8
冬が訪れようとしていた。
人々の口の端には、車のタイヤ交換や、灯油の価格や、雪かき機の点検作業についての話題が挨拶代わりにのぼるようになった。道内では比較的雪の少ないエリアだとは聞いていたが、それでも雪国の冬をよく知らないわたしにとって、一日の平均気温が0度を下回ったり、除雪車が頻繁に駆り出される日常というのは計り知れない。
もうすぐ冬になるのだ。そう思うと、濡れた岩場を裸足で歩くような心許なさを覚える。わたしがこの土地を訪れた最初の日、行き過ぎる風にはまだ春の匂いが残っていた。あれからいったい、何が変わったというのだろう。
不眠は一向に改善の兆しが見えなかった。いやむしろ、悪化の一途をたどっていると言っていい。ここ一週間というもの、わたしは一睡もできていない。夜ベッドに入ってまんじりともせず朝を迎え、日中もうたた寝すらしない。完全なる睡眠時間ゼロ。でもなぜなのか、身体は軽やかで不思議なくらいよく動く。こんなことが果たしてありうるのだろうか。
一方、姉はこのところめっきり塞ぎ込んでいる。小織の夜泣きが日増しに激しくなり、まともな睡眠が取れていないからだ。
「何より困るのが、ミルクを嫌がることなの」
目の下に深い陰を落として姉は言った。本来飲む量の半分で、小織は吸い口をぺっと出してしまうのだという。ひどい時はそれよりも少ないと。
「この子が何を求めているのかがわからない。なぜ泣くの? わたしに何か訴えたいことがあるから泣いているんでしょう? 母親なのにそれが分からないなんて」
「思い詰めてもいいことはないわ。乳幼児を抱えるお母さんの多くが同じような不安や悩みを抱えてるんだと思う。もしあまり辛ければわたしを頼って。夜の間、小織ちゃんを預かるから」
わたしは姉を勇気付ける素振りで言った。
「だって、あなたも不眠治療の最中なんでしょう?」
「お陰さまでずいぶん良くなったのよ。実際最近のわたし、すごくタフだと思わない? それにもともと職業柄、短時間睡眠には慣れてるの。じゃないと当直とかこなせないでしょう?」
姉はわたしの言葉に「ありがとう」と応えつつ、内心ではそれとまるで違うことを考えている。わたしにはそれが分かる。
〈母親のわたしがどう苦心しても泣き止まない小織が、あなたに抱かれたとたんおとなしくなる。どうしてなの? その自信に満ちた母親然とした態度はいったい何? この子の母親はわたしなのに〉
母親としてのプライドと疲労に削り取られていく心身との狭間で姉はもがいていた。小織がわたしと共に夜を過ごすようになるのは時間の問題だろう。なにしろ小織の食欲を満たしてあげられるのは、このわたしただ一人なのだから。
姉を苦しめている問題は子育てにとどまらなかった。これまで目立った害悪を及ぼすこともなく、あの家に貯留されてきた『毒』。それがとうとう受け皿からこぼれ落ち、辺りに蔓延しはじめたのだ。
毒に侵されないよう心がけることは三つ。その特性を熟知すること。それに
逆に、毒に対して以前から目算を立てていたわたしはそれを上手く処理することに成功し、結果、家の中全体を取り仕切る役割に落ち着いてしまった。
今やペンションを訪れる新規の客は、そのほとんどがわたしを女主人だと勘違いし、『奥さん』『オーナー』などと呼んでくる。わたしがここにいるのは療養のためなのだが? と、はじめのうちは割り切れない気分だったが、姉がまともに働けないのだから仕方ない。
姉の穴を埋めるのは容易ではない。いかにして業務の効率化を図るのか。掘り下げればそれは、〝いかにしてタチ子さんを思い通りに動かすか〟という問いに行き着く。わたしとタチ子さん二人しかいないのだから当たり前だ。
そこでわたしは『毒』の存在を逆手に取ることにした。タチ子さんが盗みを働く瞬間をスマホに録画し、それを本人に見せてこう忠告したのだ。もう二度としないで欲しい、じゃないとあなただけじゃなく遠くにいる娘さんの人生さえも終わってしまうから——。
義兄の卓郎とは奇妙な連帯で結ばれるようになった。姉の神経を一番逆撫でしているのは、もしかするとこれなのかもしれない。秘密を共有する二人が醸し出す雰囲気は、どことなく不倫をしている者のそれに似る。わたしと義兄が男女の関係があるとはさすがに思っていないだろうが、それゆえ余計に不可解で不愉快なのだろう。
何がきっかけで姉は義兄を疑うようになったのか。
なんだか私、やることなすこと自信が持てなくて——近ごろの姉は、何かにつけてこう繰り返す。過去のわたしならそんな姉を痛ましく思い、義兄への憎しみをますます募らせたのだろうが、今となってはもうどうでもいい。毒を毒と知らずそのまま放置してきた姉にも非はあるのだから。〝夫を信頼し切っていた〟とかいう、手垢にまみれた家計簿みたいな弁明は御免被りたい。義兄は良くも悪くも正直だ。具に見ていれば他に女がいることくらいすぐ分かる。
一番の問題は姉夫婦の関係が破綻することよりも、それが小織に及ぼす影響だ。いよいよとなればわたしが医師に復帰し、姉と小織を経済的に支えてもいいが、まだ当面は今の生活を続けていたい。仕方ないのでわたしは面倒だとは思いつつ、義兄にこう耳打ちした。——熱りが冷めるまで外出を控えてくれないかしら?
今のところ義兄はわたしの言いつけを守ってくれている。わたしはここでも『毒』を上手く利用することに成功したらしい。
**
「……だいぶ重症ね」
わたしは大きくため息をついてから車のエンジンを切り、運転席を降りた。道路を真一文字に閉鎖する鉄の柵に歩み寄る。わたしの肩くらいまで高さがある左右スライド式の門扉で、幾重にも絡まった鎖と大きな南京錠が牢獄をイメージさせる。
『この先冬期通行止・期間十一月一日から四月下旬まで。但し特定関係車両を除く。道東〇〇土木管理部 TEL01〇〇—〇〇—〇〇〇〇』
看板に書かれた文字の隙間から、姉の悪意が迫り上がってくるような気がした。姉は最初からこのことを知っていて、わたしを今日、わざとここまで来させたのだ。
「だいぶ、重症ね」
わたしはもう一度、独りごちた。近ごろ姉がわたしに見せる恨みがましい態度は度を越している。心に余裕がなく、やり場のない感情を妹にぶつけたくなるのは分からなくもないが、それにしてもなんと幼稚な嫌がらせだろう。姉は今や、わたしにとって一番厄介な『毒』となっている。
姉からしばらく一緒に暮らしてみないかと誘われた時、戸惑いを覚えると共にほのかな期待がわたしの中には芽生えていた。姉は罪滅ぼしをしたいのかもしれない。まだ少女だった妹をあの両親のもとに置き去りにした悔恨が、今回の同居を提案した一番の理由なのかもしれない。互いに大人になった今、わたしたちは新たな形で姉妹としての関係を再スタートできるのかもしれない——。
けれど、何もかもがもう遅すぎた。二十年という歳月は、女二人を想像以上に変えていた。ここ数ヶ月を振り返っても、わたしたちに実の姉妹らしい会話などほとんどなかった。ペンションの業務と小織の養育に関すること、これらを除いたらわたしたちに交わすべき言葉など何も残らないのだ。
「……だとしても、こんな幼稚なまねをするなんて」
本音を言えば、姉はわたしを追い出したいのだろう。でもすぐにそれをできないのはペンションの経営と小織のことがあるからだ。ひどく目ざわりな相手に依存しなければ日常が立ち行かない。心根の卑しさが露呈してしまうのは、それだけ追い詰められているという証なのかもしれない。
週に一度、わたしは地元の人に『
東京で暮らしていたわたしにとって、この土地の水は水道水でも十分美味しいと思うのだが、姉曰く、「入山の湧き水で入れたコーヒーやお茶は格別で、ペンションのお客にも大好評」なんだとか。
最初の数回は、山道に不慣れなわたしのために姉が同伴して。それ以降はわたし一人で。本来、力仕事はタチ子さんが適任なのだが、彼女はなにぶん車の運転免許を持っていない。わたしも運転はあまり得意ではなかったが、北海道特有の広くて真っ直ぐな道路に助けられ、今では逆にスピードを出し過ぎないよう気を配っている。
トランクには十二リットルのウォータータンク十個と折り畳み式のキャリーカート。道幅は山の麓に来た辺りで急に狭くなり車線も消える。山肌にへばり付くようなカーブを上り続けると、途中に採水地への入口となる路側帯がある。わたしが来るのはいつもここまでだが、山道をさらに奥へ進むと牧場があり、義兄もたびたび仕事で訪れるのだという。こんな北国の山中で家畜が越冬できるのかと疑問だったが、某大手農業法人が運営する牧場で、近未来型スマート畜産(*7)のモデルケースにもなっているというから驚きだ。
閉鎖された門扉の向こうはいかにも寒々しく、道路の右沿いは裸木が山の斜面を埋め尽くし、左は底に川筋を湛えた崖となっている。日の光が降り注いではいるが、葉緑が枯れ落ちた風景は生彩を欠き、モノクロ写真の中に身を置いているような気分になった。あと少しで、これらすべてが雪に埋め尽くされる。
〈〝消える〟と〝死ぬ〟って、同じ意味なの?〉
ふと、脳裏に聞き覚えのある女の声が響いた。いつかの、川乃真衣の声だった。
わたしと真衣の特別な関係を知る者は、当の本人たちを除いて他に誰もいない。間にいた洋介でさえ、それには気付いていなかっただろう。真衣は死んだ。新たな命を宿した身体で、全裸のまま置き捨てられたのだ。
〈あたし、殺されるかもしれない……〉
悲痛の面持ちでわたしに訴えてくる姿が思い浮かんだ。
その時不意に、背後から何かしらの気配があって、わたしは思わず身を縮めおずおずと振り返った。紺色のセダンが道の勾配をこちらに向かって上ってくる。ナンバーを確かめずとも他所から来た人間だと判別できた。この付近ですれ違う地元の車は、そのほとんどが軽トラックかSUVだからだ。
「あのーすいません、黒田遥子さんで?」
そう言って車から降りてきたのは、三十前後と思しき細身で背の高い色白の男だった。ノータイで黒のスーツを着ている。やはりわたしの判断は正しかったようだ。この土地の人間は、たとえ公務員でも革靴で山に来たりはしない。なぜわたしの名前を? と警戒心を露わに見つめ返すと、男は名刺を差し出してきた。
「私、竹本と言います。四谷警察署の。あのー以前、電話でお話ししたことがあったと思います。今日も朝から黒田さんの携帯に何度かお電話したのですが、通じなくて……。先ほどペンションの方に伺いましたら、黒田さんはこちらだと聞いたので、時間もあまりないですし、思い切って直接来ちゃいました」
男は頭をかきながら軽く頭を下げた。へえ、この辺はもう通行止めになるんですね。僕も一応道産子なんですけど、道東はあまり馴染みがなくて。何しろ親の都合で小学校から内地でしたからね……門扉の方を見やって落ち着きなく喋り続ける。電話でやり取りした時の印象よりもずいぶん物腰が柔らかった。いや、頼りないと言った方が相応しいだろうか。語尾を一々引き延ばす喋り方は刑事というより、業績の良くない営業マンを思わせた。
「わたしに何の用で?」
ナイロンジャケットの襟をかき合わせるようにしながらわたしは訊ねた。
「あ、ちょっとお話をお聞きしたいと……」
「捜査はもう、打ち切られたって聞きましたけど?」
「捜査、ですか?」
「洋介のことを訊ねに来たんじゃないんですか?」
「ヨウスケ?」
「佐藤洋介です。車の事故で死んだとあなたが連絡くれたじゃないですか」
「ああ、佐藤、洋介。なるほど、なるほど」
時間がないと言う割に、男の話はだらだらと要領を得ず、いつまでも本題に入らなかった。
「あのー黒田さん、なんで捜査が打ち切られたことをご存知で?」
「中西さんて探偵の方から聞きました。ペンションのお客だったんです」
「ふむふむ。あの、ちなみにその中西さんが宿泊してった日、いつだか覚えてます?」
「竹本さんから電話連絡があって、それから数日後の平日だから……確か木曜日だったと思います」
「ということは十月の十九日ということでいいでしょうか?」
わたしは仕方なく車のドアを開け、助手席のバッグからスマートフォンを取り出して、スケジュール帳のアプリを開いた。
「間違いないと思います」
その日はタチ子さんが午後から半休、姉が小織の乳児検診に出かけたのでよく覚えている。
「ペンションのパソコンにも宿泊客の記録が残ってるはずです。確認しましたか?」
竹本は、あーそうでしたね、効いてみるべきだったかなーと首を仰け反らせ、再び頭をポリポリと掻いた。
「ただ、本日は公式な職務でお伺いしたわけじゃないから、宿泊客のことを訊ねても教えてもらえたかどうか……あくまで僕個人の問題というか、調査というか、お願いなので」
男が警察手帳ではなく名刺を使ったのはそういうことか。
「で? 結局何を知りたいんですか?」
わたしは語気に苛立ちを込めた。
「実は、先ほど話にも出た中西さんなんですが、こちらのペンションに宿泊して以降、消息が途絶えてるんです」
耳元を冷たい風が行き過ぎて、辺りの木々が微かに揺れた。上空では鳥が二羽、ゆっくりと横8の字を書くように旋回している。
「先月末に、中西さんの奥さん——いや、もう離婚されているので正確には『元奥さん』ですがね——が『中西と連絡が取れない』と署に来られましてね。中西さんは弊署に長らく勤務していた過去があり、僕はじめ後輩刑事をよく自宅に招いてくれたりもしたので、複数の署員がその奥さんとは顔馴染みなんですよ。で、そのせいか、正式な行方不明の相談というよりは内々の愚痴をひたすら垂れ流しているような有様でして。『あの男の安否なんかどうでもいいから、子供の養育費を早く払ってほしい!』と。離婚したとはいえ一度は伴侶となった相手なのにと、僕は少し哀しくなりましたけどね……。でまあ結局は『もう少し様子を見てみましょう』とこちらがなだめすかす形でその時は終わったんです。
でも、それからさらに十日が過ぎて、いまだスマホのGPSも探知できない状態なんでね。さすがにこれはマズいんではないかと。中西さんは、僕が刑事になりたての頃バディとしてついて下さった方で、刑事の仕事の基礎はすべて中西さんに叩き込まれましたし、失敗の尻拭いも数えきれないくらいしていただきました。こういう時こそ恩義に報いなければ! と思いましてね。最近休日を利用して個人的にあれこれ調べるようになったんですが、最後に中西さんの消息を確認できたのが北海道で、しかも以前電話したことのある黒田さんが働いてる場所でしょう? 奇遇なこともあるもんだと驚きましたよ!」
二言三言で済む内容にダラダラと贅語を弄し、しかも警察内部の出来事を平気で垂れ流す。中西の手ほどきで仕事を覚えるとこういう刑事ができあがるというわけか。
「仕事でもないのに、わざわざ北海道まで?」
若干の皮肉を交えてわたしは訊ねる。
「いやいや、昨日こっちで親族の結婚式があったものですから。で、ついでと言ってはなんですが、今朝早く起きてここまで車を走らせたわけです」
男はジャケットのポケットから白いネクタイを取り出してニッと歯を見せた。前日使用した礼服を、今朝再び着用してこんな山奥まで聞き込みに来る。この後もこのまま飛行機に乗り、東京へと帰るのだろう。ずぼらで実直なぶん、接し方を誤るととても厄介な相手だと察した。
「慶事の折に行方不明者の捜査だなんて。結婚された親族の方の幸せにケチがつかないといいけれど」
竹本という男には、相手の底意を慮るという機能が完全に欠落しているらしい。わたしの嫌味をまるでそうとは受け取らず、お気遣いありがとうございます、黒田さんて優しいんだなあ、へへへっ……と頭を掻いてはにかんでいる。空疎なやり取りに終止符を打つべく、わたしは口を開いた。
「要は、十月十九日、ペンション宿泊時の中西さんについて、わたしが覚えていることをお話しすればいいんですね?」
わたしはその日の中西に関して自分が記憶していることを、できるだけありのままに語った。途中、竹本が口を挟みあれこれと質問をしてきても事実のみを応え、触れたくないことには口をつぐんだ。雉も鳴かずば撃たれまい。一度の嘘のために、その後何倍もの嘘を重ねる労力など使いたくなかった。だいいち職務質問ではないのだ。『5号室での密談』に関しては、わたしはいっさい語らなかった。
「ふむふむ、ということは中西さんは亡くなった佐藤洋介さんについてあれこれ調べていたわけですね。何のためになんでしょう?」
「さあ……」
わたしは首を横に振った。
「気にならなかったんですか? 佐藤さんは黒田さんの恋人だったんですよね?」
「そういうことって質問したら応えてもらえるんですか? 探偵って、仕事をするうえで極秘事項がたくさんあるんでしょう?」
「まあ……そうですね。で、中西さんは目的が果たせたようでしたか? えっとつまり、欲しかった情報を黒田さんのお話から引き出せた感じでした?」
「それはどうでしょう? わたしが話したことなんて、元刑事の探偵さんならすぐに調べがつきそうな内容ばかりですし……」と、そこでいったんわたしはうつむき、それから思い付いたように声に勢いをつけた。「それはそうと、竹本さん。わたしの方からも少し質問させてもらえませんか?」
竹本がメモを取る手を止める。
「なぜ警察は、洋介のあの一件に関して捜査を打ち切ったんですか?」
竹本の目がいかにも虚を突かれたというように大きく見開かれ、ゴクンと生唾を飲む音が聞こえてきた。わたしは間髪を入れず言葉を繋げる。
「しかもそのことを、わたしはなぜ、今は刑事じゃない中西さんから伝え聞かねばならないのでしょう? 洋介の部屋にあった遺体っていったい誰なんですか? 自殺? 他殺? それとも事故死? 竹本さん、あなた先ほどわたしに言いましたよね? 『気にならなかったんですか? 佐藤さんは黒田さんの恋人だったんですよね?』と。ええ、その通りです。洋介は生前わたしの恋人だった人物で、彼に関することならわたしはなんでも知りたい。だからぜひ教えて下さいよ、事件の真相を」
我ながら、芝居がちと陳腐過ぎたか。しかし、相手を黙らせるには十分だったらしい。竹本は素早いまばたきを繰り返し、歯切れの悪い口調で、捜査の詳細は口外できないものですから……云々。まったく予想通りの反応で、しまいにはこれ見よがしに腕時計をチラ見する始末。
門扉の内側に見覚えのあるバンが見えたのは、ちょうどその時だった。水色の車体側面に『ハンスケ水道』と書かれている。今の時期、この地域に住む人々は、来たる冬に備え水回りの点検や補修に余念がない。以前ペンションでも大晦日に水道管が破裂したことがあったらしい。飲み水はストックがあったから良かったけど、生活用水は修理が終わるまで雪を溶かして使ったんだよ、宿泊客がいなかったのがせめてもの救いだったね——そんな風に話すタチ子さんの物言いは、どこか自慢げだった。
バンから降りてきたのは、小柄で痩せている初老の男だった。足腰に問題があるのか、歩き方に少し癖がある。「おーい、そこのお二人さん。ちとこっちに来てくれー」とこちらに手を振るので、わたしと竹本は一瞬顔を見合わせ、それからどちらともなくおじさんの方に近付いた。
「この門、頑丈過ぎてやたら重くてね。開け閉めがほんと面倒でたまらんでね」
おじさんは頭のキャップをクルッと回転させてつばを背中側にし、南京錠に鍵を差し込んだ。どうやら門扉の開閉を手伝えと言っているらしい。
「お! 日ハムファンですか? さすがは道産子!」
竹本が急に親しげになる。最初は何のことを言っているのか分からなかったが、男二人のやり取りからおじさんの被っているキャップが北海道日本ハムファイターズのものなのだと推測した。そういえば前側中央に『F』の文字があった。
野球のことはまるで知らないわたしをよそに、男たち二人はチームの戦績や各々の選手のプレー内容などを熱心に語らい、そうしながらも手足をてきぱきと動かした。刑事としてはまるで頼りない竹本が、この手の作業はずいぶんと要領がいいことに驚いた。職業の選択を誤ったのではないかと、わたしは本気で思う。
「よーし、終わった。ご苦労さん、あんがとさん」
おじさんが軽く二、三度手を叩き、満足気な笑みを浮かべた。見れば、水色のバンはいつのまにか門扉のこちら側に出て、紺のセダンに横付けされている。わたしの手などいっさい必要とせず、作業は完了したようだ。
「ところであんたら、こんなところで何してんの? カップル? 人目を忍んでデートかい?」
おじさんは車の中から缶コーヒーを三本取り出し、そのうちの二本をわたしと竹本に手渡した。いやあ、そんな、参ったなあ……などと照れ笑いする竹本を尻目に、わたしは大きく首を横に振った。
「わたし、町外れのペンションで働いてて、お客さんにお出しするお茶のために入山の水を汲みに来たんですけど、道路が通行止めで……」
おじさんは、ほおと軽く頷いてから、
「そりゃ残念だったね。この辺は早いと十月の後半、遅くても十一月には山道が閉鎖されるんだよ。お嬢さんは他所の人かい? 地元民なら皆知ってるけどね。回覧板にも告知があるし」
と眉を八の字にした。
地元民なら皆知っている——わたしは姉の悪意を再確認し、それから気を取り直しておじさんに訊ねる。
「ハンスケさんは、今日、何で閉鎖されてる門の内側に?」
「この奥に牧場があるの知ってるかい? 毎年この時期になると、水道や排水の状態を見にくるんだよ。雪が降り出すと、立ち入るのもなかなか厄介だからね。建物の規模が大きいもんだから、近隣から助っ人も頼んで今日で作業三日目。明日でやっと終わるかな」
「『ハンスケ』さんて、カッコイイお名前ですね」
竹本が横から入る。
「ああ、これ、苗字ね。オレの下の名前はカイジ」
そうだったんですか⁉︎ とわたしと竹本の声が重なる。
「で、あんたは彼氏でもないのに何でこのお嬢さんと一緒なの? 同じペンションの仕事仲間って感じでもないね?」
「刑事さんなんです」
仕方なく、わたしが代わりに応えた。竹本に的外れな説明をされて、変な誤解を招きたくない。今後もしばらくわたしはこの狭い町で暮らさねばならないのだ。
「先日ペンションに宿泊したお客さんがその後行方不明になってしまって、その捜索のために聞き込みに来られたんです」
おじさんは、ほおと感心したように唇を突き出す。
「てことは、オレは職務遂行中の刑事さんを煩わせたわけか。そうとは知らず、こりゃまたずいぶん失礼なことを……」
「そんな、めっそうもない」
竹本は、急にかしこまったおじさんの態度に恐縮したようだったが、ふと顔を引き締めてこう訊ねた。
「あの……先ほど、イリヤマ? とか言ってましたが、そこっていったいどんな場所なんですか?」
おじさんは「イリヤマ?」と顔をしかめ、それから少しして「ああ入山ね」と小刻みに頷いた。
「入山ってのは、この道をもう少し奥に入ったところにある湿地でね。地元民以外ほとんど知らないから人の出入りが少なく、太古からの希少な蘚苔類やシダ類が原生のまま残っている国の自然保護区なんだよ。たまにどっかの大学の生物学だか環境学だかの研究チームがやって来たりもするけど、普段はほとんど人気がない。湧き出ているのは長い時間をかけて森の土壌に濾過された雪解け水で、口当たりのまろやかなとても美味しい水なんだよ」
なるほど、だからわざわざここまで水を汲みに来たんですね……チラリと視線を送ってきた竹本に、わたしは頷く。
「お嬢さん、仕事だとはいえ、これからの時期、入山には近付かん方がいいよ」
おじさんの声が急に固くなった。
「近付こうにも道路が閉鎖されてますし。今日は手ぶらで帰るしかありません……」
「これから霊野に行こうとしてるんじゃないんかい?」
「『クシビノ』……ですか?」
おじさんは、なんだ知らないのか? とでもいうような拍子抜けした顔になり、それからふと視線を手元の缶コーヒーに落とした。プルトップを開け、縦じわのある首をのけぞらせて中身の液体を口の中へ流し入れる。森の空気に缶コーヒーの人工的で甘ったるい匂いがふわりと絡みついた。
おじさんが語ったのは、およそ次のような内容だった。
——あそこには
入山にはそうした伝承があり、山岳信仰の聖地として古から近隣集落の人々に崇められてきた。殊にその湧水は
しかし、神と魔は紙一重。人々は
——入山への入り口は二つ——
一つ目は、国道を上り途中で脇に入る『
そして二つ目が、裏道を行く『
——魔神『ラマオタリ』——
〈その昔、女神・トットカムイ(*8)が木々の陰に忍んで沐浴をしていると、たまたま茸狩りに来ていた村の青年がそこに踏み込み、女神の裸を認めてしまった。激昂したトットカムイは魔神・ラマオタリに化け、男の心からすべての記憶を奪いそれを喰らった。前後不覚となった青年は自分がどこの誰かも分からぬまま森の中を彷徨い歩き、やがて行き倒れて獣の餌となった〉
『ラマオタリ』はアイヌ語で『
【訪れた者は必ず鈴を鳴らし、尊崇の念と共に「今からここを通らせていただきます」と奏上するように】
と触書が建てられている。
「『
話を聞き終えた竹本が鼻に皺を寄せて周囲の森林を
「お嬢さんは
先ほどと同じ質問をしたおじさんに、わたしはあえて大きく首を横に降った。
「そんな場所があること自体、知りませんでした」
「近付かん方がいいよ。これからの時季は特にね」
「季節、が関係するんですか?」
「神話の舞台設定が秋口でね。茸、木の実、山菜……山の幸が一年でも最も豊穣な時節ゆえ村の青年は森に分け入り、運悪く
なにもかも根拠のないこじつけばかりだな、と半ば呆れる。それが、神話というものが往々にして持つ特性でもあるのだけれど。
「そういう迷信て、今でもこの辺りに根付いてるんですか? わたし、この土地に来てもうすぐ半年になるんですけど、
「迷信と言ったらそれまでだけれどね」おじさんの目が瞬時に深みを帯びる。「実際、この時季、
上空を旋回していた鳥が、突然わななくような声を上げた。皆が同時にビクリとして、視線をそこへ向ける。呼応する二羽の啼き声は妙にもの寂しく、決して楽しい相談をしているのではなさそうだ。
「たとえば、これまでにどんなことがあったんですか?」
竹本が秘密の相談でもするように背を丸めた。おじさんは手元の空き缶に目を落とし、気まずそうに唇を舐めてから、あまり気分のいい話じゃないけどね、と話しはじめた。
「オレがこの町に移り住んでからもう四十年になるけれど、その間、
「湧水の噂を聞いた観光客が、軽い気持ちで森に入ったはいいものの、道に迷って出られなくなってしまった……とか? 携帯の電波も入らないだろうし」
ペンションの宿泊客に水汲み場を訊ねられた時のことを思い出し、わたしは言った。
「自殺目的って筋もありますよね?」
竹本が後に続く。
おじさんはわたしたち双方に大きく頭を振った。
「
「なんで冬の間ずっと遺体が発見されないんでしょう? 途中、車が乗り捨ててあったり、何かしら人の入った痕跡が残ると思うのですが」
竹本が刑事らしい見解を述べる。
「
「うーん、なんだかおかしな話だなあ。遺体がそんなにあがるなら、道警と地域が連帯して警邏なり何なり対策を強化しそうなものなのに」
「人は忘れるもんなんだよ、刑事さん」おじさんは目尻を下げた。「どれほど衝撃的な事件も、時が過ぎれば人々の記憶から薄れる。最初毎日だった周辺パトロールも、三日に一度になり、週に一度になり、やがて月に一度行くかどうかも怪しくなっていく。そして
それからは三人ともしばらく黙って、それぞれの想いに耽っていた。静けさの中に身を浸していると、森の空気がいっそう深みを増すように感じる。咲き乱れる花もなく、木々の葉もすっかり落ちてしまったというのに、漂ってくるこの甘い薫りは何なのか。風に紛れながら鼻腔の粘膜へとろりとまとわりついてくる香気。もしかすると『
「あ、落ちる……」
最初に沈黙を破ったのは竹本だった。見ると、空の鳥が互いを抱き合うような格好でスルスルと落下してくる。際どいと思ったところで、二羽とも再び上昇した。
「中西さん、無事だといいですね」空を見上げたままわたしは言った。「森の中にでも迷い込んで、魂抜かれてないといいけど……」
「あの人が湧水なんかに興味持つかなあ? 求めるなら水より圧倒的に酒の方でしょう」
竹本が苦笑する。
「もし、あの後本当に森に入って遭難してるんだとしたら、事態はかなり深刻だわ。チェックアウト時の服装は全然山仕様じゃなかったし、食料だってろくに携帯してないはず。一刻も早く見つけ出してあげないと、助からない……」
「いずれにせよ雪が降る前だよ。雪が降ったらもう、何もかもおしまいだ」
おじさんの口調はあくまで穏やかでありながら、どこかにひどく冷徹な響きを含んでいた。
「自分がどこの誰で、なぜそこにいるのかも分からぬまま、出口の見えない樹林の迷路をひたすら彷徨い歩く。飢え、寒さ、闇、死への恐怖……いくら裸を見られたのが許しがたいからといって、
中西はすでに死んでいる。そんな空想が、音もなく降り出した雨のようにわたしの心を濡らした。経過した日数からいって、森の中の死骸はすでに腐敗が進んでいるに違いない。わたしになど会いに来なければよかったのだ。そうすれば、わざわざこんな辺鄙な場所で救いのない死に方をせずにすんだものを。
〈アンタ、おっかねえ人だな〉
耳の奥で、中西の声がよみがえる。
〈なんか隠してるだろ? それにいざとなれば、殺しくらい平気でやる。俺には分かる。アンタ、そういう人間の目をしている〉
わたしが上空の鳥たちから視線を外し、目を細めたのはその時だった。霞んだ宙の一点に、輪郭のあやふやな白い物体が複数浮遊しているのが見える。はじめは植物の綿毛か、細かい羽虫の類かと思ったが、すぐにそのどちらでもないと察した。上下左右どの方向にも動かず、同じその位置にへばり付いているかのような滞空。じっと見つめていると、視覚の遠近に緩みが生じ、それが遠ざかっているのか、近付いてくるのか分からなくなった。
「雪?」
わたしは思わずつぶやいた。するとその声を聞き届けたように、それまで微動だにしなかった浮遊体がこちらに向かってするすると空間を伝い落ちてくる。手のひらを差し出すと、それらはわたしの体温に触れるか触れないかのところでじわりと霧散した。まるで音のないささやきが、身体の内側に染み込んでくるような感じだった。
あの時と同じだ、と思った。あの時の白い光が、再びわたしのもとにやって来たのだと。
「安心なさいな。予報だと雪はまだ先だよ。オレの膝も痛くない」
隣で諭すようなおじさんの声がした。
「僕も古傷の疼きで雨雪や気圧の変化が分かるんですが、今のところ何も感じないですね」
竹本がおじさんに同調する。肩を回したり、投球のポーズをとったりしながら、高校の時野球で痛めちゃって、と舌を出す。
「……すいません、わたし、そろそろ帰らないと」
ひどく唐突な終わらせ方だった。不躾な奴だと思われたかもしれない。けれどわたしには、一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちが、他のどんなことよりも
「ちょっと待ちなさい、お嬢さん。ずいぶん青い顔をしているが、どこか具合でも……」
おじさんの声をお辞儀で遮り、そのまま足早に車に戻る。シートベルトを着ける手間さえもどかしく感じながら、脳裏でもう一人の自分がこう問いかけてくるのが聞こえた。——わたしはいったい、何に怯えているのだろう?
エンジンをかけサイドブレーキを下ろしたところで、ウインドウ越しに竹本が近付いてくるのが見えた。どうやらわたしに向かってなにか叫んでいるらしい。振り切ってギアをドライブに入れ、アクセルを踏んだ。車体はUターンの強い遠心力で一瞬ブレた後、すぐに正しい体勢を取り戻して元来た道を行く。わたしは前しか見ていなかった。
(*7)IT技術やロボット技術を活用して生産性の向上や作業負担の軽減を図る新たな畜産システムのこと。
(*8)トットとはアイヌ語で乳房のこと。
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