赤ん坊は白いバスタオルの上に寝かされていた。ベビー服の前ボタンを外すと、中から丸い乳色の腹があらわれる。ガラス玉のような瞳は宙の一点に固定され、時折何に反応するのか、眉の筋肉を上下させ手足をばたつかせる。

「小織ちゃんは大人しいわね」

 わたしは赤ん坊のおむつをかえながら言った。

「忙しい母親に気を遣ってくれてるのよ、たぶん」

 姉は少し離れた背後のダイニングテーブルにいた。ペンションの業務用にと新しく購入したタブレットPCに向かいながら、独り言をつぶやいたりため息をついたりを繰り返している。液晶モニターは大きなスマホだと思えばいいし、キーボードはこれまで使用していたものと何ら変わらない。新しい知識や操作スキルはさほど必要ない。わたしのこうした助言は、大して役に立っていないらしい。

「……子供を産むって、どんな感じ?」

 わたしは小織に視線を落としたまま何気なく訊ねた。

「産んでみればいいじゃない」

 姉は言葉の終わりにキーボードを、パチン、と鳴らす。

「望みさえすれば産めるってわけでもないし……」

「そう、だからなのよ」

 ながらで応える姉の声はいかにもおざなりな感じがしたが、わたしにはそれがかえって心安かった。

「どういう意味?」

「『子作り』って言葉、あれ嘘ね。子供って、結局は授かりものなのよ。人の力でどうこうできるものじゃない。まあ、当たり前なんだけど」

 姉夫婦が長いこと子宝に恵まれず、散々苦労を重ねた過去があることは、以前姉自身の口から聞いて知っていた。ペンションをはじめたのも、鬱々とした気持ちを抱えひたすら夫の帰りを待つだけの生活に耐えられなくなったことがきっかけだったと。

「妊活のための専門医をいくつも回ったうえに、着床しやすい身体を作る努力に邁進したわ。食事の見直し、漢方、鍼灸、整体、アロマテラピー、ヨガ、サプリメント……良いと噂されるものを片っ端から試したの。石鹸やシャンプー、寝具にまで気を配ったんだから。でも、結局どれもだめ。そんな生活を何年もしていると、心身がほとほと擦り切れてくる。気づいたら歳も四十手前でしょ? あーもういい。もうたくさん。私たち夫婦はこういう定めだったのです! と割り切って、百を優に超える子宝の御守を近所の神社で御焚き上げしてもらったの。身体に重くのしかかっていたものが、さっと掃き清められたような、冴え冴えとした気分だった。でも、そうしたらその数ヶ月後、お腹に小織がいることが分かったの。不思議でしょ? 『神様のいたずら』って言葉があるけど、まさにそんな感じ」

「……つまり?」

 わたしは先を促した。

「そうそう、つまりね。妊娠のタイミングがこれだけ個々に予測不能なものなんだから、産む側の妊婦の心持ちだってそれぞれでしょ? 年齢はいくつなのか、初産なのかそれとも二人目以降なのか、父親はどんな人間なのか、体調はどうなのか、仕事は? 周囲の反応は? 妊娠中や出産後の生活は? 子供を産み育てるには、こうした細々とした事情が絡んでくる。私の出産体験はあくまで私のもの。他の人はどうだか分からない。あなたがそれを知りたいのなら、自分で産んでみるしかないのよ」

「そんな風に言われたら、身も蓋もないじゃない」

 わたしは苦笑した。

「実際、産婦人科の待合室って身も蓋もないような場所なのよ。『妊娠』というかこいの中へ、満ち足りたオーラを身にまとう女たちと、悲痛な面持ちで沈む女たちが一緒くたに詰め込まれている。私はその両方の立場を経験したわけだけれど」

 自分が健診に通った医院の待合室を思い起こしてみる。そこにいたはずの妊産婦の顔など、誰一人覚えていない。わたしには、彼女たちと意識的に距離を取るきらいがあった。女は子供を産むと図太くなるという通説のごとく、待合室で交わされる妊産婦たちの会話に、こちらが身の置き場に困るような露骨で生々しいものがしばしばあったからだ。互いに身重みおもだという同族意識も働いてのことだろうが、彼女たちは自身の身体や家庭の内情など、ごくプラベートなことをなんの躊躇なく赤の他人に語ったり訊ねたりした。

にとっては、出産て、どんな意味があったんだろう?」

 ふと亡母のことが頭をよぎり、わたしはつぶやいた。医師から妊娠を告げられた時、つわりで食べ物が喉を通らなかった時、初めて胎動を感じた時、重く膨らんだ腹で家事をこなす時、破水して病院に駆け込んだ時、産まれたばかりのわたしたちを腕に抱いた時——その顔は、どんな感情の色に染まっていたのか。喜び、不安、期待、苛立ち、安堵、焦燥、充足……妊娠から出産に至るまでの約十か月間、味わった想いはそう容易く言い表せるものではないだろう。でももし母がまだ生きていて、今この瞬間目の前にいたなら、訊ねてみたかった。

にとって、娘二人の誕生は、幸福をもたらす出来事だったのかしら?」

 わたしの声が聞こえなかったのか、それとも聞こえていてわざとそうしているのか、姉は無言のままパソコンに向かいつづけていた。今さらそんなことを考えても仕方ない、結局が最後に選んだのは、子供でも夫でもない、〝神様〟だったのだから——暗にそう咎められているような気がした。

「ねえ、一つお願いがあるの」

 姉が不意にパソコンから視線を上げ、首を伸ばしてこちらを見た。わたしは赤ん坊を抱き起こし、小さなその背を撫でながら、何? とそこへ近づく。

「タチ子さんが最近スマホを買い替えて、『自分じゃLINEの引き継ぎができない』と私に設定を頼んできたの。で、さっき試しにやってみたんだけど、メーカーが違うせいか上手くいかないのよ。あなた、分かる? あーもう、自分のことだけで手一杯なのに嫌になっちゃう!」

 パンパンと荒々しくキーボードを叩く手のすぐ横に、いかにも真新しい薄ピンクのスマホが置かれていた。あのタチ子さんが、これまたずいぶんと可愛らしい色味の機種を選ぶものだと意外に感じながら、

「タチ子さん、なんで購入時に、店舗の担当者に頼まなかったの?」

 と訊ねると、姉は「さあね」と軽く肩をすくめる。

「やってできないことはないと思うけど、他人の持ち物、とくにスマホに触れるのってなんだか抵抗がある。タチ子さんに、今からでも購入店舗の方に行くように勧めたら?」

「簡単に言うけど、ここから一番近い場所まで行くのに車で一時間くらいかかるのよ。タチ子さんは運転できないからバスと電車で一時間半。ショップの待ち時間なんかも考えたら午前中に出かけないと帰りのバスがなくなっちゃうの。それともあなた、車で送り迎えしてくれる?」 

 時刻は午後の三時半を回ろうとしている。タチ子さんは今日は半日勤務で、すでに退勤していた。スマホを人に預けたまま帰ってしまうなんて、と呆れた。

「そもそも、わたしが頼まれたんじゃないでしょ? こういうことは、頼まれた本人がやるべきよ」

「私が機械物ダメなのは、知ってるでしょ?」

 またか、と思う。姉は何かというとこの台詞を口にした。ボイラーの調子が悪い、インターホンのカメラが映らない、Wi-Fiが繋がらない。と、そのたびにわたしが機材の取扱説明書を読んだり、業者に連絡する羽目になった。難しいことは何もないのに、いつも「できない」の一点張りで通す。わたしが来る前はいったいどう処理していたのかと訊ねてみても、いつも曖昧に言葉を濁して取り合おうとしない。どうも腑に落ちなかった。宿泊予約の管理、雑品の発注、会計ソフトでの収支計算、SNSの更新等、姉は日常的にPCやスマホを操作しているのだ。LINEの引継ぎくらいわけはないはずだと思うのだが、そこは本人曰く、「自分がやっている作業は、慣れ親しんだ定型フォーマットに単純に文字を打ち込んでいるだけで、ハードウェアやアプリに関してのリテラシーはまるで高くない」とのこと。会話に出てくるワードのチョイスからして、すでに機械に疎い人のそれではない気がするのだが。

「……卓郎さんは? 仕事から帰ってきたら、やってもらえばいいじゃない」

 戸惑いがちに、わたしは訊ねた。義兄の名を口にするのは、今以いまもって馴れない。

「あの人、帰ってこないの」姉の返答は素っ気なかった。「今週はずっと大学に泊まり込むんだって。……ていうか、そんなに嫌?」

「別に嫌とか、そんなんじゃないけど……」

 思わず口ごもる。義兄に対するわたしの複雑な想いを見透かされたのかと、ドキリとした。

「ひょっとして、潔癖症なの?」

 いったいどういう意味なのか。わたしは反応に困り、姉のことをただ黙って見つめた。

「他人のスマホに触れたくないって言うから。でも、それなら客室やトイレの掃除なんか、できないはずよね?」

 ああ、そういう意味だったのかと、胸を撫で下ろす。

「卓郎さんのこと、心配にならない?」

 前々から気になっていたことだった。

「どういうこと?」

 姉が涼しい顔で訊き返してくる。

「家にいないことが多いでしょう? 心細くないのかなって」

 なぜかわたしの方がうろたえた口ぶりになっていた。

「だって仕方ないじゃない。動物が、病気や出産を、人間の都合に合わせてくれるわけじゃないんだもの」

「それはそうだけど……」

 わたしが問いたいのはそういうことじゃない。そう思ってうつむくと、姉は優しく微笑んだ。

「気にかけてくれてありがとう。でも、結婚する時に覚悟は決めてたから。妊活の時はちょっと辛かったけどね。あの人にもずいぶん無理をさせちゃったから。ただでさえ忙しいのに」

 ここに来て以降、思い知らされたことがある。それは、〝姉の人生における優先順位の先頭には常に義兄が立っている〟ということ。我が子である小織を天秤にかけたとしても、恐らく姉は夫を選ぶだろう。わたしにはそれが分かる。パソコンのキーボードの上には、痛々しく赤切れた指が並んでいた。その昔、ステージの上で、大勢の観客を魅了した指だ。

「信じてるのね」

 いたたまれなくなってわたしは言った。

「何が?」

「卓郎さんのこと」

 わたしの心にはいまだ義兄に対し、『自分から姉を奪った男』という、怨敵おんてきに対するような感情の火種が燻っている。三十も超えた大人が今さらシスコンでもなかろうに、と恥入りながらも、その事実には抗いようがなかった。もし姉が、あのままバイオリンをつづけていたら。もしあの時、この男さえ現れたりしなければと。

「信じるも何も、彼は彼の仕事を全うしようとしているだけだもの……」

「卓郎さんの周りにいるのは、牛や馬だけじゃないでしょうに」

 わたしの言葉に、姉は何を言われているのかわからないという風に目を見開く。

「大学の獣医学部には、若い女性職員や女学生たちもいるんじゃないかってこと」 

 明らかに、毒の利いた言葉だった。わたしは姉に問いかけてみたかったのだ。あなたの妹は、あの両親のもと、愛する姉がいつか戻ってくることを信じ、それだけを頼みに少女期を過ごした。そんな妹を裏切ってまで手に入れたものに、そこまでの価値はあったのかと。

 姉はぷっと吹き出し、その後大きな口を開け笑った。

「うら若き乙女たちが、うちの人みたいなおじさんと、家畜の糞やおしっこの話をしながらロマンスを育むっていうの? 心配なのはそっちよりも健康面ね。あの人、糖尿の薬飲んでるから」

 義兄の姿を思い浮かべてみた。浅黒い顔を縁取るように白髪混じりの髭をたくわえ、何が気に入らないのかメガネの奥の眉間にはいつも深い皺が刻まれている。体格は関取のそれのようで、服装は決まって着古したブルーのつなぎ。確かに、若い女性がときめく要素など何もないように見える。でも、だからなおさら、わたしにはあの男が腹立たしいのだ。義兄の話など、しなければ良かった。

「ちょっといい?」

 わたしは小織の抱っこを姉と交代し、テーブルにあるタチ子さんのスマホを手に取った。姉は満足げに、やってくれるの? ありがとう、と言い置いて席を立つ。

「タチ子さんには、LINEの設定をわたしがやったってこと、内緒にしておいてね」

 わたしは少しきつめの口調で釘を刺した。どうして? と眉を上げた顔に、言葉をつづける。

「わたし、タチ子さんのこと、嫌いじゃないわよ。気さくで面倒見のいい人だと思ってる。お客さんにも受けがいいしね。でも仕事中の、あの私語の多さにはいささか辟易してるの。そのせいでここ最近、午前の業務が時間内に終わらないことがあったんだもの。今回の件、やったのがわたしだと知れたら、今後スマホに関する事柄を、時間も場所もわきまえず矢継ぎ早に質問してくるに決まってる。メールが送れない、文字変換ができない、添付画像はどうしたら大きくなるのか、アプリをインストールするにはどうすればいいのか……考えただけで疲れちゃう」

 姉はさも可笑しそうに、なるほどね、と頷いて事を了承し、それから少し考えてこう言い足した。

「タチ子さんの口はどうにも止めようがないから、忙しい時は一々相手にしなくていいのよ。『へえ、そうなの』『うーん、どうしたものかしら?』『あ、今はちょっとダメ』の三つのうち、どれか一つで受け応えしとけば事足りるの。大事な話なんて、ほとんどないんだから」

「これ、ロック解除、どうすればいいの?」

「ああ、パスワードがね、ええと、3・7……」

「370401?」

 割り込むようにわたしは言った。

「知ってるの?」

 いかにも不思議だというように、姉が赤ん坊を抱いた身体ごとこちらに向き直る。

「誕生日でしょ?」

 以前、タチ子さんが出入りの業者と談笑するのを耳にしたことがある。昭和三十七年四月一日生まれ。み〈3〉・な〈7〉・良〈4〉・い〈1〉、と語呂合わせはずいぶん景気が良いけれど、アタシの人生、まったくその通りじゃないよ、と。

「今どき、こんな雑なセキュリティでいいのかしら? パスワードを予測不能なものに変えるとか、二段階認証を使うとか、もっと警戒すべきだと思うけど」

「料金は定額制で、通話とメールしか使わないからセキュリティなんて気にしなくていいんですって。私も何回か注意したけど、下手にパスワード変えたりすると後で思い出せなくて、かえって厄介だって言うの」

「まさか、キャッシュカードや電子マネーの決済なんかも、同じパスワードを使いまわしてるんじゃないでしょうね?」

 聞いているうちに、だんだん空恐ろしくなってきた。

「キャッシュカードの方は、娘さんにうるさく言われて変えたみたい。電子マネー決済? スマホのセキュリティ設定ですら面倒臭がる人が、そんなことするかしら?」

 この辺に住むあの世代はもっぱら現金主義よ、と姉は背を向けた。

「タチ子さん、娘がいたの?」

 住まいはここから歩いて十五分ほどのアパート。おばちゃん一人の気楽で気ままな生活……と、そんな風に語っていたから、子供などいないと勝手に決めつけていた。

「タチ子さんの娘さん、結婚して、今は四国にいるんだって。孫もいるはず」

「ずいぶん遠くにお嫁に行ったのね」

 姉はわたしの言葉には何も応えず、小織に、少し待っててね、とつぶやいてその身体をベビーチェアに座らせた。そろそろミルクの時間なのだろう。

「ねえ、近ごろ小織の様子、どう?」

 奥のキッチンから声がした。

「どうって?」

 わたしはスマホを操作しながら応える。

「何か変わったこととか、気づいたこととか、ない?」

「特別ないけど? 強いて挙げるなら体重がずいぶん増えたことかな。抱き起こす時、腕や腰にずしんとくる時がある」

「そうなのよね……」一瞬、キッチンの物音が消える。「体重は順調に増えてるし、よく寝るし、健康そのものなのよ。なのに……どうしてなのかしら?」

 しばらくして姉がミルクの入った哺乳瓶を手に戻ってきた。曇った表情で何かを思案するようなその顔を、わたしはただ黙って見つめる。

「実はね、このところ、小織がミルクを残すの。それに、夜泣きの回数も前より増えてる気がするし」

 姉の口調には、何かに縋りたいような、切実な響きが含まれていた。

「わたしがミルクあげる時は、そんなことないけど?」

「そう。なら、たまたまなのかしら? そろそろ離乳食も与えようかと思ってたんだけど、こんな調子ならまだやめた方がいいのかと思ったり。ねえ、0歳児の赤ん坊で、食欲減退と体重増加が同時に起こるような病気って、何かある?」

「乳幼児の疾患に関しては専門外だから詳しいことは分からない。ただわたしが見る限り、尿も便も正常だし、咳、鼻水、目やに、発熱や発疹なんかもない。骨や関節ももちろん問題なし。小織ちゃんはすこぶる健康体だと思うけど? もう少し様子を見て、それでも気になるなら病院に連れて行けば? まあ、その話はまた今度ゆっくりするとして……」と、そこでわたしは部屋の時計に目をやった。「そろそろ出かけないと、まずいんじゃない?」

 姉は今日、午後五時から始まる地元商工会の会合に出席することになっていた。

「やっぱり、行くのやめようかしら?」

 姉は心配そうにベビーチェアの小織を振り返る。

「『地域の同業者との付き合いもおざなりにできない。今日は宿泊予約もないし、必ず行かないと』。そう話してたのはどこの誰? 狭い町で古株の重鎮たちに目をつけられると厄介なんでしょ?」

 姉は肩で大きく息をつき、哺乳瓶をわたしの前に置いた。

「じゃあ悪いけど、後のこと、お願いします」

 わたしは快諾を意味する微笑みを浮かべた。

「考えすぎはかえって赤ちゃんに悪影響よ。大丈夫、安心して行ってきて。タチ子さんのスマホも、操作が終わったらこのテーブルの上に置いとくから」


 日が、山際へと沈んだ。

 姉がいなくなった部屋に、夕闇が満ち潮のように嵩を増していく。不意にベビーチェアが軋み、アム、アム、という小織の声がした。二つのつぶらな瞳が窓からの残照を映し、トパーズようにきらめいている。

「お腹、空いたわよね」

 わたしは一声かけると、姉に渡された哺乳瓶を持ってキッチンに入った。シンクの前に立ち、吸口すいくちキャップを外して、中身をすべてそこに捨てる。容器は丁寧に洗って、水切りトレイへ。少し迷ってから、リビングの隅にある淡い光のスタンドライトを一つだけ灯すことにした。お待たせ、と小織を抱き上げてソファーの方に行き、そこに身体を沈める。

「そりゃあ、粉ミルクなんて、美味しくないものね?」

 腕の中の小さな顔は、こちらをじっと見上げたまま動かない。ハーフトップの前ボタンを外しこぼれ出た乳房を差し向けると、濡れた花弁のような唇が器用に乳首を含み込み、細かな律動を開始する。授乳を最初にした時は、予想を遥かに上回るその吸引力にただただ驚いた。

「たくさん飲んで、大きくなるのよ」

 射乳の際に起こる乳房の甘やかな痛みは、小織に対するわたしの想いをより堅固にする。

「ここにいる大人たちは、どうしてこうも嘘つきばかりなのかしら?」

 わたしの声に応えるように、腕の中の温もりがカッと熱くなった。互いを欺くことが習癖化され、もはや嘘なしでは均衡が保てなくなっている家。そんな場所で、姉は無邪気に自分の幸福を信じている。ほんの小さな綻びで、ここにある日常などすべて瓦解するというのに。

 ただわたしにとって、姉のことは二の次だ。一番大切なのは小織と一緒にいること。目的を果たすためには、小織の存在が不可欠なのだ。

「……目的?」

 わたしは首を傾げて独りごちた。

「ここでいう目的って、いったい何だったかしら? に……会うこと?」

 このところの気配を身近に感じる機会がまるでなくなった。腹を蹴られた痛みの記憶は日増しに薄らいでいく。けれど以前のように不安に苛まれないのは、小織との授乳の時間があるからに他ならない。このままでいいのだ。こうしていれば、いずれきっと……そんな曖昧且つ確信めいた想いがわたしを支えている。

「何があろうと、わたしはあなたから離れないわ。あなたにとって誰よりも大切な存在になってみせる」

 ふと視線を落とすと、赤ん坊がわたしの乳首を咥えたま、静かに寝息を立てていた。



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