9-2

「でも、世界はあまりにも巨大だった。薄々そんなことは分かっていたけれど、たった数人刺殺したくらいではびくともしなかった。壊れたのは小さいながらも幸せな家庭を築きかけていた姉の人生ぐらいなものだった。……事件を受けて姉のもとには報道陣が押し寄せて、素性を詳らかにされた結果、通常の生活を送ることが難しくなって、相手から離婚を言い渡されたと人伝に聞いた。結局姉は、面会に来ることも手紙を送ってくることもなかったし、そもそも縁を切られていたから赤の他人なんだけど、世間というものはそうは見なかったらしい。兎も角、ゲームの勝者たる裁判官に長々と説教された後に死刑を言い渡された時、まさしく俺も最悪な気分になった。ただでさえ惨めだというのに、何故更にこんな気分にならないといけないのか、その時はそう疑問に思わなくもなかったけど、でもそれも、言ってしまえばどうしようもないことなんだろう。なあ、そうだろう?」

 雨はしばらく前に上がっていたけれど、僕は木陰の外に出てしまうことが出来ないでいる。僕はこの男に目をつけられたことを不運に思う。でもそれもこの男の言うように仕方のないことなのだろうか。

「あなたはルールに反した行動をとり、だからそのルールに則って裁かれ、そして刑が執行された。確かにそれはどうしようもないことだ。それなのにあなたは何故今、こうして生きている?」

「さあ。でもここは夢の世界だから、訪れた各人の時代にずれがあったとしても不思議ではないだろう。兎も角、俺はこうしてまだ生きている。生きていられる。……君が魔王を倒さない限りは」

「あなたは責任を取るべきだ。それと、僕が魔王を倒すことには何の因果関係もない」

 僕がそう述べると、彼は、

「君は責任という言葉の意味を、ちゃんと分かって使っているのか?」

と、尋ねてくる。僕に、考えることを強いてくる。僕は早く行かねばならないというのに。いつまでもキキョウを独りで待たせておくわけにはいかない。彼女は今頃、酷く心配していることだろう。

 シマントはしかし、平然としている。ポケットからタバコを取り出し火を付ける。一吸いし、ゆっくりと煙を吐き出し、それでもまだ何も言わない僕を見て、更にもう一吸いする。

「俺が思うに、責任なんて言葉はまやかしに過ぎない。あるのは行為とその帰結だけだ。そして帰結はルールによって大きく規定されるが、ルール自体は何か、アプリオリに存在するわけではない。分かりやすい例で言うと、戦場で敵の兵を殺した時、敵国に捉えられれば殺人犯として裁きを受けるかもしれないが、自国に帰ることが出来れば英雄扱いだろう」

 そう言って、タバコを気怠げに吸う彼はどう見ても英雄には見えなかった。彼は亡霊である。亡霊だから、こうして夜道で出くわした人の心を騒つかせているのだ。

「確固たるものがないのだとしたら、全ては解釈の問題だ。そうだろう? 俺は別に、直接兄の首に手をかけたわけではないけど、それでも俺が兄を殺したと思っている。それと同じように、君がこの世界を終わらすことは、君が俺を殺すことと同義であると解釈出来る」

 僕は彼の意見を論駁しようとは試みない。そもそも解釈の問題なんだとしたら、それは議論出来る類の意見ではないように思えたから。かと言って同意もしない。語り得ぬことに対しては沈黙を貫くのみである。ただ、それはあくまで自己満足に過ぎないのかもしれない。

 否応なく沈黙も解釈の対象となり、どう解釈するかは結局対峙する相手に委ねられてしまう。そうしてその内面は当人しか足を踏み入れることの出来ないサンクチュアリである。

「君は、それでもやはり魔王を倒しに行くのか」

「ああ」

「俺は、俺の起こした事件によってによって世界は変わると信じていた。でも結局、世界はびくともしなかった。きっと君が魔王を倒しに行くのだって同じことだ。全てはなるようにしかならない」

 僕はそこで初めて彼に能動的に質問をぶつけてみる。

「あなたは、向こうの世界で見ず知らずの人の命を奪ったように、いまここで僕のことを殺すつもりなのか?」

 それに対して、シマントは次のように答えた。

「いや、そんなことはしないよ。言ったじゃないか、事件を起こして、結局俺は最悪な気分になったって」

 彼はそう言いながら言葉とは裏腹に笑っている。一体、言葉と表情のどちらが本当の彼を映し出しているんだろう。でも、本当の彼はもう、死んでしまっているのだから、真相は闇の中である。好き好んで掘り出しに行く者もいない、社会によって厳重に蓋をされた記憶。

「それに、君は勇者サトウに勝ったのだから、俺が立ち向かっても返り討ちに逢うだけだろうし、それは俺の本意ではないんだ」

「本意?」

 僕は別に知りたくはなかったはずだけれど、そう訊き返さずにはいられなかった。蓋の内側の死体の発する腐卵臭が煙となって立ち昇ってくるような錯覚を覚える。

「ああ。俺がいま君を殺そうとして君に殺されるのだとしてもそれは正当防衛にしかならないだろう。俺は君に、君の意志で明確に、寄る辺ない哀れな俺のことを殺させたいと思っている」

 何故?という僕の問いかけに対して、シマントは、理由なんてないんだと言って笑った。その笑い声は一陣の風となって辺りに吹き荒れる。

 僕は思わず目を瞑り、再び開けるともう彼の姿はなく、ガサガサと揺れる枇杷の木の下に独り佇んでいる。次の瞬間にはもう、僕は一秒前に対峙していた男のことを忘れており、ただ薄気味悪さだけがそこにあった。しかしながら言語化できない感情なんてものもまた、対象から離れてしまえばすぐに忘れ去られゆくものだ。僕は足早にそこを去り車へと向かう。ぬかるみがまるで足掻くかのように一歩踏み出す度にネチャネチャと音を立て、そして僕の足跡を忘れないよう記憶する。でもそれも水溜り同様、せいぜい尾を引くのは数日程度である。

 車に戻るとキキョウは僕が車を後にした時と全く同じ、ピンとした姿勢で、さながら花咲く前の蕾のように、顔だけ俯けてしおらしく待っていたが、しかし僕の無事な姿を認めるとホッとしたのか其の頬に一筋の涙が伝った。

「サトウを殺してきた」

 でも、そう告げると、彼女は気丈に涙を拭って、

「はい」

と返事をした。

「さあ、行こうか。これでもう、引き返すことは出来なくなったから」

 車のサイドブレーキに手をかけようとすると、すらっとした白い腕が横から伸びて僕の手を握る。それはいましがた涙を拭ったのと同じ手でしっとりと濡れている。僕は彼女の方を見遣る。彼女の涙はもう止まっている。

「貴方はさっき、好きだった、と言いました」

「うん」

「私は、今も貴方のことが好きです。でも、こればかりはもう仕方のないことですものね」

「ごめん」

「もうこれで貴方への気持ちは忘れます。なので、どうかいまだけ許して下さい」

 それだけ言うと、僕の頬に、そっと、彼女はキスをしてきた。驚いてつい、彼女のことを見つめながら固まっていると、数秒の沈黙の後でキキョウははにかみながら、

「そんなにじろじろ見てないで、早く発車して下さい」

と僕を促した。

 魔力車には光学迷彩を施してあるため、道中魔物に邪魔されることなく、魔王の待つ、オオアミからでも確認出来るほどに巨大な鋸のように尖る黒山へと、僕たちは順調過ぎるペースで近づいてゆく。それなのに、少し気を抜くとすぐ、僕は己の胸のチクチクとした痛みに懊悩させられていた。

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