実家に帰ったら母に『発信者情報開示に係る意見照会書』が届いていた。

狼二世

実家に帰ったら母に『発信者情報開示に係る意見照会書』が届いていた。


『発信者情報開示に係る意見照会書』


 封筒に印刷された業務用の飾り気の無い一文。シンプルで容赦のない文言と意味を認識した瞬間、佐藤雄一の頭は真っ白になった。


「見間違い、だよな」


 本物だと訴える理性を無視して願望が零れた。

 古びたテーブルの上に置かれた紙は、ただ事実だけを記している。目を凝らしても文言は変わらない。それでも、と微かな望みにすがり手にとると、封筒から紙が滑り落ちた。


 ――この阿婆擦れ!

 ――同僚に色目を使って優遇してもらっている!

 ――役員と寝ているから処罰されないんだ!

 ――■〇×■■■ね□償〇×××


 眼球を通して脳に飛び込んできた罵詈雑言の数々は、吐き気を覚えるのに十分なものだった。


「うそ、だよな」


 青白い顔に冷たい汗が流れる。漏れ出た言葉は掠れて、自分自身の耳にも届いていない。


「母さんが……母さんがSNS上で誹謗中傷を繰り返していたなんて、嘘だよな」


 否定してくれる声はない。震える手の中にある紙のみが『逃げるな』と訴えていた。


 ――発信者情報開示に係る意見照会書――

 SNS等に投稿された内容が度を越した誹謗中傷等暴力行為と判断され、投稿者の情報開示を求められた際に発行される。これが届いたと言うことは、受け取り主は度を越した誹謗中傷を行っていたと言う事である。


 それが、身内だったのだ。



 ――数日前

 佐藤雄一が務めるIT企業で、数年がかりの大規模なプロジェクトが完了した。

多忙を極めた日々の終わり、苦楽を共にしたプロジェクトメンバーとの打ち上げの席。話題は、次のプロジェクトまでの余裕で何をするか。


「いい機会だし実家に帰ったらどうだ? プロジェクトの都合で正月も帰れてないだろ」


 上司からのアドバイスは至極まっとうなモノだった。

 有休も十分に余っていた。雑用を押し付けられる前に学生以来の長期休暇をとった彼は、実家へと帰省する。


 都会から電車を乗り継ぎ数時間。田舎とも都会とも呼べないどこにでもある街。

 雄一が駅を出ると迎えてくれたのは、数年ぶりに見る故郷の町並み。それは、記憶の中と変わらず穏やかなものだった。


 思い出と重なる道を行き、子供のころよりも小さくなった我が家の前に立つ。

 インターフォンを鳴らしても返事はなかった。事前に連絡をした時も、到着時刻には居ないかもしれない、と言われていた。

 自宅の鍵を取り出すのは数年ぶり。けれど寸分なく鍵穴にはまる。


ドアを開けると、思い出の匂いが鼻をくすぐる。


「ただいま……」


 返事はなかった。分かっていた筈なのに、と雄一は胸に吹く隙間風を誤魔化す。


「母さんはパート、父さんは……もう居ないからな」


 雄一に内定が出た直後に、父は静かに息を引き取った。まるで役目を終えたかのように、死に顔は満足気であった。母を一人家に残すことに迷ったが、他ならぬ母親の言葉に送り出され、都会へ。それが数年前。


「……せめて出迎えくらいはしないとな」


 なら、お茶で用意しようと足はダイニングへと向かっていた。

 軋む廊下を歩み、ダイニングへと入る。電灯を付けると、目に入ったのはテーブルの上に置かれた一枚の封筒。


「発信者情報開示に係る意見照会書……って、まさか」


 それが、雄一を思い出から今へと引き戻した。



 意見照会書と言う現実が、雄一の手からテーブルの上に落ちた。

 紙が落ちる軽い音は、時計の秒針が時を刻む音にかき消される。

雄一は酷く緩慢な動きで歩き出した。不出来なロボットのような機械的な動きで戸棚を開ける。中にあったのは父が生前愛用していた茶葉が入っていた。湯呑を取り出すと、ポットのお湯を注ぐ。

 淹れたお茶は酷く不味い。熱すぎて口の中を火傷した。


「あつっ……」


 思わず漏らした言葉に、空気の振動が重なる。

 家の外から車のエンジンの音が聞こえる。それは徐々に近づいて来ると、ゆっくりと止まる。


そして、扉が開く音が聞こえた。


「あら、帰ってたの雄一」


 母親の声だった。声は雄一の記憶の中と相違ない。ただ、廊下を走る足音はやや軽くなっていた。


「おかえりなさい、雄一――」


 ダイニングへと顔を出した母親――佐藤双葉の顔には、雄一が知るよりも深い皺が刻まれていた。

 久方ぶりに息子を迎える母の眼差しは柔らかい。


 だが、それも一瞬だった。


 息子から突き出された手紙。その文面を見た瞬間、顔が固まった。


「母さん、これはどういうことなんだ!」

「どういうことって……」

「ネット上での誹謗中傷……会ったこともない人間に対してどうして阿婆擦れだとか男から金を巻き上げる詐欺師だとか言えるんだ!」


 SNSなどに母が書き込んでいた誹謗中傷の数々は、相手のパーソナリティに対する攻撃であった。その全てが事実無根の妄想であり、おおよそ初老に達した大人が口に出来るようなものではなかった。


「俺、恥ずかしいよ。こんなの小学生の陰口みたいなものだろ!」

「あ、アンタに何が分かるのよ! デュナスを失った私の気持ちが分かるって言うの!?」

「デュナス?」


 双葉の口から突然出現した言葉に、雄一は混乱をした。畳みかけるように、母は告げる。


「アンタには分からない! 血の繋がった息子ですらないんだから!」


 それは、雄一に対してけっして言ってはならない言葉だった。

 双葉の顔が固まる。その眼には雄一の顔がうつっている。

 怒りとも悲しみともとれない、色のない瞳。そこにあったのは失望。


「ああ、そうかよ!」


 雄一は何も言わずに家を飛び出した。



 道行く母子が僅かに悲鳴をあげた。彼女たちは隠れるように早足で立ち去る。暫くして、怯えて振り返った。視線の先には、ゾンビのような足取りで歩く雄一の姿があった。

 親子が逃げるのも無理はない。彼の顔は、酷く不気味な色をしていた。


「ここは……」


 ふと、足を止めると子供の声が聞こえた。

 彼が幼少期によく遊んだ公園は、今も子供たちの遊び場だった。

 フラフラと歩き、空いているベンチに腰掛ける。疲れと後悔が一斉に襲い掛かってきた。


「血の繋がった息子じゃない、か」


 自嘲する気力もなく、ただ脳に浮かんだ言葉を零す。

 

 佐藤雄一と佐藤双葉は、戸籍上は間違いなく家族である。けれど、雄一を産んだのは別の女性である。


双葉は、父が再婚した女性だ。


雄一の産みの母は、彼が幼い頃に命を落とした。彼女との記憶は雄一には殆どない。長短だけを比べるなら双葉と共に過ごした時間の方が遥かに長い。


 それでも、血が繋がっていないと言う事実は大きな隔たりとなっていた。


「そういえば……」


 昔、母と一緒に公園で遊んでいた時のことだった。

 砂場で工作をしていたところ、初対面の男の子と一緒になった。

 意気投合して語り合ううちに、家族の話になる。


――ねえ、君のママは何て言うの?


 無意識だった。ただ問いに答えただけ。


「みつきおかーさん!」


 出て来た名は、産みの母のものだった。

 帰り道、夕焼けの下で双葉がどんな顔をしたいたのか、雄一は思い出すことは出来ない。ただ、迷わないようにと繋がれた手が、普段よりも強く握られていたことだけは覚えている。



 夜、雄一は駅前のネットカフェに居た。

 実家に帰ることも出来ない。行くあてもない。夜を過ごす場所として選んだのはネットカフェだった。

 借りた端末を操作しながら、雄一は必死に記憶を手繰り寄せる。


「えーと、母さんのアカウントは……」


 手紙に記されていた母親のアカウントを検索する。幸いにして、すぐにアカウントは見つかった。メディア欄にアップロードされた写真は実家の庭に植えられた花。所在地の情報から考えても間違いなかった。


「相変わらず、と」


 アカウントは今も動き続けている。『刹那シア』と呼ばれる女性に対する誹謗中傷を分単位で投稿し続けている。


「刹那シア、か」


 刹那シナ――それは、現在配信サイトで活躍をしている、所謂『Vtuber』の女性である。正確には女性の姿をした何者かだ。

 近年登場したアバターを利用した配信者、その中でも数十万の登録者を持つトップ層のうちの一人。


「ちょりーっす、か」


 配信開始時の明るい挨拶。快活な妹のような存在として、多くの人に愛されている。


「……今すぐ謝罪したい。でも、いきなり言われても迷惑だろうしな……」


 刹那シアについて情報を調べていく。投稿された動画や切り抜き、得意な分野に交友関係。そこまで調べて、一つの情報が雄一の頭に飛び込んできた。


「……デュナス?」

 

 母親の口から出て来た道の言葉。それと同じ音を持つ単語。

 ――ニール・デュナス。

刹那シアと仲がよいVtuberの一人。

 すらっとした顔立ちの青年、いかにも育ちの良い男性Vtuber――だった誰か。


「……引退、してるのか」


 既に彼の存在は過去形である。だが、検索をすると未だにその消失――死を惜しむ声が見つかる。愛されていたのだと、雄一にも知ることが出来た。


「そう言えば……」


 ふと、気になってアドレスを打ち込む。その先は、『嫌い好き.com』。そこは特定の人物に対するアンチコミュニティの集合で、双葉も利用していたらしい。

 デュナスの名前を入力して、彼について語っている掲示板を表示する。雄一が恐る恐る書き込みを確認すると、そこには刹那シアへ向けた誹謗中傷の数々。


 ――デュナスが引退したのは刹那シアのせいだ!

 ――あいつと裏で遊んでいたのがバレたからアフィの餌食になった!

 ――息子の恨みを忘れない!


 眩暈がするような誹謗中傷の数々。ネット上で誹謗中傷するような人々に理性はなかった。この中に母親が混ざっていることを考えると、雄一は今すぐにも泣きたくなる。


「うわ、住所の特定までしてるのか」


 ちょうど掲示板に書き込まれた情報には、デュナスの個人情報も含まれていた。詳細な住所に本名まである。何故ここまで狂えるのか理解出来ず、雄一は吐き気に震える。自分も狂ってしまう前にブラウザを閉じた。


「……はあ……」


 そして、表示中だったタブを選択する。

 開いたのは、双葉の個人アカウント。

 今まさに、新しいメッセージが投稿された。


「待っていてね、デュナス

 そこに隠れてたのね」


 そのメッセージを読み終わった時、雄一の頭に嫌な予感が浮かんだ。


「まさか……」


 コートを羽織ると慌ててスペースを飛び出す。

 釣りはいらない、と受付に万札を押し付けると飛び出した。


「タクシー!」


 向かう先は、『嫌い好き.com』に投稿されていたディナスの住所。



 掲示板で指定された場所はどこにでも田舎町。だが、雄一にとっての地獄があった。

 電柱の影で隠れて、バレバレな尾行をしている初老の女性が居た。

 タクシーの窓越しに見知った顔があった。


「お、お客さん大丈夫かい?」

「大丈夫です! 大丈夫にします! だから待っててください!」


 本日二枚目の万札を運転手に押し付けると、雄一は車から飛び出した。


「母さん!」

「雄一!?」


 こうして、口論の続きがはじまった。

 感情のままにぶつけた言葉は野獣の叫び。誰にも理解できない。

 ただ一つ、確かなのは――


「どうしたんですか?」


 一人の青年――デュナスと呼ばれた男の声で、口論が終わったこと。


「デュナス……デュナスの声だ! 息子の声がする!!」


 まるで現実を見ていない双葉に、雄一は叫んでいた。


「いい加減にしてくれ!」


 大気が震えた。騒ぎを聞きつけ周囲の家の灯りがつく。双葉の顔は固まっていた。

 雄一は双葉を待機していたタクシーに無理やり押し込むと、運転手に家の場所を教える。


「大変だな」


そう残して、タクシーは夜の闇に消えた。

残ったのは、男二人。


「すみません、ディナスさん……ですよね」

「ええ、そうですが」



 深夜のファミリーレストラン。雄一とディナスが座っている。彼は、雄一の事情を黙って聞いてくれた。


「本当に……本当にすみません!」


 ディナスは雄一を責めるようなことはしなかった。それどころか、彼に対して同情的であった。


「母親の相手は大変ですからね。自分もああいう母親みたいなリスナーには苦労していましたから」

「はは……」


 ディナスは、よくできた息子のようなキャラクターで売っていたVtuberである。息子を支えるのは母親の仕事。そんな濃いリスナーを飼っており、母親面の集団と揶揄されていた。

 母親は息子を見守る。けれど、中には『息子を思い通りにしようとうする』毒親も存在する。そんな一部のリスナーが、刹那シアとの関係を疑って暴れ、嫌気がさした彼は引退を決意した。


「双葉さん、覚えてますよ。よくスパチャしてくれていましたから」

「失礼なことは言っていませんでしたか?」

「ええ、せいぜい、息子が家を離れて寂しい、なんて相談された時くらいですね」


 雄一は言葉に詰まった。


「すみません。少しだけ八つ当たりしてしまいました」

「いえ、ディナスさんは怒る権利がありますから!」

「いえいえ、八つ当たりは悪いですから」

「いえいえいえ、そんなことは――」


 そうして、お互いに頭を下げる。何度も繰り返すと、自分たちでも滑稽に思えてきて。


「ははっ」

「はははっ」


 気が付けば、笑っていた。同じようなトーンで、同じようなリズムが重なった。


「……双葉さん、きっと俺……デュナスをあなたに重ねていたんですよ。証拠に、声も笑い方もそっくりでしたから」

「声……」


 言われてみて、雄一は自分の声がデュナスとそっくりなことに気が付いた、

 それだけではない、話し方も笑い方も、どこか似ている。


「……息子、か」

「ええ。だから夢中になってしまった。本当は、あなたに対して母親になりたかっんでしょう」


 気が付けば、雄一の中から怒りは消えていた。残ったのは空っぽの感情と、それを押しつぶそうとする暗い後悔。


「……自分は、どうすればよかったんですかね」

「雄一さんは、双葉さんにどうして欲しいんですか?」

「……それは……」


 たくさんの感情が雄一の中に生まれる。

 迷惑をかけた相手に謝って欲しい。こうなる前に自分に相談して欲しい。

 でも、一番大切なのは。


「笑顔になって欲しい」


 そう、シンプルなものだった。


「笑顔になれるくらい夢中になれるものがあれば、誹謗中傷なんてしない……デュナスさんに執着しない」

「ええ、そうでしょう」


 それは何だろう。

 母親が我を失うほどに執着したもの。


「……すみません、相談があるんです」



 『嫌い好き.com』のニール・デュナスの掲示板に、新たに投稿があった。


 ――もしかして、この人ってDNSじゃない?――


 申し訳程度の羞恥心で隠語を使いコミュニケーションをとる魑魅魍魎達が俄かに活気づく。投稿に貼られたアドレスは、とある新人Vtuberの自己紹介の動画。


 ――ホントだ、声も話し方も茄子そっくり!

 ――それどころか親絵師も同じじゃん!

 ――あ、Xのフォローに刹那シアいるじゃん。

 ――うわ、匂わせキッツ!

 

 ライル・ケルド。甘いマスクの男性Vtuber、彼の存在がとある人物の『転生』であることを誰も疑いはしなかった。自らが公表した訳ではない。だが、声色も話し方もまさしく生まれ変わる前そのもの。

一夜にして、彼が転生者であることはネット上では『真実』となってしまった。



 設置したばかりの防音室。雄一は『嫌い好き.com』の反応を見ながら震えていた。

 確実な証拠が存在するわけではないが、真実であると断定し、それを疑わない狂気じみた空気への怖れ。


 そして、自分の企てが成功したことへの喜び。


「……完璧ですかね」


 通話アプリに向かって静かに語り掛ける。

 応じたのは、ニール・デュナスであった男。


「ええ、大丈夫ですよ」


 聞こえてきた声は、雄一と瓜二つだった。



 雄一とディナスが出会った夜に交わされた言葉。


 雄一が、ニール・デュナスになることを出来ないか。そうすれば、母は落ち着くのではないか。


 母の奇行は推しを失ったことによる狂乱。ならば、精神の支えとなる存在があれば、と考えたのだ。

 それに対して、ニールからの告げられたのは、見た目だけ同じで魂――いわゆる演者が代わると言うのはタブーとされていると言う警告。その上で、魂が別の肉体に入る事、所謂『転生』がある、と言う事だった。


 ――ニールの転生先を生み出してしまえば、どうだろうか。


 その日から、雄一の努力ははじまった。

 ディナスから提供された過去のアーカイブを見てその喋り方や趣向を叩きこむ。

 職場の面々には人が変わったようだと不気味がられた。

 当然だ、と彼自身も振り返る。

 けれど、止まらなかった。それは自己防衛だったのかもしれない。


 だが、無駄ではなかった。

 

 雄一が意見照会書を発見してから半年後。


「おかえり」

「ただいま」


 実家の扉を叩いた時、迎えてくれたのは穏やかな顔の母であった。



 時間が流れた。


 佐藤雄一とライル・ケルドの二重生活は、彼の心に大きな負担をもたらした。

 彼の活動において、常に『ライル・ケルドはニール・デュナスの転生なのか』と言う疑問が常に付いてまわった。少しでもニールらしくない言動があれば、即座にリスナーやアンチが騒ぎ立てる。正真正銘の、『演じている』彼にとっては、一言を発するだけでも重い負担となった。


 それでも活動続け、ニール・デュナスよりもライル・ケルドの活動期間が多くなったころ――


 雄一に、母が倒れたと報せがあった。


「母が、倒れた」


 職場で報告を受けた瞬間、雄一の顔は一瞬で真っ青になった。

 上司はすぐに帰るように言う。返事を返したかも雄一は覚えていなかった。

 タクシーを捕まえてすぐに飛び乗る。携帯端末を取り出すと、取引先に連絡を送る。


 ――そうだ、配信予定もあった。


 管理しているSNSに身内に不幸があったことを報告すると、すぐにリスナーから心配の声が届いた。その中に母のアカウントは無かった。


 故郷の病院に入るのは久しぶりであった。最初に訪れたのは、産みの母が病気で入院していた時。次は、雄一自身が思い病気にかかった時もこと。血相を変えた双葉に連れられて入院したことが、記憶の中から湧き上がってくる。

 清潔な廊下を歩き、受付で聞いた部屋に入る。

 そこに居たのは、すっかり痩せ衰えた母の姿だった。

 

「……久しぶり」


 皺だらけの顔を見た瞬間、雄一は『大丈夫』と言う問いを飲み込んだ。

 年老いた母は、不器用に微笑んで不器用に応えた。その弱々しさに、雄一は泣き出しそうになる。


 なんと言葉をかけたらいいのだろう。

 母が喜ぶことはなんだろう。

 どんなものが好きなのだろう。


 雄一は、自分が母についてロクに知らないことを後悔する。今更、悔いたところでどうなるのだろうと問いかける。


「母さん、ケルドって知ってる?」


 そうして出てきた言葉、雄一が確信をもって母が好きであったと言える存在についてだった。


「うん、知ってるわ」


 双葉の瞳が雄一に向けられる。

 年老いた母の瞳は、僅かに濁っているように見えた。


「なにせ、大切な息子だからね」


 雄一は身震いをする。乾いた喉でなんとか言葉を発しようとする。


「……俺」


 何を言おうとしたのだろう。何が言えるだろう。

 もしここで、自分がライル・ケルドであると言ったら、母は受け入れてくれるのだろうか。

 もし受け入れてもらえるのなら、それは今までのすれ違いを全て清算することが出来るのではないか。甘い誘惑が雄一を誘う。


「……でもね、我儘を言うなら。夢は夢のままで終わらせたい、かな」


 けれど、母はそれを許さなかった。


「だって……今更どんな顔をして母親面していいかなんて、分からないから」


 ただ言えたのは、擦れ違い続けた時間は、あまりにも長すぎた。

 雄一に出来ることは、静かに母を看取る事だけだった。


 そうして、佐藤双葉は穏やかに生を終えた。



 『嫌い好き.com』のライル・ケルドのコミュニティがざわついていた。

 身内の不幸の投稿から一カ月、ライル・ケルドの活動がない。


 ――もしかしたら、また引退するのかな。


 それは、あらゆるSNSで広まっていたケルドの引退論。

 もちろん、それは佐藤雄一の耳にも届いていた。



 地元から離れた駅の前。人もまばらな平日の昼。ベンチに座りながら、灰色の顔をした男は空を見る。


「……そうしてもいいんだけどな」


 ケルドの名前を検索していた携帯端末を閉じると、深い溜息を吐く。


 雄一は考える。実際に、ケルドを終わらせてしまっても問題はない。

 一番の目的であった母のため、と言う理由も消えてしまった。

 だと言うのに、引退に踏み切ることは出来なかった。


「……青い顔していますね」

「遅刻してきて、最初に言う言葉がそれですか?」


 雄一に声をかけたのは、デュナスであった男。

 会えないか、と連絡をしてきてくれた、暇で優しい男だった。



 いつかのファミリーレストン。男二人が向かい合うテーブルの上には、ビールのジョッキやワインのデキャンタが並べられている。

 雄一はあまり酒に強くはない。それでも、飲まずにはいられなかった。


「……ホント、最後まで身勝手な人でした」


 酔った勢いで出て来たのは愚痴の言葉。

 すれ違い続けた母への愛憎を、デュナスは静かに聞いてくれた。


「……でも、全部終わったんだ。二重生活をする必要もない……終わった筈なのに……」


 ――なんで、自分は『ライル・ケルド』を捨てられないんだろう――


 そんな言葉が溢れてきた。

 雄一は俯き、飲みかけのグラスを置く。

 デュナスは気の抜けたビールを一杯あおると、彼を見据える。そして、静かに語りかける。


「辞めるな、とは言えない……けれど、辞める前に会ってもらいたい人が居るんです」

「だれ、ですか?」


 デュナスが手を上げて合図をすると、窓際の個人用の席から誰かが立ち上がった。

 少年のような恰好をした女性が、待っていたとばかりに早足で歩いて来る。


「ちょりーっす!」


 そして、調子外れの挨拶をする。

 デュナスは変わっていないな、と苦笑いをし――

 雄一は、青ざめていた。


「刹那……シア」


 声を聞いた瞬間に酔いは吹き飛んでいた。

 目の前の少女の挨拶は、母が誹謗中傷を繰り返していたVtuberと全く同じだったのだ。


「あ、やっぱ声でバレちゃったっすか。

 ども、ライルさんとは顔を合わせるのは初めてっすね。ニールさんに誘われてサプライズの登場っす!」


 刹那シアが、母が攻撃していた相手がいた。


「デュナスさん!」


 サプライズと言うにはあまりにも心臓に悪い行為であった。思わず抗議の言葉を飛ばすが、デュナスは真剣な眼差しで受け止める。


「いい加減、スッキリさせたいでしょ」


 雄一は黙る。

確かに、と納得をする。

 デビュー時にデュナスとの繋がりを見せるために利用をしたものの、配信やSNS上で交流することは一切なかった。

 もしヘマをしてしまえば、母を騙すことは出来ない。それは、雄一にとって絶対に避けねばならぬことで、リスクは極力減らすための判断だった。


「その……母がすみませんでした」


 雄一は深々と頭を下げる。


「あー、ニールさんから話は聞きました。

 変な話っすけど、過去のことだから気にしないでください」


 それに対して、刹那の応対はあまりにもアッサリしたものだった。


「私が無作為に選んだ見せしめなだけっすから。

言い方は悪いですが、文字ですらないゴミなんていつまでも気にしていられないっす」

「……それは」


 ゴミ。あまりにも端的な罵倒の言葉に、思わず顔を上げる。

 口までせり上がってきた言葉を飲み込んで、刹那の顔を見る。

 失言と気が付いたのか、刹那の目は泳いでいた。


「刹那が言いたいことは、自分は気にしてないってことだ」

「そうっす。言い過ぎだと思うけれど、そこは被害者の言葉ってことで許してもらいたいかな。でも、被害者だったのも過去の事っす」


 雄一は小さく呟くと、椅子に座り直す。


「過去、か」

「だから、私の失言に対してライルさんが怒るのも無理はないです」


 先ほどまで抱いていた怒りは消えていた。


「……ありがとうございます」


 肩がすっと軽くなったようだった。


「……母さんから始まった話は、これで終わりか」


 ライルは黙って微笑む。刹那は得意気に頷いている。

 三人に対してずっと抱えていた感情が、消えていく。


「俺は、ライルのファンでしたよ」

「……自画自賛ですか?」


 皮肉を返す余裕が生まれた。


「半分は。だって、ライルが大人気だってのは、ニールとして頑張った成果でもあるんだから」


 それは、まだ道を選べる人に向けた言葉。


「好きなものって、中々捨てられないですからね。雄一さん……いえ、ケルドは俺とそっくりだから、きっと分かると思いますよ」

「また、自画自賛ですか……」


 もう、自分自身が歩んだ道は、自分だけのものではなかった。



 佐藤双葉の死から二カ月後。

 バーチャルの世界に、一人の男が舞い戻る。


 ライル・ケルドの復帰配信のコメント欄には、配信開始の前だと言うのに、多くの視聴者が集まっている。


 ――よかった、これが二回目にならなくて。


 その中のコメントの一つ。無粋なコメントは復帰を歓迎するコメントに押し流され消えていった。

 雄一は小さく息を吐くと、配信開始のスイッチを押す。


「皆さんお待たせしました。ライル・ケルドです」


 すれ違いから始まった活動は、今日も続いていく。


≪了≫

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