わたしが川乃真衣に最後に会ったのは、去年の秋、十一月の半ば頃だった。歩道脇の街路樹が鮮やかに染まっていたのを記憶している。あれからまだ一年しか過ぎていないのか。短期間にあまりに多くのことが立て続けに起こったせいで、わたしが体感している時間と実際のそれとが大きく乖離しているのかもしれない。


 あの日、わたしが当直明けの勤務を終えロッカールームで着替えを済ませていると、真衣からメールが入った。

《今から会えませんか? 相談したいことがあります。いつものところにいます》

 退勤時間をわきまえた着信のタイミングは、以前同じ職場だった人間だからこその芸当だった。『いつものところ』とは、真衣が離職する前、二人でよく行った喫茶店で、病院の近くだが、駅とは逆方向の路地裏にあるためか同僚や患者家族に出会でくわすことがなく、仕事あがりに軽いお喋りをするにはうってつけの場所だった。

「たまに一人でお茶しに来るの。あたしの秘密の場所なんだけど、遥子さんには教えちゃう」

 当初、真衣は得意げに、でもどこかはにかむ調子を含んだ声でわたしをそこに案内した。『純喫茶』という言葉そのままの店舗で、入口脇にディスプレイされた食品サンプルや、経年で黒みがかった寄木張りの床や、背もたれにボタン留めのある朱色のソファーが昭和にタイムスリップしたかのような味わいを醸し出している。一時は一人でも通ったが、真衣が職場からいなくなったとたん自然と足が向かなくなった。

 表向きは『一身上の理由』とされていたが、真衣が離職した本当の理由は、医薬品窃盗の嫌疑がかけられたためだった。無くなったのはベンゾジアゼピン系の抗不安薬(*8)で、発覚は匿名の内部告発によるものだった。真衣は最後まで犯行を否認し、病院側も確固たる証拠を手に入れられぬまま、結局騒動は『一看護師の辞職』という形でうやむやに処理された。

 予定時刻より少し早かったが、店に入ると真衣はすでにいつもの席へ着いていた。ボルドー色の五部袖のニットに千鳥柄のスカーフを巻き、ボトムスはライトベージュのワイドパンツ。髪は無造作なサイドテールに結っていて、可愛らしさと女の色気がほどよくミックスされているセンスの良さは、いつもながら感心させられた。一方こちらは着古した上下黒で、最後に美容院に行ったのはもう三ヶ月以上も前。当直明けの顔になんとかリップを塗り直したような有様だった。

 約二月ぶりの再会を、最初は妙にわざとらしい、以前とまるで変わらぬ親しさで喜び合ったが、その後注文を済ませてしまうと、各々が着地点を見失ったような生ぬるい沈黙が訪れた。BGMはこの店お決まりのボサノバだった。おそらく店主の趣味なのだろう。アストラッド・ジルベルトが雨音をそのまま音符にしたような声で『So Nice』を歌っている。

「あたしのことチクったのって、遥子さんだよね?」

 いかにも真衣らしい、唐突で率直な切り出し方だった。

 わたしははじめ、『心外なことを言われて言葉が出ない』という驚いた顔を作り、その後あれこれ問答する中で、相手の精神状態を慮るような目色をそこに含ませてみた。真衣はまったく表情を変えなかった。その顔は、わたしが店に入ってからずっと同じ笑顔だった。本気なのだな、と思った。

「大丈夫。あたし、もう知ってるから。犯人は遥子さんだって」

 という言葉が、ざらついた感触で耳底にわだかまる。ならばわたしは真衣のことをどう呼べばいいのか。盗人? それとも罪人?

「ねえ、どうしたの? 会いたいって連絡よこしたと思ったら、いきなりそれ?」

 相手が作り笑いをしているうちは、こちらも手の内を見せる気にはならない。わたしは次に『根拠のない疑いをかけられて苛立ちを覚える女友達』を装ってみた。それでも真衣の笑顔は相変わらず崩れない。

「いいんだよ、悪いのは実際あたしなわけだし。話を大きくしたくない病院側の意向で自主退職の形を取れたのは割と幸運な方だと思う。警察が入って何もかもがバレたら看護師免許剥奪や刑務所行きもありえたわけだし。ただ、なんで遥子さんはあたしが薬盗んでるの知ってたのかと思って。だってであたしのことを逐一監視してなきゃ、盗みの証拠なんて押さえられないでしょ? それともう一つ気になったのが、チクりの手口。匿名なんて、ずいぶんコソコソした陰湿なやり方だなと思って。今はもう、その理由も分かってるけど」

 相手の口の動きを見るうちに、心の表層へかびのような嫌悪が広がっていくのが分かった。トレンチを携えたウェイトレスがやってきて会話が中断する。各々の前に置かれたのはブレンドコーヒーだった。嫌味にもほどがある。わたしたちは普段コーヒーを飲まない。理由は共通していて『見た目、味、香り、すべて好きじゃない』だった。今日は敢えてそれを、二人が共にオーダーしたわけだ。

「密告者がわたしだという確固たる証拠はあるの?」

 わたしはブラックのままコーヒーに口をつけた。

「ないよ」

 真衣はあっさりそれを認めた。それから相変わらずの笑顔で飲めないコーヒーを一口口にし、後をこうつづけた。

「自分が遥子さんにこんなにも憎まれてるとは、思いもよらなかった。びっくりしたなあ……普段ならあたし、相手に好かれてるか嫌われてるかなんて、一瞬で見分けるのに」

 確証はないと明かしておきながら、犯人はお前しかいないという揺るぎない姿勢でこちらに向かってくる。わたしは口を引き結び、真衣の顔から固定された作り笑顔が消えるまでだんまりを決め込むことにした。

「事が発覚した時、チクった人間として真っ先に頭に浮かんだのは、遥子さんの顔だったんだよね。自分でもすごく意外だったよ。そんなことあるわけないじゃん、バカじゃないの? って。すごく嫌な感じだった。あたしのこういう直感て、ほぼ100パーの確率で当たるから。自分でも怖いくらいに」 

 ボサノバが次の曲に変わる。タイトルはなんだっただろう?

「否定しても否定しても『やったのは遥子さんだ』って想いが日増しに強くなっていった。で、ある日ふと、スマホに保存してあった病院の過去の勤務表を開いて見てみたの。『ここの中の誰かが犯人だ』と考えたら、いつのまにか全員の名前を紙に書き写してた。それが終わると、今度は消去法でチクり犯の割り出し。あたしが薬剤管理室に忍び込める日時を見極め、且つ、盗みの証拠を押さえることができる人物。特定には結構時間がかかったよ。でも分かったの。やっぱり遥子さんだって。それ以外ない、確定だって」

 普段飲まないコーヒーを夜勤明けの空腹時に口にしたのはさすがにまずかったかもしれない。時折喉元に酸っぱい体液がせり上がってくる。

「遥子さんがなぜあたしを追い詰めるようなことをしたのか。それを考えるのはさらに時間がかかったよ。『遥子さんがわたしを嫌うはずない。何かよほどの理由があるに違いない』なんて思いに引っ張られて冷静な判断ができなくなるんだよ。我ながらバカみたい。世の中に確かなことなんてないし、人の心ほど当てにならないものはないのに」

 真衣は手にしたカップを口元まで持っていきかけて途中でそれをやめ、中身の液体の味を思い出したかのように唇を歪めた。わたしは訊ねる。

「わたしのことをどんな人間だと思ってたの?」

「改めて訊かれると、よく分からない」

「なんだか不憫ね」

「お互いにね」

 双方の視線がぶつかる。真衣はもう、笑っていなかった。そしてそのせいなのか、先ほどまでなんのほころびも無かったその美しい顔に、枯骨を連想させるひどく病的な影が差すのを感じた。

 洋介の背後に別の女の影がちらつくようになったのは、彼の車の中に、馴染みのない甘やかな香りを感じたのがきっかけだった。不貞疑惑の火種としてはあまりに使い古された、今どきメロドラマの脚本にも使われないような陳腐な事のはじまりだ。

 その後似たようなことがつづき、疑念を確信へと変えたのが、彼の部屋のゴミ箱にあったクレンジングオイルの空ボトル。コスメとは不思議なものだ。どんなブランドのどんな製品を常用しているかで、相手の女の年齢や価値観、収入までもがイメージできてしまう。最初朧げにしか分からなかった女の姿が次第にその輪郭を明らかにし、やがて『川乃真衣』となって像を結ぶのにさほど時間はかからなかった。

「今日、ここに来るまでに地下鉄の中で考えてたのは、『遥子さんとお茶しながらおしゃべりする時間が無くなってしまうのはとても残念だ』ってこと。しかも、たかがあんな男のために。もう隠さなくていいよ。遥子さん、佐藤洋介と付き合ってるんでしょ? 遥子さんてびっくりするくらい嘘が上手いよね。院内の誰も気づいてないよ。あたしが分からなかったくらいだもん」

 流れている曲のタイトルを思い出す。『Dindi(ジンジ)』だ。作詞したルイス・オリヴェイラの妻でありシンガーのシルヴィア・テリスの愛称が『Dindi』。曲名のいわれをわたしに教えたのは洋介だった。彼の部屋で聴いていたそれを今このタイミングで再び聴くことになるとは、なんという皮肉だろう。

「〝自分語り〟なんて、自己承認欲求に憑かれた暇人のすることだと思ってた。皆、所詮は他人のことになんか興味ないのに、一人勘違いして物語の主人公かよ? って。誰かが誰かの気持ちを理解するなんてあり得ない。そういうの、小さい頃から嫌というほど思い知らされてきたから。あたしに家族がいたら少しは考え方が変わったのかな? えんには常にたくさんの人間がいたけれど、気持ちが通じ合うとか、絆が生まれるとか、そんなの一度もなかった。そう勘違いしたことはあるけどね。人に気持ちを伝えるなんて、バカで無意味なこと。分数の掛け算やる頃にはそう悟ってたよ。

 でも遥子さんと知り合って気づいたの。〝人は、その時々に湧き上がる自分の思考や感情を雑に放置したままでいると、生き方そのものが雑になる〟って。相手に伝わる伝わらないじゃなく、自分が自分の気持ちに寄り添うことが大事なんだって。その手段の一つが、言葉で表現することなんだって」

 真衣が児童養護施設で育ったことは、二人でこの店に最初に来た日に本人から告げられていた。施設名は『あすなろ園』。そのためか、真衣は施設のことを語る時、そこをいつも『えん』と呼んだ。

「今日、あなたがわたしをここに呼んだのは〝最後の自分語り〟を聞かせるため? だったら、こちらは迷惑千万なんだけれど」

「本当だね。話が本来の目的から遠ざかってる。我ながらダサ過ぎて参っちゃうな。遥子さん自体にはもう未練ないのに、遥子さんとここで過ごす時間が無くなるのが悲し過ぎてジタバタしてる。あたしには男なんかより遥かに価値があるものだったから」

 真衣も洋介の部屋でボサノバを聴いたのだろうか? ふとそんなことを考えている自分にうんざりした。カップのコーヒーは一向に減らないまま、すでに冷めかけている。

「で? 結局あなたの目的は何なの?」

「佐藤洋介を、あたしから遠ざけて」  

 歯を食いしばるように真衣は言った。

「自分が誰に何を言っているのか、分かってる?」

 今ならこのコーヒーを一息に飲み干せるかもしれない。わたしはそんな気分になっていた。

「他に頼める人がいないから言ってるの。それとも弁護士事務所に駆け込めばいい? 『わたしは元いた職場の医師、佐藤洋介にレイプされました。現在も強引に身体を求めつづけられています。あの人は狂っています。恐ろしいです。今すぐにでも関係を断ち切りたいのですが、もし勝手なことをしたり逃げたりしたら殺すと脅されています。どうしたらいいのか分かりません。助けてください』って」

 BGMは『Photogragh』になっていた。エンドロールのように、わたしと真衣のこれまでの日々が脳内で再生される。

「その話、皆、信じてくれるかしら?」

 わたしは大袈裟に笑顔を作って見せた。

「三十代にして大学の准教授。これまで類がないような早い昇進で、四十代の教授就任も間違いないと前途を嘱目される逸材。医師としての経歴や技量もさることながら、何より評判なのはその人柄。職員はじめ患者やその家族にも絶大な信頼を寄せられている好人物で、彼のことを悪く言う者なんて院内どこを探しても見当たらない。それに対し、あなたはどう? 過去の醜聞があちこちでささやかれ、看護師仲間からも好かれていたとは言い難い。挙げ句の果てに窃盗疑惑で辞職。世間がどちらの言い分に耳を傾けるかは、考えなくても分かるでしょう?」

「それ、心の底から言ってる?」

 真衣は眉一つ動かさずこちらを見ていた。

「なんなの、その目?」

 わたしはほとばしり出ようとする感情を必死に押し留めながら言った。今さら何をほざいているの? 全部あなた自身が招いたことじゃないのと。

「あたし今、どんな目してる? 遥子さんを憐れむような目をしてるのかな?」

 いかにもうんざりした風に真衣はそう言うと、バッグからスマホを取り出し、動画ファイルの一つを画面に表示させた。

「あたし、なんの備えもなく自分より力のある存在にケンカ売るほどバカじゃないから。わたしの悲鳴や泣き声がかなり激しいから、ここでは音声を切った方がいいね。それともイヤホン使う?」

 再生マークをタップすれば、事の真偽はすぐに明らかになる。なのに、わたしの指はそこに伸びなかった。

「そうそう、それにこの痣。まさにその動画の時、佐藤洋介にやられたの。なかなか消えなくて困ってるんだけど、病院なら何科を受診すればいい? 皮膚科? いや、首の筋肉にまだ違和感が残ってるから遥子さんに診てもらった方がいいのかな?」

 真衣が首のスカーフをするすると解いて見せた。露わになったそこには、明らかに人為的な力によってできた紫斑が残されている。わたしは咄嗟に自分の首元へ手をやった。

「もしかして、遥子さんもやられてるの? 今日、タートル着てるの見た時から怪しいって思ってたんだけど」

 わたしの首に痣はない。が、そこをがっちりと押さえられ、体重を乗せるように力を込められた時の窒息感は、激しい恫喝の声と共にはっきりと脳裏へ焼きついていた。

〈死ね! 俺に抱かれながら、このまま死んでみろ!〉

 わたしには、全部分かっていた。真衣は嘘などついていない。洋介には周囲の誰も知らない裏の顔があったのだ。


  **


 ——第一病院から異動してくるナースにものすごい美人がいる。

 ——後輩いじめがひどくて過去に新人ナースを何人も辞めさせてるんだって。

 ——男関係が相当激しいらしいぞ。少し前まで〇〇教授の愛人だったらしい。

 川乃真衣、という人物についてわたしが最初に耳にしたのは、職員の間で交わされていたそんな噂だった。普段なられ事だと素通りしてしまう賑わいにふと足を留めたのは、そのナースの元の所属が洋介のいる医療チームだったためだ。

 初顔合わせの挨拶で実際目にした本人は、下馬評通りの、いやそれ以上に美しい人物だった。男性陣は職員も患者も皆色めき、その様子を女性たちは眉をひそめて観察する。なんとも分かりやすい構図だった。

 真衣がさらに周囲の注目を浴びるようになったのは、歯に衣着せぬその物言いだった。相手が目上や上司であっても思ったことははっきりと述べ、毅然とした姿勢を崩さない。なにを偉そうに、あいつは融通がきかない、現場の雰囲気を悪くする。悪評はまたたくまに蔓延し、眉をひそめずにはいられないような卑俗極まりない誹謗中傷まで耳にするようになった。

 周囲をあえて敵だらけにすることで心の安定を図る。真衣が醸す反抗期の少女のような頑なさと危うさは、傍目でそれを見るわたしを愉快な気分にさせた。振り返ると、わたしはこの時すでに悟っていたのかもしれない。真衣の中に、自分と同じ破滅的欲動デストルドーが燻っていることを。


「ああいうタイプは苦手だな」

 洋介は『あたらしく異動してきたナース』についてこう評し、それからふとわたしの視線に気づいて言い足した。——仕事はできるんだけどね。

 久々に二人の休日が合い、彼の部屋の近所にあるビストロで一緒に夕食をとっている時のことだった。

 何気ないこのやり取りが、なぜわたしに強烈な印象を残したのか。理由はたぶん二つあって、一つは、洋介が表立って誰かにネガティブな言及をするのを初めて聞いたから。そして、もう一つは、真衣の方からもこれとまったく同じ内容の台詞を事前に聞いていたから。——佐藤先生ですか? あたし、ああいうタイプの人、苦手なんです。

 二人の声はわたしの胸裏で何度も繰り返され、重なり合い、反響した。は苦手。それはつまり、洋介と真衣の間に、互いをそう規定できるなにかしらの材料が揃っているということだ。

 わたしは真衣に近づいた。さり気なく、少しずつ。同じ職場の医師と看護師、しかも同性同士であることが助けとなり、望んでいた関係は思いのほか早く構築できた。自分でも驚くほど的確に汲み取れたのだ。真衣がその折々で何を求めているのか。その発言や行動の裏にどんな心理が働いているのか。つまりはそれほどに、わたしたち二人は根底のところで似ていた。


「あたし、殺されるかもしれない……」

 真衣はそうつぶやいてクリームソーダのバニラアイスをひと匙舐めると、顔を歪めて頬を押さえた。男に殴られて口の中が切れているのだと言う。

 二人で喫茶店に通うようになって三月ほどが過ぎた、ある夏の夜のことだった。午後六時を回っていたが外はまだ明るく、差し込む日の光にメロンソーダの気泡がキラキラと弾けていたのを憶えている。

「やったのは彼氏?」

 咀嚼の動きが不自然な真衣の口元を見つめながらわたしは訊ねた。

「彼氏じゃない」

 真衣は身震いするように腕を組み、同じ言葉をもう一度繰り返した。——あんなの彼氏じゃない。

「だったらなんで一緒にいるの? 逃げなきゃダメよ」

「そんな単純な問題じゃないの。色々と込み入った事情があるのよ」

「今から一緒に警察に行く?」

「無理! そんなことしたらただじゃ済まされない。殺される!」

「いったいどんな人なの?」

 応えを聞く前から、わたしの頭には洋介の顔が浮かんでいた。

「『俺は、い……誰にも分からないようにお前を殺す細工ができる。もし俺のことをバラしたり俺から逃げたりしたら、殴る蹴るじゃ済まない地獄の苦しみを味合わせた末に殺してやる』って。アイツ、完全に頭おかしいよ」

 真衣が言葉を濁した『俺はい……』の部分を、わたしは頭の中で補填した。『、誰にも分からないようにお前を殺す細工ができる』。

「アイツの目、サムちゃんにそっくりなんだよ」

 真衣は迷子になった子供のように悄然としていた。わたしは記憶の隘路あいろで立ち往生する真衣が、自分のやり方で次の一歩を踏み出すのを辛抱強く待った。しばらくの沈黙の後、真衣は虚ろな目でぽつりぽつりと語りはじめた。

「サムちゃんがえんにやって来たのは、あたしが小学校に入る少し前。第一印象は『不思議な人』かな? すごく年上な感じしたけど、学ラン着てたからまだ中学生だったんだね。丸坊主で、鼻下の産毛が少し濃くなってて、ほっぺには赤いおできが散らばってた。喋りが独特で、自分のことは『拙者セッシャ』、園の先生たちのことは『貴殿キデン』『貴女キジョ』、他の子供たちのことは『それがし』や『そなた』って呼んでた。おやつの時間になって呼びに行くと、『いやはや、もう八つどきでござるか。かたじけない』なんて言って、時代劇に出てくるサムライみたいな応答するの。そのせいで、誰が名づけたのか、いつのまにかニックネームは『サムちゃん』」

 真衣から児童養護施設時代の話を聞くことはこれまでにも幾度かあった。が、そこに特定の人物が名付きで登場するのはこれが初めてだった。

「園の中の子どもたちってさ、みんな胡麻ゴマなんだよ。容器の中では各々が隙間なく重なりあってるけど、いったんそこから出たらあちこちバラバラに飛び散って互いに決してくっつかない。だから、隣にいる人をどんなに好きになっても、心は委ねちゃダメ。なぜならあたしたちは家族じゃないから。明日、その人が同じ場所にいるとは限らないから。毎晩一つの布団で手をつないで寝てた仲良しが、ある日突然、新しい家族にもらわれていったりする。消えた子とはその後二度と会うことはないし、どこでどうしてるかも分からない。新しい家族や環境にいち早く馴染むために、過去のいっさいは断ち切らせるのが基本だからね。

 いつのまにか誰か現れ、いつのまにか消えていく。園では毎年クリスマスイブにパーティーをやるんだけどさ、その時に撮る集合写真、写っているメンバーが一枚一枚全部違うんだよ。でも、そういうもんなんだって、いつのまにか自然に受け流せるようになった。って。もちろん、だからといって誰ともつるまないわけじゃないよ。子供の集団社会では、孤立ってとても危険なことだから。悪い奴に食い物にされないためにも、自分にとって良い仲間を見つけるのは大事。でも、結局はゴマ集団。白ゴマか黒ゴマかの違いがあるだけで、乾燥しきってバラバラなのは一緒。ふっくらと粘り気のあるご飯粒には、決してなれないの。

 ……ただ、サムちゃんは違った。園の中で、あたしが唯一、ご飯粒になれる人だったの。嬉しいことがあれば真っ先に報告し、悲しいことがあれば泣きながら抱きつく。そんな相手。あたしが元気ないと、身体を屈めて坊主頭をこっちに突き出して、『姫、お手を。やくばらいでござる』なんて神妙な顔をするの。触ると、痛いようなくすぐったいような不思議な感触で、少し汗臭い。でも、なんだかホッとした」

 強張っていた真衣の口元へ、一瞬、丁寧に畳んだハンカチのような微笑が浮ぶ。が、それもすぐに消えた。

「ああいう施設に入るなら、あたしみたいに物心ついてない赤ん坊のうちがいい。下手に親の記憶が残ってると、かえって厄介なんだよ。親と暮らした経験のある子供は、それを『普通』と頭に刷り込んでるから、施設の生活すべてを『異常』だと否定することから始めちゃうんだよね。日常のちょっとした事柄にも疎外感や逼迫感を覚えてしまう。それでも、親のネグレクトや虐待から保護された子供よりはずいぶんマシかな。バタード・チャイルド・シンドローム(*9)の子供って、一見元気そうに見えても、食べた物をトイレで吐いてたり、毎夜夢にうなされてたり、自分の髪を引き抜いて十円ハゲ作ってたりしてる。動物や目下の子供を陰湿なやり方で虐めるのもいた。

 小学校高学年とか中学とか、ある程度大きくなってから施設に入ってくるのは、ほとんどが実の親と暮らしたことがある子で、且つ虐待経験者も多い。ただでさえ思春期の難しい年頃だから、次々に問題行動を起こして先生たちを困らせたりする。ましてやそれが男子となると腕力もあるしね。

 でも、サムちゃんにはそういう子特有の危うさがどこにもなかった。誰に対しても分け隔てなく優しいし、一風変わった喋り方をするのも相まって、近所でもちょっとした有名人だった。学業も優秀だったみたい。『勉強で分からないことがあればサムちゃんに訊け』が園の決まりごとになってたから。サムちゃんに関して唯一先生たちが心配してたのが、月に一、二度の割合で学校を早退してくること。本人はその理由を『昔耳に怪我をしたせいで時々ひどい頭痛に襲われる』と話していて、学校でいじめられてる様子もないし、道草してどこかで悪さするわけでもないし、結局最後は先生たちも黙認してたけど。

 あたし、心のどこかでサムちゃんを誇りに思ってた。身内でもないのにね……」

 わたしの脳裏で、見知らぬ坊主頭の少年と洋介の面影とが重なり合う。洋介に関するわたしの中の最初の記憶は、大学病院中央棟と入院棟をつなぐ連絡通路で、小さな子供の足元にしゃがみ込む彼の姿だった。縁者の誰かが入院でもしているのか、子供はあっけらかんとした顔をして、解けた靴ひもを結んでくれている白衣姿の大人を見つめていた。母親がすぐに駆け寄ってきて、恐縮したように頭を下げる。彼は軽く微笑んで、自分の腰丈にも満たないその子に小さく手を振った。立ち上がると思った以上に背が高く、離れていく白衣の背中は広かった。

「サムちゃんが豹変したのは、学校がもうすぐ春休みになる頃だった。園の花壇に黄色いラッパ水仙が咲いてたのを覚えてる。

 子供の頃、長期休みの前後っていつも憂鬱だった。休み前は教室のあちこちで〝我が家のレジャー計画〟がトピックに上がるし、始業したらしたでそれの〝事後報告〟があるじゃない? その日もお祭り気分のクラスメイトたちにうんざりして、あたしは二限目の授業を終えると衝動的に学校を飛び出してた。前々からサムちゃんが早退するのをかっこいいと思ってたのもある。

 園に着いたら誰もいなくて、怖いくらい静まり返ってた。子供たちがいないのは当然だけれど、先生たちもその日たまたま出払ってたんだよね。唯一残ってた園長先生も、持病の神経痛のせいで自室で寝込んでた。わたしは仕方なく、何をするともなしに園の庭に出た。

 三月にしては風もなく、暖かい陽気だった。土の上に小枝で落書きしながら時間をつぶしてると、しばらくして、あたしの上にすっと何かの影が落ちた。見上げたら、そこに西日を背にした坊主頭のシルエットが浮かんでた。どうしてなのかな? いつもなら『サムちゃん!』て抱きつくはずなのに、その時のあたしはそうしなかった。逆光で顔がよく見えなかったから? 別人みたいに背丈が大きく見えたから? あたし、笑ったの。ニコって音がするような笑顔だったと思う。サムちゃんお帰り、会いたかった、ずっと待ってたんだよ……そんな言葉の代わりに。

 『チッ』って人影の方から音がした。それが舌打ちなんだって気づくよりも先に、襟元を掴まれてた。倉庫の裏まで引き摺られてる間も、髪を引っ張られたり殴る蹴るされている間も、なんにも感じなかった。〝頭の中が真っ白になる〟って表現があるじゃない? 上手いこと言うもんだなあと思う。あの時のあたし、まさにそれだったから。ショックだとか、恐怖だとか、痛いだとか全然ないの。顔から下が泥沼の中に埋まってるみたいで身動きがとれないんだよ。『テメェ、なに笑ってんだよ!』『舐めんじゃねーよ!』『殺すぞ、コラァ!』……そんな声を聞きながらホッとしてた。ああ、わたしに酷いことをするこの人は、やっぱりサムちゃんじゃないんだ。だってサムちゃんは、こんな低い声じゃないもの。話し方だってこんなじゃないもの。あたしのことは〝姫〟って呼ぶんだもの……。

 ゲンコツで背中を強く殴られた拍子にあたしがゲロを吐くのを見て、その人影は動きを止めた。『ちゃんと片付けとけよ』と唾を吐き、その場から離れていく。どうしよう、どうしよう……あたしの頭の中は、それでいっぱいだった。なんでなのかは分からない。苦痛や恐怖より、起こった出来事を隠さなきゃって想いの方が先だった。まずはじめに取り掛かったのは、地面にうずくまった姿勢のまま、汚物を素手で掻き集めて叢に捨てること。

 どうにか片付けを終えて外水道で手や顔を洗っていると、今度は身体のあちこちが悲鳴を上げだした。胸の深部に杭が打ち付けられたような息苦しさがあって、お腹も、背中も、お尻も、太ももも、全部痛い。時間が経過すればするほどそれらは顕著になって、立っているのもキツくなってきた。普通には歩けそうもない。先生たちに訊ねられたらなんて言い訳すればいいだろう? ……と、ふと周囲を窺うと、玄関先に立ち止まるチエミちゃんの姿が目に入った。

 チエミちゃんは半年前に園にやって来た、あたしより二つ年上の九歳で、肌の白さと黒髪の艶やかさが印象的な少女だった。あたしはチエミちゃんのことが苦手で、それまでほとんど口をきいたことがなかった。顔立ちは綺麗なのに表情が暗く、いつも片隅でポツンとしている姿が、不気味で近寄りがたかったから。その時も、彼女は尋常じゃないあたしの姿を目にしながら眉一つ動かさず、ただ黙ってそこに立っているだけだった。

『転んじゃった』

 軽くおどけたように、あたしは舌を出した。実際には息苦しさと口の中が切れているせいで、上手くそうできなかったんだけど。ベタな嘘だよね。転んだだけであんな状態になるはずないのに。

 あたしの声は耳に届いてるだろうに、依然としてチエミちゃんからの反応は無い。頼むから、こんな時くらい何か声に出すなり、表情を変えるなりして欲しい。じゃないと、涙が溢れ出そうになる……あたしは震えながら心の中で訴えていた。でもそうするうち、身体を支えていた筋力がグニャリと張りを失い、視界が暗転して、何も分からなくなった」

 サムちゃんと洋介。二人はそっくりな目をしているのだと真衣は言う。ただこれまでの話から察するに、両者の類似点はそれだけではなさそうだ。

 サムちゃん同様、洋介も表面では完璧な人物を装っていた。本当の完璧さとは完全無欠を意味するのではなく、そこに見えるきずさえも美点に変える包括的人間力のことを言う。彼が時折見せる迂闊うかつさは、周囲の人々をかえって心地良くさせた。佐藤先生でもこんなことがあるのね、というちかしさだ。緻密な計算の上に作り込まれた『佐藤先生』の完成度は見事なものだった。それが虚像だと知っているのは、わたしと真衣以外、おそらく誰もいないだろう。

 ずっと疑問だった。なぜこの男がわたしを選んだのか。恋愛や肉欲じゃないのは確かめてみるまでもなかった。ならばこちらを揶揄からかって遊んでいるのかというと、そこまで低レベルな悪趣味の持ち主だとも思えない。金銭が目的なのかと考えたこともあるが、年収は洋介の方があるし、彼の経歴から判断して実家も太いと判断できた。

 ただ一つ気になったのは、わたしと相対あいたいす時に洋介が見せる、どこか頑是がんぜない表情だった。彼はわたしの持つ何かによって混乱している。そう察した。男女の関係において、色恋以外がもたらす混乱とは何なのだろう。わたしはそこに興味を持ち、彼の申し出を受け入れることにした。物の分別をわきまえているはずの大人の女が、なんと姦悪かんあくなことか。けれど内省は少しもなかった。好いてもいないのに近づいてきたのは、向こうの方なのだからと。

「目覚めたら、あたしは病院のベッドの上だった。

『胸に穴が空いたのよ。運び込まれた時は、気を失って唇や手足が紫色になってたの。手術したからしばらくは大人しくしててね……』

 おばさん看護師がそんな風に話してた。当時は意味がよく分からなかったけど、要は外傷性気胸でドレナージをしたってことだよね? 後に担当医師や園の先生に色々訊ねられたけど、ひたすら『転んだ』で通した。当時は幼児虐待に対しての認識が今ほど厳しくなくて、そこまで深掘りされなかったから良かったんだよね。いや、実際は、ちっとも良くないんだけど。

 退院して園に戻ると、子供たちがどっと詰め寄ってきてあれこれ質問攻めにあった。まだ身体に穴が空いてるの? お医者さん怖かった? 手術って痛い? 病院のごはんどうだった? ……もちろん、わたしの目や耳はそのどれにも反応しない。張り詰めたアンテナがキャッチしようとするのは、ある人物の気配だけ。

『あ、サムちゃん!』

 子供の一人が叫んだ。とたんに背筋がヒヤリとして身体が震え出す。恐れていた瞬間だった。周囲をキョロキョロ警戒しながら思わず後退あとずさりすると、背中が弾力のある壁に当たってドンと押し返えされた。振り向くと、見知った学ランの上に乗っかった坊主頭が、細い目でこっちを見下ろしてる。

『ご無事であったか、姫』

 大きな手が伸びてきて、両肩が掴まれた。あの日、あたしのことを散々殴った手だ。

 来ないで! 触らないで! 周りの皆はどうして平気な顔をしてるんだろう。あたしの絶叫が聞こえないの? ……でも、それも無理はなかった。後で聞いた話によると、あたしはその時、すごく嬉しそうにしてたみたいだから。大好きなサムちゃんに出迎えられて、満面の笑みを浮かべてたらしいから。

『厄払いでござる』

 そう言われて目の前に突き出された坊主頭は、巨大な虫の卵のようにグロテスクだった。ぷんと嫌な臭いが鼻をつく。あたしの味方なんて、そこには誰もいなかった。を全うしない限り、その場の収拾はつかないんだと察した。あたしは今にも気を失いそうになりながら、ねっとりと湿ったそこに手を当てがうしかなかった」

 性愛に疎く、また関心もなかったわたしにとって、男の性的衝動やオーガズムというものはまったくもって捉え所がなかった。はじめて交わった夜の、洋介の一挙手一投足。とりわけ彼が最後に漏らした言葉の意味が、わたしにはわるで分からなかった。

 ——ごめん、ダメみたいだ。

 いったい何に対しての謝罪なのか? 抱いた疑問をわたしはそのままぶつけてみた。イケなかったから、と彼は応えた。どうやら洋介は、わたしの中で射精できなかったことを気に病んでいるらしかった。

 ——それって、そんなに罪なことなの? 

 わたしは再び思ったままを口にした。ならば、わたしも同罪だわ、と。

 洋介は苦笑していた。

 ——君のそういうところ、嫌いじゃない、下手に慰められるより、ずっといい。

 後にわたしは、研修医時代に見学した大学のリプロダクションセンター(*10)のことを思い出した。そこにいた膣内射精障害の患者たちのほとんどは妊活のための通院だったが、洋介のような独身男性にとってもそれは深刻な問題なのだろうか。本当のところはよく分からなかったが、色恋の相手など腐るほどいるはずの彼が、わたしのような地味でさえない女を選んだ要因も、これに関係があるのではないかと推し量った。

 洋介のマンションの書斎部屋で、デスクのドロワーから薬の束を発見した時、わたしは確信した。彼が心ならずもわたしのような女を求めずにいられなかったのは、その深層に、自分一人ではこすり落とせない精神の焦げつきがあるからなのだと。導眠剤、抗うつ剤、抗不安薬……総じて『向精神薬』と呼ばれる種類の錠剤たちは、生前母がドレッサーにしまっていたものとほぼ合致する。

 嫌忌けんきや幻滅など、負の感情は少しも湧いてこなかった。それどころか、これまでりガラスを通してでしか見えなかった男の輪郭が、生色をみなぎらせて手の届く範囲にいるような清爽快活な気分をさえ味わっていた。

 洋介とわたしを結びつけたのは、各々が胸裏に秘める凶々まがまがしいまでの闇だった。表向きは、社会的栄職と周囲からの礼賛という、まばゆいばかりに輝いた世界に身を置いていた彼は、その光が強くなればなるほど、内部の暗翳あんえいを色濃くしたに違いない。陰陽・正邪、二つに乖離する自分に折り合いをつけるために、彼は自分と同等、またはそれ以上に深い闇に逃げ込むことが必要だったのだ。『盗人の番には盗人を使え』とはよく言ったものだ。

「一度入院したことで、あたしの体調に周囲の目が集まりやすくなったためか、その後サムちゃんに暴力を振るわれることはなかった。ただその代わり、別な地獄が待ってたんだ。殴る蹴るされてた方がまだマシだったかもしれない。簡単に言えば、あたしの役割が〝サンドバッグ〟から〝ラブドール〟に変わったってこと。

 以前はサムちゃんの膝の上に乗ったり、手を繋いだり、抱きついたりするのは、ごく当たり前のことだった。ほっぺにチューすることさえあったんだよ。でも退院後は至近距離に近づくのさえ無理。どうしたら二人きりにならずに済むのか、あれこれ思案して工夫したよ。でも、所詮は七、八歳の子供だからね。働かせる知恵なんてたかが知れていて、頭の良い中学生の巧妙な画策にはとても敵わない。

 普段、園の中にはあんなに人がいて、プライバシーもへったくれもないはずなのに、サムちゃんはどうやって周囲の目を欺いたんだろう? 外向きの優等生ぶりを疑う人が誰もいなかったのを考えても、相当な策士であることには間違いなかった。他人の心をコントロールするのがすごく上手いんだよ。

 あたしを裸にする時も、暴力で無理矢理捩じ伏せるようなやり方はしなかった。こちらがそうせざるを得ないよう仕向けるんだ。最初はさも意味ありげに鼻をクンクンさせて『お前、お漏らししたな』って言い出すの。あたしが首を横に振ると『ならなんでこんなに小便臭いんだよ!』っていきなり声を荒らげる。

『まだ小学校に上がってない〇〇や△△でさえトイレの粗相はしなくなってるのに、お前のそのだらしなさはなんなんだ? 恥ずかしくないのか? 小学校のお前のクラスに行って言いふらしてやる。〝しょーべん女のしょん子〟ってあだ名がつくぞ。皆が鼻をつまんでお前を取り囲むんだ。〝しょん子が来た、近づくとしょーべん引っかけられるぞ!〟てな。さあ、バレたくなけりゃさっさとパンツを脱げ。お股キレイにして新しいのに履き替えるんだ』

 ……そこからはどんなことされたか、だいたい想像つくよね? 

 パンツを脱がされるたびに『いいか、お前が悪いんだぞ』とサムちゃんに念を押される。お前が悪い子だから、親はお前を捨てた。オレが代わりにお前をしつけてやってるんだと。

 親のことなんか言われたって、ピンとこない。だって、名前も顔も知らないんだもの。〝真衣〟っていう名前だって、付けてくれたのは当時の園長だったらしいし。大人になった今でもそうだよ。親のことなんかよく分からない。自分にとってどういう存在なのか、いるのといないのとで何がそんなに違うのか。

 ただサムちゃんに繰り返し〝悪い子〟って言われると、空気の漏れた風船みたいに自分が萎んでいく気がした。やっぱり、あたしが生まれて初めて肉親愛みたいのを抱いた相手だからかな? 最初にあった恐怖や嫌悪もだんだん薄れて、何を言われようがされようが、なんとも思わなくなっていった。〝心が死ぬ〟って、ああいう状態の終末期を言うのかもしれない。

 でも、変なんだよ。虐げられているのはあたしなのに、行為の最中、泣いているのはいつもサムちゃんの方なの。『お前はどうして生まれてきた?』『なんで今も生きてる?』、そればかり繰り返して、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、あたしの腹の上に射精するの」 

 ——毎回こんなんでゴメン、でも、ありがとう。

 その日、いつものようにベッドでを終えると、洋介は息を切らしながらそうつぶやいた。薄ぼんやりとした照明の中に、三十代後半とは思えないしなやかな肉体が浮かび、胸から腹にかけての筋肉が激しく伸縮を繰り返していた。顎からポタポタと汗を滴らせ、患者に病状を説明する時とまったく同じ眼差しをわたしに向けている。完治に向けてこちらも全力でサポートさせていただきます、どうか過剰に心配なさりませんよう……云々。

 クククッ……と、わたしの唇から意図せず息が漏れた。息は次第に勢いを増し、やがて身をよじる大笑いへと変貌する。洋介が一枚紙のような表情の無い顔でこちらを窺っている。わたしは目尻に涙を溜めながら、血を吐くように相手に言葉をぶつけた。

 いつまで〝素敵な佐藤先生〟をやってるつもりなのか。他の者と同じように、わたしのことも騙しつづけるつもりか。こちらはあなたの猿芝居など、もうとっくに気づいている。よこしまなわたしたちができるのは、互いの持つ毒を相手に喰らわせ、それぞれを中和すること。それ以外に、二人が一緒にいる意味なんてない。虚像の中にいつづけたいならどうぞご勝手に。けれど金輪際、わたしには関わらないで欲しい——。

 男にとって女からのこんな嘲りは生まれて初めてだったのかもしれない。硬い沈黙の後、ベッドの上から一人分の重さがするりと抜ける。しばらくして再びベッドがたわんだ時、男の手にはライターサイズのピルケースが握られていた。デスクの引き出しに隠されていたものとは明らかに種類が違う。一種の精力剤だと彼は言い、お前もやるか? と顔の前に差し出されたが、わたしは首を横に振った。そんなものに頼らずともわたしは十分狂えるし、すでに狂っていると。

 薬の影響なのか、先ほどまでの汗が嘘のように男の身体は乾いていた。肌だけではない。眼球の動き、舌の使い方、筋肉の収縮……それらすべてが前とは似ても似つかない。巨大な爬虫類が牙を立て、わたしの内部に毒を注入しようとしている。そう思うと、全身をくすぐられているかのように筋肉が躍った。

「サムちゃんが自殺したのは、クリスマスイブだった。倉庫で首を吊っているのを園の先生が発見したの。

 クリスマスが近くなると、園では教会の牧師さんや、地域のボランティア会長さんや、老人ホームのお年寄りなんかを招待してクリスマス・ページェント(*11)を披露するのが恒例行事だった。お芝居の演出、衣装、小道具、背景パネル、照明、音楽など、すべてを子供たち自身が手掛ける、年末の一大イベントで、学校が夏休みに入る辺りから少しずつ準備していくの。

 その年のページェントは十二月二十三日の土曜日だった。日付を今もしっかり記憶してるのは、その次の日にサムちゃんが死んだから。

 劇自体は大成功だったよ。来賓たちの拍手喝采を先生たちも誇らしげに見つめてた。

 サムちゃんのお陰だ! サムちゃんはやっぱりスゴい! 閉幕の後、子供たちは歓喜に湧いて口々にそう叫んでた。間違ってはいなかったと思う。劇を統括したのはサムちゃんだったし、『例年と同じじゃつまらない』と代々引き継がれてきた台本まで新しく書きかえたんだから。演者としても参加したんだよ。ヨセフ役(聖母マリアの夫)を自ら買って出て。

 ちなみに、あたしの劇中での役割は、その他大勢に紛れて讃美歌を歌うこと。役をもらえない子供たちの多くが悲しがったり悔しがったりしたけど、あたしは正直ホッとしてた。役なんか割り当てられたら、稽古の間じゅうサムちゃんと密に関わらねばならないから。

 演技指導をする際のサムちゃんは、別人のように厳しかった。あたしはすでにその二面性を知ってたけれど、他の子供たちは、侍語サムライごをいっさい使わず、少しも笑顔を見せないサムちゃんに、最初はかなり戸惑ってたみたい。サムちゃんて普通に喋れるんだね、なんだかちょっと怖いね、って。

 ページェントの準備が本格化してからは幸せだったな。忙しさのせいか、サムちゃんがをしなくなったから。クリスマスが過ぎれば、また間違いなくが再開する。それが耐えがたくて、毎日心の中でこう祈ってた。〝神様、ページェントの蝋燭が消えたら、それと同時にサムちゃんのこともあたしの前から消して下さい。毎日、一所懸命にお祈りします。讃美歌も頑張って歌います。だからどうかお願いします〟って」

 本性を露わにした洋介に身体を貪られるうち、どこかで音楽が鳴り響いてるのに気づいた。壁向こうから漏れてくるのか、わたしの内部から溢れてくるのか、それは男の腰使いに連動して激しくなり、やがてすさまじい不協和音で空間全体に渦を巻いた。

 だ、と思った。わたしは今、の中にいるのだと。耳を塞いでも逃げられない音の凶器。アルコール臭い息を撒き散らす父。信仰の尊さを得々と語る母。一刻も早く姉に帰ってきて欲しい。いや、今のわたしにはもう姉の存在など必要ないはずだ。自分の意思と力で、呪われたあの場所から抜け出したのだから。

 ——死ね

 耳元で男の低い声がして、わたしの喉首のどくびにその両手が絡みついた。気道に圧がかかる。

 ——俺に抱かれながら、死んでみろ

 口腔内部で舌がもつれ、喉の奥を詰まらせる。側頭部が激しく脈打ち、次第に世界が色を失っていく。結局、わたしがから逃れる術はないのか。わたしの生のつづくかぎり、あの両親の亡霊が消えることはないのか。ならば、このまま死ぬのも悪くない……。

 そう、身体が脱力するにまかせ、まぶたを閉じようとした刹那だった。開き切った男の瞳孔に、淡く白い、小さな光の点が灯ったのだ。

 ——雪? 

 遠のく意識の中でそうつぶやくと、白い光はそれに応えるかのように丸い漆黒の中をくるくる旋回する。どこか懐かしい、それでいて物恐ろしい白点。死ね! 死ね! 死ね! 遠くで男の声がして、わたしの喉元にさらなる力が込められる。白い光の動きが鈍くなり、次第にその明度が弱まっていく。同じように消えるのだろうか。わたしも、わたしがいたこの世界も……。

 ふと我にかえると、男が息を呑むように唸って顔を歪めていた。喉元が解放され、それと同時にわたしは激しく咳き込む。時間の経過するに従って、五感が本来の働きを取り戻していく。フロアライトの淡い光、湿った空気と汗の匂い、激しく上下する呼吸、のしかかる男の身体の重み。どうやら男はわたしの中で果てたらしい。

 死に近い場所まで踏み込みながら、結局また、こちらに戻ってきたのか。あの白い光がたどり着く先を想うと、たまらなく虚しかった。なぜ、わたしのことも一緒に連れていってくれなかったのかと。

「『あなたは何を思い、ヨセフにあのように語らせたのですか?』

 ページェント終了後の懇親会で、教会の牧師さんが語気に憤懣ふんまんの色を滲ませてサムちゃんに歩み寄っていた。

 あたしはまだ小さくて、牧師さんが言わんとする意味をよく理解してなかったけど、サムちゃんは劇の脚本家であり、ディレクターであり、演者でもあったわけだから、自らが演じたヨセフの台詞に個人的な思想を反映させたと捉えられても仕方ないし、実際その通りだった。

『キリストの降誕劇は、聖書で言うところの〝全知全能であり至善である神〟が、いかに矛盾に満ちた、ご都合主義なのかを如実に物語っています』

 細かいところまでは覚えてないけれど、サムちゃんが応えたのは概ねこんなことだった。

 実は、サムちゃんが最初に書いた台本にも、これと似たような内容がヨセフの台詞にあって、改変させたい園長とサムちゃんとの間でちょっとしたいさかいがあったんだよね。『子供たちの自主性に任せるだなんて、嘘ばっかりだ!』と吐き捨てながら、サムちゃんが台本の一部に大きなバッテンを付けるのを皆物陰から恐る恐る眺めてた。この頃にはもう、誰もサムちゃんに逆らえないような雰囲気が、子供たちの間に広がってたんだよね。

しゅが、ご都合主義ですと?』

 牧師さんは顔を真っ赤にして、たるんだ頬の肉をプルプル震わせてた。そりゃそうだよね、心の拠りどころである神様を冒涜されたんだもの。でもサムちゃんはまったく動じなかった。

『マタイによる福音書には〝マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した〟(*12)とあります。ヨセフは正しい人、つまり法や社会的倫理に実直な人だったのです。そんな彼が、妻の不貞に対し一つの叱責もせず、その名誉と安全を守るためただ黙って彼女のもとを去ろうとした。なんたる深い愛、尊い聖性でしょう? けれど主はヨセフがそうすることを許さなかった。自分以外の子を宿した女をそのまま妻として迎え入れろと命じたのです(*12)。こんな理不尽があるでしょうか? ここに登場する人物の中で最も崇められるべき人物は、神でもキリストでもマリアでもない、聖書にその記述がほとんどない一人の平凡な男、ヨセフです。

 神が完全なる善であり、愛であるなんてイカサマだ。自分は絶対であり、何をおいても優先され崇められるべき存在であり、お前たち人間はこちらの要求通りに動いていれば良い。そんな思考が透けて見える。都合の良いように御託並べて既得権益を貪る悪徳政治家となんら変わらない。神なんて、単なる詐欺師です』

 サムちゃんはこの時何を言わんとしてたんだろう? その想いは後々まで尾を引いて、大人になってからあたしは聖書に描かれたヨセフとその人生についてあれこれ調べたんだ。それで、サムちゃんの考えがなんとなく理解できた。もちろん、すべてではないけれど。

 マリアやヨセフが生きていた古代イスラエルでは婚姻に慣習化された二つのステップがあって、ステップ1が〝婚約〟。ただしこれは今の婚約とは違い、女性は自分の実家で過ごしながらも婚約相手の〝花嫁〟だと社会的に認知される。そしてステップ2が〝同居〟。婚約の一年後、女性は夫の家に居を移し義父母も含めて新たな生活を開始する。名実共に二人は夫婦になるわけだよね。聖書によれば、マリアはここでいうステップ1の段階でヨセフではない他の誰かの子を孕んでしまった。当時の法律だと、これは明らかな姦通罪で、石打ちの後に処刑される大罪だった。ヨセフはひどく傷付いたと思う。愛する人に裏切られたわけだから。彼はマリアと離縁することを決意する。でもこれはマリアに三行半みくだりはんを突きつけるような別れではなく、そうすることでマリアを逃し、法の刑罰や民衆の非難から救おうという意図だったの。バカが付くほどお人好しの男だよね? そんなヨセフのもとに天使が現れ、〝恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアが宿したのは聖霊の子だ。男の子が生まれてくる。名前をイエスと名付けなさい〟と告げる。ちょっと天使さん、いきなり何言ってんの? って話。あたしがヨセフだったらそう思うね。何が〝恐れず迎え入れなさい〟だよ。ヨセフにしてみたら、それが神の子だろうがなんだろうが、自分の妻を勝手に孕まされたことには変わらない。サムちゃんが神のことを〝矛盾に満ちたご都合主義〟と呼んだのは、きっとこういうことを指してたんだよ。

 あの後、牧師さんはカンカンに怒って、園の先生たちがなだめるのも聞かず帰ってしまった。要するに、牧師さんが何を言おうが、サムちゃんの主張は覆らなかったってこと。すごいよね。一三、四の少年が、聖書の内容について神学を専門的に学んだ大人と対等に討論するなんて。改めてサムちゃんの恐ろしさを知り、観念したよ。あたしは決して逃げられない、これからもサムちゃんのに耐えつづけるしかないって。まさかその翌日にサムちゃんが死ぬなんて、つゆほども考えなかったから。

 クリスマスイブは、夕食のテーブルにいつもより豪華な食事とホールのケーキが並ぶ。子供の多くはそれが待ち遠しくて、当日は朝からソワソワしてるんだけど、その年はページェントと二日続きだったことも手伝って、園の中にいつも以上の独特な高揚感が漂ってた。

 ようやく準備が整って皆が席に着いたまでは良かったけれど、食前のお祈りがなかなかはじまらない。サムちゃんがいなかったからなの。同室の子は昼食以降姿を見てないと言うし、ひょっとしたら町の図書館にでもいるのでは? としばらく皆で待つことになったけど、二十分、三十分と過ぎてもサムちゃんはやってこない。

 ちょっと見てきます、と若い女の先生が席を立つと、それを合図のように小さい子供たちがぐずりだした。ねえまだ? お腹ペコペコだよ! 先生、◯◯君があたしの髪引っ張った! ジュースだけでも飲んじゃダメ? おいオマエ、今つまみ食いしたろ? ……飛び交う不平不満がどんどん大きな渦になって、そろそろ園長先生のカミナリが落ちる頃だなと思った矢先、庭の方で凄まじい悲鳴が響いた。

 あたし、見ちゃったんだよね。天井の梁からサムちゃんがぶら下がってるのを。なんでかな? 先生たちの采配で倉庫の戸口はすぐ封鎖されたはずなのに、あたしはどうやってその中に入ったんだろう?

 手足が付いた、巨大なてるてる坊主。最初に抱いたのはそんな印象だった。実際、あの時のことを思い出すと、雨音が聞こえてくるんだ。外は星空だったのに……。

 重力で引き伸ばされた背中と不自然な角度に折れ曲がった首。カクンと前側に垂れた頭はブヨブヨに膨らんで、指で押したらそのまま凹みそうだった。遥子さん、ジャックフルーツって知ってる? 熱帯地域で獲れる世界最大の果実で、小さくても成人男性の頭、大きいものだと長さが七十センチ以上にもなるの。歪な楕円の表面は一面ブツブツしたイボに覆われてて、遠目だとザラザラしたイガグリ頭みたいに見える。あの時のサムちゃん、まさしくジャックフルーツみたいだった。熟し過ぎて中から果肉が飛び出してきそうな、ジャックフルーツ……。

『ざまぁ見ろ』

 不意に聞こえた声に驚いて横を見ると、いつからそこにいたのか、チエミちゃんが立ってた。

 チエミちゃんは、戸惑うあたしになど目もくれず、ツカツカとサムちゃんの方に歩み寄って、品定めするようにをしばらく見上げてた。いったい何をするつもりなのか、目つきが尋常じゃない。ここにいると先生たちに怒られるよ、皆のところに戻ろうよ——あたしは喉元まで来てる言葉をどうしても声にできなかった。身体がガクガク震えて、その場に立ってるのがやっとだったんだ。

 すると突然、チエミちゃんがサムちゃんの足首を掴んで、『ウッ』と踏ん張った。縄を結えてある天井の梁がミシミシと軋んで、サムちゃんがこちらを振り向く。半開きのまぶたの奥から白目だけの目ん玉がのぞいていて、頬とこめかみ一面に葉脈みたいな紫色の血管が浮き上がってた。鼻や口の周りに吹きこぼれたビールみたいな泡の跡があって、赤い衣装を着せたらサンタクロースの仮装に見えたかもしれない。背後からは分からなかったけれど、縄が強く食い込んでいるせいで喉仏周辺は皮膚が裂け、中身の肉が露出してた。

『なんだこの顔! クッソ、ダサい!』

 チエミちゃんが高笑いする。目ん玉でも飛び出してたらもっと面白いのに。強く引っ張ったら首ちょん切れるかな? コイツ、なんか臭くない? 生きてた時から臭かったけど……普段の物静かな雰囲気からはおよそ想像もつかない言葉が、その口から次々に飛び出してくる。

『あんたも、これで一安心だね』

 そう言われて、ハッとした。チエミちゃんも被害者だったんじゃないかと。あたしと同じように、サムちゃんにをされてたんじゃないかと。そう考えて改めて思い返すと、色々なことの辻褄が合ってくる。庭先で着衣の乱れたあたしを目撃した時の、チエミちゃんのあの態度。自分より年下の子があんな状態になっているのを見つけたら、普通はひどく動揺して悲鳴を上げたり、大慌てで先生を呼びに行ったりするはず。でもあの時、チエミちゃんはただ黙ってあたしを見つめていた。おそらくは茫然自失して、動けなかったんだと思う。自らも当事者ゆえ、何が起こったかを瞬時に察したから。

『何が〝心優しき夫、ヨセフ〟だ。なんで私がお前となんか結婚しなきゃならないんだ? ざけんな、クズが』

 チエミちゃんはページェントでマリア役だった。つまり舞台の上で、彼女は自分をなぶり者にした相手と夫婦にさせられたということ。皮肉なもんだよ。マリアとヨセフ。劇中では愛と信頼の象徴だった二人が、現実にはそれと真逆の関係にいたんだから……。

 その後、警察が来たり、野次馬たちが集まったりで、園の周囲は騒然とした。熊みたいなおじさん警察官がやってきて子供たちにあれこれ質問したけど、皆驚きと空腹でろくな返答ができなかった。

〈主よ、なにゆえ私にこのような運命をお与えになるのですか? それを担うのがなぜ、この私でなくてはならないのですか?〉

 パトカーの赤い回転灯を見つめながら、あたしの耳の奥にはずっと、サムちゃん演じるヨセフの声がこだましてた。

 後になって分かったことだけど、サムちゃんは施設に保護される前、実の両親から虐待を受けてたらしいんだよね。しかも、いつ殺されるか分からないような、かなりヤバいのを。『お前はどうして生まれてきた?』『なんで今も生きてる?』、あたしの存在そのものを蹂躙するような暴言の数々は、おそらくサムちゃんがぶつけられてた言葉なんだよ」

 洋介もわたしも、ベッドの上では散々際どい行為に耽りながら、日常においては、以前よりもいっそう礼儀を弁えた、遠慮がちな態度で相手に接していた。まるで昔の上司と部下に戻ったような、妙なよそよそしさ。そうなるよう仕向けたのはわたしだ。ある部分において相手の領域に深く入り込み過ぎたぶん、別なところでは距離を置く。周囲にわたしたちの関係を伏せつづけたのも、実を言えばそれが一番の理由だった。踏み越えてはいけない境界線をあえて設け、各々の立ち位置を見失わないようにしたのだ。

 洋介はそんなわたしの意向をただ甘受するだけだった。ベッドでは毎回わたしを、その後は何事もなかったかのように元の紳士な『佐藤先生』に戻る。

 変調が現れ出したのは、彼の周囲に別な女の気配が見え隠れするようになってからだ。情交の頻度が極端に減り、仮に行為に及んだとしても、以前のような猟奇的側面は影を潜めた。

 新しい女ができたのなら、それはわたしにとってかえって好都合な気がした。あの夜以降、洋介の瞳に白い光は現れなかった。そしてそのことが、彼に対するわたしの興味を著しく失速させていった。男との関わりはあの白い光と邂逅するためのものであり、それがなされた今男と一緒にいることにはもう意味がない。そんな感覚にさえ陥っていた。

 ところがそんな矢先、洋介は、それがさも当たり前の着地点だとでも言うように、わたしたち二人の結婚をほのめかすようになった。わたしは唖然とし、その後、いぶかった。わたしたちが結婚? どうかしている。いったい、この男の心に何が起きたのか。

 わたしが川乃真衣に近づいた一番の理由は、男女関係のもつれによくありがちな、嫉妬心や復讐心に駆られてのことではない。単純に、知りたかったのだ。洋介が変わった理由を。そのことに、この女は少なからず絡んでいると。

「願いが叶って、良かったじゃない」

 真衣の長い回想話が途切れた頃合いで、わたしはつぶやいた。真衣が疑問符を浮かべた顔でこちらを見る。

「だって、結果的にサムちゃんは死んだんでしょ? しかも、あなたが手を汚すこともなく」

「わたしはなにも、あんな結末を望んでいたわけじゃ……」

 真衣の瞳にとろりとした油の膜のような涙が張りつく。

「そうなの? だって、サムちゃんに消えてもらいたかったんでしょ? そうなるよう、神様に、繰り返し祈ったのよね?」

「〝消える〟と〝死ぬ〟って、同じ意味なの?」

 小さく、乾いた声だった。

「それは、受け手の解釈によるんじゃないかしら? もし、〝神様〟なるものが実在し、その霊験の下にサムちゃんが死に至ったのだとしたら、神様にはあなたの祈りが〝アイツを殺して〟に聞こえたんでしょうよ。思ったことが現実になるなんて、奇跡みたい。

 ……でも、なんだか解せないわね。神様って、至善至良な存在なんでしょう? 人殺しの依頼なんて、請け負ってくれるものかしら? あなたがひざまずいたのは、実は、神の体を成した悪魔だったりして……」

「遥子さん、なんか今日、変だよ。それともふざけてる? あたし今、冗談を聞く気分じゃない」

 真衣の顔は青ざめ、頬の辺りが軽く痙攣を起こしていた。

「今回もやってみればいいじゃない」

 わたしはふざけてなどいなかった。

「サムちゃんを自死に追いやった時みたいに、強く念じるのよ。〝私に暴力をふるうあの男が一刻も早く目の前から消えますように〟って。だってあなたは、その男から逃げ切ることも、警察に訴え出ることもできないのでしょう? ならば相手に死んでもらうより他ないもの」

 もうやめて! と真衣が顔を歪め、語気を強めた……ように見えた。〝見えた〟と表現するのは、その際の真衣の声が、わたしの耳には届かなかったからだ。

 いったい何が起きたというのだろう。ふと辺りを見回すと、空間全体が無音の中に没していた。店内BGMのボサノバ、他の客の話し声、食器やカトラリーの接触音、空調設備からの送風音……つい今しがたまでそれぞれの周波数で空気を振動させていたものたちが、その場で一斉に息を殺していた。試しに、グラスの底でテーブルを叩いてみる。やはり何も聞こえない。真衣がこちらに向かって口を動かしている、ウェイトレスが客から注文を受けている、すぐ横の通路をビジネススーツの男が通り過ぎる……わたし一人が、巨大な水槽アクアリウムの外側で世界を傍観している気分だった。

 視線が自然と、ある一点に吸い寄せられる。発光する真綿のような切片が、こちらを見下ろすように天井付近を旋回していた。洋介の瞳に映っていたのと同じものだ。ただその時とは異なり、今回は数が倍に増えている。双子の浮遊体は絡み合う蔓のように円を描きながら下降し、テーブルに着くすれすれまで来ると、どちらからともなくふわりと消えた。瞬間、わたしの下腹部を、疼きとも痺れともつかない冷感が貫く。突然身体を撃ち抜かれた人がそうするように、わたしは咄嗟に身をかがめ、そこに手をやった。

「ちょっと遥子さん、聞いてるの?」

 不満を露わにした真衣の顔が正面にあった。どのくらいそうしていたのか、わたしは空けたように自らの茫漠の中を彷徨っていたらしい。

「あたし、死にたくない。でも、アイツから逃げるのは、遥子さんが言うような生易しいことじゃないの。アイツにしたら、あたしなんて虫けら同然。なんのリスクもなく、簡単に始末できるんだよ。だって、身寄りのない独り身の女が、ある朝突然所在不明になったところで、いったい誰がそれを気にかけるの? 遥子さん、ずっとわたしの味方でいてくれる? わたしが破滅しないよう色々知恵を貸してくれる?」

 真衣が縋るような目でこちらに身を乗り出した。わたしは条件反射のように頷き、それからふと、ある疑念に囚われる。

「あなた、もしかして……」 

 そこから先は言葉がつづかなかった。一度口にしてしまったら、わたし自身、それについて自問自答せずにはいられなくなるからだ。下腹部に当てがった手に力がこもる。

〈——もしかして、妊娠してるんじゃないの?〉


  **


 闇に埋もれたまま手探りでベッドサイドのアラーム時計を掴み、点灯ボタンを押して時刻を確認する。午前一時十八分。今夜もやはり、眠れぬまま朝を迎えることになりそうだ。

 不眠が慢性化してからは、ベッドに入って十分もすると、それが〝眠れる夜〟か〝眠れぬ夜〟か、おおよその見当がつくようになった。日付が変わっても一向にまぶたが重くならないこんな夜は、さっさと諦めてベッドを抜け出す方が賢明だ。ため息と寝返りだけで日の出を待ちつづけるのは精神を恐ろしく摩耗させる。

 椅子に腰掛け、赤ん坊を起こさないよう様子を窺いながらデスクライトを点ける。どういう風の吹きまわしか、姉は数日前から夜も小織をわたしに預けるようになった。それまで頑なに握りしめていた手綱を躊躇なくその場に置き捨てて、たった一言「お願いね」と。悟りきったような涼しい顔は、かえってこちらを不安にさせた。いつもは家の中のことなどまるで無関心な義兄も、最近やたらと姉の様子を訊ねてくる。そして最後をこう締めくくるのだ。——一度ヨーコちゃんの通院する病院に連れてってみてくれないかな?


 ふと思い立ち、引き出しにある洋介の手紙を取り出した。宛名に記された『黒田遥子様』の文字に目を落としたとたん、やり切れなさに胸が塞がれる。こんな手紙のやり取りなど、結局はなんの意味もなかったのだと。

 わたしが洋介に手紙を出したのは、彼との関係を修復したかったからじゃない。ひとえに真衣、そしてそのお腹の赤ん坊のことが気がかりだったからだ。

 誰に聞かずとも、わたしには分かっていた。真衣は妊娠している。二対の白い光を目の当たりにした瞬間から、それはわたしたち二人が背負うべき運命となったのだ。はたから見れば荒唐無稽もいいところだろう。しかし時として体感は、科学的知見を軽々と凌駕する。に腹を蹴られるたび、同じ痛みを味わって顔を歪める真衣の姿がわたしの脳裏には浮かんだ。そしてイメージに現れた彼女にこう問うのだ。あなたの赤ん坊は今、どこにいる? あなたの腹の中? それとも——。

 できることなら洋介に探りなど入れず、直接本人とやり取りしたかった。しかし最後に会って以降、わたしの携帯は電話もメールも真衣に繋がらなくなっていた。無理もない。彼女からすれば、わたしは忌々しい裏切り者なのだから。

〈自分が遥子さんにこんなにも憎まれてるとは、思いもよらなかった〉

 薬の窃盗を密告したわたしに、真衣は糊で貼りつけたような笑顔でそう言った。彼女は最後まで気づかずにいたのだろうか。あれが、わたしの差し伸べただったということを。

 真衣はなぜ病院側に事実を打ち明けなかったのだろう。佐藤洋介に薬を盗むよう強要された。日常的に暴力を振るわれ、その恐怖から要求を拒めなかった。その陳述こそが、わたしの計画の要だったのに。まさか辞職してまであの男のことを守るなんて。歯痒さと苛立ちは長いことわたしの心に燻りつづけた。

 口ではあれこれ言い募りながら、真衣はきっとあの男のもとを離れない。その予感は最初にDVの相談を受けた時からわたしの脳裏にチラついていた。実際、事態を打開すべくわたしがあれこれ提案しても、「無理だよそんなの」「そんな単純な話じゃない」「バレたら大変なことになる」とにべも無く断られる。

 真衣には〝サムちゃんの亡霊〟が取り憑いているのだ。わたしはそう判断した。初めて抱いた家族的愛情、神格化ともいえる憧憬、吐き気をもよおすほどの嫌悪、そして怨嗟えんさの果てに見た縊死体への、名状しがたい虚無感……それらの感情が渾然一体となって眼前の洋介に投影される。真衣にとって洋介は、大人の男に成長したサムちゃんそのものだったのだ。

 普通のやり方ではダメだ。癒着した皮膚と皮膚との間にメスを入れるような力技でなければ。真衣を男から引き離すのに、もう手段など選んでられない。

 洋介のデスクにある薬がそこを覗くたびに増えていると気づいたのは、わたしがそんな思案に明け暮れている時だった。

 向精神薬はその取り扱いについて厚労省から厳格なガイドラインを設けられており、一個人が勝手に輸入することはできない。違反した場合は処罰の対象となり、わたしたち医師もそれは例外ではないのだ。正規のルートで薬を得るなら患者としてどこかの医療機関を受診するよりほかないわけだが、洋介の口からそんな話が出たことは一度もなく、彼の日常を観察しても、どこかに不調を抱えて薬を服用している様子はまるでなかった。もちろん、わたしと知り合う前のことは分からない。けれど少なくともその時、薬は手付かずのまま量だけが増えていたのだ。

 いったいどういうことなのか。直接本人に訊ねてみようかとも考えたが、その場合、秘密裏に相手のプライバシーを侵したことがバレてしまう。わたし自身はいつ関係が破綻しても構わなかったが、真衣を救うためにはまだ男のそばを離れない方がいいと判断した。

 心に立ち込めた靄を一掃したのは、ある瞬間、ひらめきのように舞い降りた一つの仮説だった。

〈これらの薬は、真衣が調達しているのではないか?〉

 予感は的中した。わたしはその後、自分の仮説が正しいことを裏付ける間接的証拠を探し当てたのだ。

 あらかじめ綿密な計画を立てていたお陰で事を成すのはあっけないくらい簡単だった。ナースの勤務表とそこにおける真衣の行動パターンから犯行の日時を予測し、目星をつけておいた日の退勤時間にいつもの喫茶店に誘う。あとはお茶を飲みながら真衣がトイレに立つ瞬間を待てばいい。座席に残されたバッグから出てきたのは4シートの抗不安薬だった。タブレット換算で四十錠。病院で診察を受けたにせよ、一度にこの量の処方はありえない。

 わたしはこの事実をどうにか利用できないものかと考えた。病院全体を巻き込むような事件にし、結果、真衣を洋介と決別させるのだ。

 だが、事はわたしの思惑通りには運ばなかった。それもそのはず、二人を固く結びつける最も厄介なファクターに、わたしはまだこの時気づいていなかったのだから。

 探偵の中西が語った事件の概要など、わたしにはあえて聞くまでもないような話だった。洋介の部屋の変死体が川乃真衣であること、真衣が妊娠していたこと……そんなことは警察から電話を受けた時点ですでに予測がついていた。思いもよらぬ真相を突きつけられたように困惑したりショックを受けたりするわたしを、中西はそのまま信じたのだろうか。だとしたらずいぶん純朴な〝元マル暴〟だ。

 ただ、洋介に薬物依存症者メス・アディクトとしての過去があったこと、その不祥事を揉み消したのが父親であり内閣官房長官の佐藤宗徳だったこと、この二点については心底驚かされた。

〈医者のくせに、自分の男の様子がおかしいのに気づかないなんてな。アンタのその鈍さが今回の惨事の一因だともいえる〉

 わたしに向かってそう毒づいた男の黒ずんだ乱杭歯を思い出す。わたしは心のどこかに『有能な先輩医師・佐藤洋介』の幻影をしまい込み、それを手放せずにいたのだ。彼がその内部に仄暗い猟奇性を秘めてたにせよ、法に触れること、自らの命を脅かすようなことは決してあるまい。その思い込みがわたしの思考を曇らせた。彼が〝精力剤〟だと説明した錠剤も、わたしは勝手にバイアグラの類を連想したが、実のところはよく分かっていない。勧められるままわたしもそれを服用していたら、今ごろ真衣のようになっていたのかもしれない。

 そういえば——と、洋介が書いた手紙の文面に改めて思い至る。彼はわたしの失踪について『弁護士』に相談したと書いていた。一読した時、なぜ警察ではないのかと違和感を覚えた。いくら法律の専門家とはいえ、弁護士が行方不明者の消息を掴んでくれるわけではない。実際の捜索はあくまで警察がすることなのだ。ならばあえて遠回りなどせず、警察署に駆け込む方が得策ではないか。

 今ならその理由が分かる。彼は恐れていたのだ。警察の鋭敏な嗅覚を。下手に関わったりしたら、その鼻がいつなんどきクンクンと自分の周りを取り囲むやもしれない。手紙の行間からもわたしへの勘ぐりが窺え知れた。——こいつが消えたのは俺のシャブに気づいたからか? でもそれならなぜ、警察に通報しない? そもそもこいつがヤクくらいで怯むだろうか? 俺より遥かにヤバい、この女が。

 まったく、拍手を送ってやりたいくらいの、しみったれたエゴイズム。覚せい剤に手を伸ばし、女にもそれを施すに至って、男の思考はますます常軌を逸したに違いない。なにしろ興味などもうとっくに失せている向精神薬を、その後も繰り返し女に盗ませていたのだから。デスクの中で無意味に増えていく錠剤にニヤつきながら、男がこんな風につぶやく姿を想像する。——あの女が俺に背くことはない。俺の命令は絶対だ。

〈とても込み入った事情があるの〉

 苦しげにそう漏らした真衣の横顔がよみがえる。わたしはなんと浅はかだったのだろう。彼女の首に切っ先を突きつけていたのは、サムちゃんの亡霊だけではなかった。真衣はあの時すでに、覚せい剤の沼にはまり込んでいたのだ。自分を救う切り札だった『動画ファイル』を最後まで使わなかったのも、きっとこのせいに違いない。

 他に手立てはなかったのだろうか? 真衣の死後、わたしはそう何度も自問した。相手の方にとりあう姿勢がまるで見えなくとも、こちらが誠意を持って弁明すれば状況は変わっていたかもしれない。あなたを裏切るつもりなど毛頭なかった、わたしはあなたの敵じゃない——と。

 実際、そうするつもりだったのだ。真衣から最後にメールで呼び出された日、わたしは喫茶店へと向か道すがら腹を固めていた。これまでのなにもかもを真衣に打ち明けよう。洋介との出会いからこれまで。真衣に近づいた理由。盗難の密告に含まれていた真の意義。そして、白い光が導く、わたしたちのこれから……。

 なのにどうしてなのだろう。店内へ一歩踏み込んだとたん、流れてくるボサノバにわたしが用意したはずの言葉は撹拌かくはんされ、形も色も分からないドロドロの感情へと変化してしまった。その後の、まるで真衣を挑発するような言動。想定していたのとは真逆の結末。

〈遥子さんて、怖い人だね〉

 去り際、真衣はわたしの目を窺い見るようにして言った。それからすぐに身体をブルッと震わせ、視線を逸らす。

〈あたし、今気づいたよ。これまでずっと近くにいながら遥子さんの目をまともに見たことがなかったって。話すことに夢中になり過ぎてたんだね。要は自分のことしか考えてなかったのか。……まあ、裏切られても仕方ないのかな?〉

 真衣と会うのはこれが最後かもしれない。そんな予感が咳き込むような激しさで喉元を疼かせた。何か言わなければ。でないと、真衣はこの後きっと——。

〈遥子さんて、結局何がしたいの? 不思議なんだよね。自分の欲望に忠実ですごくしたたかなのかと思いきや、何かに怯えて自分の意思ではない行動を取ってるようにも見える。そういうの全部引っくるめて怖い。底が見えないっていうか、何しでかすか分からないみたいな。遥子さんの目をじっと見てると危機感覚えるんだよ。これからなんかマズいことが起きるんじゃないか、それに自分も巻き込まれるんじゃないかって〉

 わたしは開きかけた口をそのまま力なく閉じた。

 

 あれから何度も真衣のことを思った。スマホは着信拒否されていたため他の連絡手段をあれこれ思索した。とにかくもう一度会おう、あんな終わり方では不本意過ぎると。けれどそうこうするうち、今度はわたしの体調が著しく悪化した。元からの持病だった不眠が生活全体を脅かすようになり、手術の失敗、引責辞職とつづき、妊娠が発覚する頃には心身が耗弱状態に陥って、あらゆることがもうどうでもよくなっていた。

 ただ、すべては仕組まれていたことのようにも思う。様々な出来事の末、わたしが今ここにこうしているのは、背後に計り知れない何か大きな力が働いた結果なのではないかと。

 ふと、あの白い光が思い浮かんだ。実体はそこにあるのに決して触れることのできない一粒の雪片。吸気とともにそれはわたしの内部に紛れ込み、二粒、三粒、四粒と増殖していく……。

 空想は、突然下腹部を襲った激痛で遮断された。同じ雷に打たれたかのように小織も泣き出す。

 このところよくある症状だ。時間にすると数十秒から長くても二、三分。生活に支障をきたすほどではないが、それでもこれまで経験したことのない痛みなのは確かだ。とても奇妙な感覚で、発生部位を特定しようと触診を試みてもいまいち判然としない。放散痛(*14)かとも考えたがそれとも違うようだ。フワフワと遊離する痛覚は手の届く範囲にありながら決して触れることはできず、いたずらにわたしの周囲を舞い踊ったかと思うと、前触れもなくプツリと消える。その存在の仕方は、例の白い光そのものだった。に何かが起きているのだろうか。腹を蹴られるたび感じ入っていたへの手応えが、間欠する痛みによってバラバラに砕けていく気がする。

 ベビーベッドから小織を抱き起こし、静かになだめすかして泣き止むのを待つ。こんな風にを抱けるのはいつなのか。果たしてそんな日はこの先訪れるのか。

〈〝消える〟と〝死ぬ〟って、同じ意味なの?〉

 真衣にされたこの質問を、わたしは今、改めて反芻している。




(*8)GABA(ガンマアミノ酪酸。中枢神経の神経物質の働きを抑制する物質)を増強することで脳の活動を鎮静化し、結果過度な不安や緊張を和らげる薬。中には依存性が非常に強く、長期間服用すると認知症の発生率を上げると言われているものもある。

(*9)被虐待児症候群と訳され、親や世話をする大人による虐待により引き起こされた子供の健康被害を言う。一般的にここでいう虐待とは①身体的虐待②ネグレクト③精神的虐待④性的虐待の四型に分類され、子供に現れる症状は外傷、成長障害や発達の遅れ、心身症、情緒行動問題など多岐に渡る。

(*10)不妊症や性機能障害など生殖医療全般を扱う医療機関

(*11)降誕劇。聖書に記されたイエス・キリスト降誕の物語を劇で演じるもの。

(*12)マタイ伝 第一章・1-19『夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した』。

(*13)マタイ伝 第一章・1-20・21『彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」』

(*14)実際の原因となっている部位から離れたところに感じる痛み。一例として、狭心症の際には胸ではなく、みぞおち、左肩、左 手、あごなどに強い痛みを感じる場合がある。



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