吐く。

千羽稲穂

何をしても口から母が出てくる。

 口内に手のひらの拳を突っ込んだ。奥にある喉に指先を伸ばすと、わだかまりが食道から汲みあがる。舌根にどろりとした液体が触れて、酸っぱさの霧が底はかとなく漂う。霧を押しきり、底から津波のように押しよせる液体。ともに手を引っこ抜いて、液体をトイレに流し込んだ。ぷかぷかと浮かび上がるのは、今朝方食したベーコンと卵の残骸だ。洋食に微笑みながら、だらりと身体を崩した。膝を折って、瞼を力強く閉じる。美味しかった、洋食。朝の、洋食。今まで制限されていた、洋食。名残惜しくて、すぐに吐いてしまったことに目頭が熱くなってしまう。吐いてしまった食材を拾い集め、自身の中に戻したい。骨張った喉を鳴らして、指先で喉の皮をなぞった。骨の凹凸が指先の骨とぶつかった。手の甲にはたこができており、堀が深い。

 ぽっちゃん、とトイレの泉に、何かが跳ねた。瞼を恐る恐る開けると、紅色の何かがひらひらとひらめいていた。水滴が体積を押し広げていく。じわりじわりと視界が紅で侵されていく。

 紅の尾びれが揺蕩う金魚を思い出す。金魚鉢に水疱がぷくぷくと風船のように浮いている。幼い頃、遊園地でもらった風船のようだ。私はあの風船から手を離してしまった。風が吹いて、ぷかぷかと青天井に向かってどこまでも上昇していく。いつまでも風船の紐を追っていた。

 あの風船のように母に金魚鉢を持ち上げられてしまった。私は小さな背を曲げて、床に縮こまる。裸足でついた床の冷たさは、凍えてしまいそうだった。冷たさが跳ね返り、上を見上げると、母の無垢な黒い二つの月が私を見下ろしていた。金魚鉢の中で金魚が息づいている。尾びれが巻き付いて球体に近づく。うろこの切れ間が輝いて、鮮やかな紅色をしていた。

 母は金魚鉢を地面にたたきつけた。ガラスの破片は星が爆発して弾けたように飛び散った。その中には、あの金魚もいた。紅色の金魚がぴちぴちと跳ねていた。呼吸がだんだん浅くなっていく。当時の私の手のひらよりも大きい金魚だった。夕暮れから夜に至り、干上がった魚は灰色のベールが覆われる。夜は灰から黒へと変貌し、金魚は黒い土の中に沈められていった。

 あの金魚は幼い頃の私の胃の中に沈められていったのだろう。溜飲を下げたとき、常に胃の中に紅色を押し込めているようだった。

 現在、胃から紅は放たれた。私は便器に頬をつき眺め続けた。だんだん橙色にぼやけて、霧散していく。紅色の金魚が悠々自適に泳いでいるかのようだった。

 しかしながら、私は目の前に現れた金魚がただの血液だと知っていた。血液をひとしきり眺め回すと、トイレのレバーを引いた。流れていく血液。尾びれのように線を引いた。

 リビングに戻ると静寂が場を満たしていた。私は深呼吸をして、すっきりした胃を持ち上げる。この静寂をひとしきり味わった。

 母の声はもうしない。


 職場の昼休み。コンビニに行ってきます、と財布を持つと珍しがられた。最近変わったね、明るくなった、と嬉しい言葉をいただいて、コンビニに赴く。これまで食べてこなかったお弁当を二個携えて、夢だったイートインスペースでたいらげた。ここ数日、トイレに駆け込んでしまうことが多く、胃の容積を余らせていたため、いくらでも詰め込めた。添加物たっぷりのごはん、油こってりの揚げ物、炭水化物ばかりで栄養バランスの考えていないお弁当。あまりの新鮮さと不健康さ、旨み。いくらでも口に運んでしまった。全てたいらげた後、すぐに口からせり上がるものを感じ取り、またトイレに駆け込んでしまった。鍵を閉めて、準備ができているのに、腹につめこまれたものが、優柔不断にも含みを持たせて吐くか、吐かないかと迷っている。私は人差し指と中指を突き立てて、突っ込んだ。迷っている暇などない。すると、内容物は諦めてくれて、喉の奥から顔をだしてくれた。後はされるがままに目の前に流し込む。唇は油でぬめり、いつもよりも滑りが良い。唇にのせられた紅は剥げてしまっただろうな。なんとなく名残惜しくなる。

 ぷかぁ、とまた、吐き出した中に紅が浮かび上がった。紅に橙が交じった薄い皮だった。桜の花びらを水に浸したように萎れている。この色合いの唇に視線をよせたことがあった。あの女の子たちの濃いピンク色の空気は、唇の薄皮から発せられていた。どの子達もピンク色のタイをして、セーラー服が似合っていた。膝小僧を見せるとともに、唇のピンクも見せあった。あの子が好き、この子が好き、と言い合って、ピンクのリップを唇に灯した。この色好き、と友達と楽しく話し合ったあの頃、貸してもらったリップ持ち帰ってしまったことがあった。

 黒い二つの月はどこまでも追いかけてきた。夜更けになると抜き打ちで、母からの鞄チェックが入る。担任の先生のように、マルバツをつけていった。そこでバツをくらってしまった。

 貸してもらったリップだった。リップは問答無用に三角コーナーに捨てられ、生ゴミと一緒にゴミ袋にまとめられて、私に差し出された。明日は燃えるゴミの日だった。私は、朝起きて、黒い月が二つばかしあるのを確認して、ピンクをこそげ落とし、ゴミ袋を持ち運んだ。玄関にある女の子らしい、母のハイヒールを横目に。

 現在も玄関には母のハイヒールは存在している。私の唇の色を全て吸いとりまがまがしい紅を放っていた。

 トイレに浮いていた薄いピンクの皮膚を流す。くるくると、吸い込んでいく様に安心した。


 しまった、と思ったとき、いつも既に遅かった。トイレにいつもながらに吐いてしまう。胃液しか垂れ流さない機械となってしまっては、終わりかもしれない。相変わらず静寂な家には安寧がたちこめているが、逆に静寂が私を責め立てる。テレビはつけない。テレビをつけている母の傍では何もせずに座していなければならなかった。それか、宿題。何か母の機嫌を損ねた答案用紙があればびりびりに破られた。それら全て私自身がゴミ捨て場に持ち運んだ。ヒールがある靴、派手なアクセサリー、コンタクトすら母のチェックにひっかかってしまう。

 だから、しまった、と思った。あの日、あの時、母が通勤する途中の道で、私は同級生の男の子と談笑してしまった。高校生の頃だった。彼は委員が一緒なだけで、遅くまで教室に残ってくれた、優しい男の子だった。私の地味な見た目にも違和感を持たずに好意的に接してくれた。

 歩道を並んで歩いていると、目の前に車が止まり運転席が開いた。降りてきたのは母だった。つかつかと赤いハイヒールを鳴らして、私たちに詰め寄った。次の瞬間、男の子の髪をつかんで、わめき立て、ちぎらんばかりに払い落とし、私の腕を掴んだ。半ば強引に車に乗せられた。私は怖くて振り返らず、ずっと下ばかり見ていた。私の髪を切り坊主に仕立て上げるときも、私は下を見ることしかできなかった。ちょきちょき、と切り取られて落ちていった黒い髪がとぐろを巻いてそそのかす。これで首を吊ろう。お前が悪いのだ。母の監視下だというのに油断したお前が。ぐしゃっとスカートを掴むと、手の甲にたこができかけていた。坊主になった後、食卓にひじきが並んだ。何の味もしなかった。


 今、トイレの中に、あの時のように黒いひじきのような糸が嘔吐物の中にふわふわと浮いている。とぐろを巻いて、記憶を絡め取ってしまう。美味しかった食事を、またしまったと思って、悲しげに流してしまう。ショックを受けていると、突然、小さな突起物が食道を駆け上がってきた。それは今生まれたいとでも言うように、口にたどり着くと、舌に転がった。歯にぶつかってしまったので唇をすぼめて吹き出した。

 小粒の何かが床に転がる。膝を床について小粒をつまむと、銀歯だった。喉の奥から息が吐き出される。

「ここは狭いわ。早く出してくれない?」

 喉の奥から言葉が吐き出される。口を手のひらで塞ぐ。出てくるな。私の安寧を、安心を、静寂を汚すな。手のひらの隙間から言葉が出てしまう。

 喉の奥、胃の中から、身体の奥底から。

「それで独り立ちしたつもり? 私がいないと何もできないくせに」

 私は立ち上がりふらつく。冷えた床を裸足で踏む。紅色に染まったあの日を追いかける。幼い頃、風船の紐を掴めなかった。リップクリームをゴミの中から拾い上げることも、答案用紙を大切に畳むことも、あの男の子の手を掴むことも、出来なかった。

 しかし、私は包丁を掴むことはできた。

 突き立てた先は、母だった。

 

「私を殺したのに普通に生きられるとでも思ったの?」


 母の声が私の奥底から響き渡る。「健康的な食事にしなきゃだめよ。はい、お弁当」と毎日渡し、少しでも派手な服装をしたら赤いハイヒールの靴を履きながら「卑しいっ」と吐き捨てた。母の手作り料理が食べられず、汚れたような物を食していると感じられたのはいつの頃からだっただろうか。私は吐きダコができた手の甲をさすりながら、ボロボロになった歯を鏡で示し合わせた。傍らで理路整然と整った母の歯が並ぶ。「ちゃんと歯ブラシで磨かなきゃいけないわ」と二十歳過ぎになっても私の口を開けさせる。こうなっちゃうからね、と母も同時に開いて、奥歯に銀色に光る星を指し示した。そして歯ブラシを私の口の中に入れてきた。

 限界がきたのは、あの年賀状を見たときだ。私に分け隔てなく接してくれた同級生の男の子が幸せそうな顔をして、奥さんと子どもと一緒に写っていた。


 私はたまらず母に刃を向けて、突き刺した。


 そのあと、母を解体し、全て飲み込んだ。母が私の化粧水を飲み干したごとく、私は母の、足から、太ももから、お尻から、腹から、胸から、徐々に上へと向けて食べていった。

 次の日から、私は以前よりも吐くようになった。胃では消化はできなかったのだろう。図太く私の中で母は生きていた。


「今から行くからね」


 喉から何かが這い出てくる。私は喉の奥からくる異物に耐えきれず抑えていた手を剥いで嗚咽した。舌根に髪の毛が絡まり、口内いっぱいに肉の塊が押しよせる。歯の裏側にぶつかって無理矢理、唇が開いた。裂ける。めりめりと。口の端が破けていく。額が口から出てきて、下目にそれを見てしまう。

 母の二つの黒い月のような眼が口から覗いていた。

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吐く。 千羽稲穂 @inaho_rice

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