8-2

 何処までも信じると言い切った彼女の瞳はまた、何処までも真っ直ぐ僕を捉えていて、出逢ったあの時--僕が彼女を助けてしまったあの瞬間と同じように、僕は彼女から目を逸らすことが出来ない。逸らしたことを悟られた瞬間に、多分僕は殺される。いや、殺されなければならない。だから殺されたくなければ僕は逸らしたことを決して悟られてはいけない。でもそれは、彼女を、少なくとも在りし日の彼女を殺すことと、同義なのである。時間はいつだって、いつの間にか流れており、僕たちは、勝負なんて生ぬるいものではない、そんな殺し合いの泥沼にもう既にくるぶしの辺りまでは浸かっており、更に時間は不可逆なものだから、それに気づいてしまった時点で、引き返すことは許されない。そうして彼女のいう通り、僕に彼女を殺すことなどできない。また、僕は彼女を罪人にさす訳にはいかない。

 ならば僕は、己の手で己のことを殺すしかなくなる。

 やはり魔王を倒さねばならないのだと思った。僕は彼女の瞳をじっと見つめながら、そこに映る己自身と目を合わせる。決意が揺らがないよう唾を飲み込む。この事態にケリをつける覚悟が、食道を通って腹の底へと静かに落ちて行く。

 夕食を食べ終えた後、キキョウが淹れてくれたホットコーヒーを飲みながら、自分がいなくなる前に最低限やっていかなければならないだろう、村の運営に関わる多少のタスクを片付けた。その後で外に出て、気分を落ち着けるため、柄にもなく星空を眺めてみた。僕は文系で、理科の授業を真面目に受けてこなかったから、あの星には何という名前が付いているのだろうと考えてみても皆目見当がつかない。そもそもこの星空と、僕の生きなければならない世界の星空は全然違うものなのかもしれないし、違って当たり前だ。近頃幾分暖かくなってきたとは言え夜はまだ寒く、上着を羽織らずに出たから五分ほどで部屋に引き返すと、キキョウが丁度、ホットコーヒーを片付けに部屋にやって来ていた。

「今日もお仕事お疲れ様でした。今からお風呂を沸かしますから少し待っていて下さいね。それと今日は、お風呂に入った後はさっさと眠ってしまった方がいいかと思います。私もこれを片付けたらもう寝ます」

「今からオオアミに行く。付いてきて欲しい」

 たったそれだけの言葉で僕のこれからしようとしていることを全て悟った彼女は、ほんの短いあいだ瞬きもせず固まったあとで、静かに息を吐き、吐き切る最後、死にかけの夏の虫のように頼りない、小さな声で「はい」と言って頷き、僕に背を向け部屋を去っていった。

 二十分ほどで僕たちは各々の支度をすませると、赤いフェラーリの形をした最新式の魔力車に乗り込み、猛スピードで荒野を駆け抜けてゆく。僕はハンドルを握り、進行方向の冥邈を見つめながら、助手席に座るキキョウに向かって、オオアミでサトウに言われたこと、そのことについてさっきまで考えていたことや、さっきした話の意図などを包み隠さず話した。その最後に、過去形で、君が好きだったと嘘をついた。何気なくを装って、でも、そういうキザなことに慣れていないから、僕の声は不恰好に上ずってしまう。

「そんなの、今言うの、……」

 彼女はそんな僕のことを笑おうとしたけど、そこで言葉を詰まらせた。でも泣き出したりもせずに、長い沈黙の後、消え入りそうな声で、

「ずるいですよ」

と、僕のことを責めた。僕はそれに何も言い返すことが出来なくて、事実ずるい人間だから、

「ごめん」

とだけ言って、会話を一方的に終わらせると、あとは運転に集中する振りをして、無言を貫いた。

 オオアミに着くまで一時間もかからなかった。村はこの間とは打って変わって静かだった。本来今日は、この世界にとって、何でもないただの一日に過ぎないことを強調しているかのように。

「今からサトウと話をつけに行く。車の中で待っていて欲しい」

そう言い残して、村の中心に聳える役場に独りで向かうと、その前では既に、サトウが不遜な笑みを浮かべて待ち構えていた。恐らく僕の村にいた馬鹿に真面目な使者から連絡がいったのだろう。

「こんな時間に訪ねてくるなんて無礼ではないか」

 彼は笑ったまま、至極もっともなことを言って僕を責めた。

「すまない」

「一体何の用だ」

「僕は今から魔王を倒しに行く」

「その話ならこの前決着がついた筈では」

 僕は言う。頭の中に用意してきた原稿を読むように、一言一句丁寧に。

「--僕らは強大な力を持っている。この力は確かにこの国を豊かにしたかもしれない。だけど個人が有するには、この力はあまりにも強大すぎる。だって僕らの選択がいつだって正しいなんてことは絶対無いのだから。僕らはときに、或いはしばしば、選択を間違える。しかしそのときに止めてくれる存在がこの世界には居ないんだよ。なあ、それって本当に幸せなことなんだろうか」

 僕の演説めいた言葉が終わった後、勇者サトウは長い間沈黙していた。僕を説得する言葉を探していたのかもしれない。

 でも結局、彼は静かにこう呟いた。

「確かにお前の言うことも理解出来る。しかし私も折れるつもりはない」

「そうか」

「……そう問われても猶、私は、今の生活が幸せだとはっきり言い切ることが出来る。その幸せを奪うものに対して容赦をするつもりはない」

 別に僕も、自分の言葉でサトウのことを説得出来るとは毫も考えていなかった。仮に僕の意見が正しいとされるものなのだとしても、世界の正しいあり方と個人の願望は大抵一致するものではなくて、そして僕らはこの世界ではたまたま勇者だなんて持て囃されているけど、元の世界に戻ればただの人で、従い当然聖人君子になんて、なれない。僕が魔王を倒す踏ん切りをつけることが出来たのは結局のところ、単に、僕の、この世界を通じて出逢った一番大切な人がそれを望んでいたからに過ぎない。

 僕らの間にはいま、決して埋まることのない深く暗い溝が横たわっている。でも、僕らを別つことになった契機は、そんなような、ほんの些細な偶然に過ぎず、だからこちらの岸に僕が立ち、あちらの岸に彼が立っていることには、実のところ何ら必然性はないのである。

 サトウは付いて来いと言って僕に背を向け、役場の中に入ってゆく。役場の地下には広大で何もない空間が広がっていて、つまり、この建物はかつての魔物の巣の上に屹立している。

 僕らはそこで人間同士、互いに倒すべき相手として向かい合う。

「--ここは普段魔法の訓練場として使用されている。知っているとは思うが、多少の衝撃ではビクともしないように出来ている」

 そう言うと、僕からたかだか二十メートル離れた位置に立つ彼は、ジャケットとシャツを脱ぎ、鍛え上げられた己の上半身を顕にした。

「今から私は全力で、殺してでもお前のことを止める。それがさっきのお前の問いに対する私の答えだ。殺されたくなければ本気で掛かって来い」

 元いた世界で梨農園を営んでいたらしい勇者サトウに与えられた魔法は本来、植物の成長スピードを自在に操るというものであった。それだけ聞くと戦闘向きの能力ではなさそうだけれど、しかしながら数年にも及ぶ鍛錬の末に彼は、魔法を自らの体細胞に応用する極意を身につけ、そうしてこの巣のかつての主を討伐するまでの境地に達した。史上、単独での魔物の討伐を成功させた勇者は僕とサトウだけである。

 極限まで己の内の魔力を解放して、一時的にではあるが魔物をも上回るパワーとスピードを獲得した彼が、まさしく目にも留まらぬ速さで僕を攻撃する。しかし、……彼の正拳突きが貫いたのは、僕が光魔法で生み出した蜃気楼だった。肉を穿った感触がないことに彼が気づき、その動きが止まった刹那、僕は死角から彼の心臓を光線で静かに射る。質量を持った物体が光の速さを超えることは出来ない。相性を鑑みて、彼が僕に勝てるはずが無かったのだ。

 それでも、僕は少しも彼のことを愚かだとは思わなかった。

 勇者が死ぬとそのなきがらはまず淡い光になって、光はいずれ粒になる。徐々に弱まりながら粒は更に空間に霧散していき、遂には肉眼で捉えることが出来なくなる。彼は、この世界に塵一つ物質的な痕跡を残すことなく、一足先に元の世界に還っていったのだ。僕はその一部始終を見届けるとさっさと役場を後にした。滞在時間はたかだか五分程であっただろうか。故に外の世界は僕らが中に入る前から何一つ、代わり映えがなくて、僕は自分の位相だけが世界からズレてしまったような居心地の悪さを覚える。

 しかしながら足早にその地を去ろうとした時、後ろから不意に声をかけられる。

 立ち止まり振り返ると五メートルほど向こう、枇杷の木陰にて、雨宿りでもしているかのように勇者シマントがタバコを燻らせ佇んでいた。僕はどうしてこの場に彼がいるのだろうと疑問を抱き、そして警戒する。それは理屈では説明がつかないような気がした。

 彼はその時、僕にこう声をかけたのである。

「なあ、人を殺した気分はどうだい?」

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