——十一月七日(火)午前一時十二分——

 姉はわたしが考えていたほど、幸せではないのかもしれない。

 そんな想いに囚われるようになったのは、わたしが北海道に来て二月ほど経った頃。夏の行楽シーズンもそろそろ終わりを迎える、八月後半のある朝の出来事がきっかけでした。

 客室がわずか五つという小さなペンションでも満室になった日の翌朝はかなり慌ただしい。それぞれのお客がそれぞれのタイミングで朝食をとったりチェックアウトをしたりするので、まだ仕事に慣れきっていなかったわたしは気力も体力もすり減らしながら、毎日をなんとかやり過ごしていました。

 フロントには主に姉が立ち、食堂はわたしとタチ子さんで回す。タチ子さんは六十絡みのパートのおばさんで、ところどころ仕事の雑さが目につきますが、姉が言うには「ペンション開業時からずっと苦楽を共にしてきたかけがえのない存在」なんだとか。小織を妊娠中もペンションはほぼ二人で切り盛りしてきたというのですから、思い入れが強くなるのも当然かもしれません。

 フロントが何やら騒がしい。そう気づいたのは、その日の朝食提供時間が終わりを迎え、ようやく一区切りついた時でした。

「ママ、さくらんぼのヘアピンがない! わたしのさくらんぼ、どこにいったの⁉︎」

 見ると、チェックアウトの順番待ちをする人々の中で、歳の頃五つか六つ、おそらくはまだ就学前の長い髪をした女の子が叫んでいます。よほど気に入っていた物なのでしょう。震える声はいかにも悲愴感に満ちて、つぶらな瞳からぽろぽろと涙を流す姿は、見ているこちらまでが身につまされる思いがしました。少女のために何かできることはないか。気遣わしげな視線を向けたり、自分の周囲を探したり、小さなため息をついたり、そこに居合わせた人たちは皆、それぞれのやり方で彼女に寄り添おうとしていましたが、その甲斐も空しく、ヘアピンは最後まで見つかりませんでした。

 楽しかったはずの旅行に、傷がついてしまった。しゃくりあげながら母親に手を引かれる小さな背中を、わたしはなんとも残念な気分で見送りました。その数日後、少女のヘアピンが意外な場所から出てくることなど、この時は想像だにしないで。

 変に気を回したのがよくなかった。あの日、玄関の棚に置き忘れてあったタチ子さんのエプロンなど、そのままそこに放置しておけばよかった。どうせならついでに、と自分のと一緒にそれを洗濯室まで持っていったばっかりに、わたしは開けなくてもいい〈扉〉に手をかけ、知らなくてもいい事実をそこに見る羽目になってしまったのです。エプロンのポケットを確認したわたしの手が掴み出したのは、さくらんぼをかたどった小さなヘアピンでした。

 自分自身を説き伏せるように、なぜこれがタチ子さんのエプロンから出てきたのかと、もっともな理由をいくつか想定してみました。あの一家が帰った後タチ子さんがそれを見つけた。同じようなヘアピンをタチ子さんも持っていた。少女に送ってあげようとタチ子さんが新たにそれを購入した——わたしは首を横に振りました。もしこれらのうちのどれかが正解だったとして、お喋り好きのタチ子さんがわたしたちにそのことを告げないわけがない。

 それに——と、わたしは自分の記憶をたどりました。タチ子さんはあの時、どこにいたんだろう? 

 思い出せないのです。あの朝、ふと気づくとタチ子さんは食堂からいなくなっていた。フロントで少女が泣いていた時も、タチ子さんの姿をわたしはそこに見ていない。いつもなら、騒ぎを聞きつけるやいなや、真っ先にそこに駆け寄るのがタチ子さんなのに。

 しばらく考えて、わたしはエプロンを元の通りに戻しておくことにしました。胸の内に芽生えた疑念が、単なる取り越し苦労で終わりますように。そんな願いを込めて。

 できることなら、姉が長年信頼をよせていた人物を、わたしも信じたかった。だからその翌日、同じエプロンを身に着けたタチ子さんがポリバケツにを捨てるのを確認した時は、深い虚無感に釘付けにされ、しばらくそこを動けなかった。後始末を終えたタチ子さんは、どこか晴れやかに、今にもスキップしそうな足取りでゴミ置き場から去っていきました。その姿を高みから見つめる目があることなど、知りもしないで。

 タチ子さんは重度の盗癖症クレプトマニアでした。しかも、おそらくは前科持ちの。

 以前から変だとは思っていました。普段は来客があれば満面の笑みで接するのに、それが地域巡回の警察官だと知るととたん表情を固くし、決して応対しようとしない。娘とは遠く離れて、縁もゆかりも無い土地に一人暮らし。盆や正月もどこにも出かけないし、また訪ねてくる人もいない。何より、あれほどお喋りな人が、自分の前歴についてはほとんど語らない。たった一個のヘアピンが、それまでわたしの中に散らばっていた小さな違和感を結びつけ、重い真実となって目の前に立ちはだかりました。

 これまで犯行が明るみにならなかったのは、タチ子さんの手捌さばきが妙技と呼べるほどに巧みだったのと、ターゲットにするのがどれも取るに足らない安価な品々ばかりだったからなのでしょう。使い捨てライター、ハンカチ、乾電池、爪切り、チューインガム、旅行用シャンプーセット……百円ショップでも手に入るこれらの物の一つや二つ失くなったところで、大騒ぎする人間などまずいない。さくらんぼのペアピンは、タチ子さんにしては珍しい誤算だったに違いありません。

 犯行の緻密さの割に、盗品の保管はひどく杜撰でした。タチ子さんは盗んだものを毎回エプロンのポケットに入れたままにし、翌朝、思い出したようにそれを捨てる。それはさながらフィッシングのキャッチ&リリースのようで、タチ子さんの目的が物ではなく盗みそのものであることの証左でもありました。無論、タチ子さんの行いはフィッシングの場合と違い、他への生産的還元が何もないのですが。


 姉を取り巻く『裏切り』は、これだけにとどまりませんでした。

 秘密や嘘というのは、思いがけない場所とタイミングでこちらの都合など関係なく発覚してしまうもの。タチ子さんの一件でそれは重々承知していたはずなのに、それでもわたしは考えずにいられない。なぜわたしは、あの日、あの時刻に、あの場所へ行ったのか。なぜこのわたしが一度ならず二度までも、真実を明かす〈扉〉を開ける羽目になってしまったのか。

 月一回のR先生の診察は、わたしにとってちょっとした小旅行のようなもの。朝方家を出て最寄りの駅まで車で向かい、電車に揺られること約三時間半。移動時間の長さもさることながら、それ以上に都会の雑踏を歩くことがわたしにはひどく骨が折れます。東京と比べたら遥かにマシなのに、今はもう、姉のところでの生活が身体に馴染んでしまったのでしょう。鳴り響く電子音に曝されつつ人混みとコンクリートの中を掻い潜ることに、心が削られる思いになるのです。

 あの日は特に体調がすぐれず、診察を終えて地下鉄の駅に向かう途中、不意にふらつきを覚えて歩道脇のベンチに腰を下ろしました。

 ミネラルフォーターで喉を潤し、目を閉じて鼓動のの乱れが治るのを待つ。次第に喉の詰まりが取れ、視界が焦点を結びはじめると、そこがホテルのエントランスにつづく前庭なのだと分かりました。小さな植え込みとベンチを交互に並べた休憩スペース。ホテルの規模そのものはさほど大きくありませんでしたが、どこか木の温もりを感じさせる洗練されたデザインで、一階には小洒落たカフェも入っています。平日の午後のためか店内に客の姿はあまりなく、いかにも居心地が良さそうな雰囲気に誘われて、わたしはそこでしばらく休んでいくことにしました。

 案内された席に座りふと横を見ると、わたしのいる場所から十数メートル離れたレセプションでクラークの応対を受けている、一組のカップルが目に留まりました。

 ずいぶん身体の大きな男性だな、というのがまずはじめの印象。よく見れば、隣の女性もスラリとした長身でハイヒールまで履いているのに、それをまるで感じさせない広くて厚みのある背中。二人が夫婦でないことは一目瞭然でした。しかも、女性の方が男性に比べてかなり若い。親子ほどの年齢差でありながら決してそうは見えないのは、双方の身体が触れ合う時にちらりとほのめく、どこか熱っぽい気色けしきのせいなのでしょう。

 くだらない——思わずそう鼻白んで、ウェイターを呼びカモミールティーを注文しました。用事が済んだのか、件の男女が振り返ってこちらに向かってきます。そして、前を横切るその男とふと目が合った瞬間、わたしは思わず息を詰めました。それは、実習のため大学に泊まり込んでいるはずの義兄だったのです。さらに驚いたことに、義兄はそれがわたしだと分かっても顔色一つ変えず、まるで勝手知ったる腹心と盃でも酌み交わす時のように、その口もとに軽い笑みをにじませました。

 髪を整髪料で固め、ヘリンボーン柄のダークブラウンのジャケットを身につけたあの男は、一体誰だったのか。あれはわたしの見間違いではなかったか。カップから立ち上るお茶の香りの中で、わたしは黙考しました。でも、そう長く時間が経たぬうちに、義兄が再び現れたのです。

「奇遇だね」

 にこやかな表情で椅子を引き、義兄はわたしの前に腰を下ろしました。 

「なんだか腹が減ったな。ここのクラブハウスサンドイッチ、美味いんだよ。ヨーコちゃんも食べない?」

 ヨーコちゃん? わたしは奥歯に力を込めて義兄を見ました。はじめて名を呼ばれるのがこのタイミングで、しかも妙に甘ったるい言い方だったことが癇に障りました。

「なんでこんなとこにいるんですか?」

 少し前のめりになって、わたしは訊ねました。

「ヨーコちゃんこそ、なんで?」

 義兄は薄らとぼけたような顔をしています。

「今日、病院の日だったので」

「ああ、札幌まで通ってるんだっけ? ご苦労さま。体調は良くなったの?」

「嘘だったんですね」

「何が?」

「仕事が忙しくて家に帰れない、とか」

「嘘なんかついてないさ。実際にそういう時もある」

「今日は大学で実習があるって聞きましたけど?」

 義兄はすぐにはそれに応えず、手をあげてウエイターを呼びました。クラブハウスサンドイッチのセットで飲み物はコーラ。

「『実習のため数日大学に泊まり込む』と言ったんだ。今日がその日だとは言ってない」

「そういうのって屁理屈っていうんじゃないです?」

「おいおい、どうしたんだよ。いきなり現れたかと思えば、そんな怖い顔して……」

「いきなりって、それはこっちのセリフです」

 わたしから姉を奪ったのは、こんな男だったのか。こんな男のために、少女期のわたしは胸をつぶされるほどの悲しみと絶望に打ちひしがれたというのか。吐く息が震えてくるのを抑えることができませんでした。

「卓郎さんと交わす最初の会話が、まさかこんな形になるなんて。意外にお喋りなんですね。家にいる時は寡黙なのに。それに今日はすごくオシャレ。つなぎ姿しか知らなかったから正直ビックリです」

 わたしは『ヨーコちゃん』のお返しとして『卓郎さん』の部分をわざと際立たせ、変に間延びした嫌味な話し方で相手を迎え撃ちました。お前のことを誰が『お義兄さん』などと呼ぶものか。そんな気持ちを込めて。

 男はそんなわたしの心の機微などまるで気づかないようで、不意に一言「ちょっと失敬」と断って手持ちのバッグからインスリンの注射器を取り出すと、なんの躊躇もなくいきなり腹部の一部を露にしました。毛むくじゃらの皮膚に一針注入される様子を見て、こちらは背筋が怖気立ちます。

「本当はもっと早いタイミングで打たなきゃダメなんだけどね。あ、こんなの〝釈迦に説法〟か。ヨーコちゃん、ドクターなんだもんな」

 運ばれてきた料理を受け取りながら、男ははにかむような表情を浮かべる。

「糖尿病の人とは思えないような食事ですね」

「手を伸ばせばそこに美味しいものがあるのに、なんで我慢するの?」

 義兄はサンドイッチを手にしながらヘンテコな置き物でも見るようにわたしを一瞥すると、その後すぐにニンマリと表情を変え、大口を開けてそこにかぶりつきました。パンの間から肉汁が滴り落ちて、毛の繁った太い指を汚す。装いをどんなに変えても、爪だけは普段ツナギばかり着ている男のそれでした。

「獣医ですよね? 普段自分が診てる動物にも、同じように好き放題餌を与えてるんですか?」 

 周囲の評判では、義兄は非常に有能な獣医で通っていました。

「そういう考え方って自分を窮屈にするんじゃないかな? 自分とそれ以外とをどうして一緒くたにするの?」

「……だから他人がどう思おうと、浮気するのもこちらの勝手、って言い分ですか?」

「浮気? 変な言葉だよなあ、浮気って。別に浮ついた気持ちでやってるわけじゃないのに。自然界見てもそうだろ? 交尾って実は命懸けの行為。終わった途端、そのまま息絶える生物がどれほどいるか。言うなれば、一回のその瞬間のためだけに彼らは生まれてきたようなもんさ」

「人間と動物は違うでしょう?」 

「ヨーコちゃん、ついさっき、動物を引き合いに出してオレの食事に難癖つけなかった?」

 テカった唇がストローに吸い付き、コーラを飲み下すゴクゴクという音が聞こえる。

「動物の交尾は生殖、つまり自分の遺伝子を後世に残すという大義があるでしょう? 人間がいたずらに快楽を貪るのとはぜんぜん意味が違うわ」

「大義……大義ねえ……」

 サイドのフレンチフライに、それが見えなくなるほどのケチャップがドボドボとかけられる。義兄はスプーンとフォークを操ってそれを二口ほどで平らげると、後をこうつづけました。

「ヨーコちゃん、サムライみたいだね。タ・イ・ギだなんて。でも大義ならあるよ。オレにも、オレに抱かれる女たちにも」

「女たち?」

 いったい何人の女とタ・イ・ギのある関係を結んでいるというのだろう。おさまったはずのめまいがぶり返してきそうでした。

「雄からしたら、たくさんの雌と交尾した方が自分の遺伝子が存続される確率は高くなる。雌からしたら、より優秀な遺伝子を持つ子を孕みたい。あらゆる生物の根源的な欲望だろ?」

 髭に覆われた口元をペーパーフキンで拭いながら、義兄は淡々とそう説きました。テーブルの端に押しやった皿には、サラダだけが手付かずのまま残されています。

「もしかして、他所に作った子供がいるんですか?」

「いないよ。だってオレ、男性不妊だし」

 めまいがますますひどくなってくる。わたしは姉の夫であるこの男と、いったい何について語っているのか。

「不妊で子供が作れない人が、多くの女性と交わる大義を〝自分の遺伝子を後世へ残すため〟とするのは、無理があるんじゃないですか? 整合性がまるで取れていない気がするんですけど」

 会話の流れがおかしい。これではわたしが相手の肉体のごくデリケートな部分を突き、苛んでいるように聞こえます。解しようによっては〝生殖が目的なら浮気もあり〟と言っているようにも。

「テレゴニー」

 男は低くつぶやいて、目を細めました。テレゴニー——女がある男とセックスしてその精液を体内に受けると、その後別の男との間に生まれた子供に前の男の遺伝的特性が引き継がれるというもの。

「そんなもの、科学的な根拠はないんでしょう?」

「科学的な根拠が立証されないものは全部デタラメなの? それに自然界では、テレゴニーを裏付ける事例もちらほら報告されてるんだよ。たとえば、『ハエの子供の体の大きさは、母親が最初に交尾した雄ハエによって決まる』というのはすでに有名な学説(*5)。マイクロキメリズム(*6)という現象を見てもテレゴニーは完全否定できないよ」

 この手の話を持ち出されたら、わたしは口を噤むしかない。の存在も、科学的筋道では説明がつかないのだから。

「自分の造精に問題があることを知った時は、そりゃショックだったね。『お前は男として不良品だ』とレッテルを貼られたようで。でも、ある頃から気づいたんだ。ひょっとしたらオレは、雄としてものすごく有能でしたたかなんじゃないかって。だって、オレの遺伝子を継承した子供を別の男に苦労して育てさせることに、秘密裏で成功しているわけだろう? コスパの良さハンパないじゃないか! とんでもなくズルくて嫌なヤツ。でも、自然界ではそういう者が勝つんだ」

「妻のことはどうなんです? 大事じゃないんですか?」

「大事だよ。それに大事にしてるよ」

「ぜんぜん分からない。卓郎さんが今話してることのどこをどう汲み取ったら、妻を大事にしてることになるのか」

「嫌だな、ヨーコちゃん、オレとあいつの間には小織がいるじゃないか。これがどれくらい特別なことか分からない?」

 義兄は話の途中で突然後ろを振り返り、ウエイターに向かってコーラの追加注文をしました。

「オレ。不平不満なんか一つも漏らさず、あいつに言われるがままあちこちの病院に出向いて診察を受けたんだよ。無機質な部屋で初対面の看護師に『射精時の注意事項』なんて書かれた紙と精子を入れる容器を手渡されて。腰掛けたソファーにはオレの前にそこで搾精した男の温もりが残ってたりしてね。なんかもう、すごく嫌な感じ。

 仕方なくそこで黙々と手を動かしてると、なぜか農場でやる牛の種付けのことが思い浮かんできてね。液体窒素の中に冷凍保存された牛の精液を授精の都度融解させて雌牛の中に注入するんだけど、そこで使われる精液って、血統の良い、雄としてとても優秀な牛のものに限られてるんだ。種雄牛しゅゆうぎゅうに選ばれるのはほんの一握りで、全雄牛のうちの約0.0001%なんて言われてる。じゃあそれ以外の牛はどうなるかというと、ほとんどが去勢され、食肉用として飼育されるんだ。その方が柔らかくて臭みのない肉質になるし、性格がおとなしくなって牛同士の争いも防げるからね。要するに、雄として価値がないと見做されれば、オチンチンなんかさっさとちょん切られて、後は人に食われるのをひたすら待つってわけ。人間が家畜のように管理されることになったら、オレは間違いなく去勢グループ。『食肉用としても大して価値なさそうだから即廃棄処分かな?』なんて思うとほとほと情けなくてね。不妊治療では毎回、その想いを上塗りさせられたよ。

 でも、オレはやり遂げた。自分から治療を止めようとは決して言わなかった。妻の希望を叶えたいと思ったから。他の女じゃとてもそうはなれなかった。そんな特別な思いの結晶が、小織なんだ」

「なんだか自分一人が犠牲になったような口ぶりですね。不妊治療で苦痛を味わうのは妻の方も相当なはずですけど? だいいち、卓郎さん自身はどうだったんですか? 子供、欲しくなかったの?」

「オレはどっちでもよかったね。子供ができないならそれはそれで構わなかった。だって、結婚てそのためだけにあるんじゃないだろう?」

 コーラを運んできたウエイターが、去り際にチラリ、と義兄の方へ意味ありげな視線を残すのが分かりました。無理もありません。精液、種付け、去勢……カフェの店内で誰憚ることなくこんな単語を発する人間を奇異に思わぬわけがない。

「自分を、取り戻そうとしてるんですか?」

 わたしが訊ねると、義兄は一気に飲み干しそうだったコーラを半分まででピタリと止め、無表情な顔をこちらに向けました。

「卓郎さんにとって、妻以外の女性と関係を結ぶのって、不妊治療をする中で擦り減らしていったものを、取り戻そうとしてる感じ?」

「一昔前の小説で、中二病の根暗な青年がつぶやきそうなセリフだな。それにオレ、君にカウンセリングを頼んだつもりはないよ」

「中二病ってワード、久々に聞いた気がする。それ自体が一昔前、というかもう、死語な響き……」

「仕方ないよ。こんな会話、はじめから死んでる」

 困ったことになった、とわたしは深い息を吐きました。なぜなのか、わたしは目の前の男に、ひどく風変わりな、一種独特の親近感のようなものを覚えはじめていたのです。わたしから姉を奪った男。姉を陰で裏切っている男。そんな憎しみの対象であるはずの人物を真っ向から否定できないなんて。『同族嫌悪』とでもいうのでしょうか? この男と話していると、二人が二体の屍になって、互いの死臭を嗅ぎ合っているような気分に陥るのでした。

 こんな会話、はじめから死んでいる——なかなか上手いことを言う。男の方も、おそらくはわたしと同じ感慨に浸っていたということなのでしょう。


  **


 ……わたしはペンを置き、今日書いた分の日記をペラペラとめくって斜め読みしてみた。盗みも浮気も、こうして文字に起こしてしまえば、大した問題ではない気がしてくる。

(そりゃそうよね。二人とも、別に人を殺したわけじゃないんだから)

 そう。わたしに比べれば、タチ子さんや義兄が犯した罪など可愛いものだ。

 川乃真衣——。

(まさかあの子を殺すことになるなんて、思いもしなかった……)

 わたしは机から離れてカーテンの隙間から外を覗いた。夜はまだ、明けそうにない。



(*5)NATIONAL GEOGRAPHIC 2014.09.29 ハエは最初の交尾が子供の大きさを左右

(*6)Wikipedia マイクロキメリズム・遺伝的に由来の異なる少数の細胞が体内に定着し存続している現象を指す


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