第八夜

 蕎麦屋の敷居を跨またいだら、奥の厨房で洗い物をしているだろう女将がいらっしゃいと云った。私は空いていた角の二人掛けのテーブルに陣取る。それから少しすると洗い物の音が止んで、女将が湯呑みを盆に乗せて私のところへとやってくる。

「注文は?」

「ざるの大盛りで」

 すると女将は「いつものね」と言ってまた奥へ消えていった。そのやり取りから分かる通り私はこの店にしばしば通っていた。特に夏の間、茹だるような炎天で食欲が露ほども湧いてこない時でも不思議と此処のざる蕎麦だけは喉を通るのである。

 女将が厨房に戻るとまた勢いよく蛇口を出す音が聞こえてきた。現在時刻は午後一時を少し過ぎたくらいである。この店の掻き入れ時は十二時からの一時間であるから、きっと洗い物が大量に溜まっているのだろう。

 反対に店内の入りはもうまばらである。私を含めて客は四人、皆一人で来ている。彼らの中にはよく見る顔もあれば初めて見る顔もある。ただ共通して皆呑気な顔をしている。私も他人から見たらきっとそんな顔をしているのだろう。兎も角、時間に追われているような素振りが微塵もない。

 この店自体に呑気なアトモスフィアが流れているというのもある。往来のにぎわいとは全く対照的である。操業を停止した廃工場のように、あるところを境に時を止めてしまったかのような泰然自若とした雰囲気が備わっている。少なくとも私が訪れるようになった五年前からこの店、ないしこの店を構成する要素(テーブル、椅子、女将等々)はいまと同じように古ぼけていた。五年経った現在、私の肉体だけが五年分年老いて、この店は五年前と変わらないざる蕎麦を提供している。

 五分経つと女将が今度はざる蕎麦をお盆に乗せて戻ってきた。ただそれは私のではなく、私の左隣の席に座る若い男のであった。彼は先ほどから熱心に向かいの壁に飾ってある掛け軸を眺めていた。そこには達筆な字で一句、

"路問エバ、( )唖ナリ、枯野原"

とある。

「すみません。あの余白には何が入るんですか」

 男が配膳をする女将に向かってそう尋ねた。女将は最初何のことだか分かっていなかったが、彼の目線の先に気がつくと、いつものさっぱりとした口調で、

「それがそのまま答えだよ」

 ぽかんと口を開ける若者に構わず、女将は更に捲し立てる。

「あそこには本来、魔人が入るんだけど、魔人なんてもんは、言葉に出すだけでも不吉だろ。だから余白にしてある。つまり、魔人とマージンがかかっているのさ」

 結局、若者の口が閉まることのないまま女将はまた奥へと消えていった。彼はしばらくぼんやり掛け軸を眺めていたが、その内に飽きたのか眼前の山盛りのざるに手をつけ始めた。

 一連のやり取りを眺めていて、そう言えばこの掛け軸は自分が常連になった五年前にはなかったことを思い出した。これは確か三年前の秋の蚤の市にて大将が一目惚れして買ったシロモノである。私も秋の蚤の市には毎年足を運んでいる。それを女将から聞いたとき、思い返せばこんな掛け軸が売られていたような気もした。しかし私の琴線には全く響かなかったものである。一度素通りしていったはずのものがこうして私の前に再び現れていることにぞわぞわと何だか不思議な心持ちがした。

 いつしか掛け軸はまるで元からそこにあったかのようにこの店に調和していた。私はもう百回は目にしてきたはずのそれを改めて眺めてみる。女将はあれは空白のままが正解なんだと言っていたけど、やはり何か言葉が入るのではないかと思えてくる。しかし、だとするならば一体何を入れたらしっくりとくるだろう。

 考えているうち女将がお盆にざる蕎麦を乗せてやってくる。今度は無論私のである。店内の客はもう私しかいない。

「今日はえらい掛け軸が人気だね」

「改めて眺めてみるといい軸だなと思って」

 しかし予想に反して女将は「そうかい?」と首を捻った。それで気に入っていないのか尋ねると、

「気味が悪い句だからわたしは剥がしたいんだけど、主人が聞かなくてね」

 すると奥からくっちゃべってないで仕事しろと叱りつける声がした。女将はハイハイ言いながら他の客の食べた後を片付け始めた。私は五年も通っていて大将の顔をまだ見たことがなかった。数多ある骨董品の中からこの掛け軸を見抜いた彼のなりは一体どんなものなのだろうと、私の興味はいつしか掛け軸の余白からそちらに、或いは眼前の蕎麦に移っている。

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