闇の女と魔物狩りの騎士

あば あばば

闇の女と魔物狩りの騎士

「……おまえは暗闇が怖くないの?」


 暗い地下室の中。吸血鬼は少女の背に問うた。

 長く生きた彼女は、闇を渡って影から影へと移動する術を身に付けていた。吸血鬼は年を経るほど汚れた血が熟成され、より強く、より恐ろしく、そしてより美しく変わっていく。そうして永遠の夜を彷徨っては孤独な魂を探すのだ。時に餌とし、時にただ眺めて楽しむために。

 しかしこの夜見つけた小さな魂は、少し違っていた。


「こわくない。何も、誰もこわくない」


 少女は孤児だった。そんな風に強がっていなければ、誰もが自分を見下すのだと知っていた。寒さに震えながら、凛と背筋を伸ばす少女の姿は、吸血鬼の古びて凝り固まった心をほんの少し動かした。


「そう。おまえは強いのだね」

「……うん」

「私は暗闇が怖かった。夜を、魔を恐れていた」

「……弱虫だ」

「そう。私は弱虫なんだ……だから、怖れていた全てと『同じ』になった。もう二度と、震えることがないように」


 少女は初めて、話しかけてきた相手が人間でないことに気づいた。それでもなお、彼女は態度を変えなかった。人間も悪魔も魔物も同じように恐ろしく、そこに大きな差はなかった。


「……殺すの?」

「さあね」


 闇の中から、生白い腕が伸びた。その奥に体はなく、暗闇に浮かぶ微笑みがあるだけだった。

 暗闇に溶けた女は、その両腕で後ろから少女の肩に触れた。ひやりとした感覚が、皮膚を通じて心臓まで達するようだった。


「私はおまえが気に入った。おまえの望むようにしてあげる」

「…………」

「殺してほしいならそうお言い。私と同じになりたいならそうしよう。おまえをいじめるものが邪魔なら、みんな消してあげる」


 女の手はさらに伸び、少女を抱くように包んだ。その声はすぐ、耳元で囁いていた。

 少女は微動だにせず立っていた。


「どうしたい」

「あたし……は……」


 少女の顎が、かくんと垂れた。それからゆっくり、ひと雫。

 涙が垂れた。


「どうして泣く?」


 妖魔の冷たい抱擁でさえ、ずっと孤独だけ生きてきた少女には、耐え難いほど温かかったのだ。それを察して、吸血鬼は手を離した。


「……泣いてない」

「弱虫だ」

「泣いてない!」


 くすくす笑って、吸血鬼はため息をついた。


「誰にも何もしてほしくはないんだね。おまえは、強くなりたいんだ」

「…………」


 目と口をきつく閉じたまま、少女は深くうなづいた。

 誰の手も借りずに。自分以外の何者にもならずに、見下された全てを見返すのだ。そうでなくては、負けたのと同じだから。


「おまえは美しい娘になるよ」

「……嘘」

「そうなるとも。おまえはずっと強く、美しい魂になる」


 未来を見通すように言って、吸血鬼は再び暗闇に溶けだした。


「その時にまた会うだろう。願いはそれまで考えておいで」


 少女がようやく勇気を出して振り向いた時、そこにはもう何もいなかった。



 十年後。二人はもう一度出会った。

 狩るもの、狩られるものとして。


「古種の吸血鬼か。何か大物が潜んでいるとは思ってたが、予想以上だよ」


 はるか昔に崩れ去った城の廃墟。

 かつて少女だった騎士は吸血鬼に剣を突きつけ、目を細めた。闇の中、うごめくものの不意の動きを見据えて備えるために。


「……ふふ」


 城よりもずっと古い棺桶の中から裸の肩をさらして、吸血鬼は気だるい笑みを浮かべた。血に濡れて垂れた黒髪は、その肩から流れて棺の中の闇に同化していた。


「もっと早くにみつけるかと思っていたが。焦がれていたのは私だけか」

「? 何を……」

「見忘れたかい? いや……あの時結局、おまえは私の顔を見なかったね」

「……あたしのことを知ってるとでも?」

「知っているさ。弱虫」


 騎士の体が総毛立った。おぼろげなれど強烈な記憶が、彼女にそうさせた。


「貴様はなんだ? どうしてあたしを知ってる。あたしも……何か覚えてる」

「そういうものだ。子供のみた夢……体だけ覚えているのだろう。震えたこと、惹かれたこと、恐れたことを」


 棺から立ち上がると、部屋中の暗闇が吸血鬼の体をくるむように包み、夜を象る深い色のドレスに変わっていった。数百年ぶりの正装を身にまとって、肌はより青く白く輝いていた。


「見るがいい。思ったとおりに。おまえは強く、美しくなった。どれだけ血に汚れても消えない、気高く磨かれた魂を手にした」

「う……」


 獲物を狩るつもりで心を固めていた騎士は、相手の威容に一瞬で呑まれていた。放たれる妖気。足元から忍び寄る寒気。心臓を素手でつかまれたような恐怖と、奇妙な生温かさ。


「一人で、本当に、おまえは立てるようになったのだね。もう泣いたりしないのだろう? おまえを見下す者は、みんなおまえより弱いのだから」

「あ……」


 声が出なかった。強力な敵を予想して、用意しうる最高の武具と魔除け、破呪の聖水も持ってきた。しかし、この相手にはどれも効果があると思えなかった。

 手は震え、体は強張る。この妖魔は、自分をひと触れで殺すことができるのだ。


「でも私だけは違う。今、もう一度おまえに訊こう」

「…………」

「私に、どうしてほしい」


 ひたり、ひたりと冷たい石床と同じ温度の素足が近づいてくる。


「この手で、もう一度触れてほしい?」


 いつしか、騎士が慎重に配置した松明の火は全てかき消えていた。

 真の暗闇の中で、しかし騎士は迫ってくる女の手を、足を、その体をはっきりと見ることができた。両腕はすでに間近に伸ばされ、今にも自分を抱きしめようとするようだった。


「来るな」

「もう一度、抱いてほしい?」


 騎士は魔の誘惑を遮るため、目をきつく閉じた。吸血鬼の瞳を覗いてはならない。彼らは瞬時にして相手の心に入り込み、それを望むように動かすことができる。

 すでに騎士は自分の心の奥底に、ちりちりと火が立つのを感じていた。それが古い記憶にずっと燻っていたものなのか、今植え付けられたものかさえわからない。

 ただ心を閉じて、言葉を耳に入れず、まっすぐに斬る。それだけが生き残る術なのだ。抱擁を受け入れ、首でも噛まれてしまえばもう戻れない。吸いつくされて死ぬか、それとも同類にされるか。


「それとも……」

「黙れっ!」


 声を頼りに、銀の剣を鋭く振る。切っ先は虚しく空を切った。

 もしその一閃が相手を捉えていたとして、姿なき闇を斬ることができていたかは疑問だが。


「それとも、ずっと背を向けてきた本当の恐怖から、おまえを永遠に解放してあげようか」


 声が途切れると同時に、地下室から気配が消えた。

 誰もいない。何もない。自分の体の感覚さえ消えていきそうだった。手から力が抜け、剣が床に落ちる。その音さえ闇に吸われて響かない。


(そうだ、昔もこんな風だった……)


 覚えのある孤独が騎士の心に沁み込んでいった。

 躾と言って孤児院の地下に閉じ込められて。助けを求めても誰も来なかった。この世界にひとりきりだった。持って生まれた冷たい魂のほかには、何もなかった。

 ――あの時から自分は何が変わっただろう? 今もただ一人、何も持たず立ちすくむ少女のままではないのか。


「おいで」


 暗闇から伸びる手の優しさ。

 恐ろしく、恐ろしいからこそ、その手は自分を救うことができる。


「私と、同じになろう」


 二度と一人で震えることもない。冷たく優しい、夜の世界。

 手を引いてくれる誰かがいるのなら。


(誰かが……誰か……)


 まぶたを開くと、すぐ目の前に女の顔があった。

 生者にはけして手に入れることのできない、一切の欠点のない、完全な美。砕けることのないガラスの彫像。畏怖すべきもの。そして、それでいて……どこか懐かしい。騎士が心の底でずっと探していた存在しない故郷は、この女の瞳の奥に、その腕の中にあるのだと思った。


「抗う意味はないんだ……わかるだろう」


 もとより抗うことなどできなかった。すでに騎士の体は虜囚となっていた。


「私はおまえの味方なんだから」


 その言葉に嘘はない。吸血鬼は本心から騎士を救うつもりなのだ。

 少女の時からすでに彼女の魂は闇の底にあった。大人になり、強くなり、光の眩しさを知った今だからこそ、闇の懐かしい優しさをより深く感じている。その奥底の絶望を、吸血鬼は巧みに探り当てていた。

 どれだけ強く気高くなれたとしても――結局のところ、血にまみれ人の世に生きる限り本当の安息などないのだと。


「私の手は冷たい。おまえも同じ温度になろう。そうすれば、もう寒くはない」

「…………うん」


 子供の頃には言えなかった言葉が、口からこぼれた。


「哀れな子だ。これだけ強く、美しくなっても、誰もおまえを愛さなかったのだね」

「…………」


 ふと。騎士の心に小さな痛みが走った。

 誰も自分を愛さなかった――本当に?


「私はおまえを愛しているよ。あの時、暗闇に向かうおまえを見てからずっと。凛と立つ背中、震える瞳を愛した」

「…………」

「これからもそうするだろう……おまえが受け入れるなら」


 吸血鬼の絹のような肌が頬をすり抜け、手が首筋へと伸びる。

 一瞬、撫ぜられた頬に、涙がするりと滑って落ちる。

 それは孤独の痛みではない。胸に刺さった棘の痛みだった。


(誰も……誰も?)


 ――違う。違うはず。

 棘の刺さった心臓から血潮が流れ出て、騎士の手足を再び熱くする。

 その棘は、血まみれの人生の中でただ一度、生きた女の温かな手で心に触れられた確かな記憶だった。信ずるものもなく生きてきた彼女が、ただ一人信じたもの。


「……クロエ」

「!」


 小さく名前をつぶやいて、騎士は目を見開いた。

 暗闇に銀の光がひらめき、鮮血が舞った。斬り飛ばされた吸血鬼の腕は、石床に落ちて塵となって崩れた。


「知らぬ女の名、だ」


 吸血鬼は目を細めて、暗闇を見通す。

 騎士の手には懐から抜いた銀のナイフが握られていた。護身用の小さな武器。だが銀を通して伝わる生気は、負の生命である彼女の体には変わらず毒だ。陽の光と同じように、どれだけ年経て強くなっても越えられぬもの。


「……そうか。おまえの心はもう、汚れたのだね」


 途切れた手首から赤々と血がこぼれる。

 しかしその血は床には落ちず、中空で凝固して代わりの左手を形作った。


「あの時の愛を知らぬ少女はもういない。おまえは、つまらない、ただの女になった。暗闇よりも松明の灯りを見る……そんなものに」

「貴様を……楽しませるために、生きてきたわけじゃない」

「……ああ」


 騎士を睨む紅い瞳は、どこか寂しげに伏せられた。


「ああ、そうだね……私はまた間違えたのだ。魂の片割れを探して……どこかに、と……私の魂など、とうに夜へ捧げてしまったのに」


 吸血鬼は自分の両肩を抱いて、その冷たさを感じた。

 自分と同じ温度を。


「……吸血鬼。あたしに望みを言えと言ったな」

「思い出した?」

「ああ……『ここで死ね』」


 それだけ言って、騎士は剣を拾い上げ吸血鬼の胸ぐらへ突進した。

 剣はまっすぐ心臓へ突き立って、赤い血潮を流した。


「な……」


 あまりのあっけなさに、騎士のほうが声を上げた。

 吸血鬼は無抵抗に両腕を広げ、長く倦んだ生を終わらせるひと突きを、自ら迎え入れたのだ。両腕は騎士の肩を包み、愛おしげに背中を撫でた。その瞬間、二人は抱き合うようだった。


「叶えてあげるよ。おまえがそう望むなら」


 砕けた心臓から花びらのように散った血の大粒が、はらはらと落ちていく。騎士の汚れた鎧に。その頬に。石の床に、積もってゆく塵に。


「だからおまえも――私の望みを叶えておくれ」


 呆然とした一瞬の隙をついて、吸血鬼は騎士の首筋に噛み跡を残していった。

 痛みを感じたときには手遅れだった。引き剥がそうとしたときには、女はもうそこにいなかった。残されたのは塵と、魔の魅力を失った、ただのつまらぬ暗闇だけ。


 彼女はそうして望みを叶えたのだ。他ならぬ彼女の血によって、騎士はこの暗闇に永遠に縛られることになり、そして彼女は騎士の血の中でもう孤独ではない。


「……クソ女が」


 吐き捨てるように言ってから、騎士はその場に膝をついてくずおれた。

 両目を掌で塞ぎ、声にならぬ嗚咽をもらした。


 騎士がもう一度立ち上がるまで、しばらく時が過ぎた。

 ようやく覚悟を決めて、自分の終わるべき場所へと歩き出す前に、彼女は床の上に積もった塵の山を一瞥した。そして遠い記憶に別れを告げるように、ふっと息を吹きかけた。

 塵は温かい風に巻かれて、あとには何も残らなかった。


(終わり)

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