9-1

 僕が何も言わず、じっと彼のことを見つめていると、シマントはタバコを一吸いして、そして夜霧のように濃い煙を吐いた後で微笑み言った。

「もうすぐ雨が降る。でもそれは通り雨だから少しの間ここで待って、話をしないか。そんなところにいたら濡れてしまうよ」

 彼の言葉が終わるのと、僕のつむじの辺りに一滴の雫が落ちてきたのは殆ど同時のことであった。僕は観念して枇杷の傘の中に入り、彼の一メートル横に立つ。それから程なく、まるでバケツをひっくり返したかのような土砂降りの雨が大地に降り注ぐ。横の男がその雨に向かって持っていたタバコを投げ捨てる。火は音もなく瞬く間に鎮火される。

 それで、人を殺した気分はどうだい?と僕はまた尋ねられる。

「最悪だよ。訊くまでもないだろう」

 僕は雨の方を見ながら、喉に絡んだ痰を吐き捨てるようにそう答える。それを聞いてシマントは、何が嬉しいのか、

「その言葉が聞けて良かったよ」

などと言ってくる。

「人は時に分かり合えないから最終的にそうせざるを得なくなって、他人のことを殺す。でもその結果として残るものは何もないのだから、これ程最悪なことってないよな」

 僕はうんともすんとも言わなかったけれど、まるで長い間ずっと話し相手がいなかったかのように、彼は雨を肴にして勝手に喋り続ける。

「でも、俺と君は人を殺すということ、そしてそれに伴うやるせなさ、最悪さを身をもって経験し、今こうして分かり合えている。君となら、もっと仲良くなれるんじゃないかと思うんだが」

 僕はもうこの世界から去る覚悟が出来ていたから今更誰かと仲良くなるつもりなど毛頭なくて、結局分かり合えているとシマントは言ったけどそれも彼の独りよがりに過ぎない。でもここで彼と揉めるのも面倒で、だから僕はただ無言を貫き雨が止むのを待つ。雨は早速そこかしこに水溜りを作り始めており、雨が降る前の景色を過去のものへと変えつつある。雨はすぐに過ぎ去るんだとしてもこの水溜りは翌日まで残り続けるだろう。僕はこれから魔王を倒しに行くはずだけど、一方でそんな風に翌日のことを考えている。

 僕の方が死人の如く喋らないものだから、空白を埋める次の言葉もシマントから放たれる。でも彼の口ぶりには別に、怒っている素振りは全くなくて、あくまで法事で数年ぶりに会った親戚の子供に話しかけるような口調で、笑いながら僕に尋ねた。

「なあ、本当に俺の顔に見覚えはないか?」

 そこで僕は雨が降り出してから、いや、恐らく知り合ってから初めて彼の顔をまじまじと見つめる。ボサボサの髪が瞼に重なるほどまで垂れ下がっており、その直下では一重で切長のガラスの破片のような両の目がこちらを覗いている。鼻筋は割合通っており、無精髭に覆われた薄い唇には血の気が通っていなく殆ど浅黒い肌と同じ色をしている。殺人犯と予め聞いているからどうしても人相は悪く見えてしまうけど、多分顔立ちはそれ程悪くはない。でも目を見張るというほどでも決してない。山田孝之にも誰にも似ていなくて、言ってしまえば彼は至って平凡な顔をしていた。多分交差点ですれ違ったとしても、すれ違ったそばから忘れてしまうだろう。そうして二度と交わることもないような。

「どうやら分からないみたいだな」

「申し訳ないけれど」

と、僕は儀礼的に言う。

「いや、いいんだ」

 彼はそう言って雨の降り頻る暗闇の方を見つめ、僕は彼の横顔を見つめる。タバコを吸いたげにしているけれど、決してポケットから取り出そうとはしない。だからきっとこれから大事な話が来るのだと、僕はその横顔を見ながらそう思う。

 数秒、沈黙が続いた後に、

「20××年10月10日」

と彼は唐突にある日付を口にした。

「俺はその日、JR東京駅構内で無差別殺人事件を起こした。当時、かなり話題になったんだけど、覚えていないかな」

 そう言った後でもう一度彼が僕の方に向き直る。薄暗闇に浮かぶその顔にやはり見覚えはないように思えた。

 でも、僕は当時まだ十歳であったけど、日本中を震撼させたその事件のことを連日の報道を通じて勿論知っていたし、だから彼の顔もきっと何度も見ていたはずなのだ。

 何より、それから三年後にも再度、やはり彼の顔を見ていたはずだ。彼は一審で死刑判決を下されると控訴をせず刑を確定させた。そうしてそれから僅か一年で彼は絞首台に立ち、その異例の速さもあってその時にも連日報道されていた。

 その男が、何故かいま、こうして僕の前にいる。僕はとても何らかの重さを伴ったものとしてそのことを理解出来ず、だから男に対して全く恐れをなしていない。男は見ず知らずの通行人を刃物で切りつけたのと同じように、見ず知らずの僕に対して己の素性を語り始める。

 彼は一九七七年千葉県千葉市の稲毛海岸に生を受けた。彼の家は比較的裕福で、彼の父は祖父から不動産会社を引き継ぎ県内でビジネスを展開していた。彼には二つ上の姉と三つ上の兄がいた。兄も姉も優秀で、特に兄は都内の名門私立中高に進学する程であった。彼は自身が兄や姉ほど優秀ではないことに自覚的で、そのことに少なからずコンプレックスのようなものも抱いていたけれど、しかしながらそれは事件に直結するようなものではなかったはずだった。彼は自身の将来を、きっと地元の国立である千葉大学のどこかの学部に進学し、そのまま公務員にでもなるのだろうと見積もっていた。

 しかしながら九十年代半ばに会社が倒産したことで、父と母が子供たちを残して揃って自殺をしてしまうと、彼は大学進学はおろか、高校すら中退を余儀なくされてしまう。兄は両親の死にショックを受けて部屋に引きこもるようになり、姉は幕張のホテルで清掃員として働き始めた。彼が最初に罪を犯したのはその頃で、罪状は窃盗及び暴行であった。アルバイトの採用面接で落とされた腹いせに地元のスーパーで食料品の万引きを行い、それを目撃した店員が注意しようとしたところ逆上し、体当たりして逃走を図ったのである。

 そうして現行犯逮捕されてそのまま何日か勾留された後、彼が家へ帰ると玄関ドアには鍵がかけられておらず、開けると目に飛び込んできたのは首を括った兄の姿であった。姉はその日は日勤で、留置場を出た彼が家に電話をかけると出てくれたのは兄であった。今から帰ると彼が言うと、兄はそうかと言って電話を切った。兄と最後に交わした会話はそれだけだった。彼が発見した時にはもう兄は息をしていなかった。遺書らしきものは何も見つからなかったけれど、彼は実質的に自分が兄を殺したのだと短絡的に思った。

 優秀だった兄に対する倒錯した想い、閉ざされた未来、そうしたものが彼の性質を不可逆的にひどく不安定なものにしてしまった。彼はその人生で一度も正社員に就くことは出来ず、アルバイトもまた、長くても一年ほどしか続かなかった。職場の人間関係が原因である時傷害事件を起こし、懲役三年の実刑判決が下されるとそこで姉から縁を切られた。彼はついに独りになった。刑期を終えて出所すると、自分を雇用してくれる場所はアルバイトですらもうどこを探しても見つからなかった。

 もう、死ぬしか選択肢が残されていないよう彼には思えた。死ぬこと自体に特に恐怖はなかったが、兄みたいに世界の片隅で惨めったらしく死んでしまうのは嫌だった。兄は優秀だったはずだけれど、あんな死に方をしてしまっては誰にも顧みられない。あれは言ってしまえばどうしようもない人間の死に方だ。勝手に自分達のことを産んで、そして勝手に死んでいった両親のことが憎くて仕方がなかったが、それもどうしようもないことだった。彼にはこの、どうしようもなさに己の生が縛り付けられる感覚が耐え難かった。

 あるルールに則ってゲームをプレイした結果、両親も兄も脱落して、自分もいま脱落するしかない地点に立たされている。でも別に、彼に、そのルールに合意した記憶などなかった。気付けばフィールドに立たされており、そして気付けば分が悪くなっていた。勝手に、取り返しがつかないということにされていた。彼はそのルールに従うのではなく、破壊してしまおうと考えた。

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