——十月十九日(木)午後一時二十七分——

 わたしにしては珍しく、まだ日の高い時分、しかも外出先でペンを執っています。

『ティールーム・楓』は、姉のペンションから歩いて十五分ほど。地域の人たちに長年愛されつづけているレトロな雰囲気のお店です。その名の如く店の脇には楓の樹が植っていて、つい先ごろまでは濡れたように紅く色づいた見事な葉群れを拝むことができました。産地、収穫時期、フレーバーなど、種類の異なる紅茶が常時五十種類以上。季節ごとに茶葉の入れ替えもあり、希望すればテイスティングもできます。軽食はスコーンとシフォンケーキのみ。場所も本道からずいぶん奥に入った目立たぬ場所のせいか、昼夜を通して混み合うことがほとんどありません。どうか今のままでありますように。一見の観光客にSNSで拡散されたりしませんように。そんな風に願うのは、お店の方に失礼かしら? でも、外出といったらR先生のクリニックに行く時以外、近所の散策くらいしかしないわたしにとって、ここはきわめて稀少な、かけがえのない場所なのです。

 経営者は品の良い老夫婦で、常連客もそれに似た雰囲気の人ばかり。無駄口を叩く人はおらず、皆何かの符丁のように同じ沈黙を守り、馥郁ふくいくたる紅茶の香りに身を委ねている。琥珀色の照明、モスグリーンの一人用ソファ、かすかに聞こえてくるBGMのチェンバロ……。何一つ余計なものはなく、欠けているものもない。

 実はここ数日、気持ちがひどく塞いでいました。理由は二つあって、一つ目は今月も規則正しく生理がきたこと。本来なら喜ぶべきはずなのに、今のわたしにとってそれは、がまだ身体の中に戻っていない証になってしまう。皮肉なものです。

 もう一つは洋介のこと。つまり、の父親のことです。先日、北海道にきて初めて彼に手紙を出しました。主な内容は、最近のわたしの暮らしぶりや体調の変化について。それから、わたしたち二人の今後について。彼からの返事もすぐに届いて、とにかく一度会って話をするということになっていたのですが……結局、二人の再会は、果たされぬまま終わることとなりました。警察から知らせを受けたのです。三日前の月曜日。ちょうど今くらいの時刻でした。その内容は、にわかには信じがたいものでした。洋介が……ほんの数日前、わたしに手紙を書いてよこした洋介が……死


 とそこまで書いた時、怖気を催すような気配を感じて、わたしは視線を上げた。いったいいつからそこにいたのか、黒いニット帽にダウンジャケットという出立ちの小柄な中年男が、こちらを見下ろすようにして立っている。わたしは咄嗟にノートを閉じた。

 男はこちらのあけすけな嫌悪など歯牙にもかけぬ様子で、軽く手刀を切りながら「ちょっと失敬」と真向かいの席に腰掛ける。

「あんた、黒田遥子サン、だよね?」

 わざとらしい笑みだった。やけに間隔が開いた左右の目とパクパク動く薄い唇、全体に扁平な感じのする面立ちは泥水に潜むナマズを連想させる。きつい煙草臭で吐きそうになり、すぐにでも席を立ちたかったが、無下にそうできない理由がわたしにはあった。

「何のご用ですか?」

 声を低くしながらも毅然とした態度を心がける。

「人目につくとこじゃなんだから、俺の部屋でどう?」

 男はダウンジャケットの胸元をまさぐり、煙草の箱とライターを取り出した。

「ここは禁煙です。それにわたし、あなたのことなんか、知りません」

「あんたが俺のことを知らなくても、俺はあんたのことを知ってるし、あんたに用があるんだよ。しかも、とっても大事なね。あんたが今、も、色々と教えてあげられると思うが?」

 にやりと笑う口元に黒ずんだ乱杭歯が覗く。いったい何のつもりで? どうしてここに? わたしをつけてきたの? 問い質したい欲求をなんとか飲み込んだのは、店の老婦人がオーダーを取りにきたからだ。

 差し出されたグラスの水を、男は「もう出るんで」と軽く制し、それからわたしに向かって「んじゃ、待ってるから」と、意味ありげに片眉をつり上げて見せた。

 出入口ドアのカウベルがカロンと乾いた音を立てる。激しい怒りと悔しさが胸の内で綯交ぜになり、握り締めた両の拳をそのままテーブルに叩きつけたい衝動に駆られた。馴れ馴れしい口をきかれたこと。大切にしていたこの場所をタバコ臭で穢されたこと。そして何より、拒絶できないこちらの心情を見越したような太々しいあの態度。

 ふと周囲を見回した。いつもの席でいつも通りの時間を過ごす常連客たち。皆素知らぬ風を装ってはいても、内心では訝しんでいるに違いない。近ごろよく見かける素性の知れない女と、いかにも禍事まがごとを招きそうな胡散臭い中年男。二人の間に張り詰める、何やらことありげな緊張感。

 もうここを訪れることはできない。そう思うと、やり切れなさが一気に込みあげてきた。わたしは弾かれてしまったのだ。紅茶の香りとチェンバロの音色に彩られた、この平和な空間から。もちろん一お客として今後もここに通うことは可能だろう。でも、そういうことではないのだ。今までこの店は陸の孤島のように外界を遮断し、純度の高い良質な孤独をわたしに用意してくれた。それがあの男によって踏み荒らされたのだ。これからは何もかもが変わるだろう。店内にカウベルが鳴り響くたび、薄汚いあの男とそれによってもたらされた惨めな敗北感を思い出す自分が想像できた。視線をティーカップの中に落とすと、緋色に透き通る液体の上に、虚ろな目をした女の顔が映っていた。


 夕食の後片付けを終え、小織を寝かしつけてから姉に一言「お疲れさま」と声をかけて自室に戻る。時刻は午後八時半をまわっていた。

 デスクの引き出しから洋介の手紙を取り出し、もう幾度となく読み返しているその文面に目を落とす。力強く、それでいて美しい筆跡は、まさに彼の人柄そのものだった。わたしは手紙を元の場所に戻し、心を決めて部屋を出た。

 廊下の左右を窺い、人の気配がないのを確かめてから、ルーム番号5の部屋をノックした。すぐにドアが開く。

「待ってたよ」

 男がドアの内側でニヤつきながら言う。ティールームで会った時よりずいぶん老けていて、一瞬、同じ人物だろうかと躊躇した。でも少しして、それは最初に被っていたニット帽がなく、薄い頭頂部が露わになっているためだと気づく。

「さあさあ、そんなとこに突っ立ってないで、とにかく中に入って」

 男は土色の唇をぺろりと舐めながら、わたしに向かって手招きした。

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