仮眠をとることに決めて目を閉じる。

「オサムさんですか?」

 そう僕を呼ぶ声が朧げに聞こえてきたから、ゆっくりと目を覚ます。すると白いセーラー服を身に纏った女の子がいつの間にか傍らに立って微笑んでいて、国境の長いトンネルをいまちょうど抜け出たかのように、僕の頭はまどろみから鮮やかに覚醒する。

「もしかして、アキちゃん?」

 僕は彼女の顔を仰ぎ見て、吃り気味でそう問う。

「はい」

「その格好はどうしたの?」

 彼女は刹那、不安げに自身の胸元のリボンに一旦目を落としたが、またすぐ僕の方を見遣る。

「部活帰りにそのまま迎えに来ました。もしかして、似合ってないですか?」

 そう言って、不思議そうに愛想笑いを浮かべるのである。

「……いや」

 その時僕はそう返答するので精一杯だった。

 十年という月日の流れをこの日ほど感じたことはない。彼女はとても美しく成長していたのだった。

 美しさとは呪いである。

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ネバーランド @otaku

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