「まったく、気味の悪い客だったよ」

 ベッドのシーツを剥ぎ取りながらタチ子さんがつぶやいた。予想通り、客が去った後の部屋はひどく散らかっていて、酎ハイの空き缶、食べかけのつまみ類、丸まったティッシュペーパー、使用済みのタオルなどがあちこちに散乱し、不快な臭いが充満していた。

「あの男、やっぱりやってたよ。禁煙なの知ってるくせに図々しい」

 タチ子さんが舌打ちをしながら栄養ドリンクの瓶に詰まった吸殻を掲げて見せた。どっかに焦げ跡でも作ってたら承知しないからね、絶対弁償させてやる! そう憤る声を尻目に、わたしは窓を全開にした。冷たい空気が一気になだれ込んでくる。

 朝、ペンションの宿泊客たちがチェックアウトを済ませると、わたしとタチ子さんはペアになって各部屋の掃除に回る。

 姉のところに来ておよそ四ヶ月。わたしはペンションの業務のかなりの部分を担えるようになっていた。掃除はもともと得意な方だったし、調理の方も簡単な補助作業くらいならば手際よくこなせた。その他宿泊予約、食料・備品の在庫管理、設備メンテナンスの日程調整なども、パソコンさえ使えれば難しいことは何もなかった。

 想像以上の活躍を見せた妹に姉はとても驚いていた。病気で仕事を辞めた人の働きぶりとは思えない、と繰り返し、現在通院しているクリニックやその治療法などについてあれこれ訊ねられたりしたが、こちらはただ苦笑してやり過ごすしかなかった。

 それでも接客だけはいまだに不慣れで、たまにお喋り好きな宿泊客に捕まってしまうと、どう受け答えしていいのかわからず固まってしまう。そんな時はタチ子さんが頼みだった。姉曰く、タチ子さんは「放っておけば三日三晩寝ずに話しつづける人」なんだとか。細かい事務作業はわたしがやり、力仕事や客あしらいはタチ子さんにお任せする。我ながら良くできたチームワークだと思っている。

 タチ子さんはこのペンションの開業時からいるパートのおばさんで、見たところの年齢は六十代後半。でも実際はもっと若いのかもしれない。顔にはシミや皺が目立つが、姿勢がよく動きがてきぱきとしているし、ゴムで一つにまとめた頭髪も半白だとはいえボリュームがある。背丈は身長165センチあるわたしの顎辺りまでしかないが、体躯に厚みがあるせいでさほど小さく感じない。わたしも姉も女にしては力がある方だが、タチ子さんの腕力はその比ではなかった。男性客が悪戦苦闘するジャムの蓋を易々と開けてみせたり、瓶ビール二十本入りのケースを二つ重ねで運んだりする。名前のいわれについて本人は「辰年に生まれたため『タツ子』と名付けて父親が役所に届け出たが、書類に書いた字があまりに汚かったせいで窓口の職員に『タチ子』と誤って登録された」と話していた。果たしてそんなことが実際起こるものだろうか? 本人が言うのだからそうなのだろうけれど。

「昨日ここに泊まったお客、住所は東京、職業は自営だって。自営って何かの商いやってるってことかい? どう見ても景気が良さそうな面構えじゃなかったけどね」

 タチ子さんはパソコンを使えない。つまりお客の個人情報を得るには宿泊者カードの記入事項を確認するか、本人に直接訊ねるかしかない。もし後者なのだとしたら、タチ子さんがあの男と何をどこまで話したのかが気になった。

「言われてみればあのお客さん、ちょっと独特だったわね。なぜこの町に来たんだろ? 仕事かな? それともプライベート?」 

 床に散らばったピーナッツを拾い集めながら、わたしはそれとなく探りを入れた。

「それがよくわからないから怪しいのさ。仕事で来てるなら、普通駅前のビジネスホテルを使うだろ? その方が勝手がいいし、何より値段が安い。じゃあ観光で来てるのかといえば、ありゃどう見たって違う。旅行客ってのは、ひと目でそれとわかる華やぎがあるんだよ。でもあの男にゃ、そんなもの微塵もなかった。奥さんにも『今後もし、ああいうのが来たら要注意』と忠告しといたよ」

 奥さんとはここのオーナー、つまりわたしの姉のことだ。

「要注意?」

 ごみ袋を手にしたまま、わたしはタチ子さんの方を振り返る。

「考えてもみてごらん。シケた中年男がたった一人、着の身着のままふらりとやって来て『一晩泊めてくれ。食事は要らない』だよ。訳ありに決まってるじゃないか。かもしれないと警戒してかかるのが宿側の算段ってもんだよ」

 タチ子さんは自分で自分の首を絞め、悶絶の表情を作って見せた。が、その後すぐ思い直したように元の神妙な顔に戻って、言った。

「でも、ああいう手合いは自殺なんかするじゃないね。目つきがそう物語ってたよ」

 わたしは何も応えず、コンテナから水回りの掃除道具が入った青バケツを取り出した。ユニットバスも部屋と同様、汚れている。壁、鏡、洗面台、浴槽のあちこちに石鹸かすや体毛がこびりつき、トイレットペーパーは中途半端な長さでだらりと垂れ、水浸しになった床のあちこちに破れたアメニティの袋が落ちていた。今しがたまでここにあの男がいたのだと考えると虫酸が走った。わたしはシャワーの水圧と水温を最高にし、全体に隈なく振りかけてから、スポンジにいつもの倍の量の洗剤を含ませた。

 消し去らなければ、と思った。あの男がここにいた痕跡をすべて。風呂場が元の清潔さを取り戻す頃には、昨夜の記憶も綺麗さっぱり無くなっていて欲しい。そう願いつつ、わたしはスポンジを掴む手に力を込めた。


  **


 【中西総合探偵事務所・所長 中西勲男】

 男が差し出したのは、縦書きで白地に黒の文字が印刷されているだけの、どこか古めかしい感じのする名刺だった。——やはり、刑事ではなかったか。

 素性が明らかになったとはいえ、男に対するわたしの嫌悪感や不信感が物色されるはずもない。誘いに乗って部屋まで来てしまったが、ドアを背にしたままそれより奥に入る気にはなれなかった。

 5号室はペンションの中でわたしが最も気に入っている客室だった。シングルベッドに小さな丸テーブルと肘掛け椅子が置かれているだけのごく簡素な作りだったが、余計なものが何もないせいで、部屋全体が3Dのキャンバスのように感じられる。日中、窓から入る光やそれによってもたらされる陰影の中に佇むと、自分自身もまた、絵画の一部になったような不思議な感覚に陥るのだ。なぜ中西のような薄汚い男に当てがってしまったのかと、自分の行動に臍を噛む思いだった。

 今日はお客がいなくてタチ子さんも来ないから、午後は好きなように過ごして——朝方、姉はそう言い残すと、小織を連れて小児科医院まで出かけて行った。役所から『乳児検診のお知らせ』が届いたのだと言う。

 掃除も洗濯もあっという間に済んでしまい、ペンションの予約確認やメールチェック、受け渡しに来たクリーニング業者とのやり取りなどを終えると、後はもう何もすることがなくなった。慢性的な不眠によるだるさから一度はベッドに横になったものの、まぶたを閉じると洋介のことが浮かんでしまい、かえって神経がすり減る気がした。

 久々に『楓』にでも出かけてみよう。そう思って玄関で靴を履こうとした時、町の観光案内所から電話が入った。これからお客を一人受け入れてもらえないかと言う。姉の帰宅はいつになるかわらないし、わたしだけで対応できるだろうかと躊躇したが、素泊まりなので寝床さえ確保してくれればいいと懇願された。

 タクシーから降りてきた男の暗く淀んだ目を見た時、一瞬何か不吉な、予感がめいたものが働いたが、気を取り直して相手との距離を測りつつ、フロントまで誘導した。緊張を悟られないよう速やかに受付業務を済ませ、最後にルームキーを渡して、これで一安心と思った矢先、男が突如、わたしの顔の前へスマホを突き出した。

「アンタ、この人のこと知ってるよね?」

 液晶パネルに表示されていたのは、白衣姿で微笑む洋介の画像だった。病院のHPなどから切り抜いたのではなく個人的な近影で、おそらくはごく最近撮られたものだ。あれこれ問い詰めたい衝動に駆られたが、男が下卑た笑いで乱杭歯を剥き出しにするのを見たとたん、理性が情動に蓋をした。この男が何者か定かでないうちに無闇なこと口走ってはならないと。

 フロントデスクを挟んで、しばらく無言のまま相手と対峙する。と、急に背後から冷たい空気がなだれ込んできて、その後すぐに「ただいま」という声が響いた。奥の自宅用玄関に、姉が帰ってきたのだった。

 男はフッ、と鼻で軽く笑い、スマートホンをズボンのポケットに捩じ込むと、「んじゃまた後で」と軽く手を上げた。スリッパを履いた足が、嫌味なほどパタパタと音を立てて階段を上がっていく。思わぬ奇襲を受けたわたしは心がふやけたようになり、何をどうする術もなく、その場をふらふらと離れるしかなかった。

 『楓』は不思議な場所だ。店内に一歩踏み込んだとたん、紅茶の香りが身体の内側を掃き清めてくれるような気がする。テーブルに着いてオーダーを済ます頃、『思わぬ来客』に乱されたわたしの心は完全に凪いでいた。ただ、いまだ謎が多いことには変わらない。ここ数日に起こったことを改めて振り返えろうとノートを開き、ペンを執った。が何とそこへ、張本人が現れたのだ。

 『楓』に『5号室』。よくもこうつづけざまにわたしの大切な場所を荒らしてくれるものだと、もはや怒りを通り越して感心さえする。

「そんなに固くならずに。別に取って食おうってわけじゃないんだから。ほら、座って」

 はじめのうち中西は、昼間とは打って変わっつたへつらうような態度を示していたが、こちらが腕を組んだまま一歩も動こうとしないのを認めると、不意に顔から笑みを消し、言った。

「なあ、黒田さん。俺も暇持て余してるわけじゃないんだよ。わざわざこんな片田舎まで足を運んだからには、それなりに収穫が欲しいんでね。それにこのままだとアンタ、今回の一件のこと、何も知らずに終わることになるよ」

「どういう意味ですか?」

 わたしは眉根を寄せた。

「警察はもう捜査を打ち切ったんだよ。一連の出来事は真相が明らかにされぬまま、ジ・エンド」

「いい加減なこと言わないで下さい。わたし、警察から連絡を受けてます」

「四谷署の竹本だろ?」男はフン、と鼻を鳴らしはた。「佐藤洋介は自分が運転する車で自爆死。自宅マンションには身元不明の死体。事件と事故、両方の線で現在捜査中。『黒田さん、ちょっとお話聞きたいので署まで出頭願えませんか?』『いいえ、わたくし現在北海道におりまして、病気の療養中ですから長距離移動なんてとても無理ですの』……とまあ、こんな具合か?」

 警察の捜査とは極秘裏に進められるものではないのか。どうして中西がこんなことまで知っているのだろう。

「後日署の方から改めて電話をよこすか、場合によっちゃ刑事がここまで聞き取りにくるか、竹本にはそんな風に言われたろ? でその後、向こうから連絡は? ねえよな? そして今後も来ることはない。なぜかって、捜査がもう打ち切られたからだ」

「人が二人も死んでいるのよ。真相が明らかになってないのに警察が捜査を打ち切るなんてありえない。だいたいあなたに何がわかるっていうの? いくら探偵だからって、部外者がどうして警察の内部事情を把握してるのよ」

 おやおや、と中西は片眉をつり上げた。この男の下劣さを顔面に凝縮したような表情だった。

「最初見た時はいかにも神経の細い気の弱そうなねえちゃんで、正直楽勝だと思ってたよ。でもさすがはお医者様。血生臭いやり取りにも動じねえな。考えてみりゃ医者って犯罪の身近にいるもんな? 幼児虐待、DV、性暴力、暴力団が絡む刃傷沙汰……」

「あなた、暴力団関係者なの?」

 だとしたらそれは、中西という人間が醸し出す雰囲気そのものだという気がした。

「そうだとも、そうじゃないとも言える。いや、が正解か。これでも昔は一応、刑事デカの端くれでね。組対四課、通称『マル暴』ってやつ。極道の世界にどっぷりはまって生きるうちに気づいたら自分も闇堕ち。で、刑事部屋デカべやからおん出されたというわけ」

 中西は一見、初老のチンピラ風情だが、改めて観察してみればその首は異様に太く胸板も厚かった。手背のMP関節に皮膚硬結、いわゆる拳ダコがあるのも空手など格闘技の心得があるからなのかもしれない。

「つまり、昔のよしみで警察に内通者がいるってこと? あの竹本って刑事とグルなの?」

「フン、あんな尻の青いガキが何の役に立つってんだ」

「ならば他の誰かが捜査情報をリークしてるのね? 守秘義務違反は公務員法で……」

「あのな、ねえちゃん」中西が声を張り上げた。「『蛇の道は蛇』って言葉、知ってるだろ? 残念ながら、アンタが言うほど世間は清廉潔白にできあがってなくてね。正義だけがまかり通れば警察も苦労はないんだよ。それにアンタには今、もっと大事なことがある。俺の質問に応えその見返りに事件の情報を得るか、そうせずに何もかもを曖昧にしたまま佐藤洋介の死を受け入れるか、二つに一つ。さあ、どっちを選ぶんだ?」

 探偵はクライアントから仕事の依頼を受け、報酬を得る。つまり中西の背後には、もう一人別な人間がいるということだ。誰が、何のために? わたしと洋介の関係はずっと伏せてきたというのに。

「警察はなぜわたしに連絡してきたの?」

 あ? と中西が声に出さない口の動きだけで問い返してくる。

「わたしと洋介が付き合ってたことは誰も知らないはず。なのになぜ、洋介が死んだ直後に警察から電話がくるのよ。しかも参考人として任意出頭を求めるなんて」

 これまでどうして不思議に思わなかったのだろう。

「そんなの簡単じゃねえか」中西は呆れたように太い息を吐いた。「手紙だよ。アンタが書いた、て・が・み。アンタなかなか文才あるね。一読でわかったよ、アンタと佐藤洋介のこれまでのことが」

 手紙——この男はそんなことまで把握しているのか。

「可哀想に、アンタ、捜査に関してまだ何も知らされてないんだな。じゃあ、特別にもう一つ、教えてやろうか?」ぬめった薄い唇が、こちらを揶揄からかうように動く。「女だったんだよ」

「何のこと?」

「死体だよ。佐藤洋介の部屋にあった死体。アンタも散々お世話になったはずのベッドに、全裸の女があられもない姿で冷たくなっていたんだ」

 その時不意に、体幹部を重い鉛のような感覚が下降して、わたしは軽くよろめいた。下腹部で何かが凝結し、少しずつ熱を帯びてくる。軽く手を当てると、内側からドスン、と蹴られた。全身の皮膚が粟立あわだつ。だとすぐにわかった。あの子がわたしの中に舞い戻り、何か伝えようと必死にもがいているのだ。

「知りたくないのか? 死体の女が誰なのか」

 ——ドスン。今度は中西の声に応えるようなやり方だった。わたしは心の中であの子に問いかける。この男の要求に応じろというの? ——ドスン。

 身体から、すっと力が抜けた。わたしは中西の方へ静かに歩み寄る。

「いきなり何だよ、おい」

 中西の顔には微かな動揺が見てとれた。

「わたしに訊きたいことがあるんでしょう? そのためにわざわざこんな田舎まで足を運んだんじゃなかった?」

 わたしは顎を突き出し、中西がよくやるのと同じように眉をつり上げて見せた。人を小馬鹿にした、ひどく癇にさわる表情だ。腹を立てるかと思いきや、中西は異形なものにでも遭遇したように腰を引き、近くの肘掛け椅子を顎で指す。

 密室に男と二人きり。しかも相手は海千山千の元刑事で、目的のためなら非道な手段も厭わない。腕力で強引にベッドへ捩じ伏せられたりしたら、わたしなどひとたまりもないだろう。なのに、少しも怖くなかった。子供を産み育てると覚悟した母親の心情とは、こういうものだろうか? ふと、そんなことを考えた。

「アンタ、この女のこと、知ってるよな?」

 中西がスマホ内のフォルダから画像を一枚選び、こちらに差し向けた。下腹部の様子を伺う。……あの子からの反応はない。

「話の前に、わたしの方から一つ条件があるの」 

 中西の顔が怪訝そうな表情に変わる。無理もない。わたし自身、自分の言動の意図をはかりかねていた。

「ここでの会話は他言無用。一問一答形式で質問者と回答者は交互に入れ替え。知っていることは包み隠さず話すこと。諸事情でどうしても応えられない場合はパスもOK。けれどその場合、別の質問に応えるまで新たな質問を相手にすることはできない。どう?」

「アンタが俺に尋問するっていうのか?」

「わたし、あなたに訊きたいことがあるの。あなた、今は警察手帳持ってないんでしょ? なら立場は対等じゃない」

 声のどこかにこの場を楽しんでいるような調子が含まれていた。こんなのいつものわたしじゃない。あの子だ、と思った。あの子がわたしの身体を使って中西と交渉しているのだ。

 中西はしばらく無言でこちらを睨めつけていたが、不意に鼻から息を抜くと、まあいいだろうという風に両手を軽く上げた。

「で、この女のことなんだがな」

 男の節くれ立った太い指がスマホを弾く。わたしはそこに示された画像をしばし眺めてから応えた。

「以前、同じ病院で働いていたナース。名前は確か、かわの……」

川乃真衣かわのまい

 そう言えばそんな名前だったわね、と目だけ応え、わたしはその人物に関するいくつかの情報を提供した。年齢は確か二十代半ば、性格はきついが仕事は真面目。すらりとした体形で肌が透けるように白く、意志の強そうな瞳が印象的。男性患者にはかなり人気だったらしいが、一部の職員の間では素行の悪さ、特に男関係のだらしなさを噂する者もいた。

「……こんなこと、もうすでにそちらの方で調べがついてるんでしょうけど。で、川乃さんがどうかしたの? まさか、洋介の部屋にあった死体って……」

 御名答、とでも言うように男が軽く顎をしゃくる。

「どうしてそんなことが? 二人はいつからだったの?」

「おいおい、質問は交互だろ?」

 さっきの仕返しだ、とでもいうように中西が涼しげな顔を作って見せた。突如、火でも点されたように下腹部が熱くなる。わたしはなだめすかすようにそこへ手を添えた。怒らないで、大丈夫だから、と。

 中西との問答はしばらくつづき、その中で明らかになったのは以下の通り。

 ・事件当夜、洋介と川乃真衣は違法薬物を使用しており、真衣の死因はそれによる中毒死であった。

 ・心肺停止状態になった真衣を見て洋介はパニックになりそのまま部屋から逃走。自身が運転する車で事故死。

 ・二人の関係がいつからなのか詳しいことは不明。ただしある程度の期間、少なくとも数ヶ月単位で定期的に情交があったのは確か。

 ・中西に仕事の依頼をしたのは洋介の両親。内容は息子の身辺、特に女性関係について詳しく調査し報告すること。

「洋介のご両親が、そんな依頼を……」

 息を吐くようにわたしの口から声が漏れ出る。ならばわたしに関する調書も彼の両親に渡っているということなのか。

「黒田さん、アンタ、佐藤洋介の家族については知ってるのかい?」

 わたしは首を横に振る。

「解せない話だな。ふつう自分の付き合ってる男がどんな家でどんな風に育ってきたのか、気になるもんじゃねえのか?」

 気にならなかったわけじゃない。その手の話題に水を向けた時、自分も自分自身のそれについて言及しなければならなくなるのを避けていただけだ。

「探偵って、依頼人の情報をそう易々と漏らしていいものなの? コンプライアンス上問題になると思うけど?」

 わたしは話を逸らそうとした。

「ふざけんな!」中西は拳でをテーブルを叩き、こちらに身を乗り出した。「先に裏切ったのはあいつらの方だ。まったく、金持ちほど意地汚ねえとはよく言ったもんだぜ。コンプライアンスだ? そんなものが通用するならこちとら苦労はねえんだよ!」

 依頼人、つまり洋介の親から得たのは当初の手付金のみで、予定されていた報酬の五分の一にも満たないのだと中西は憤る。調査開始後ほどなくして洋介が死んでしまったのが原因だが、だとしても、はじめに結んだ契約内容からすれば諸経費なども含めあと数十万は貰わないと割に合わないと。

「それって、おかしくない?」実際、ずいぶん馬鹿げた話だとわたしは思った。「興信所がクライアントとどんな形で契約を結ぶのかはわからないけれど、まさか口約束だけってこともないでしょうし。書面でのやり取りがなされてるなら貰えるはずのお金が貰えないなんてことないと思うけど?」

 いったい何年この稼業で生きているのか、と呆れながら男を見る。フリーランスなのか法人なのかわからないが、顧客からまともに金も取れないような杜撰な管理体制でよくこれまでやってこれたものだ。もしかするとこれまで仕事のやり方が汚く、なにかトラブルが起きても法的に解決できないような弱味があるのかもしれない。

「諸事情があってな」

 中西は腕を組んでそっぽを向いた。

「あなたの場合、って感じがするけど? 現役で刑事やってた頃から今に至るまで、裏社会の人間相手にずいぶん危ない橋も渡ってきたはず。契約を反故にする顧客の扱いくらいなんだっていうの? 赤子の手を捻るようなもんじゃない」

「国家権力……」

 男の喉元から唸るような声がした。

「は? ふざけないでよ」

 わたしは椅子の肘掛けをきつく握り締めた。

「佐藤洋介の父親は、内閣官房長官の佐藤宗徳だ」

 脱力し、肘掛けから外れた手が、太ももの上に落ちる。サトウ・ムネノリ——政府のスポークスマンとしてマスコミ対応をする、大柄で肉付きのいい男。公人特有の儀礼的な慇懃さと、七十を優に超える齢に不釣り合いな黒々とした頭髪。あれが洋介の父親だというのか。

「その様子だと、アンタ、佐藤洋介の生い立ちについて、本当に何も知らぬまま付き合ってたんだな」

 中西は懐から煙草の箱を取り出し、一本口に咥えて火をつけた。全館禁煙、と心でなじりつつ、わたしはそれを声にできなかった。 

 洋介の過去についてわたしが知っていることといえば、彼が小学校の途中から高校を卒業するまでの約九年間、親元を離れスイスの全寮制学校ボーディングスクールにいたということ。なぜ現地のメディカルスクールに進まず帰国したかについては、「日本の大学に行きたかったから」。一浪した理由については、「ぎりぎりまで進路を迷っていたため日本式の入試に対応しきれなかったから」。すべて本人から聞いた話だ。

「浪人ときたか……」中西は鼻から煙を吐いてほくそ笑んだ。「よくもまあ、あれこれでっち上げるもんだな」

「嘘ってこと?」

「佐藤洋介は十七で高校を中退している。実際は、学校側から退学処分を喰らう前に、そうやって体面を保ったんだがな」

「退学って……ハイスクールを卒業してないってこと? そんなバカな」

「これだよ」中西は前腕に注射を打つジェスチャーをした。「親の目の届かぬところで女とドラッグに溺れる日々。まあ、あるあるだな。学校でも奇行が目立つようになり、ある日の授業中、錯乱状態になってそのまま病院へ搬送。ドラッグを常習していたことが発覚。内々に現地の更生施設で薬断ちをし、頃合いを見計らって日本へ帰国」

 頭がくらくらした。中西の話のせいなのか、部屋に充満する紫煙のせいなのか。

「佐藤が『浪人中だった』と話していた時期は、おそらくあいつが帰国して日本国内のリハビリ施設にいた頃だな。症状が安定してくるに従って勉強に身を入れ、高卒認定をパスし、その流れで医学部受験。ヤッコさん、勉強はずいぶんとできたみたいだからな」

 国内にある依存症患者アディクトのためのリハビリ施設……。

「オメガ?」

 思い立った施設名が口をついて出てくる。

「知ってるのか? まあ、アンタも一応医者だしな」 

 オメガについては過去に何度か医療系の雑誌で関連記事を目にしたことがある。『究極・終末』を意味するギリシャ文字(Ω《オメガ》)を施設名に用いたのは、『あれこれ手を尽くしてもドラッグやアルコールへの渇望を克服できなかった人々が、最後に救いを求めて訪れる場所』という意味が含まれているらしい。ただそこで行われる詳しい治療内容については、わたしもよくは知らなかった。

「要はな、黒田さん」男は短くなったタバコをハイボールの空き缶に落とした。「佐藤洋介は過去にわけだ。アンタや職場の同僚にはどんな風に映ってたか知らんけどな。……おい、大丈夫かよ。なんだか顔色が悪いぜ」

 言葉とは裏腹に、男の肩は笑いを堪えるように微かに揺れていた。

 正直なところ、わたしの意識は中西の話より自分の下腹部に集中していた。先ほどからが繰り返しわたしの内部を蹴り上げていたのだ。しかも、これまでにない激しさで。思わずうめいてしまいそうになる痛みの中に、が抱える狂おしいまでの憤怒を読み取った。気に入らないのは愉快げに人の不幸を語る目の前の男なのか、黙ってそれを聞いているしかない母親のわたしなのか、勝手な振る舞いの後に一人で逝った父親の洋介なのか……いずれにせよ、ひどく嫌な感じがした。頭皮を冷たい汗が流れる。

「……で、結局あなたはなんでここに来たの? 洋介の過去を暴露してわたしの反応を楽しみたかっただけ?」

 下腹部を押さえる手に力を込めながらわたしは言った。

「俺をバカにしたあいつらを少し懲らしめてやろうと思ってな。ネタを掴みに来たんだよ」

 あいつら、とは洋介の親、つまり中西にとっては勝手に契約を反故にした憎悪の対象を指す。

「ところで、アンタはやってないのか?」

 男が急に真顔になる。どういう意味? と問い返す間もなく突然腕をつかまれ、着ているニットの袖を強引にたくし上げられた。

「とりあえずシャブ痕はないみたいだな」濁った二つの眼球が、露わになったわたしの肘窩を凝視する。「それとも周囲からはバレにくい場所に打ってんのか? 医者だしな、アンタ」

 力まかせに相手の手を振りほどき、テーブルにあったハイボールの缶を投げつけた。アルコールに溶けたタールの臭いが男の胸や顔に飛び散る。

「何すんだよ、汚ねえな」

 中西が手の甲で頬を拭いながら舌打ちした。

「いいじゃない。どうせこの部屋はわたしが掃除するんだから」

「俺が浴びたはどうしてくれんだよ」

「あなたなんて、元からけがれてるでしょ? 今さらこれくらいのこと、何だって言うの?」

「ハッ、言ってくれるぜ」

 とどのつまり中西が欲しているのは、洋介がドラッグを所持し常用していたという物的証拠だった。そのためには入手先を明らかにするのが一番で、本来それは警察の役目なのだが、果たされることなく突然捜査は打ち切られた。

「間違いなく、上からの圧力だ」中西は憎々しげに顔を引きつらせた。「現内閣の支持率はすでに十五パーセントを切っている。この低迷ぶりじゃいつ衆議院解散になるか分からんし、どのみち来年六月には任期満了で選挙だ。あいつらにしてみれば、今がまさに正念場。身内の不祥事が発覚するなんぞ、もってのほかってわけだ」

「そんな、一閣僚が自分の利権のために検察をコントロールするなんて……」

「できるんだよ」中西はわたしの思念をはねのけた。「事件と事故の違いはどこにあるのか分かるか? 端的に言うなら、それは起こった出来事がなんだ。刑法三十八条に『罪を犯す意思がない行為は罰しない』とある」

 確かに、世の中には、加害者だけを一方的に責められないような不慮のアクシデントというのがある。信じがたいような悪いタイミングが重なった末、他人に外傷を負わせたり、最悪その命を奪う結果になってしまった事例を医療の現場でたびたび見てきた。

「法律に関しては専門家じゃないし、偉そうな口もきけないけれど」とわたしはあえて前置きしてからつづけた。「故意じゃなければ罪に問われない、なんて、ずいぶん雑な話じゃない? そんなこと言ったら『わざとじゃありませんでした』の一言ですべてが許されてしまう。実際、過失で実刑判決が下された裁判だってあったはずだけど?」

 わたしの反論を、中西は小鳥のさえずりでも聞くように受け流した。

「刑法三十八条『罪を犯す意思がない行為は罰しない』の後には、この一行が付け足されている。『ただし、』。このに相当するのが、過失傷害や過失致死。やったことが故意じゃなくとも処罰の対象となる例だ。で、今回のヤマだが……」

 胸ポケットから取り出されたくたびれた手帳には、細々としたメモが乱雑に並んでいた。

「佐藤洋介がドラッグの使用を女に強要し、その結果女が死んだのなら、殺す意思の有無を問わず佐藤は刑罰に問われるだろう。だがこの筋書きには無理がある。川乃真衣が以前からドラッグを常習していたことは、すでに裏が取れてるからな。そこで佐藤に課せ得る罪状といえば、せいぜい保護責任者遺棄罪と麻薬取締法違反。そして何より、本人はもう死んでいる。これくらいのネタならば御上おかみのお達しで緘口令を敷き、薬物使用の事実は有耶無耶にして突然死と事故死で処理するくらいのことはできるさ。でなければヤクの入手経路も明らかにせず警察が捜査を打ち切るなんてありえない」

 佐藤宗徳といえば、その政治手腕は穏健で堅実なイメージが強い。敵を作りにくいのは持って生まれたその気質ゆえか、はたまた細緻な計略のなせる技か、その支持は与党内部のみならず野党にも多く、次期総理の呼び声も高い。そんな人物が公安ぐるみで身内の不祥事を隠蔽したとあれば一大スキャンダルになるのは間違いない。中西はそこにつけ込もうというのか。

「隠滅された証拠をつかんで、その後どうするつもりなの?」 

 訊ねたわたしの声など耳に入らないというように、中西は薄らとぼけて自分の顎を掻いていた。

「クライアントを、するつもりなの?」

クライアントな。今となっては盗人ぬすっとどもと言った方がいい」

「これまでのあなたの話が本当なら、相手が強大すぎる。その辺のチンピラとはわけが違うのよ」

「国家権力だからって、犯した罪を償わずに済むって寸法はねえだろうが」

「そういうのは法が規定する正義に則って遂行されるべき。あなたが個人的な恨みや利益のためにそれを利用するのは間違ってる」

「法? 正義? それを骨抜きにしたのがあいつらじゃねえか。弱者は結局、食いモノにされる。ならばこっちも『窮鼠猫を噛む』の精神で行くだけさ」

「あなたみたいな人が弱者を自称するの?」

「貰えるはずの報酬が手に入らず、事務所の家賃や光熱費も滞納。別れた女房から子供の養育費を催促する電話が三日と空けずかかってくるのが今の俺なんだが?」

 驚いた。こんな男に妻子がいたのか。養育費が必要というなら、子供はまだ成人していないことになる。

「結局、金の無心てわけね」

「殺されない範囲であいつらからとことん搾り取ってやるさ」

「下衆な話ね」

「褒めてくれてありがとう」

「悪いけど」わたしはニットの袖を元に戻しながら言った。「あなたが望むような情報を、わたしは何一つ提供できない。洋介がドラッグをやっていたなんて、今の今まで知らなかったもの。彼がどんな風にそれを入手してたかなんて、見当もつかない」

 中西は低い鼻に皺を寄せて舌打ちをした。

「医者のくせに、自分の男の様子がおかしいのに気づかないなんてな。アンタのその鈍さが今回の惨事の一因だともいえる。いっそこのまま医者なんぞ辞めちまえ。患者もその方が救われる」

「悪行がバレて刑事をクビになった挙げ句、今は落ちぶれて揺すりのネタ探しをしているような人間に言われたくないわ。無様なものね。これじゃ、ヤクザ以下のゴロツキじゃない。あなたの元奥さまや子供に心から同情するわ。こんな男と暮らしてたなんて、人生最大の汚点に違いないもの」

 中西の目に凄みを利かせた鈍い光が宿る。わたしはまばたきもせずそれを受け止めた。どうしてなのだろう。この男が己の力を誇示しようとすればするほど、それをさらに煽りたくなるような心の高揚を味わっていた。さあ、もっと怒りなさい。声を荒らげ、威嚇して、なんなら殴りかかってきても構わない。そんなの少しも怖くないもの。だって今、わたしのお腹の中には——。

「いいこと教えてやろうか?」

 張り詰めた空気を緩めるように中西が言った。歩み寄る、と言うよりはむしろ、自分が持つ切り札をちらつかせ、こちらの反応を面白がるような調子だった。「川乃真衣は、妊娠してたんだぜ」

 記憶の底にわだかまっていた女の面差しが、にわかに浮上する。ナース服が映える白い肌と、揺れるポニーテールの髪。漆黒の瞳は澄んでいて美しいが、時折ふと、何かを諦めているかのような薄い影が差す。

「赤ん坊、何ヶ月だったの?」

 その子もきっと女の子だわ。わたしはそう確信する。

「それがよく分からねえんだよ」男が歯の隙間から息を吸い込むようにして苦笑いする。「なんせ母子手帳だけで肝心の子供は腹にいなかったらしいからな。堕ろしたのか流れたのか……」

「かかりつけの病院に問い合わせても、はっきりしたことは分からないでしょうね……」

 そしてその後を、わたしは喉の奥でこうつづけた。——だってその子はまだ、死んでいないもの。

「どっちみち、生まれてこなくて正解だったろ。妊娠中もキメセクやるような女が母親じゃ先が見えてる。仕事柄、俺も色んな人間を見てきたが、人の一生ってのは、『どんな親のもとに生まれ、どんな幼少期を過ごすか』でほぼ決まる。『反出生主義』なんて言葉もあるくらいだからな。子供は親を選べない」

「子供って、本当に親を選べないのかしら?」

 下腹部を優しく撫で摩る。いったいどうしたというのか、先ほどまであんなに激しくそこを蹴っていたが、今は息を殺すかのように静まりかえっていた。

「いったい何の話してんだよ?」

「分からなくなっちゃったのよ。命とか、有形・無形とかの意味が。人はいつから『心』というものを手に入れるの? ひょっとしたらそれは、肉体を形成するより前なんじゃないかしら?」

「おい、ここ大丈夫か?」中西が自分の頭を指示して苦笑した。「言ってることが、どこぞのB級オカルト雑誌みたくなってんぞ。まあ、信じてた男に裏切られた上、浮気相手の女ともども変死したわけだから無理もないか」

「だって、実際は消えてしまったのよ。最初はそういう形の死なんだと思った。流産とも堕胎とも違う胎児の死、現代医学の想定から外れた死。でも違ったの。姿形は見えなくとも、はいるのよ。そして時折、わたしに対して感情を露わにする。それって心があるってことでしょう?」

 わたしはなぜ、こんな男に自分にとっての一大事を明かしているのだろう。いや、こんな男だからこそ、深慮もなく溢れ出る言葉をそのままにできるのだ。相手の方もそれは同じだろう。わたしたちはお互いもう、話すことも訊くこともなくなっている。

「アンタ、おっかねえ人だな」言いながら、中西は新たな煙草を口に咥え、火をつける。「俺、アンタのことも一通りは調べて知ってんだよ。出身地、家族構成、学歴、医者になってからこれまでのこと……大して興味はそそられなかったよ。生真面目で内向的で神経質、典型的な優等生コースを歩んできたお嬢さん。心神耗弱による体調不良で前職を辞めてるのが唯一気になる点といえばそうだが、それだってワーカホリックの人間には珍しくもない。

 でも佐藤洋介があんな形で死んで、その流れでこうしてアンタに直に会ってみて、自分の見立てがいかに甘かったのかがよく分かった。アンタ、だな? 話をしてるとこっちの胸が妙にざわつく時がある」

 わたしのへその下、まさに丹田たんでんと呼ばれるエリアに黙座していた圧が、支えを失ったかのように重心をぐらつかせ、音もなくしなびていく。少しずつか細くなる蝋燭の炎を見つめる気分だった。が再び消えようとしている。次わたしのところに来てくれるのはいつなのか、待ち焦がれる日々を思うと胸が苦しくなり震えるまぶたを閉じた。

「世間の其処彼処に溜まった悪のおりに手を突っ込んで、指先に触れたものを片っ端から引き摺り出す……刑事デカだった頃の俺は、毎日がそんな風だった。薬の製造密輸、臓器目的の人身取引、殺人と死体処理の請け負い、拉致拷問マインドコントロール……人の数だけ悪事があって、それを生業にする輩も存在する。犯行の動機が怨恨や金銭目的ならまだいい。事件の全貌が掴みやすいからな。タチが悪いのは、一見ごく平凡な奴が倒錯的欲求によって引き起こす凶悪犯罪。今から十年以上も前の話になるが、人肉嗜好カニバリズム? いや、肉体切除嗜好アポテムノフィリアだったか? 逮捕時、殺した相手の屍肉を細かく切断してそれに喰らいつきながらシコってた奴がいた。若い女ばかり狙う無差別連続殺人の犯人だったが、あれはさすがに気味悪かった。

 つまり俺は、頭のねじが緩んだ奴らには慣れてるんだよ。目の前にいるのがどんな奴だろうとまず動じることはない。なのにそんな俺が、顔の青っ白い生真面目な女医を見て身震いするなんてな。こりゃいったいどうしたことだ? アンタいったい、何者なんだよ?」

 ふと、と川乃真衣の腹にいた子は今、同じ場所にいるのではないかという気がした。わたしの手が決して届かないどこか。靄の立ち込める水辺の、無数に浮かぶ蓮の葉の一つに、姉妹は対の勾玉のようになって横たわっている。彼女たちにとって眠りとは、まだ皮膚とも呼べない薄い膜の中にかろうじて自分をとどめ、有形と無形の狭間を絶えず揺蕩たゆたうことだ。

「まさか今回の一件も、アンタじゃねえだろうな? アンタがあの二人をったのか?」

 男がゴクリ、と喉を鳴らすのが聞こえた。

「さっきから一人でよく喋るわね」微睡まどろみから覚めたようにわたしは半目を開けた。「もしそうなら何だっていうの? 拘束して警察に突き出す? それとも金を脅し取る?」男の口からタバコを奪い、テーブルのスマホの上で揉み消す。画面にあった川乃真衣の顔が灰に塗れながら煙を上げた。

「いや、事件当夜、アンタはここにいて一歩も外へは出ていない。そんなことはとうに裏が取れてる。しかし俺にはどうも引っかかるんだ。アンタ、なんか隠してるだろ? それにいざとなれば殺しくらい平気でやる。俺には分かる。アンタ、

「俺には分かる、ねえ……」なんだかおかしくて、わたしの頬は盛り上がる。「元刑事の勘にずいぶん自信がおありのようで何より。でも、大切なことを見落としてるわ。あの日あそこには、洋介と真衣の他にもう一人いたのよ」

 中西は視線を汚れたスマホの上に落とし、それから再びわたしを見た。熱に浮かされたような顔をして、しきりに目をしばたたいている。

「わたしのことをプロファイリングしてヤバい奴認定したいのならどうぞご勝手に。でもね、探偵さん。『受胎』という事象をお定まりのように安直に捉えない方がいいわ。医学書の『妊娠』の項を読んでごらんなさい。それがいかに残酷なであるかがわかるから。 

 胎児と母体の結びつきは、いわば絶対的主従関係みたいなもの。あるじがどんな暴君であろうと家臣はその命令に従うより他ない。ホルモン、自律神経、体性感覚(触覚・温度感覚・痛覚)、特殊感覚(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・平衡感覚)とその影響は多岐に及び、結果、母体には貧血・浮腫ふしゅ・蛋白尿・糖代謝異常・高血圧・冷え症・異常発汗・のぼせ・口渇・動悸・めまい・過食拒食・便秘下痢・肌荒れ……と取り上げたらきりがないほどの諸症状が引き起こされる。その他、精神面への作用も大きく、食の好みが変わったり、物音に異常に神経質になったり、イライラしやすく攻撃的になったり、塞ぎがちで無気力になったり、別人格が現れたんじゃないかと思うくらい気質の変わる人も。

 ……これが何を意味するのか分かる? 受胎って、一個の生体をそれまでとは別な形に作り変えてしまうみたいなものなのよ」

 言葉が洋酒の匂いのするキャンディのように舌の上を転がって糸を引く。妊娠について語るのは、わたしとの間に目に見えない交感があることを確認する作業でもあった。そう、蓮の葉の地下茎は、水中奥深く貫いて、わたしのもとまで届いているのだ。

「……死んだ赤ん坊が、二親ふたおやを呪い殺したとでもいうのか?」

と言ってるの。実際、世界では毎日約八百人ほどの妊産婦が死亡している。時間に換算したら、これは二分に一人の割合よ(*3)。医療の発達した日本でさえ年間二十人から五十人ほどが亡くなっていて(*4)、その中には死因が特定できないものも多く含まれている。洋介の死に関しては偶発事故だったかもしれないわね。自分の尻を拭う覚悟もないくせに好き放題やって自爆したんだから同情はできない。それと一つ断っておくけど……」

 といったんそこで言葉を飲み込んで、わたしは男の目を直視した。

「川乃真衣のお腹にいた赤ん坊、まだ死んでないから」

「イカれてやがる。母体が死んでるのにその腹にいた赤ん坊がまだ生きてるなんて、アンタ、自分の言ってること分かってんのか?」

 男は抗っていた。わたしに対してではない。妖しい口舌こうぜつに酩酊し、理性を失いそうになっている自分自身に対してだ。なんと虚しいことだろう。無駄に動けばその分だけ、毒の回りは速いというのに。

「まだこの世に産み落とされていない、生体として曖昧な存在に、市井の死生観がそのまま当てはまるのかしら? にとっては生と死の明確な境界なんてないのよ。二つの間を自由に行き来しながら、我々が想像もしないようなやり方で世界と結びついてるんだわ」

 そう。わたしとあの子がなぜこうして今も交感しあえるのか。それを他人に説明するとしたら、こういう物言いをするよりほかはないのだろう。

 男が突然ブルっと身体を震わせ、陸に上げられた魚のごとくパクパクと口を動かしたのは、その時だった。うわずった声で「おい、何だそりゃ?」とこちらを指差す。見ると、わたしの着ているライトグレーのニットが、胸の膨らみを型取るかのようにそこだけ黒く染まっていた。

 まさか、血? と裾から手を入れ、中を確かめてみる。両の乳房がそれを包むブラ共々ぐっしょりと濡れ、痛いくらいに張り詰めていた。手のひらに鼻を近づける。ほのかに鉄の匂いがしたが、それが血ではないことは明らかだった。産科に通っていた頃、院内のあちこちで嗅いだ記憶のある匂い。

 震えながらこちらの様子を窺う男に向かってわたしは言った。今ここにいない二人の子供に、近い未来必ずや会わなければならないという決意を込めて。 

「分かった? これがの力なの。囚われたら最後、抗うことなんてできないのよ」



(*3)WHO、Maternal mortality-Key factsによる。

(*4)厚生労働省政策統括官『人口動態統計』による。





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