第10話 セファルの一日
黒く艶やかな長い毛並みが、ふわりと揺れる。
朝日もまだ出ぬ早朝から、彼女は動き出した。
「さあ、今日も頑張りましょう」
気合も充分、といった様子で愛の住処から外に出る。
早朝の空気は澄んでいて、気分が良かった。
「旦那様も、今日はお休みですし」
セファルは小さく笑う。
彼女の伴侶が久しぶりに張り切り過ぎたため、腰痛でベッドから動けない状態になっていた。
彼の腰に息でも吹きかけてみると、変な声を出したことを思い出した。
「それにしても、旦那様にしては珍しいですね。死合いの相手に情けをかけるとは……」
黒犬は首を傾げた。
話を聞いた限りでは、『断鎧のゴルホス』を殺さずに立ち去ったらしい。
以前であれば、名誉のためにその場で首を獲るか、切腹でも申し付けていた。
気にかかるという程でもないが、不思議という感覚が強い。
「でもまあ、結局はお甘い方ですから」
優しい旦那様の事だ、あの娘子たちの名誉を慮ってやったのだろう、と静かに頷く。
事実、オウジ・タマフサの記録は、公式には残されていない。
ノルトに調べさせた結果、『餓狼殺しのゲルダ』が辛くも打ち取ったという報告が王都に為されていた。
ちなみにオウジの方は、ギルドに保護されるのが嫌で逃げ出して釣りに行き、ぎっくり腰で療養中ということになっている。
冒険者ギルドの除名処分も検討されたそうだが、ゲルダの働きかけによって撤回されたそうだ。
臨時職員を辞めずに済んだとはいえ、周りからは侮られることだろう。
「さてはて、妙なことにならねばよいのですが」
セファルは背後を振り返った。
オウジが苦労して手に入れた、小屋の如き一軒家が遠くに見える。
人間が建てた家など惜しくもないが、住めばそれなりに思い出が生まれるものだ。
失わずに済むのであれば、それに越したことはない。
ただそれも、全てはオウジが決めることだ。
彼女としては、オウジの傍に居られればそれでよかった。
そのためには、成すべきことがある。
「――――」
考え事をしながら歩いて、ケッセルの町から外に出た。
眼光を鋭いものに変え、疾走を始める。
風を切り、矢の如き勢いで草原を駆けた。
途中でペルムを見つけたら、前脚の爪で容易く引き裂く。
適当に周辺を走り回って、日が昇り始めたら散歩が終了する。
その後は、知らぬ顔をしてケッセルの町に戻るのだ。
「よう、おはよう」
早朝から農作業をする人間に声を掛けられるが、一瞥して通り過ぎる。
いつもの事なので、相手も返事を期待していない。
「相変わらず、賢い犬だなぁ」
暢気な人間だった。
けれども、真面目に田畑を耕す行為には感心する。
大地を耕して、人を育み、そして土に還る。
大いによろしいことです、とセファルが考えていた時だった。
「あー、おっさんとこの犬じゃん」
木のバケツを持った子供が現れた。
早朝の水くみでも任されたのだろうが、そんなことはお構いなしに近づいてきた。
バケツを放り投げて、愚かにもセファルを捕まえようとしていた。
子供らしい態度だと彼女は思うが、礼儀はわきまえた方が良い。
走り込んできたところへ、飛び上がって頭を踏む。
「うげぇ、またかよぉ」
音もさせずに着地して、振り返らずに進んだ。
私を捕まえる前に、隣家の少女を抱きしめでもすればいいのです、と心の中で告げた。
普段通りの道を通った。
町の人間たちは、日々を生きている。
魔族よりも早く成長し、いつの間にか老いて散っていく。
やはり人間どもは暢気ですね、と思うしかなかった。
家へ戻る足が速くなる。
オウジの顔が見たくなった。
そして小屋の如き一軒家が見えたところで、女の気配を感じた。
二人の女が、庭に入った玄関前で言う。
「おじさん、返事してくれないね!」
「……いや、まあ、無理強いをするつもりは無いのですが、お礼だけでもさせて貰えませんか?」
しばらくした後、玄関から出てきたのはノルトだった。
整った顔立ちだが、その鋭利にも見える目を更に細める。
「何の用だ」
「あれ? ここ、オウジさんの家ですよね!」
物怖じせずにルイナが言っても、視線すら合わせない。
少しだけムッとしたゲルダが前に出た。
「家人の方ですか? であるならば、取次を願います」
「嫌だね」
ノルトが横を向く。
そこでルイナが首を捻った。
「私の事を助けてくれた仮面の……お兄さんですよね! その節はありがとうございました!」
「おい」
ノルトが表情を強張らせて、少女を見つめた。
戦慄したゲルダが手でルイナを遮り、腰の長剣に手を伸ばす。
端正な顔を歪めた青年が、頭を掻いた。
「ちっ、剣を抜くなよ。俺は大将に逆らう気はねぇんだ。……それよりお前だ。どうして俺がわかった」
「え? 見た感じ?」
首を傾げるルイナだった。
天然かよ、とノルトが嘆息交じりに呟いた。
二人を帰らせる当初の予定を変更して、交渉することにした。
「いいぜ。お前らが俺の正体を黙っていられるなら、伝言ぐらいは聞いてやる」
「私たちが貴方に付き合う義理はありますか?」
ゲルダが居住まいを正した。
それでもノルトの態度が変わることはない。
「でなけりゃ、大将も俺も、この町には居られなくなるだけだ。あんたらの知らない町でも探すかね」
「そうですか。であれば、秘密は厳守しましょう。恩人に牙剥く訳には参りません」
ゲルダが、深く頭を下げた。
これにはノルトも、横目で応じる。
「……あと、大将も背中の事は気にしてんだ。黙ってやっててくれるか」
「え。貴方、大爆笑してませんでしたか?」
思わず顔を上げたゲルダだった。
ノルトが気まずそうに表情を隠す。
「……とある御方に叱られてな。そういうことだ」
「ええ、わかりました」
長身の女剣士が、小さく笑う。
二度も命を救ってくれた恩人のためであれば、口を割ることなど自分が許さない。
ただまあ、そこまで恥ずかしがることでしょうか、と首を捻りはする。
それでは伝言を頼みますね、と前置きしてから彼女が言った。
「私たちは良い町を見つけたので、そちらへ行くことになりました。今回の事もあり、暫くは冒険者家業を休んで、姪のために過ごそうと思います。このご恩は決して忘れません、とお伝えください」
「ああ、伝えとくぜ」
用が済んだら帰んな、とでも言いたげに腕を組むノルトだった。
ゲルダが一礼だけ残し、背中を見せる。
ルイナもぺこり、と頭を下げた。
「また来るね!」
とびきりの笑顔を振りまいて、少女も去っていった。
二人の女が庭から出たところで、入れ替わるようにするりとセファルが現れた。
「ノルト、旦那様は?」
「相変わらずです。では、俺も帰ります」
「ええ、ご苦労様」
彼女は開いた玄関から、懐かしい匂いのする屋敷へ入っていく。
廊下を歩き、オウジの寝室の前で立ち止まった。
その時の彼女の姿は、オウジと出会った時より少しだけ大人びていた。
長い黒髪はそのままで、当然のように衣服は身に着けていない。
陶磁のように艶のある肌をした二本足で立っている。
華奢で真っ白い指が、ドアノブに触れた。
覚悟と共に、ドアが開かれる。
小さな深呼吸の後に、彼女の唇が震えた。
「旦那様?」
「え? 何か用事かな? ごめんねぇ、ちょっと腰の調子が悪くてさ」
ベッドの上で、身体をくの字に曲げて寝ているオウジの姿があった。
腰痛が悪化して、動けないらしい。
「あの二人のこと、よろしかったのですか?」
「うん。仕方ないよ。ノルトには迷惑をかけたね。後で労ってやって欲しい」
諦めの混じった、乾いた笑いだった。
セファルは首を横に振る。
「そのことでは御座いません。私どもは好きにお使いになって結構です。ですが、旦那様はあの二人を気に入っていたのではありませんか」
「んあ? 何それ――――あいでぇっ」
オウジが下顎に手を当てて悩むが、態勢を変えたため、腰に激痛が走っていた。
セファルは長い黒髪を揺らせて小走りで駆け寄り、オウジの上に跨る。
「会いたい、ですか? 今から呼んできましょうか」
「いやいや、別に会う理由は無いんだけどね。今日は、どうしたのかな?」
彼女の頬に、紅が差す。
言ってしまっても良いものか、と一瞬悩むが、決意を新たにした。
この、最愛の人間は、とても鈍い。
ときに愚かささえ感じる程に。
でも愛しい。
「旦那様は、後で存分に、愛でて下さると仰いました」
「え、言ったかなぁ」
「はい! 仰いました!」
互いの口が触れる寸前まで、顔を近づけた。
狼狽えたオウジが、苦笑いを浮かべ、悩み、頷く。
「よしわかった。なら、ベッドの上で犬の姿になってくれる?」
「……は、い」
ついに念願のときが訪れた彼女は、ベッドの上で手と膝をついた。
彼女の背中に広がった黒髪の間から露になる肢体は、見事な曲線を描き、僅かに振るえている。
彼を待った。
しかし、オウジに動きが無い。
「?」
「あ、そうじゃなくて、いつもの姿の事だよ」
「!?」
そっちでするんですか、と口から出そうになった。
確かに姿の事は決めていなかったが、まさかの提案であった。
しかしセファルも魔族の女だ。
覚悟は出来ている。
長い黒髪が彼女の身体を覆い尽くし、すぐに黒犬の姿になった。
すると、いきなり背後から抱きつかれる。
「だ、旦那様!」
「あぁ、良いなぁ。毛並み最高」
「……あ、いえ、お気に召したなら幸いですが」
彼女は心臓を高鳴らせて、待っていた。
その時を、ずっと待っていた。
しかし、彼女の念願が叶うことは無かった。
黒犬の体を撫でる手が止まる。
「…………」
彼女が振り向くと、オウジが寝息を立てていた。
何だったのでしょう、と思わなくも無いが、幸せそうな寝顔だった。
少し考えた後で、彼の頬をぺろりと舐める。
彼の腰痛が少しでも早く治るよう、そっとベッドから出て行くのだった。
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ここまで読んで頂いて、ありがとうございました!
PVや応援が、凄く嬉しかったです!
そして申し訳ありません!
これにて、一旦の区切りとなりますこと、ご了承ください。
頑張りますので、よろしくお願い致します!
伝説の妖精おじさん 比呂 @tennpura
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