第九夜

 私の村の近くには樹齢千年を数える大楠があり、ボロボロのしめ縄が巻かれている。ただ巻かれているだけで、誰かが管理している形跡等もないし、祖母に聞いても誰が巻いたものか定かでなかった。つまりかつてあっただろう信仰はもうとっくのとうに薄れてしまっている。

 私は毎夜、皆が寝静まった後にその大楠まで向かい、根本にしゃがみ込んで祈るのである。私を残して村を去った恋人について。祈った対価に大楠が何かを答えてくれるわけではない。これは無償の祈りである。雨の夜も、風の強い夜も、十分ほどはそこで目を閉じてじっとしている。そうして目を開けると大楠は目を閉じる前と何ら変わらない姿でどっしりと構えている。私はこんなことをしても虚しいだけだと我に返って両親や妹の眠る家へと帰っていく。

 また翌日の夜になると我に返ったことも忘れて祈りに向かう。

 信仰がとうに薄れてしまったように、私の中の恋人への愛情もとうに薄れてしまっている。それでも私を祈りへと向かわせるものは憎悪である。

 私は彼と成人したら結婚しようと約束をしていた。しかし彼は三年前の春に、この村を出て首都に行くつもりだと突如私に打ち明けた。この大楠の下で、丁度今宵のように穏やかな夜のことだった。その時辺りにはそよ風が優しく吹いているのみだったから会話のきっかけは全て自分たちで生み出さなければならなかった。私の目からはハラリと涙が溢れた。しかし彼は黙って見ているだけだった。彼の前で泣くのはそれが初めてではなかったが、そんな風に放って置かれることはそれまでなかった。それで彼を引き留めることは私には不可能らしいと悟った。

「寂しいけど、分かった。でも年に一度は必ず帰ってくると約束して」

「うん。必ず」

 その日確かに彼はそう約束してくれた筈なのに、爾来一度もこの村に姿を見せていない。彼が去って一年は、まあきっと忙しいのだろうとまだ解釈することができた。しかし三年も帰ってこないとなると話は変わってくる。気軽に行ける距離ではないと言えど、首都からこの村まで、馬車を使えばせいぜい五、六時間もあれば行き着く。彼は忙しいから帰って来られないのではなく、帰る理由が特にないから帰らないのだと次第に私は思うようになった。

 そのようにして三年は過ぎていった。彼がこの村に帰らない内に私は此処で成人を迎え、縁談がしばしば舞い込むようになっていた。私は意固地になってそれら全てを断り続けていた。

 しかしそうも言っていられない事情ができた。この春に妹が成人したのである。いまから一週間前の夜、妹と父が眠りについた後、母が深刻な顔をして話したいことがあると私に言った。私はまた縁談が来たのだろうなと思った。だから母が話し出す前から、

「縁談なら断って」

と告げた。いつもならあっさりそれで終わるのだが、その夜は違った。あなたの気持ちも分かるけど、と母は苦しそうな顔をしながら、私が結婚しない限り妹の縁談を組めない事情を語った。私の住む地域には未だにそうした古い因習が生きていた。

 私は彼がこの村を捨てて向かった首都に思いを馳せた。首都では物事はもっと洗練されていて、人間関係の嫌なしがらみなどもきっとないのだろう。でも私にはこの村を飛び出して一人で生活していくための能力もなければ気概もなかった。私は一週間だけ考えさせてと母に告げた。私にできる精一杯の抵抗がそれくらいであった。

 たかだか一週間で何かが劇的に変わることなんてない。そのことを分かっている母は特に娘のことを宥めたりもせずその提案を飲んだ。事実、私はその一週間、これまでと全く変わらない生活を送り、夜には独りで大楠の前でお祈りをして、切実な祈りが特に聞き入れられることもなく、ただ虚しさを募らせた。私は彼のことを最早殺してしまいたいくらいに憎んだ。彼が自分の都合だけを考えて村を出ていったせいで、いまの私のこの惨めさは存在するのだから。でも、もしいまこの目を開けて、そうしたら大楠と私の間にあの日から少し成長した彼が立っていて、私をこの村から連れ去ってくれるなら全てを許してしまいそうな気もした。一縷の望みを持って目を開ける。開けた途端に望みは目頭から頬を伝って地面へと落ちてゆく。

 こう云う風に、幾晩となく私が気を揉もんで、そして憎んでいた男は、首都で仕事にありつけずにとくの昔にスラムでのたれ死んでいたらしい。そのことを私が知ったのは大分あとになってからであった。

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