8-1

 会議の翌日昼前には僕たちはオオアミを発った。ただ、行きとは違い、一人の使者を伴って。出発の直前になって、その日からゴイ村にはオオアミの使者が駐在することになったとオオアミ村の職員から一方的に通知されたのである。その際、新しい村をより強靭に発展させてゆくための外部コンサルタントであるという風に耳触りの良い説明を受けたが、その内実は僕らの動向を伺うための見張りに他ならなかった。しかしながらわざわざ見張られなくとも、村を発った時の僕の中に能動的に動く気力など何処にもなかったのだから、その対応は過剰で、馬鹿馬鹿しく、茶番のようにしか思えなかった。

 あの日、勇者サトウと相対した時から、僕はこれまで面と向かって問われなかったことを良いことに考えることを先延ばし、ないし放棄してきた、自分は果たしてどう生きたいのかという問いに、いよいよ向き合わざるを得なくなった。そうして僕は、あちらの世界では虚脱的な人生に雁字搦めにされていたけど、こちらでは勇者として充実した日々を謳歌している。また、あちらでは独りきりで過ごす時間が生活のほとんど全てだったが、こちらの世界にはキキョウが居る。僕は考えを巡らす過程で、最近の自分が、はっきりと、キキョウに対して淡い恋心のようなものを抱いていることを認めた。恐らく、彼女の方でもまた、まんざらではないように思われた。それは、僕が勝手にそうあって欲しいと思っているだけなのかもしれないけれど、でもこういう初々しい状態は歯がゆくもありながら、ずっとそれを眺めていたいと思うような、試したことはないけれど多分麻薬のように、一度そうなったが最後、二度と手放し難く、たなごころで褪せることなく煌めいていた。そのうちに僕は、こちらの世界が本物であるように認識の重きを置くようになっていた。以前までの僕は、凡そ二十年にも渡る、長い割に大した盛り上がりどころすらない、真綿で首を絞め上げられ続けているような、或いは決して出ることの叶わない精神病棟のベッドの上で胡座をかいてただ寿命が尽きるのを待っているかのような、そんな悪夢をただ漠然と見させられていただけに過ぎないのだ、と。

 でも、あの会議から更に数ヶ月が経過したある日、政務の一環で村内を視察していたときのことであった。

 冬の寒さもだいぶ和らいで来て、この頃中央広場では毎週休日になると劇が行われていた。それは勇者が数々の困難を乗り越えた末に魔王を倒すというあらすじの御都合主義的英雄譚で、まだ新しい村の数少ない娯楽の一つであった。その日も劇は盛況に終わったようで、視察を行っていたのはもう間もなく日が暮れ始める時分であったが、道行く人々は未だ興奮気味で昼間の劇の感想を言い合ったりしていた。

 そんな熱気漂う中を歩いていると、ふと路傍にて、熱病にあてられた子供達が劇の真似事をしているのが目に入った。勇者役の子たちが魔王なのであろう薄汚れた黒い野良犬を棒切れで袋叩きにしていた。子供達は純真な分、ときに際限なく残酷になる。

 でも、何が正しくて何が間違っているかなんて、本当は誰にだって未来永劫分からないことではないか。

 僕はすぐに子供たちから棒切れを取り上げて、どんな事情があっても生き物をいじめてはいけないことを、なるべく優しく諭す。子供たちは僕の顔を見て、今にも泣き出しそうな顔でごめんなさいと謝る。僕はその時、子供たちの顔を通じて、子どもたちが犬を叩いていたのとまさに同じように、自分が正しいことをしたつもりになっていることに気付かされる。実際、僕は正しいことをしているはずだ。でも、僕は彼らの顔を眺めて、何故だか、虐められている犬を見捨てて去った場合ときっと同じくらいの、無性に居た堪れない気持ちになる。

 夜、キキョウと二人で、彼女が作ってくれた温かいご飯を食べているときに、この話題を打ち出してみる。彼女は、それに真摯に耳を傾けて、そして貴方は何も間違ったことをしていないと優しく慰めてくれる。その反応は、半ば予想していた通りのものだった。でも、僕は彼女に慰めて貰いたくてその話をしたわけでは決してなかった。

「例えばキキョウは、僕が棒切れで野良犬のことを叩いているところを目撃したらどうする?」

 彼女は最初、僕の言葉を聞いて「何を言っているんですか」と笑っていたが、聡明だからすぐに僕が冗談でそう言っているわけではないことを悟り、フォークを静かに置き、ナプキンでそっと口を拭う。そうして僕の方を見つめ、言った。

「勿論全力で止めますよ」

 僕は更に尋ねる。

「それは、どうして?」

 それに対し、彼女はこう答える。

「正義に反するからです」

 僕は言う。

「僕が悩んでいるのは、子供たちが棒切れで犬を叩いていたのも彼らなりの正義、価値判断の元でそうやっていたんじゃないかという事なんだよ」

 彼女はそれを聞いて、押し黙っている。僕たちの会話は、まるでオセロでも指しているかのように、この話題を始めてから、どちらかが何かを発する度に短くない間が挟まる。それは仕方のないことに思える。彼女が無言なのは、きっと自分の石を置ける場所が今はないからだ。そんなことを思いながら僕は自分の言葉を続ける。

「勿論それは大人である僕たちの目には明白に間違っているもののように映る。子供たちと僕たちの価値基準は、はっきりと異なっている」

「はい」

「でも、もっと複雑で込み入った問題に直面したとき、それと同じように僕と君の間でだって、異なり得ると思うんだ」

 続けながら、果たしてこれは勝負なんだろうかという疑問が頭をよぎる。

「その時は、話し合いましょう」

 彼女は、僕たちを包む空気に耐えられなくなったのか、先ほどやめた笑顔をまた作って、努めて明るい声音で言った。でもその顔は、野良犬にではなく僕に対して「ごめんなさい」と謝った、あの時の子供たちの表情とどこか重なるのだった。

 だから僕の胃は俄かに痛み出す。まるでいま食べているこの温かい料理に毒が仕込まれてでもいるかのように。

「それでも、その溝は埋まらなかったら?」

「あまりそんな想像したくはないですけれど」

 彼女はそこで一呼吸、置いてから言った。

「やはり、最終的には私は私の価値基準を信じるかと思います」

「その時は、僕を殺してでも僕のことを止める?」

「なんで、そんな事訊くんですか」

「大事な事だから」

「殺して欲しいんですか」

 そうはっきりと問われて、僕は思わず自分の眼前に置かれたナイフに目線を落とす。落としたまま、

「いまの僕は、そうなったら殺して欲しいと思う。でもその時の僕は、殺されそうになったら、必死で反撃して、君を殺してしまうかもしれない」

という言葉を、胃の中のものを吐き出すように口にする。

 そうしたら、

「エンドウさんに私のことは殺せないですよ」

なんて彼女が断言したから、また僕は顔をあげる。そこには当たり前に彼女の顔がある。でも果たしてそれは、つまりいまこの場所に、手を伸ばせば肌が触れ合う距離に僕と彼女が向き合っているということは、どのくらい当たり前のことなんだろうとも一方で思う。

「どうして?」

「だって貴方は優しいから。私は、あの時私のことを救ってくれた貴方のことを、どこまでも信じています」

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