ヴィシー
黒江次郎
去りにし日々、今ひとたびの幻
1
大災害がやってきたとき、真っ先に犠牲になるのはペットたちだ。
自宅の数センチ先に火の手がせまった状況で、興奮してはね回るグレート・デーンをかかえて逃げるのは並大抵のことではない。
物事には優先順位というものがある。飼い主は泣く泣く犬を置き去りにし、犬は燃えさかる炎のなかで飼い主を待ちつづける。だが、彼らに救いの手が差し伸べられる可能性は万に一つもない。
かつて地球で
破滅的な速度で広がる死をのがれ、軌道ステーションへ避難するための制限時間は数十分。だが、当時の家庭用宇宙船は空飛ぶランボルギーニのようなしろもので、荷室が非常にせまかった。わずかな食料や医薬品を積み込むと、もうペットを乗せるだけのスペースはない。
結果として、10億匹を超える犬や猫が地上に取り残された。
彼らは7万発の核ミサイルの雨のなかを逃げまどい、彼らの言葉で彼らの飼い主の名前を呼び、だが助けは最後までこなかった。人類は太陽系への進出を果たしたが、そのかたわらにわれわれのよき友の姿はなかった。
ここ数年、ようやく変化のきざしが見えつつある。
ペットのなかには少数ながら軌道ステーションに避難したものもいて、彼らに対してマゼランペンギンと同じアプローチが採用された。つまり、計画的な人工授精だ。
DNA編集技術も別のアプローチをもたらしている。DNAのパズルを巧妙に組み合わせることで、すでに絶滅した種や、存在しない種さえも生み出せるようになったのだ。
先週、わが家の隣人は3頭のヴェロキラプトルを購入した。
戦前ならピットブルを飼っていたであろう無神経な性格の男だ。あの手の連中は、今や恐竜を首輪につないで散歩させている。近隣住民の迷惑なんて考えもしない。あの肉切り包丁のような鉤爪を見るたび、のどをかき切られてむさぼり食われないか不安になる。
ある日、私の家にも猫が一匹やってきた。
もちろん、ただの猫じゃない。前足と後ろ足の間にちっちゃな
私は彼女をヴィシーと名づけた。
本当はミズ・
ヴィシーと暮らしはじめてもう4年になる。
その間に猫という生き物について多くのことを学んだ。
猫は気まぐれで高貴な生き物で、理解や友情よりも崇拝を求め、自分がかわいい見た目をしていることを人間以上によく知っている。飼い主に
ヴィシーは段ボール箱が好きだ。私が冬のボーナスの半分を費やしたオーダーメイドのハンモックよりも。
ヴィシーは高いところに登るのが好きだ。とくにテレビ台によじ登って、私が床の上に這いつくばって彼女のこぼしたミルクを拭く姿を見るのが好きだ。
ヴィシーは美食家で、木星マグロの缶詰に目がなかった。私がまちがった缶詰を給仕すると、廷臣にゲロを吐きかけられた女王のように顔をしかめたものだ。
もちろん、その後の数秒はうるうるの眼で見つめ、親密なしぐさで手や足にふれて私をどきりとさせる。それでも私が木星マグロを進呈しないと(缶詰を8つ買う金があれば、高級フレンチを味わえる)、瞳の奥のシャッターがぴしゃりとおりて、私という人間は地上のどこにも存在しなくなる。
だが、私とヴィシーの関係はおおむね良好だった。一人の独身男性と一匹の女伯爵の間には本物の絆があった。
木星マグロの缶詰は一日に一つ。その協定さえ守っていれば、彼女は基本的にいい子にしていた。
2
そんなヴィシーが病気になった。
病名は診断書の厚さが3センチを超えるほど長く、ここに書くことはできない。私に理解できた範囲でいうと、要するに急性腎障害の一種だ。遺伝子を編集した動物によく見られる先天性の免疫異常が原因らしい。
私はヴィシーをだまして動物病院につれていき、年老いた医者に診せ、缶詰20個分もする治療薬を注射してもらった。その日の夜、ヴィシーは私の顔を見ようともせず、一言も口をきいてくれなかった。
だが、そのうち本当に口がきけなくなった。以前は缶詰を開ける音が聞こえると、電気ネズミのジェラルドを放り出してまでキッチンに駆けつけたものだ。
今は6本の足を引きずって、老婆のようなよたよた歩きでやってくる。日中はじっとしていて、
最初の週、医者はヴィシーに3週間の食事制限をさせ、猫用の療法食を与えるようにいった。木星マグロはタンパク質が多すぎる。だから、缶詰はもってのほかだという。
私はヴィシーの眼を恐る恐るのぞき込み、缶詰はしばらく禁制品になったと伝えた。
驚くべきことに、ヴィシーはこころよく私の決定を受け入れた。今にして思えば、ヴィシーは自分の体調を理解していたのだろう。
翌週になると、ヴィシーの健康状態はますます悪くなった。彼女の蓄光性の毛並みはもはや月光とはほど遠い。尻の先がすり減った、死にかけのホタルだ。
医者はヴィシーの様子をひと目見て、先週の決定をあっさり覆した。彼はこういった――このまま食事制限をつづけるよりも、好きなものを好きなだけ食べさせてやったらどうか? そのほうがきっと、
幸せな余生――帰りの車を運転する間、医者のいった言葉が頭のなかをぐるぐる回りつづけた。ヴィシーはもう永くないのだ。フランスのヴィシー政権がたった4年で崩壊したように、彼女の命は燃え尽きようとしている。
私はウォルマートに車を走らせ、買い物カゴからあふれるほどの缶詰を買って帰った。最近の不景気のせいで、私の銀行口座はデフォルト寸前だった。2年前に離婚した(シェイクスピアのいう〝妻か猫か〟の問題で)妻への慰謝料の支払いも滞っている。
でも、預金残高なんてくそくらえだ。ヴィシー以上に価値のあるものなんて一つもない。
もしヴィシーが人間の言葉を話せたなら、きっと彼女はこういっただろう――今すぐ銀行から全額引き出して、ありったけの缶詰を買ってきなさいと。だから、私はそうした。
「ヴィシー?」
ヴィシーは自分の部屋にいた。
今日はめずらしく、私がプレゼントしたハンモックに寝そべっている。私はヴィシーのそばにすわって、木星マグロの缶詰を並べはじめた。
「ほうら、きみの好きな缶詰だぞ。レ・グルメ・トゥナ・デリス、それから、スプランドゥール・デュ・トン・ド・エウロパ。舌を噛みそうな名前だが、どれもうまそうだ。フランス料理店のメニューに並べたら、バカな客が注文してもおかしくない」
私は缶詰を次々と開けていく。銀の大皿に盛りつけて、木星マグロのオードブルが完成した。
「ヴィシー、食べないのか? かわりに全部食っちまうぞ」
ヴィシーは返事をしない。
まだ生きているのはたしかだ。ヴィシーの背中が、緩慢な呼吸に合わせてゆっくりと上下している。エメラルドの瞳には、うっすらと涙がたまっている。
「ヴィシー?」
ヴィシーはようやく体を起こすと、弱々しい手つきでジェラルドを引き寄せ、自分の顔の前に置いた。私とヴィシーが共有する秘密のサインの一つ。意味は
そのサインを見たとき、私はすべてを悟った。
ヴィシーはこの世でもっとも高貴な死に方を選んだ。
彼女はたった一匹で、孤独に、静寂と威厳をたもって死のうとしている。やがて死神がドアベルを鳴らし、彼女をつれ去るだろう。そのとき私がそばにいたら、きっとうるさくて仕方がないだろうから。
3
その日、私は庭で夜を明かした。
夜になると、ヴィシーの部屋の窓ガラスを通して、月光のような明かりがベランダに漏れる。暖かい季節は庭にワインクーラーを置き、心臓の鼓動に似た光の明滅をながめながら、一人で晩酌を楽しむのが日課だった。
今は真冬だ。
私はウールのコートを二重に着込み、寒さにふるえていた。鼻の下から3メートルのつららが生えそうだった。
庭にはストーブがなく、バーベキューグリルの火で暖をとるしかない。ブランデーは在庫切れで、電気ポットで沸かすコーヒーが唯一の
窓ガラスにうつる光は輪郭がぼやけ、今にも消えてしまいそうだった。
でも、ヴィシーはまだ生きている。たった一匹で病気と闘っている。
今すぐ窓をハンマーでたたき割り、ヴィシーのもとに駆けつけたかった。でも、猫には自分の意思がある。一人の人間と同じように、飼い主は猫の意思を尊重しなくちゃならない。彼女を
真夜中の2時をすぎたころ、窓ガラスの光に異変が起きた。
「ヴィシー?」
今や窓ガラスの光は激しくまたたき、脈動するオーロラのように明滅していた。ドーパミンとβルシフェリンの壮絶な相互作用。ヴィシーが興奮しているか、あるいは死の間際にあるか、そのどちらかだ。
私は不思議と冷静だった。
もう寒さは感じられず、心はおだやかに凪いでいた。
おごそかな祈りのなかで、私はオーロラの脈動が弱まっていくのを――窓ガラスの向こうに重たい闇が立ち込めていくのを見守った。たいした時間はかからなかった。
やがてオーロラは完全に消えた。ヴィシーの心臓がとまったのだ。アルミ製のカップが地面にころがって、からんころんとむなしい音をたてた。
私は泣くことさえできなかった。この2週間の看病でくたびれきっていたからだ。
私の唯一の望みはこのまま凍死し、ヴィシーと一緒に眠ることだった。私はまぶたを閉じて、自分の運命を暗闇のなかに手放した。
4
だが、新しい朝は必ずやってくる。憂鬱な月曜日と同じように。
私は眼を覚まし、むくりと起き上がった。
その瞬間、何かが私の上に飛び乗ってきた。私のそばで、ずっと待ちかまえていたらしい。ふわふわの毛並みが私の頬をくすぐる。忘れもしない、ヴィシーの感触。
「ヴィシー?」
いや、ヴィシーは死んだはずだ。すると、私はヴィシーとともに天国に召されたのだろうか?
まずはウォルマートで缶詰を調達しよう。ウォルマートなら、たぶん天国にも支店があるはずだ。お次は――電気ポットがころがり、黒い液体がウールのコートをひどく汚している――天使のクリーニング屋が必要だ。
体の節々がずきずき痛み、私を現実につれ戻した。
関節が冷えきって、コンクリートで固めたようにかちこちになっている。私が横たわっているのは、天使の羽が生えたふかふかのベッドではなく、自分の家の庭の凍った地面だった。
ヴィシーは行儀よくすわって、エメラルドの瞳で私を見つめていた。
私のコートに顔をすり寄せ、口のまわりの食べかすをきれいに拭く。その感触はまぎれもない本物だった。彼女は温かく、生き生きとしていて、清潔なシーツのにおいがした。私は夢を見ているわけではない。ヴィシーは実在していた。
ヴィシーが生きている! ヴィシーが生きている!
ヴィシーは昨日の晩がウソのように元気で、毛並みもつややかだった。神の奇跡によって、何か不思議な力が働いたのだろうか? 私の普段の行いのおかげだろうか? あるいは、木星マグロのパワーが彼女を死の淵から呼び戻したのかもしれない。
ともかく、私はヴィシーの快復を心からよろこんだ。12歳のころのようにはしゃぎ回って、電気ポットとバーベキューグリルをハンマーでたたき壊し、宇宙のすべての神々に祈りをささげた。
念のため、私はヴィシーをもう一度医者に診せることにした。猫にとっての腎臓病はガンと同じくらい恐ろしい病気で、決して軽視してはならない。
5
その日は水曜日で、動物病院の担当医は別の人物だった。
勤勉でエネルギッシュなタイプの女性で、あの年老いた医者よりもずっと有能そうだった。紙のカルテと鉛筆ではなく、最新式のデータシステムで武装していた。
女性医師はデータをすばやく点検すると、ぱっと顔を輝かせた。
「朗報よ。腎臓の数値は
私はぽかんと口をあけた。2週間前からだって?
「いい? 腎障害が悪化して慢性腎不全になると、ほとんどの猫ちゃんはもう手の施しようがないの」
女性医師がていねいに説明してくれた。
「せいぜい残った組織のダメージを軽減して、延命するしか手立てがないわけ。でも、この子は大丈夫。たぶん、腎障害の初期のほうに治療薬が効いたのね。おかげで組織に残ったダメージはほぼゼロよ」
私はヴィシーを抱き上げて、エメラルドの瞳をのぞき込んだ。彼女はすばやく視線をそらした。
「彼女はつい昨日まで死にかけてたんだが」
「えっ、本当に?」
女性医師は再びデータシステムと格闘しはじめた。だが、彼女の結論は変わらなかった。
「いいえ、そんなはずはないわ。あなたの勘違いか、猫ちゃんの機嫌が悪かっただけじゃない? この子はとっても元気よ。そうね――たとえるなら、クリスマスに新品のドレスをもらった女の子と同じくらい」
すると、すべては私の勘違いだったのか? この2週間の間、私一人が夢を見ていたというのか?
いいや、そんなはずはない。
私はヴィシーが苦しんでいたことを覚えている。彼女がまったく鳴かなくなったことも、6本の足を引きずってつらそうに歩いていたことも覚えている。
ヴィシーの最後の晩餐を用意するため、ウォルマートに車を飛ばした日のことも覚えている。私は全財産をにぎりしめ、買い物カゴいっぱいの缶詰を購入したのだ。そして、銀の大皿をぴかぴかにみがき、木星マグロのオードブルを盛りつけて――
その瞬間、私は思わず笑い声をあげた。
突如として、すべてが明らかになったからだ。
ヴィシーが
「きみはたいした演技派だな、ヴィシー。あの日の夜のできごとは神の奇跡なんかじゃなかった。本当はもう、注射を打った次の日には元気になっていたんだ」
ヴィシーは背中を丸め、自分でキャリーケースのなかに戻ろうとした。私はヴィシーをつかまえ、厳粛な表情を顔に浮かべた。
「そしてぼくはまんまとだまされ、全財産を缶詰に費やしたわけだ。もし猫のアカデミー主演女優賞が存在するなら、きみがぶっちぎりの優勝だよ。いや、アカデミー詐欺師部門のほうか? さあ、もう逃げられないぞ。きみは悪い子だ、ヴィシー!」
そのとき、ヴィシーが
彼女の声を聞くのは2週間ぶりで、思わずくらっときた。天使の歌声とはまさにこのことだろう。
ヴィシーがエメラルドの瞳をうるうるさせ、とっておきの上目遣いで私を見つめる。
「よせ、ヴィシー」
私はここ2週間で銀行口座から出ていった金額を思い浮かべ、必死に抵抗した。自分が早くも陥落しつつあることに気がついたからだ。
「いくら甘えても、今度ばかりは無駄だぞ。きみは悪い子だ、ヴィシー! きみは悪い子だ!」
だが、猫の飼い主は無数の
病院からの帰り道、フォレ・デ・フィネス・トゥナを一缶買ったのがその証拠だ。
6
あれから一年が経った。ヴィシーはもういない。
一人暮らしの叔母を慰問するため、エウロパに旅行したのがヴィシーとの別れになった。
エウロパは海底にドーム都市がいくつもあって、そこから見上げる景色は圧巻だ。透明なドームのすぐ上を全長2メートルのイクチオサウルスが泳いでいく。海が荒れていない日は、大赤斑の模様の巨大マグロの群れが遠くのほうに見える。
もちろん、缶詰の種類も豊富にある。味は人間の美食家をうならせるほどで、値段はミネラルウォーターよりも安い。
エウロパはヴィシーにとっての天国だった。
叔母の家で2週間の刺激的な日々を過ごしたあと、ヴィシーの愛はすでに私から去っていた。ヴィシーが叔母のスカートにしがみついて離れようとしなかったので、私は彼女を泣く泣く置き去りにするしかなかった。
ヴィーナス
2071年12月25日
ヴィシー 黒江次郎 @kuroejiro
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