10-2

「私という存在は、ある日突然この世界に産み落とされた。原初、自分が何者かなんて分かるはずもなく、ただ、頭の中に『この世界を滅ぼせ』という声だけが鳴り響いていた。だから私は、善悪の区別すら持たず、ただその声に従い、次々に魔物を生み出した。彼らは瞬く間にこの世界を侵略していった……」

 僕たちは不思議と完全にリラックスした状態で彼の話に耳を傾けていた。僕はあぐらをかき、キキョウは体操座りをして膝の上に顎を乗せていた。空間全体にブランデーが回っていて、僕たちもまた、軽い酩酊状態にあるのかもしれなかった。

「しかし、ある時を境に段々と魔物たちの侵攻の勢いが衰え始めた。私はその理由を探るべく、己の分身となる人間の身体の容れ物を作り、自ら王国に偵察しに行くことにした。そうして、王都に足を踏み入れて直ぐに、その原因は勇者と呼ばれる特殊な能力を持った、そして異世界からやって来たらしい人間どもにあったことが判った。私は無限に続いていくだろう歴史のいずれかの地点で、彼らに殺されるだろうことも同時に理解した。でも、私に、特に生に対する執着などなかった。かと言ってわざわざ進んで死にゆくのも億劫だった。その時の私には、何もなかった。その日初めて、そのことをはっきりと自覚した。だから私はその日、折角肉体を作ってまで来たのだから、序でに王国内を、人の営みをもう少し観察して帰ることに決めた。でもそれは、言うなればほんの気まぐれに過ぎなかったと思う」

 そこまで話して、彼は再度ブランデーを口にした。そのとき、僕たちに話を聞かせることによって、彼自身もまた過去を懐かしみ、どこか楽しんでいるように見えた。僕たちはただ彼の話に黙って耳を傾けていた。

「そぞろに歩いているだけで、王都には実に様々な人間が居ることが見て取れた。あくせく働く者。優雅に一日を過ごす者。彼らは皆自分という存在に一々疑問を抱くことなく一日を精一杯に生きていた。どこか羨ましくすら思った。裏を返せば、その時私は、自分という存在が果たして何のためにいるのか疑問を抱き始めていたのだ。

 しかし、目的地を持たずに街中を出鱈目に進んでいる内に、私は気付けばスラムの辺りまで来てしまっていた。尿が水溜まりを作り、道の至る所に落ちている糞にはハエがたかっていた。そして路傍には生きているのか死んでいるのか定かでない人々が芋虫のようにそこかしこに転がっていた。それらは目に染みるほどの悪臭を放っており、そこは、私たちの支配する場所よりも、よっぽど地獄のように思えた。なるべく早く立ち去ろうと思った。しかし、歩を早めようとした刹那、

『助けて下さい』

という、聞いたそばから忘れてしまいそうなくらい微かな声が私の耳に届いてきた。

 足元を見やるとそこにうずくまっていたのは可憐な女だった。彼女はそうして、もう何日もまともに食事をとっていないようで、横腹には肋骨がその皮を突き破りそうなくらいに浮き出ていた。その女に食べられそうな部位は見当たらなかった。その命は、今まさに途絶えようとしていた。途絶えたところで、誰にも尊重されることなく、そのまま路傍で朽ちていく運命にあることが、ありありと分かった。さて、その時私はどうしたと思う?」

 不意に尋ねられて、でもそれは、きっと答えを当てにいく類の問いではなかったから、形の上でだけ逡巡する素振りを見せて、そして、

「……さあ、分かりません」

と答える。彼はそれを聞いてやはり満足そうな顔をする。

「普通に考えれば、まあ助けないだろう。魔王なのだから。人間ですら、彼女に助けの手を差し伸べていなかったというのに。でも、私はその時、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女に恋をしたのだ。おそろしい情慾をさえ感じてしまった。……唐突だけれど、それがあまりにしっくり来たので、私は魔王として生まれてくる前、かつては人間だったのかもしれないと思い至った」

 彼の口からそんな話が出てこようとは、正に、夢にも思っていなかった。しかし、報われない恋であることを理解していながらそれでも恋に落ちてしまうことの辛さは、僕も、身をもって知っていた。そうして落ちてしまうことは、しょうがないことだ。実際に落ちてしまうまで、そこに穴があることなんて予想だにしていないのだから。

「それから私は、実にいまに至るまで、素性を隠しながら、この国で人間として生きてきた。彼女と結ばれ、三人の子供を授かった。彼女への愛が深まるほど、私は、自らが創り出した同胞たちが現在進行形で人間を大量虐殺しているという事実から、益々目を背けるようになった」

「勝手です」

 今まで黙りこくっていたキキョウが、そこで初めて口を開いた。その声音は静かながらナイフのように冷たく鋭かった。それはきっと何年も心の内で研いできたのだろう。

 紳士がキキョウの方を見やる。それだけでその生い立ちを敏感に察し、グラスの底へ視線を落とす。でもそれには手を付けず、

「すまないが、私にはどうすることも出来なかったんだ」

と、神妙な面持ちのままそう呟いた。

「彼らは一度生み出されるとそれぞれ自分の意思を持ち始める。かと言って、私には自殺することも許されていなかった。私の身体に傷をつけることが出来るのは、勇者だけらしかった。でも、この姿の私がそのような事情を話したところで一体誰が信じてくれただろう。……つまるところ、物語は正式な手順を踏まない限りは終わらないよう設計されていたんだ」

 キキョウは目頭に涙を湛えて、憎しみのこもった表情で彼の方を睨んだ。でも、彼女に続く言葉はなかった。自分が睨みつけている男の目頭にもまた、涙が滲んでいるのを認めたからだと思う。およそ二十数年にも渡って彼の抱え込む羽目になった苦悩は余人の想像を絶するものであったに違いなく、しかも彼には、それを、独りきりで抱えることしか許されていなかったというのだからやるせない。

 あるのは単に立場の違いだけで、世の中には本当の悪人なんてものはどこにもいないのだという、どうしようもない事実をいま、彼女は彼を通じて学ばんとしている。そうして、そのことに気付いてから、きっと彼女の長い冒険はまた始まってゆくのだろう。

 僕たちふたりの旅は、もうまもなく終わってしまう。

「--君たちの姿を目にした時、直感的に、彼らなら私の元まで、臆せず、辿り着いてくれるかもしれないと思ったんだ。不思議なことにね。そうしてそれは見事に当たった。この世界に全く未練が無いと言ったら嘘になる。けれどもう、私は充分すぎるほど生きた。私の本体はあの山の頂にある。今から君たちの意識を元に戻そう」

 彼の言葉が終わるのを合図に部屋の電気は完全に落とされて、それと同時に僕たちは意識を失う。……次に気付いたとき、場面は移り変わって、僕たちは高台で仰向けに寝転がっていた。起き上がると僕たちが通ってきたドアはなくなっており、代わりに最頂部へ向かって石段がもう少しだけ続いているのを見つける。僕たちは立ち上がるとまた手を繋ぎ直す。

 ひと息で昇りきると、猫の額ほどの頂にはただ小さな玉座がぽつんと一つあるのみで、そこには、ミイラのように干からびた魔王が錆びた鎖で何重にも縛られていた。

 その方を見ながら、キキョウはアンドロイドのように抑揚のない声音で呟いた。

「魔王には、普通の攻撃は効きません。付き人の居る真の意味がいま漸く発揮されるのです」

 僕たちの別れは実に呆気なかった。キキョウが握りしめていた僕の右手に更に力を込めると、その瞬間、彼女の身体はみるみると光に包まれてゆき、ついには目を開けられないほどになった。

「さようなら、貴方と出会えて本当に良かった」

「おい、どういうことだよ」

 しかし、もう返事はなかった。徐々に光が弱まって、視界が元に戻ると、神隠しにあったように、隣にもう彼女の姿はなかった。代わりに、彼女と繋がっていたはずの僕の左手には聖なるつるぎが握られている。代わり? そのつるぎで身体を真っ二つに割られたかのような喪失感が僕を襲い、忘れていた疲れが濁流のように身体に蘇り立っていられなくなる。地面に顔を伏せ、そこで一頻り流れるままに涙を流した。鼻水が垂れてきて、しゃっくりが止まらなくなった。魔王はただ静かに見守っていた。その時の僕たちはさながら、何らかの神聖な儀式を執り行っているかのようであった。……儀式を完遂するために、涙と鼻水を袖で拭うと僕は、ふらつきながら一歩ずつ、玉座へと近付いた。半径一メートルのところまで来ると、立ち止まり、荒ぶる呼吸を整えようと試みるが中々気持ちは収まらない。それでも僕は早く終わらせなければならない。つるぎを振り上げて、重力に任せて振り下ろす。魔王の頸動脈の浮き出ている首が、飛沫をあげて、ぼとりとその場に落ちた。その際、彼の唇が最期微かに震えたような気がした。


「ありがとうオサム」

「え?」

「これで漸く還れるよ」


…………

………

……

 脳の裏側で、パチンと何か泡が弾けたような衝撃を覚えて飛び起きる。すると、僕は灼熱のホームのベンチに座ってぼうっと電車が来るのを待っている。キョロキョロと辺りを見回したあと、スマートフォンを起動すると、ホーム画面に表示されている日付はキキョウと初めて出会った日のままであった。向こうの世界にかなりの月日滞在していたというのに、こちらの世界ではたったの一秒も時は進んでいないらしい。

 スマートフォンの電源を落としてまたカバンにしまう。こちらの世界に帰還したというのに、僕の右手にはまだ、キキョウの手のひらの温もりの残滓が残っている。まともに恋愛をして来なかった僕はこの感情をどう処理すればいいか分からなくて、何となく自分の頬をつねってみる。

 痛みが走り、それは僕の頭を幾分冷静にさせてくれた。

 そうしてまもなく電車がやって来る。しかしそれは特急列車でこの駅には止まらないはずだ。それでも僕は立ち上がり、白線付近へと移動する。電車が物凄い音を立ててこちらへと迫ってくる。この電車が僕の目の前を通り過ぎたとき、夏の陽炎がたまゆらに生み出した幻は真に終わってしまい、それ以上でもそれ以下でもない現実とやらがまた幕を開けるのだ。そんな妙な警句めいた言葉が脳裏に浮かんできて、僕はまるで炯眼の詩人気取りの自身に恥ずかしくなってこっそりと吹き出した。……笑えるということは、もう僕はすっかり大丈夫であった。あの日のままということは、僕の置かれている現状はつまるところなんら好転したわけではないけれど、何と言ったって僕はあの魔王を倒した男なのだから、大抵のことならきっと何とかなるのではないかと、そんな根拠のあやふやな自信が湧いてくるのだった。

 特急列車はぶわりと風を運んで来て、その相対的な冷たさに目を瞑る。その際、瞼の裏側の暗闇の世界で僕は、彼方の世界での最期の瞬間魔王と短い会話を交わしたことを思い出し、そういえば、何故彼は僕の下の名前を知っていたのだろうと、ふと疑問が芽生えたけど、次に目を開けたときにはもうすっかりと忘れていて、僕の関心事は今日の夕飯の献立へと移っていた。夢とは得てしてそういうものである。僕の右の目から一滴涙が流れていたが、それはただ風の冷たさにびっくりしただけだ。ホームに迷い込んでいた蜻蛉は、いつのまにかどこかへ飛び去っていた。

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