ある龍の話

平 遊

~希望~

 人間の世界では、『龍の泉が輝く時、願いが叶う』と伝えられているようだ。

 我は人間が『龍の泉』と呼ぶ泉に住まう者。人間は我を『龍神』と呼ぶ。

 遥か昔、人間たちは我をおそれ、またはあがめ、我をたずねてここを訪れる者も多かったが、近頃ではここを訪れる者はほとんど無い。

 あったとしても、迷い人。我の存在など知らぬ者ばかり。

 それが良いことなのか悪いことなのか我には分からぬが、我の存在自体が人間の中から忘れ去られているのやも知れぬ。

 我の力を求めて訪れる人間は無く、我は長い間水底みなぞこで深い眠りについていた。


「龍神さま、お願い……」


 久方振りに我を呼んだのは、かき消されそうな小さき声。

 眠りを覚まされた我は、水底からゆっくりと水面みなもへと移動し、声の主の姿を探した。

 声の主は、幼き人の子だった。

 その人の子は、酷い傷を負っていた。もう、命の火も尽きようとしている。

 だが、幼きその目は、怒り、悲しみ、憎悪で染まっていた。


「この世界を、滅ぼして……」


 その人の子は、か細き声で我に願いを告げると、力尽きたように目を閉じ、その場に倒れた。

 我は水面から体を伸ばし、横たわる血にまみれた幼き人の子の体を抱き上げた。


「それが本当の、そなたの願いか」


 もはや、言の葉を紡ぐ力も残っていなかったのだろう。だが、人の子の目からは涙がこぼれ、しずくとなって泉の中へと滴り落ちた。

 瞬間、泉に映し出されたのは、幼き人の子が親兄弟や他の人間たちと共に、穏やかに微笑んでいる光景。


「これが、そなたの本当の願いなのだな」


 我の力を持ってすれば、この世界を滅ぼすことなど容易いことだ。自ら破滅へと向かっているこの世界など。

 誰も彼もが欲にまみれ、己の豊かさばかりを追い求め他者を蹴落けおとすような人間の世界にもはや希望などあるまいと、我は人間を見放みはなした。

 我に残された役目は、人間の世界の終焉しゅうえんを見届けることのみと考えていた。

 なれど、今正に我の手の中で命の灯火ともしびを消そうとしているこの幼き人の子のように、己と他の人間のささやかな幸せのみを望んでいる者もいる。

 この幼き人の子が、自らの命をしてまで我が元を訪れて願ったのは、他の者のささやかな幸せや命までをも躊躇ためらいもなく踏みにじり我が物とする、醜い人間たちの世界の滅亡なのだ。


 既に滅亡へと向かっている人間の世界。

 我は、どうすべきか。


 手の中の幼き命の灯火ともしびは、僅かに残された人間の希望。

 絶やしては、ならぬ。


 幼き人の子をそっと泉に浸し、力を注ぎ込んで傷を癒やす。

 我の力に呼応し、水面が光を放ち始めた。


『龍の泉が輝く時、願いが叶う』


 それは、人間の世界での伝承。

 泉は我の力に呼応し、光を放つだけ。

 なれど、目を覚ました幼き人の子は、希望に満ちた眼差しで我を見上げ、言った。


「龍神さま、私のお願い事を叶えてくれるのですね!」


 幼き人の子を泉のほとりに戻し、我は告げた。


「そなたは人間に残された僅かなる希望。我は人間の世界にそなたという希望を残した。願いはそなた自身が叶えよ」


 我の力をほんの僅か付しておいたことは、告げずにおこう。

 そして、我との記憶も無きものとしておこう。


 幼き人の子の頭に手をかざし、倒れ込む体を抱き抱えて、泉から遠く離れた人里近くの山道へと横たえる。

 我はそのまま泉へと戻り、再び水底へと身を沈めた。


 幼き人の子が、人間の希望が、滅亡へと向かっているこの世界をどのように導いていくのかを、楽しみにしながら。

 もうしばらくは、人間の世界を見守っていくのも、悪くはなさそうだ。


【終】

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ある龍の話 平 遊 @taira_yuu

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