佐藤洋介様

 現在、時刻は夜の十時半をまわったところ。いつもならわたしはもうとっくにベッドに入っています。びっくりでしょう? 外来、オペ、当直、提携病院への出張、学会、研究など、医師として変則的な勤務体系が当たり前だった頃とは大違いですから。早くベッドに入ったぶん、長く良質な眠りが保証されるといいのですが、なかなかそう上手くはいきません。

 こうして筆を執ってみたものの、すでに一時間近くが過ぎています。溢れ出してくるたくさんの想いは言葉にしようとしたとたん手元からするりとこぼれ落ち、跡形もなく霧散してしまう。わたしって、こんなに愚図だったろうか? 我ながら嫌気がさしてきます。服用している薬の副作用のせいなのか、元来の乏しい筆力のせいなのか、現在あなたに対して抱いている複雑な心情のせいなのか……いずれにせよ、一つのことに腰を据えて取り組むということが、今のわたしにはとても難しい。ここ数ヶ月に及ぶ療養に、はたしてどれほどの成果があったのだろうかと疑念を抱かずにはいられません。

 ……わたし、何を話そうとしていたんだろう? この手紙の本来の目的は? そう、あなたに伝えておきたいこと、伝えなければならないことがあるのでした。いくら時間をかけたところで時系列や因果関係に破綻のない、上手くまとまった説明などできそうもないから、この際割り切って、頭に浮かんだ言葉の切れ端を気の向くまま繋ぎ合わせていきますね。


 わたしはあなたの前から姿を消した。なんの前触れもなく、ある日突然に。

 急に連絡が取れなくなったことを不審に思ったあなたは、わたしの部屋を訪ね、そこがもぬけの殻だったことにひどく驚いたことでしょう。その後あちこち手を尽くしても所在はつかめず、事件や事故を想定して、警察へ相談しようかと考えたかもしれない。

 わたしがあえて携帯を解約しなかったのは、警察の関与を未然に防ぐためと、あなたに向けて「しばらくそっとしておいて下さい」という婉曲的なメッセージを残したかったから。ふり返れば、なんて身勝手で浅はかだったのかと、自分自身に呆れます。本当にごめんなさい。

 そらぞらしい言い訳にしか聞こえないでしょうが、あの時のわたしには、あれが精一杯だった。肉体も精神もぎりぎりで、正否の判断に自戒の働く余地などまるで残されていなかった。気まぐれのように吹いた一陣の風に身を任せ、着地点も分からぬまま浮遊した挙句、ようやくたどり着いたのが今現在の場所だったと言えるでしょう。


 を思い起こそうとすると、今でも手のひらに嫌な汗が滲んでくる。できれば二度と振り返りたくない。とはもちろん、わたしが医師としてあるまじき大失態を演じた、のことです。

 以前は同じ職場に勤務し、上司と部下という立場だったわたしたち。二人がそれ以上の関係にあることは、これまで誰にも明かさずにきました。

「恥ずかしいことは何もしていない、なぜ隠す必要があるのか」

 そう主張したあなたに対し、頑なにそれを拒んだのは、周囲の目が怖かったから。病院という特殊なコミュニティの内部で、女医という存在はとかく人目を引きやすい。世評などものともしない自己への厚い信頼があればいいけれど、わたしにはそれがない。クールで感情の起伏があまりないとか、他人にあまり関心がないとか言われるけれど、それは意識的にそう振舞ってきたから。

〝あの先生、悪い人じゃないんだけど、いかんせん愛想がなさ過ぎるのよね〟

〝まだ若いんだし独身なんだから、もう少し化粧とか、女らしくすればいいのに〟

 患者たちのひそひそ声が耳に入るたび、胸の深部をチクチクと刺されるような思いを味わっていました。 

 そんな臆病でさえないわたしに実は恋人がいて、相手は院内にいる。しかもそれが、患者にも職員にも一番人気のあなただなんて。

〝佐藤先生、なぜよりにもよって黒田なんかと?〟

 険のある眼差しをこちらに向け舌打ちする女性たちを想像するだけで、全身に怖気おぞけが走りました。

 わたしたちの関係を知らぬゆえの無遠慮さから「第二病院の黒田がオペで何かやらかしたらしい」なんて、悪し様な耳打ちをあなたにした輩もいたのでは? 何が面白いのか、いかにも自分は事情通だというように、うわさに尾ひれをつけて吹聴する人たち。

 あの日のオペは決して難しいものではなかった。BHA(*1)。あなたもご存知のとおり、整形外科でもっとも頻繁に行われる手術の一つです。

 わたしにとっても、このオペの手順は、もはや慣れ親しんだ詩の一説を諳んじるかのごとく身体に染みついていました。いったん手術台の前に立ってしまえば、あとは手の動くに任せておけばいい。強いて注意点を挙げるなら、その日は対象の患者が糖尿病を患っていたこと。ただこれに関しても、内科との連携で数週間前から徹底した血糖コントロールが行われていましたし、さほど大きな懸念材料とはなりませんでした。わたしを含め、当日集まったメンバーの顔には、これまで積み重ねてきた経験への矜持が活き活きと漲り、またそのことが各々の仲間に対する信頼にもつながっていた。……つまり、悪いことが起きる予兆など、何一つ見当たらなかったのです。

 なのに、どうしてなんだろう? あの時のわたしには、いったい何が起きていたんだろう? 正直、今でもよく分からないのです。

 わたしが最初に意識したのは、オペ開始の号令とともに始まった、左奥歯の疼きでした。歯根からこめかみに向かって走る、チリチリと焼けつくような痛み。

 こんなことはかつて一度もありませんでした。口腔ケアには普段から人一倍気を配っていましたし(実際その月のはじめに検診を終えたばかりでした)、何よりわたしは執刀中、心身が特異なゾーンに入り込みます。五感すべてが『オペの完遂』という、ただ一点のみに注がれ、その他のいっさいが無になる。慢性的な不眠による諸々の持病(頭痛、めまい、倦怠感など)に日々悩まされながらも、手術室に一歩入れば別人のようにそつなく仕事ができていたのは、まさにこれのおかげでした。

 でも、その日は違った。わたしの脳はわずかな痛みの信号をキャッチすると、そのままそれに支配され、統制力を失った。

 そこにいるスタッフ全員の目が、食い入るようにわたしの手元を見つめていました。切開すべき対象部位の数センチ上で、石のように固まったまま微動だにしないメス。何をもたもたしてるんだ、今日はこの後もオペが詰まっているというのに。周囲の息づかいが、そんな風にわたしを追い立てている気がしました。

 フリーズしたパソコンのように自分が自由にならなかった。頭のてっぺんからつま先までが、不可逆的な化学変化を起こしたように硬く結ばれていた。肉体が鈍化する一方で、ますます研ぎ澄まされていく奥歯の疼き。眼球の裏側で血液が沸騰したように脈打ち、無影灯の光がぐるぐると回転する。背中を伝う冷たい汗。朦朧としてくる意識。誰かわたしの手からメスを奪い取って欲しい。このままだと、わたしは目の前に横たわるこの人を、徒に殺めてしまうかもしれない——と次の瞬間、隣でナースの短く籠った悲鳴が聞こえ、わたしは痺れた手にメスを握りしめたまま、眼下の床にすがるようにして、その場へへたり込んだのです。

 それから先のことは、あまりよく覚えていません。幸い、助手役だった先生が、守備よくわたしの後を引き受けてくれたお陰でことなきをえましたが、患者及び当日その場にいたスタッフたちには面目次第もなく、何をどう謝罪したところで安ぽい言い訳にしかならない気がしました。

 後日わたしは、病院の医療安全管理部による事例検証会に出席するよう命じられ、一連の出来事に関して査問にかけられました。

 部の最高責任者であるS教授は、極度のミソジニストとして内々では有名な人物です。

「今回の件は、誠に遺憾ではありますが、熟練したスタッフ同士の速やかな連携により事態をインシデント(*2)の範疇におさめることができました。よって慎重に現場の検証を行い、原因を究明した上で、今後の再発防止に努め……」

 そんな風に議会を穏便に収束させようとする声があがると、Sは透かさずそれを制し、『人の生死』という重責を担う医療の現場において、志低く職務怠慢な一部の人間による過失がいかに多くの悲劇を招いているか、その実例を悲嘆を込めた声で列挙しだしました。

「……で、君は自分の不手際が、この病院全体の信頼を著しく失墜させたことに、どう責任を取るおつもりかね?」

 果てしなく続くかと思われた長台詞を一旦区切ると、痩せこけたラクダのようなその老人は、わたしに向かって薄笑いを浮かべました。

「限界でした」

 抑揚のない声でわたしは応えました。

「ご指摘のとおり、今回の出来事は、ひとえにわたし個人の過失です。大事に至らなかったとはいえ、決して看過されていいものではありません。どのような処分も甘んじて受け入れる覚悟でおります。ただ……」

 いったい何を語ろうとしているのか? 自分で自分の真意を測りかねたまま、わたしは口からこぼれてくる言葉をそれに任せていました。

「ただ……わたしは以前から慢性的な不眠による諸々の体調不良を抱えており、休職、それがすぐには無理なら勤務体制の変更を所望しておりました。医局や総務課の方に確かめて頂ければ分かります。シフトがきつすぎました。もう、限界だったんです」

 室内が騒めき立つ。それまでわたしに対し穏健な態度を示していた面々にも、張り詰めた気配が漲っているのが見て取れました。

「要するに今回の一件は、と主張したいのかね? 黒田、遥子君?」

 いかにも〝してやったり〟というもったいつけた言い回しで、Sが前のめりになり、デスクの上で両手を組み合わせる。女がやる仕事など、所詮はこの程度のものなのだ——そんな声が、奥歯を擦り合わせるようなニヤつき顔から聞こえてくる気がしました。ほら、泣き顔の一つも見せてみろ。そうしたら処分に手心を加えてやってもいいぞ——。

 急に何もかもがくだらない茶番に思え、それが顔つきや態度にも表れたのでしょう。その後わたしは、管理部全体から集中砲火のごとく詰問と譴責けんせきの言葉を浴びせられることとなりました。

 迷惑をかけたスタッフや患者本人からならいざ知らず、免責と私利を満たすことしか念頭にない連中の説教や嫌味にどうして長々と付き合わねばならないのか。もうどうでもいい。一刻も早くこの場から立ち去りたい。わたしはにわかに席を立ち、つかつかとSの前に歩み寄ると、胸ポケットに忍ばせてあった辞表を差し出しました。そこにいる面々の顔を一人一人記憶に焼きつけるようにして見回し、深く一礼をしてから部屋を出る。背後でわたしを呼び止める声がしましたが、振り返りませんでした。

 あなたもご存知のとおり、わたしのような個人開業の当てがない医師にとって、大学という母体から切り捨てられることは、本来とても憂慮すべき事態です。その理由がオペの失敗だというならなおさらのこと。

 でも、それももうどうでもよかった。孤独のまま退行変性し、最後は抜け殻のようになって萎びてゆく。『精神の自傷』とでも呼んだらいいのか、その時のわたしは、破滅する自分自身を思い描くことで、えも言われぬ奇妙な安らぎさえ覚えていたのです。


 現在わたしの主治医であるR氏を紹介してくれたのは、大学時代の恩師です。どこから伝え聞いたのか、彼はわざわざ医局にまで足を運んでくれ、辞職するわたしに労いの言葉をかけると、紹介状を一通手渡してくれました。米国ペンシルバニア大学の精神病理学研究所で長年研鑽を積んだ睡眠障害の治療に定評のある先生だ、と。

 R氏は札幌に自身のクリニックを持ち、月に数回、東京でも診察をしているとのこと。ありがたかったのですが、正直、気がすすみませんでした。心身ともに疲弊し切っていたし、敬愛する恩師の伝手つてだとはいえ、大学関連のしがらみを引きずるのは、ほとほと嫌気がさしていたので。

 早く一人になりたかった。誰の目にも留まらないよう、小さな箱の中におさまって息を殺すようにじっとしていたかった。わたしを元気づけようとあれこれ気持ちを砕いてくれるあなたのことが鬱陶しく、電話やメールを無視したり、部屋に来ても素っ気ない態度をとってしまったのもそのためです。永遠につづくかと思われた不毛で煩雑な時間は終わった。わたしはもう、自由なのだ。今は一人、無心でベッドに身を横たえていたい——あの時のわたしに必要だったのは、やわらぎを含んだ眼差しを向けられることではなく、五感の全てを茫漠とした霞の中に紛れ込ましてしまう静寂だったのです。


 札幌のクリニックを訪ねてみようか。そんなことを考えだしたのが、辞職後、自宅マンションに引きこもって二月ほど経ったころ。導眠剤のストックが切れたのがきっかけでした。わたしの預金口座には親からの遺産が手付かずで残されていたため経済的な心配は当面なかったのですが、さりとて世捨て人のごとき日々をずっと送っているわけにもいかず、現実と向き合い、未来へと踏み出すとっかかりもそろそろ必要となっていました。それに北海道まで行ってしまえば、わたしの素性を知る人間に出会でくわすことも恐らくない。あなたもご存知のとおり、医療の世界はとても狭い。黒田の奴、例のオペのことが原因で、今は精神病院通いしてるらしいぞ——そんな噂も瞬く間に広がってしまうのです。

 通院先は遠ければ遠いほどいい。いっそのこと、これを機会に東京を離れようか? 朧げな想いがじわじわと圧を増していた頃、それを見計ったように道東でペンションを営む姉から電話が入りました。「しばらくこちら(北海道)で過ごしてみないか」と。

 どうせ今は仕事もなく、先のことなど何一つ定まっていないのだ。思い切って転地療養と決め込んでしまえ。なかば捨て鉢な想いで姉に従ったはいいものの、待ち受けていたのは予想とはかけ離れた生活でした。

 ペンションの業務と生まれたばかりの姪っ子の世話に明け暮れる毎日は、頭から湯気が立ちのぼりそうな忙しさで、こっちの次はあっち、あっちの次はそっち。立ち止まる暇さえ与えられません。ひょっとすると姉は、わたしが病人だということを忘れているんじゃないか? そう訝しみたくなる時もしばしばです。

 さらに驚いたのが、R氏のクリニックがここから片道三時間半もかかること。同じ道内ならば通院も楽だろうと短絡的に考えたのが大きな過ちでした。実際は、羽田から空路で向かう方が楽だったのに。東京での暮らしが当たり前になっていたわたしは、目的地まで移動するもっとも重要なファクターが距離そのものではなく交通インフラの成熟度のなのだという、ごく当たり前なことに思い至らなかったのです。もしわたしが写真愛好家や鉄道マニアだったら、車窓の向こうを流れる大自然の景色や、呆れるほどに速度の遅いローカル線の風情を、もっと楽しむことが出来るのかもしれませんが。

 正直、自分の病状が今どうあるのかはわかりません。R氏の治療は、これまでの投薬中心のやり方とは違い、認知行動療法を主体にした多彩なアプローチでわたしの心を紐解き、身体を健やかな状態へと導こうとするもの。残念なことに、今のところ目ぼしい変化はなく、不眠は相変わらずですし、めまい、耳鳴り、動悸などの諸症状も改善したとは言い難い。ですがそれでも、東京のマンションに一人、カーテンを締め切ったまま悶々と日々を過ごしていた頃よりはましなんじゃないかと。実際、数ヶ月前のわたしなら、あなたに宛ててこんな風に手紙を書こうだなんて、思いもしなかった。


 ここまでの話を聞いて、あなたは今、どう感じていますか? わたしについて。わたしとあなたとの今後について。

 手紙を書きながら、ふと、頭をよぎったことがあります。

〈ひょっとしたらあなたにはもう、新しい恋人が出来てるんじゃないか?〉

 たとえそうだとしても、なんら不思議ではない。むしろ、それについてこれまで一度も考えなかった自分がひどく厚かましく、恥ずかしいくらいです。なにしろわたしは、あなたに何の断りもなく行方をくらまし、四ヶ月以上ものあいだ連絡を絶っていたのですから。

 ただ、もう一度会って話をしたい。わたしたちにはもはや、共に歩む未来など無いのだとしても。あなたの目を見て謝罪をし、これまでのことを心から感謝したい。 

 わたしにそのチャンスを与えてくださいますか? 返事を待っています。


(*1)大腿骨人工骨頭置換術

(*2)病院内で起きたトラブルのうち、患者の身体には直接影響がなかったもの


                          

  黒田遥子様

 今朝、ネットのトップニュースに『北海道で早くも初霜』というトピックを見つけました。例年よりも二週間ほど早く、今年は厳冬で積雪量も多い見込みだとか。朝晩はもうずいぶん冷え込むことでしょう。

 君が前より元気になっているのが手紙の文面から見て取れます。嬉しいです。もちろん完治に向けて治療は継続されていくのでしょうが、どうか焦らず、自分の体調とじっくり向き合って下さい。

 君の主治医であるR氏の著書『精神医学という毒——心の病はなぜ治らないのか——』を読了し、彼が信頼に値する医師であると一応は認識しましたが、それにしても、片道三時間半(往復で七時間!)の通院はなかなか大変ですね。月一くらいの頻度なのかな?


 君の行方が分からなくなった時は、正直かなり動揺しました。けれど、それと同じくらいショックだったのが、という現実を突きつけられたこと。誰よりも君のそばにいて、君のことを理解し、支えになっているつもりでいたけれど、それは単なる僕の独りよがりだったと気づかされたのです。

 ふと思い立ち、昔から懇意にしている弁護士に相談してみたときのことです。

「洋介君と黒田遥子さんとのご関係は? ……恋人ですか。黒田さんのご両親とはもう連絡取りました? なぜしてないんです? ……ああ、もう亡くなってるのか。じゃあ、兄弟とか他の親類縁者とか、彼女の友達関係なんかは? ……知らない? 思い当たる人が一人も? うーん、ならば失踪前の黒田さんの様子はどうでした? 何か悩みを抱えていたとか、思い詰めているような素振りがあったとか。そうだ、彼女の行き先に思い当たる場所はないです? 子供の頃住んでいた町だとか、思い出深い旅行先だとか、ドライブでよく訪れていた海辺とか。……あの、洋介君、つかぬことお伺いしますけどね、キミ、黒田さんとの交際期間どのくらいなんです? 三年? 三年かあ。うーん……」

 もうすぐ還暦を迎えるというその弁護士は、目尻に刻まれた皺をさらに深くして僕の顔を窺いました。こちらに微笑みかけているというより、呆れて苦笑しているという方がしっくりくる表情。中高生じゃあるまいし、いい歳をした大人が三年も交際していた相手のことをここまで何も知らないとは。そんな思いが透けて見える気がして正直腹が立ちましたが、それ以上に歯切れの悪い受け応えしかできない自分自身が情けなかった。

「警察に届出を出しても、洋介君の希望に沿う対応はおそらくしてもらえないでしょう」

 彼は目尻を下げたままの顔で、それでもきっぱりと僕に言いました。

 ・対象者が子供や認知症を患う老人である場合。

 ・対象者が事故や事件に巻き込まれた可能性がある場合。

 ・対象者が遺書など自殺を仄めかす物証を残している場合。

 これらに該当するケースを除き、警察が家出人の捜索に積極的に乗り出すことはまずない。理由として、『人はそもそも自分の居住・居留を本人の意志で決定する自由があり、何人ともそれを侵すことはできない』という、憲法にも定められた人権尊重の基本精神が働いているのだとか。

「さらに残念なことを言うようですが、洋介君の場合は、届出自体が警察で受理されない可能性があります」

 畳み掛けるように弁護士は喋りつづけます。今回の一件で僕もはじめて知ったことなのですが、行方不明の届出というのは家族、配偶者(事実婚含む)、婚約者、後見人、同居人、雇用主など、捜索対象者と社会生活において密接な関係を有している者だけに認められ、届出人が恋人の場合、付き合った期間が短い、二人の関係を示す物証に乏しい、などの理由で要請しても受理されないケースがしばしばあるとのこと。なんとも腑に落ちない話なのですが、実はこれにも理由があって、『恋人を偽装したストーカー犯が、逃げた被害者の居場所を突き止めるために警察の捜査網を利用する』なんて事態があってはならないためだと。話を聞けば聞くほど虚しくなって、途中からはもう何も耳に入らなくなっていました。

 弁護士事務所を出るとすでに日は落ち、街は色とりどりの灯りに縁取られていました。歩道には雨の跡が残っていて、そこから蒸散する都会の夏の嫌な臭いが、胸の内にわだかまる敗北感に拍車をかけます。近道のため小路へ入ろうとして、すぐにそれをやめました。たかだか四、五分家に着くのが早まったからといって、それがなんだというのだ。君が待っているわけでもないのに、と。

 繰り返し考えるのは「どうして君はいなくなったのか」という、その一点のみ。確かに、例の手術の一件が君の心に与えたダメージは測り知れない。けれどそれが失踪の理由だというなら、僕にはどうも合点がいかない。生活環境を変え、しばらくは何も考えず休養したい。一人になって自分を見つめ直し、今後について考えたい。そう思うのは分からなくもないけれど、だからといってなぜ、僕になんの断りもなく消える必要があるのか。

 君にそうするよう仕向けたがあるのだ。僕の知らないが。そう直感が働きました。もしかすると君は、それが露呈するのを恐れたがゆえ、突如として僕の前から姿を消したのかもしれない。

 直感は、今朝届いた君からの手紙によって、確信へと変わりました。

 郵便ポストに入っていた白い便箋の裏に、『黒田遥子』の名を認めた時の驚きと興奮は言葉にできません。手が震え、封を切るのに手こずったくらいです。内容から君が無事であること、その生活が安寧であることを知って、曇った視界が一気に澄み渡るような感覚を味わいました。大学受験や医師国家試験に合格した時よりもはるかに嬉しかったし、ここ数ヶ月間の苦しみが報われた気もした。けれど、朗報に胸躍らせたのも束の間、次に僕の心を支配したのは、何とも形容しがたい、奇妙な違和感でした。

 ここには今現在の君の暮らしぶりと、そこに至った経緯が克明に記されている。一連のストーリーのどこにも矛盾撞着は見当たらず、読み手に甘んじるこちら側は「なるほどそうだったのか」と首肯せざるをえない。

 ……でも、果たして本当にその通りなのだろうか? 世の中にあふれている、いかにものほとんどが、であるのと同じように、僕はこの手紙に何かしらの作為と欺瞞を感じ取ってしまう。

 端的に言うならば、ここで君が語っている話はのです。君が数ある選択肢の中から「失踪」という、いかにも切迫した手段に縋ったのは、もっと複雑で、名状しがたい事情や心情が働いた結果なのではないですか? それを、ここまでそつなく体系化して、他者に理解できるよう完璧に文章に落としこんだことに、僕は疑心を抱かずにいられない。それは、君の知性や文才のなせる技だとか、そういう次元の話ではないのです。

 君は僕に、。違いますか? 


 今日は日曜日。午前中に掃除と洗濯を済ませ、軽い昼食をとってからジムで久々に身体を追い込みました。サウナですっきりした後、家に戻って野球中継を見ながらビールとデリバリーピザの夕食(トレーニングで消費したカロリー、これにてすべて相殺)。気づいたらいつのまにかソファで寝ていて、先ほど目を覚ましたところです。

 現在、時刻は午前一時三十七分。ふと、君のお姉さんがやっているペンションのことが頭をよぎり、ネットで検索してみることにしました。

 宿のホームページを探し当てURLをクリックすると、最初に表示されたのは、高台から見下ろす一面の草原とそこに点在する三角屋根の家々。これが今君の住む町か。学生時代、バックパッカーとして訪れた欧州・チロル地方の集落を彷彿とさせる風景でした。

 カーソルを下げると、今度は栗色のレンガ煙突が特徴のシャレー様式の建物が現れた。『森のペンション』という言葉がぴったりの外観。エントランスまでのアプローチは広い前庭になっていて、手作り感のあるぶらんこや、野菜・ハーブなどの植った菜園や、BBQができそうな広いオープンデッキがある。館内はいたってシンプルで清潔感にあふれ、それでもよく見ると内装や調度品に家主のさり気ないこだわりが窺い知れる。

 『フォトギャラリー』のページには四季折々の町の様子や、アウトドア・酪農体験などを楽しむ宿泊客たちの姿がアップされ、それぞれの写真が醸し出す臨場感や味わいに、思わず感嘆の声が漏れました。

 『ペンション・オーナー夫妻』と書かれたアイコンが目に止まったのは、そろそろパソコンを閉じてベットにもぐろうかと思案していた時。クリックすると、出てきたのは子牛を間に並んで立つ男女の写真でした。ご主人は黒ぶちメガネにラウンド髭、青いつなぎを着たプロレスラーのような体格の持ち主で、年齢は五十前後だろうか? 少し気難しげに見えるけれど嫌な感じはしません。一方、奥さんは華奢な体つきで横幅はご主人の半分にも満たない感じ。年齢もご主人よりずいぶん若いのではないか。頭にオレンジのバンダナを被り、デニム素材のエプロンを着けている。こぼれるような笑顔が印象的です。

 きっと素敵なご夫婦なのだろう。そう思いつつ、ここでもまた、君からの手紙を読んだ時と同じような奇妙な違和感に襲われる。

 君は家族のことをあまり語りたがらなかった。少なくとも僕にはそう感じられた。あれは、僕らが付き合い出してまだ間もないころ、どういう会話の流れかはもう覚えていないのだけれど、互いの身内のことに話が及びそうになったことがあった。

「両親はもう、二人とも他界しているの」

 君はささやくようにそう言って、うつむいた。僕はとっさに聞こえなかったふりをして、その時たまたまテレビで予告を流していた映画のことに話題を逸らした。家族のことには触れないで欲しい。君が胸の内でそう訴えているのを察したから。

 そんな君が、今はお姉さんと一緒に暮らしているという。口にすることさえ忌み嫌っていた血縁を拠り所にしているという。……いや、もうこれ以上は止めよう。夜の静けさに誘われて、余計なことまで口走ってしまいそうだから。

 もしかすると、僕は自分が思う以上に疲れているのかもしれません。このところ大きなオペが続いていたし、準備に丸二年費やした学会発表も来月に控えていますから。そろそろベッドに入りますね。おやすみささい。

 追伸——そちらは星が綺麗みたいですね。昔気まぐれで買ったままタンスの肥やしになっている天体望遠鏡を携え、いつか訪ねてみようかと考えています。僕に新しい恋人などいないのは、もうわかってますね?


  **


 洋介の死を知ったのは、彼からの手紙を受け取って、まだ一週間と経たぬうちだった。

 その時わたしは、日課にしている午後の散歩に出かけようと、身支度を整えていた。いつも持参する小ぶりのトートバッグを手にした瞬間、中のスマホが振動しているのに気づいた。ふだんは見知らぬ番号からの着信など無視するのに、その時に限ってそうしなかったのは、何かしら虫の知らせのようなものが働いたからなのかもしれない。

 警視庁四谷警察署の竹本と名乗るその男性刑事は、「黒田遥子さんの携帯電話でよろしいでしょうか?」と若々しく明朗な声色でわたしに確認し、それから後をこうつづけた。

「昨朝、佐藤洋介さんが交通事故により亡くなられました」

 放心したままその場に立ち尽くすわたしの耳に、内容の汲み取れない言葉の羅列がなだれ込んでくる。首都高速環状線……法定速度をはるかに上回るスピード……中央分離帯に……シートベルトの装着……意識不明……病院に搬送……死亡が確認され……。

 死亡、死亡、死亡……洋介が、死亡?

「もしもし、黒田さん。黒田さーん! 聞こえてますか?」

 ふと我にかえり、しぼり出すように「はい」とだけ応える。壁に手をつくことで、ふらつく身体をどうにか支えた。けれどそんなわたしに、竹本の次の言葉がさらなる追い打ちをかける。

「もう一つ大切なお話がありまして。実は、佐藤洋介さんのご自宅で身元不明の遺体が発見されています。詳しい検視の結果はまだなのですが、今のところ事件と事故の両方で捜査を進めています。本来ならば家主である佐藤さんに重要参考人としてお話をうかがいたいのですが、お知らせした通り、すでに亡くなっておられまして……」

 洋介の部屋に遺体? 捜査? 重要参考人? わたしは思わず相手の言葉を遮った。

「すみません、おっしゃっている意味がよくわからないのですが、それはつまり……洋介に殺人の容疑がかけられているということなんでしょうか?」

 竹本は一呼吸置いて、慎重に言葉を選ぶように言った。

、現在捜査を進行中ということです」

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