池の話

ぬるめのたおる

第1話

 池の話をさせて欲しい。

 大した話ではない。ただの独り言だと思って欲しい。聞き流してくれて構わない。

 ただ、仮に独り言だとしても。もしかしたら誰かが聞いてくれているかもしれないと思うだけで、何かが変わるんだ。人が住むだけで、その家が生き生きとして見えるみたいに。

 独り言を呟く者たちが集まり、それを聞く者が集まれば、そこに音楽が生まれる。

 もしかしたら私の独り言も音楽足り得るかもしれない。そう信じて、ここに池の話をするのだ。

 

 その池は、私の家の近くにあった。

 出会ったのは小学生の頃だ。そのとき私は二年生か三年生くらいだった。

 私はそのとき、一人で下校していた。もとより一学年に三十人ほどしか子どものいない、田舎の小学校だ。集団下校を取り入れている学校ではあったが、少人数での下校は珍しくなかった。しかし私の地域には同学年の子どもがもう一人いたため、一人で帰ることは滅多に無かった。そしてまさにその日、もう一人が夏風邪で学校を休んだため、たまたま一人だったのだ。

 下校道は林の傍を続く一本道であった。私は一人、そこを歩いていた。暑い夏だった。林の木々が作る日陰がせめての救いだった。

 学校から家まで、小学生の足では四十分ほどかかる。私は途中で疲れてしまい、木陰で休むことにした。

 ズボンに土をつけたくなかったため、大きな根が地面から張り出た部分を見つけ、そこに腰をかける。幹に身体を預ければ、ちょっとした安楽椅子である。青々とした葉が日差しを遮り、みずみずしい風を運んでくる。通学鞄から取り出した水筒に口をつけると、爽やかな活力が身体を満たしていくのを感じた。

 そのときである。

 ぽちゃん。

 どこか遠くで、水が音を立てた。

 その音は林の奥から聞こえた。

 林の裏は農業用のため池があったはずである。大人たちには危険だからと近づかないよう言われていた場所。今の水の音はそれかもしれない。

 小さな興味に身体を疼くのを感じた。

 魚でも跳ねたのかもしれないと考えた私は草をかき分け、音の出所を探った。

 それはすぐに見つかった。しかしため池ではない。

 林の中にぽつんと、小さな池があった。

 子ども用プールほどの広さの池。

 その中心に波紋が生まれていた。

 林の中は時が止まったように、しん、としていた。日差しは殆ど入らない。暗く狭い、その空間において、水に生まれた波紋だけが小さく震えていた。

 私は息を切らしながらそれを見つめていた。波が少しずつ小さくなり、そして消えるまで。

 やがてしばらくすると、こつん、という音が響いた。

 池の底に固いものが当たったのだ。水の音が聞こえてから底にあたるまで、どれだけの時間だっただろう。広さに反して、かなり深い池なのかもしれなかった。

 波が消えると、完全な静寂があたりを満たした。風も、光も、そこでは何の意味もなさなかった。池は透明なゼリーのようにその滑面を停止させていた。

 気づけば息は整っていた。私はその池に心を奪われていた。下がっていた通学鞄を肩まであげ、靴を履き直した。そして私はそこを後にした。

 そのまま私は家へと帰った。

 夕飯を食べる時も、身体を洗う時も、あの池が頭から離れなかった。

 林の中の池。

 あの音。あの波。

 眠りにつくときでさえ、私の脳内を静かに揺らし続けた。

 

 そして私は、ことあるごとにその池を訪れた。頻繁にではない。しかしながら確かに心が誘われたとき、私は池を見に行った。

 池はいつも私に何も言わなかった。ただ、稀にぽちゃんという音を立て、小さな波を生むだけであった。私はそれを最後まで見届けると、そこを立ち去る。その繰り返しであった。

 初めて女の子と遊びに行った日も、その池を訪れたはずである。

 その日は男女五人で海へ遊びに行ったのだ。私は三人いる女の子のうち一人が好きだった。

 丸一日海で遊び、電車で帰る途中。降車駅の関係から私はその子と二人きりで電車内に残された。夜遅い便だったためか、他の乗客も数えるほどしかいなかった。

 小さな沈黙がそこにはあった。

 私も彼女も話題を探ったが、二人きりだと良いものはなかなか思い当たらない。電車の揺れる音と、次々と変わる停車駅のアナウンスだけが流れ続けた。

 やがて私は、例の池の話をすることにした。

「生き物はいないの、魚とか?」

 と彼女は言った。

「いないんだ」

 と私は答える。

 言われてみれば妙な話だった。いつもそこに生物の気配は無かった。

「それって池なのかしら」

「池だよ」

「プールみたいな池なのね。消毒されているみたい」

「プールじゃない。自然の池だよ。林の中にあるんだ」

「じゃあなんで何もいないのかしら」

 私は何も答えられなかった。

「どうしてそんな変な池の話をしてくれたの?」

 彼女は窓ガラスを見ながら言った。裏面に夜闇を塗られた窓ガラスは、彼女の顔を暗く反射していた。

「君に伝えておこうと思って」

「私に、何を?」

「僕が大切にしている場所のことをだよ」

 電車が大きく揺れる。車輪が不快な音を立てる。それが私たちの会話を切断した。

 やがて彼女の駅につく。

「さようなら。また」

 私は声を絞り出した。

「さようなら」

 彼女は半分だけ振り返って言った。

 列車のドアが閉じ、世界に蓋をする。私は小さな鉄の箱に運ばれていった。

 家に帰る前、私は池を見に行った。

 池はたった一つ、小さな水の音を立てた。私はそのこだまをいつまでも聞いていた。


 やがて歳をとり、私は都会の企業へ就職した。一人で会社と家を往復する暮らしの中で、生きる為の金を掘り起こし続けた。実家には年に数回帰っていた時期もあったが、それも少しずつ減っていった。それにしたがい、池のことを思い出すことも無くなっていった。

 ある年、実家の祖母が亡くなった。

 私は葬式のために数年ぶりに実家へ戻った。

 実家では両親が喪服を着て親戚や近所の老人達を相手していた。彼らは葬式の日まで毎日訪れ、一日中家に居座り、飯を食い、酒を飲んだ。田舎の葬式のやり方である。

 酒を飲むのに疲れた私は、ふと池のことを思い出した。少し振らつく足に運ばれ、私はかつての場所を訪ねた。

 しかしそこに池は無かった。

 林は木々が切られ、池はコンクリートで埋められていた。そこには赤の他人の家が建つ予定になっていた。

 もう、池があの音を立てることは無かった。

「そうか」

 と私は呟いた。そしてそこを後にした。

 まだ酒を飲む老人達を横目に、実家の自室へ入り、古いベッドで眠った。

 翌日。あまりにも淡白に葬式を終えると、私はその夜のバスで街へと戻った。


 今でもたまに池のことを思い出す。

 例えば眠れない夜。安いウィスキーに角氷を落としたときに。

 小さな波が褐色のアルコールに生まれる。そのときふと、あの池が脳内をよぎる。

 しかし私が波の最後を待つことはない。少し冷えたウィスキーを一気に飲み干す。頭がアルコールで痺れ、手足の感覚を失う。胸に刺さった棘の位置が曖昧になる頃、かろうじて小さな眠気が訪れる。

 倒れるように布団へ入り、意識のスイッチを落とす。

 池の音は、聞こえない。

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池の話 ぬるめのたおる @Null-Towel

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