10-1

 ついに魔王の君臨する黒山まで辿り着くと、その麓は原生林に覆われている。洞窟のように細く暗い山道をハイビームで照らしながら更に暫く車でズンズンと進んでゆくと、或る時、彼方と此方を別つ楼閣門が行手に唐突に立ちはだかる。見張りは特に配置されていないようで、しんと静まりかえっている。また、朱色の塗装は掠れて久しく元の木肌が殆ど顕になっており、屋根の瓦はポロポロと鴉に啄まれたトウモロコシのように至る所で剥がれてしまっている。そのため、かつては豪華絢爛であっただろうに、現在の姿はいかにも物寂しく映り、僕たちは肩透かしを喰らう。

 しかしながら、車を降りて、自らの足で門をくぐり抜けたその瞬間から、鋭く張り詰めた冷たい空気が全身を犯すのを、まるで液体に沈められ溺れるかの如く、ありありと感じとった。喉が、肺が、そして耳の奥がにわかに痛み出す。そうしてそこは、眠りにつくことを決して許さないかのように、光源らしきものも見当たらないのに夜明け前のように薄明るかった。僕は静かに唾を飲んだが、辺りが静か過ぎるから、その音は宙を泳ぐ蛇が頭の真横を横切ったかのように鼓膜に甚だしく響いた。眼前には長く険しい石段が一見どこまでも続いていて、その終わりは霧に隠れて窺い知れなかった。その勢いで上を向くが、密度の濃い葉叢に遮られて天は見えない。後ろを振り返ると、門の向こうに僕たちが乗ってきた魔力車が停めてあるのが暗闇の中辛うじて見える。でもそれは、現実というよりは絵画の中の風景のようであった。僕たちにはもう引き返すという選択肢は残されていない。このきざはしを上りきった頂がきっとどう転んでも僕たちの旅の終わりなのだろう。ピントをそちらへと合わせるように、一旦目を閉じすぐにまた開いた。霧に濡れて黒光りする石段に滑って転んでしまわぬよう、どちらからともなくしっかりと手を繋いでから、僕たちはまず最初の一段目を踏み出した。

 階段を登り始めると、割合すぐに煙のように濃い霧に視界を覆われて、一段先以外何も見えなくなった。その感じがソウブ線を降り、長い桟橋を渡って此方の世界へ来る道中のこととよく似ていたから、もしかすると此処もまた、この世界と僕の世界の狭間にあるのかもしれないと思った。その中を、あの時とは違って僕たちは言葉を交わすことなく進んでゆく。あの時は確か、キキョウがこの霧を笑い飛ばして僕たちはこの世界に至ったのだった。いま、その彼女が隣でどんな想いに耽っているのか分からない。でも全く嫌な、重苦しい感じはしなくて、ただ、彼女はぎゅっと僕の汗ばんだ手を握ってくれていて、その熱が僕に伝わる、それだけで良いじゃないか、と僕は思う。僕は自分で思っている以上に単純で、そして刹那的に生きているのかもしれない。でも一方でそれは、僕だけに限らず皆そうなのではないかとも思う。僕たちは結局、刹那的な感情に駆り立てられながらその小さな足で愚直に一歩ずつ前に進んでゆくしかないのだ。

 しかしながらそんな風に穏やかでさっぱりとした心持ちでいられたのは最初のうちだけであった。階段はあまりに長く、不思議と疲れは感じなかったけど、却ってそのせいで、或る時から、いつの間にかまるで上りながら下っているかのような感覚にさえ陥った。ここには時間の経過を測る指標は何もなく、それ故にどの地点からどのくらい経ったのかは一切分からないようになっている。刹那的に階段を登り続ける僕たちにとって、いまは、過ぎゆくそばから蒸気のように霧散していき、楼閣門を潜り抜けた瞬間は、いまの僕たちと何ら連続性を持たない、逃げ水のように淡く、手の届かない情形と化してゆく。すると何故いま階段を上っているのか、その理由が曖昧になってきて、僕はただ、手を繋いだ隣の彼女が階段を上っているから上っているが、彼女の方でも実は、同様に僕が上っているから上っていると考えているかもしれない。当初の想いは風化して、形式だけが、あの楼閣門のことなんてとうに記憶から消し去られているのに、あの楼閣門のように残っていると感じる。このように思考が澱みなく流れてゆく合間に何周も生まれ変わって、ペンローズの階段のように不毛な人生を繰り返しているのかもしれない。

 でもその喩えはやはり、間違っているのだ。あの門は、物寂しいものだった。僕たちはいま、独りじゃない。

 議論に熱中してその可能性を棄却したけれど、こういう時僕たちは話し合えば良いし、言葉を発せられない程摩耗していたとしても、気持ちを伝える手段はまだある。

 例えそれでお互いに傷付くことになったとしても、それが共に生きるということなのだろう。

 僕が意を決して立ち止まると、隣の彼女も同時に立ち止まった。転んでしまわないよう、ゆっくりと繋がれた手を自分の方へ引き寄せると、やがて美しい彼女の顔が霧の中からサルベージされる。探していた答えはいつだって、案外近くにあるものだ。至近距離で目が合った瞬間に、僕の頭の中を覆っていた霧は晴れ、想いが鮮やかに蘇る。ツーっと涙が流れ、我慢出来なくなって、その細い身体が軋んでしまうほど両の腕で強く抱きしめると、彼女が耳元で痛いですよと言って笑う。久方ぶりに聞く笑い声だ。

 周りに目を向けると僕たちは高台に出ていた。そのことを自覚すると、途端に疲れがどっと押し寄せる。

「どれくらい歩いていたんだろう」

「何だか、ずっと夢を見ているような心地でした」

「ここは夢の世界だよ」

「言葉の綾ですよ、まったく」

 そうして眼前、十メートルほど向こうにドアがあった。そのこじんまりとしたドアは普通の住居の玄関ドアのようであったが、壁に取り付けられているのではなく、ただそれだけが空間にぽつんと備わっていた。

 腿から土踏まずに至るまで、上半身から取れてしまいそうなくらい痛かった。十メートル向こうは百メートルの距離に思えた。百メートル先は最早窺い知れない。惰性によって何とか立てているけど、座ってしまったら二度とそこから立ち上がれなさそうであった。

 それでも、彼女に、

「行きましょう」

と促されて、鉛のように重たい足を引き摺るようにそちらへ近づき、ドアを引いてみる。

 すると、どういう了見か分からないが、その先には全く空間的な繋がりのない賑やかな日常が広がっている。

 具体的には、絵の具で塗りつぶしたかのようにオレンジ色に染まった空を背景に、人々が通りを行き交い、通り沿いにひしめく屋台からは美味しそうな匂いが立ち上っている。今日は負けてしまったからどうか奢ってくれという話し声がどこかから聞こえてきた。それはとても長閑な声だった。

 振り返ると、僕たちが通ってきたドアは忽然と姿を消していた。まるではじめからそんなものなど無かったかのように。そうなると、おかしいのは僕たち、ということになる。そうして、視線を前に戻すとそこにはとある紳士が音もなく立ちはだかっていた。彼の身なりは整っており、山高帽の隙間から覗く眼光は、笑ってこそいるが鋭い。

 僕たちは、彼のことを忘れずにしっかりと覚えていた。

「漸く来たか。と言っても、私は君たちとさっき会ったばかりでもあるんだがね」

「貴方は……」

 僕がそう言うのを途中で制して、

「ここで立ち話というのも何だから私の家に来なさい。なに、今日は沢山勝ったんだ。料理をご馳走しよう」

 僕たちは通りの真ん中に立っていたから、先程から道行く人たちにチラチラと顔を覗かれていた。

「今日は、果たしていつなんですか?」

「いつでもないさ。それでも強いて言うならば、夜眠りについて、朝目が覚めるまでの間かな」

「夢を見ているということですか」

「夢を見ているということは、夢を見ている者にはわからないかもしれないが、外では実は夜明けが近いということだ。夢は、未明の頃に見るものだから」

 そう言って彼は早速歩き出した。

 僕とキキョウは互いに顔を見合わせる。

「どういうことだろう」

「とりあえず、ついていくしかないんじゃないですか。ここに居てもしょうがないですし」

 小柄な彼の数歩後ろをついて歩きながら辺りを見回してみるが、この場所は、どこからどう見てもウラヤスであった。数分歩いた末に彼が足を止めたのは、メインストリートに面した、一階が花屋になっている何の変哲もないとあるマンションで、その三階に彼の家があった。僕たちは事態を上手く呑み込めないまま、そこに上がり、更には料理を振舞って貰うことになった。彼には妻と三人の子供が居た。しかし、一番上の子供は成人してもう家を出ているらしい。

「夫はよく街で意気投合した人をこうやって食事に招待するんですよ」

「彼らは今日泊まる場所がないらしいんだ」

 僕たちが何かを言うより先にそう彼が言い、妻が答える。

「あら、それならうちに泊まって行きなさい」

 僕は最初、何処かに罠が潜んでいるんじゃなかろうかと神経を張り巡らせていたが、しかしこの世界がそもそも夢の世界であることを鑑みると、すぐに考えることが馬鹿らしくなった。疲れていたし、何よりあの時、紳士が僕たちを助けていなければ、僕たちはいまこの場所に存在していない。だから、僕たちは彼の好意に素直に甘えることにした。キキョウはその家のまだ声変わりすらしていない一番下の子供に懐かれて、その無邪気さにどう扱うべきか目に見えて困惑していたけれど、食後の頃には結局トランプゲームなどをして遊んであげていた。

 そうして僕たちはその家のシャワーを順番に借りて、上がると八畳の客室に案内されて、そこにはきちんとメイキングされたふかふかの布団が二つ並んで敷いてあった。夜の九時には就寝して、布団にくるまっていると確かに旅の疲れは癒されて、実際すぐに意識はなくなった。しかし、真夜中、ふと何者かに揺り起こされたような気がして目が覚める。キキョウかと思って隣を見るが、彼女もいましがた起きたばかりのようで、とろんとした目をラッコのように両の手で擦っている。

 僕たちはまだ完全には覚醒しきっていない状態で部屋を出て、恐る恐る、壁に手をつきながら夜と同じ暗さの廊下を渡り、リビングのドアを引く。すると、そこはそこで、暁の頃のように薄暗く、掃き出し窓の脇に配置されている革張りのソファに目をやると、彼が身体を沈めて寛いでいた。その前のローテーブルには飲みかけのブランデーが置いてあり、更にその向こう、彼の目線の先のテレビにはオーケストラの演奏が映されている。

 しかしながら彼は僕たちの姿を認めると、脇に置いていたリモコンを操作して、テレビの電源を落としてしまった。

 部屋に静寂が訪れて、それだけでまるで季節が変わったかのように、数℃は体感温度が低くなる。

 彼がため息をつく。

「今から、少し私の話をしようと思うんだが、……この話の終わりが君らの旅の終わりとなるだろう。覚悟はいいかね?」

 僕は頷く。同時に、まるで示し合わせたかのように隣のキキョウも頷く。それを認めて、彼は、いや魔王は、ローテーブルの脇、絨毯の敷いてあるところに座るよう僕たちを促した。その後でソファに預けていた上体を起こして一度ブランデーを手に取った。それを啜るようにして飲んで、口内をほんの少し湿らせた。頬の色は元から日に焼けたように赤かった。

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