第二章『Keep the sun in heart』

第十一話:名前─ミーニング─

 ♢(0)

 

 いつも通りの青い空。

 いつも通りの春の空気。

 いつも通り……ではなくなった長谷川市。

 

 いつも通りの日常は春という季節に似てなくもない。

 いつも通りの日常というのは一つの事柄であっさりと終わるもの。

 春もまた然り。春は突然来たと思えば、突然終わる。


 だから春はいずれ終わる。

 暖かな風は冷たい空気に流され、そして花々は雨に散る。

 けれども……いつも通りでなくなった長谷川市はあっさり終わることはない。


 それを証明するように、春の暖かな風さえ通さない分厚い壁を拵えた廃工場の中で……一人のが分厚い本を腕に握っていた。


 その戦士というのは右胸部に結晶を埋め込み、自らを嘯くように白い仮面を身につけていた。永遠に眠る人にも似た白い仮面。それがこの戦士が何であるかを証明しているようにも思える。

 漆黒に塗れた戦士は広大な闇が広がる工場の中でただ見つめていた。


 このいつも通りを終えた廃工場の床。

 そこには点々と並べられる者たちがいた。

 その者達は傷ひとつない綺麗な体をしていた。

 そして性別の違いはあれど、誰も彼もが若々しい。

 しかし……その者達は一生動くことはない。

 何故ならその者達の魂はすでに


 故に戦士はモノとして、並べたモノ達を見ていた。


『これだけ揃えば、きっと良質なモノが出来上がるでしょう』


 そう言いながら戦士は本を広げた。

 黒く染色させ、命を弄ぶ禁断の本……《ネクロノミコン》。

 その頁を捲られていき、戦士は一枚の頁を開いた。


である程度、コツは掴めました。あとは実践するのみでしょう』


 その声は相変わらず曇った声で何者か判別もつかない声だが、その意図は読み取れる。このいつも通りの日常で、いつも通り過ごす人々を脅かす邪悪な意志。


『《T.I.G.A》。《E.V.I.L》。あの戦士たちに果たして止められるでしょうか?』


 まるで挑戦と取れる言葉に相乗りするように、頁に描かれた文字は準えるように小さく光る。

 そうして戦士は文字をなぞりながら、目の前に横たわる魂を失くしたの一人に目を向けた。


『原初の風よ』


 ───刹那、春に似つかわしくない荒々しい風が何もない工場内で吹いた。


 ♢(Ⅰ)


 いつも通りの日常……とはいかない、午前中の病院の中。

 いつも通りの春の日差し……は分厚い雲で見えない。

 けれどもいつも通り……レイはいる。

 キョウコと一緒に。


 ベッドで上半身を起こして二人を見ながら、ユウリは苦笑していた。


「だーかーらー。私の名前は雲野キョウコ」

「く……曇りの今日?」

「微妙にあってるけど違うってば〜!」

「仕方ねえじゃんか。名前が覚えられないんだからさー」

「そんなわけないでしょ〜!?ねぇ、ユウリも何か言ってよ!」

「無茶言わないでよ、キョウコ。神様からそういう風にさせられたらしいんだから」

「なんでそこに神様が出てくるの???」

「だってレイくんが言ってたもの。ね、レイくん」

「やっぱり長髪で制服の人は話が分かるぜ!短髪で制服の人と違って理解があるというかさ!」

「別に私も理解してるわけじゃないからね?」


 病院の個室であるにも関わらず、いつも通りを感じさせるほど二人の声は大きい。そろそろ看護士が注意してもおかしくはないともユウリは思うのだが、ユウリが何度注意しても声が収まることはないので注意するのを止めていた。


「というかなんであたしのあだ名が短髪で制服の人なの?今のあたし、制服なんて来てないよ?」


 説明しておくとキョウコは現在入院中だ。

 数日前に怪物の襲撃を受けた際に腕を骨折してしまい、一週間ほど入院するつもりらしい。

 ということは制服を着る理由は微塵もないわけで。

 現在のキョウコは病衣を着込み、腕に三角巾を巻きつけてぶら下げている。

 となると《短髪で制服の人》ではなく、《病衣で骨折してる人》になるのだが。


「そういえばそうだよね。私も今は制服じゃないから、長髪で制服の人って呼び方は違うんじゃないかなぁ」

「え、そうなのか?」

「うん。そうだと思う。というか別に毎日制服着てるわけじゃないからね?レイくんといる時は毎回制服を着てるってだけだから」

「えー、でもなぁ」


 レイは文字通り頭を抱えながら不意に春に似つかわしくない曇空を窓から見つめた。


「俺にとって長髪で制服の人は長髪で制服の人だし、短髪で制服の人は短髪で制服の人なんだよなぁ」

「それさー。多分、第一印象っていうのが固まっちゃった感じだとキョウコちゃん思うな〜」

「だいいちいんしょう?」

「私とキョウコがレイくんと会った時って二人とも制服だったでしょう?だからレイくんが初めて会った時の印象に引っ張られてるってことだと思うな」

「あぁ、それはあるかも」


 レイはそう言いながら視線を窓から二人に合わせた。

 そしてじっくりと見つめる。

 じっくりと、考えながら。


「うーん。でも長髪で病衣の人って感じじゃないんだよなぁ。短髪で制服の人も短髪で病衣の人じゃないって感じ。なんていうかなぁ……似合ってないっていうか」

「そう言葉にしてみると確かにしっくりはこないかもね。この病院にいるからこの服を着てるだけで、いつもの服装じゃないもの」

「そうそう。二人を見てたらさ。「あ、制服の人だ」ってなるんだよな。いつも通り学校に行ってそうな人って感じ」

「そっちの方がレイくんにはしっくりくるんだ?」

「しっくり。あー……そうだな。すごいしっくりくる。俺ってレイって名前だろ?それでいていいっていう安心感。それと一緒の感覚なのかもなー」


 ユウリはその言葉の意味を考えてみる。

 レイという人間の生涯。そして戦いの日々を。

 それは壮絶なものには違いないだろう。今もなおレイの目的は達せられてない……モヤモヤした状態。

 それでも安心できるのが……レイにとってはレイという名前。

 けれどもレイは名前を覚えることはできない。

 しかし、しかしだ。


 名前だけ。名前だけなのだ。

 他のことはきちんと覚えている。ユウリのことはもちろんだが、キョウコのことだってしっかりと覚えている。店長の人……タダユキのことも覚えているし、愛衣蔵ハルカのことだって覚えている。

 だから忘れることはない。忘れることはないのだ。

 名前以外は。


 もしかするとレイは覚えていたいのかもしれない。

 自分と出会った存在のことはしっかりと。

 けれども名前を覚えることはできない。

 その為の印象に紐づいたあだ名なのではないか?

 その人間のことを忘れないようにする為に無意識的にしていること。


 本人がどこまで意識をしているのかはわからないが、ユウリはそう思ってしまった。


 とはいえ。


「それでもなー。キョウコちゃんは納得できないわけですよ」


 レイの事情を全く知らないキョウコにとってはたまったものではないと言わんばかりに不満を言ってのける。


「それだとなんだかレイくんに物扱いみたいにされてるっていうか?なんか村人Aとか住民Bみたいに思われちゃってるってことでしょ〜?」

「村人えー?住民びー?なんだそれ」

「多分ゲームとかで出てくる名前のない人みたいに思われるのが嫌ってことだと思うよ」

「ゲームってそうなのかよ」

「……まぁ、レイくんはゲームとかする暇もないもんね」


 レイの世間の知らなさはしょうがないから置いておくとして。

 ユウリはキョウコに尋ねた。


「でもキョウコに何か秘策でもあるの?」

「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれました、ユウリちゃん!レイくんは名前が覚えられないけど、あだ名はつけれるわけでしょ?だからあたしとユウリを覚えられるようなあだ名を考えればいいんだよ!あたし、頭良くない?」

「……確かに」


 それは目から鱗と思うほどの名案とユウリは関心した。

 同時にこう言ってしまった。


「キョウコから珍しく有意義な意見が出た……」

「それ酷くない!?ユウリはあたしのこといつもどう思ってるの!?」

「お菓子選びのセンスだけはいいよね」

「だけってなに!?」


 いつも通りキョウコが騒ぎ出す傍ら、レイは首を傾げながら二人に問いかけた。


「あだ名ってどうつけるんだ?俺、そんなことしたことねえぞ?」

「うーん……名前をもじったりするとか、特徴を元につけてあげるのがあだ名なんだけどね」

「……それって俺が普段やってること」

「そういうことなんだよね」


 やはりレイにはあだ名をつけていたという意識はなかったらしい。

 ユウリはどうしようかと考えて、困ったように笑った。

 そんな時、神からまるで知識を授かったようにキョウコは言った。


「気づいちゃったんだけどさ。雲野キョウコは呼べないけど、曇と今日は言えるわけでしょ?つまりつまり?名前の一部分は言えるってことじゃない!?」

「どうしたの、キョウコ?何か変な物食べた?」

「なんでそうなるの!?あたしにしては冴える言葉じゃない!?」

「自分でそう言っちゃうと色々台無しだよ……」


 しかしこのキョウコの一言は実に閃いていた。

 この原理を応用すれば、レイが二人にあだ名をつけるのも難しくないのだ。

 これこそまさに神の一手に他ならないとユウリは思った。


「でもこれならレイくんでもあだ名を考えつけるんじゃないかな?」

「まぁ、多分。ごめん、わかんねえや。そう意識してあだ名をつけたことはないし、読んだこともないからさ」

「まぁ、それは練習ってことで。キョウコじゃないけど、私もレイくんにあだ名で呼んでもらいたいし。いつまでも長髪で制服の人って呼ばれると他人な感じがするからね」

「他人……いや、長髪で制服の人は長髪で制服の人だ。他人なんかじゃない。一緒にいて安心できる人だ。だったらちゃんとあだ名で呼ぶぜ」


 本当は名前で呼んでもらいたい、というのがユウリの本心であるが。

 レイにそれを言うのは酷だと分かるのでユウリはその言葉を飲み込んでから、「うん。一緒に頑張ろう」と微笑みながら言った。


「……待って、二人とも。キョウコちゃんを差し置いてなんで妙な雰囲気が生まれちゃったの?もしかしてもう付き合ってるの?」


 どうやらあだ名をつける前に誤解を解かなければならないらしい。

 ユウリは必死に「違うから!」と春の太陽さえ隠す雲が揺れかねないほど大きな声で叫んだ。


 ……しかし当たり前だが、窓から見える雲は消えることはない。

 まるでいつも通りの日常を阻害するように、まだ漂っていた。


 ♢(Ⅱ)


 春の太陽を隠していた曇空が徐々に黒く染まり出そうとしている頃。

 もはやいつも通りの賑やかに騒ぎながら……ユウリたち三人は考えていた。


 レイが呼べるあだ名を。


「くも……うーん、雲の人?」

「なんかあたしがふわふわしてる人みたいなんですけど……」

「ふわふわはしてるよね。遅刻するほど時間にルーズだし」

「それ今関係ないよね、ユウリちゃん!?」

「だって本当の事だし……」

「あ、じゃあ遅刻する人じゃん」

「ちっがーう!そういうのじゃないの!」


 キョウコの閃きですぐに解決するかと思いきや、あだ名をつけていくことは実に神から与えられた難題を解決するほどに難しいものになっていた。


「もっとこう……可愛くしてほしいな〜」

「可愛くってどうするんだよ。別に短髪で制服の人も可愛いじゃんか」

「…………レイくん?女の子にむやみやたらと可愛いって言わないほうがいいと思うんだけど」


 ユウリは思わず、そう言ってしまう。

 それは別にキョウコが可愛くないから言ったわけじゃない。

 ……自分のことを可愛いと言ってくれたのに、他の女にもちょっかいを出そうとする駄目な男にレイが見えてしまうからユウリには少し嫌だったのだ。 


 しかし残念ながらレイはそんなことを知らない。


「え、なんで?別に長髪で制服の人も可愛いからいいじゃん。何がダメなんだよ」

「ほほう、ジェラシーですかな〜???ユウリ氏は意外と乙女な───」

「キョウコ」


 ユウリは笑顔でキョウコを見つめた。

 笑顔で。固まった笑顔で。春の空気が一瞬で冷たくなるほどの冷たい笑顔で。

 こうした笑顔をする時のユウリの表情の意味を、長い付き合いのあるキョウコは知っている。


「じぇらしーってなんだよ。短髪で制服の人」

「……わかんにゃい」

「世の中には分からなくていいこともあると思うよ、レイくん」


 ユウリはその固まった笑顔をレイに向けた。

 するとレイは一瞬体をびくりとさせた。

 ……いかんせんその雰囲気はハルカに叱咤される時の雰囲気に似ていたから。


「あぁ、分かった。そうだよな。わかんないけど、知らなくていい時もあるよな!」

「レイくん……可哀想……そしてあたしも可哀想!」


 キョウコは露骨に泣く真似をしだして三角巾をしていない腕で顔を覆う。……ちらちらと目を覗かせてユウリの態度を見ていたが。


「もう。真面目に考えてよ。せっかくキョウコからいい考えが出たのに。これじゃあ一生私たちは制服の人だよ?」

「それは嫌!」


 キョウコは腕を下ろして顔を上げた。


「絶対に可愛いあだ名で呼んでもらうんだから!ユウリも協力してよ!?」

「さっきから協力はしてるんだけどなー……」

「でもユウリがいつも通りツッコミ入れてくるから進まないところもあると思うな〜」

「うーん……それはまぁ……」


 あるかもしれないし、ないかもしれない。

 ユウリは否定したかったが、一理ある事なので完全には否定できなかった。


 と言うわけで、また改めてユウリは考える。

 可愛い……というのはさておき、親しみあるあだ名を。


「そういえば」


 ふとユウリは気付く。


「レイくんって印象付ける為になんとかの人って言ってるよね」

「そりゃそうじゃん。だって人なんだから」

「……それをやめればいいんじゃないかなぁ?」


 思えばレイが会うのは人間だけじゃない。

 怪物と遭遇するのがレイの日常だ。

 ともなるとそれらを区別するために◯◯の人と言っているのではないかとユウリは考えた。

 ただ、レイにとって怪物が出る日常はいつも通りでも普通の人間にとってはいつも通りの日常ではないだけで。

 人間と人間が出会う日常が、普通の人間のいつも通りの日常なのだ。


「なんとかの人ってつけるから、モノみたいな扱いになったり他人行儀な扱いになっちゃうと思うな。だからそれをなくせば、少しは親しみが出るんじゃないかな?」

「あぁ……なるほどな!それは考えもつかなかったぜ!さっすが長髪で制服の人!」

「あのあの……その前にそもそもの頭のいい提案をキョウコちゃんはしたんですけど……それは「さすが!」って言ってくれないの?」

「…………なんか長髪で制服の人が短髪で制服の人は頭よくないみたいな言い方だったから、そういう人みたいに思っちゃったぜ」

「ちょっと長髪で制服のユウリちゃん!?保護者なんだからしっかりお世話してよね!」

「それは本当にごめん」


 子は親の行動を真似するとは言うが、まさかレイにその原理が当てはまるとは。いつも通りキョウコをいじると、こういうしっぺ返しが来るので言動には気をつけようとユウリが自省した。

 ……まぁユウリがキョウコをいじらなくても、キョウコ自身の行動発言でレイがどう思うかは分からないが。


「でもでも、これで一歩前進だよね!あとは可愛いあだ名をつけてもらうだけ………ふっふっふっ……なんて呼んでもらおうかなー」

「人を抜かせばいいんだよな……じゃあ短髪で制服の人は……クモ!」

「ちっがーう!」


 レイがキョウコはいじってもいいと認識したのか、はたまた自分なりに可愛いを考えてそう言ったのが定かではないがレイのつけたあだ名にキョウコは強く否定した。


「クモ?雲?蜘蛛?どっちにしろ可愛くなーい!」

「えー……難しいぜ……」


 レイはそう言って困ったようにユウリを見つめた。


「なー、長髪で制服の人。どうしたら納得してくれるんだー?」

「確かに難しいよね」


 あだ名。

 それもまた、その人がその人であっていい名前であるのだろう。

 つけた人もつけられた人も納得できるような名前。

 そして親しみやすい名前。


「長髪で制服の人なら簡単なんだけどな」

「え、私?」


 そう聞くと妙にユウリは複雑な感情が胸の中で暴れ回った。

 なにせ自分の名前も言えない……まぁ言える時もあるにはあるが、いつも通りなら言えないレイが自分のあだ名を「簡単」と言ってのけてしまったのだ。


「えーと……そんなに簡単に決めちゃえるの?」


 ユウリは恐る恐る問いかける。

 レイはユウリの感情をよそに、あっさりと言ってのけた。


「あぁ。だって長髪で制服の人は俺にめっちゃ優しくしてくれるからな。だからユウだ!」

「ゆ……優?優良の優とか優しいの優?」

「そう、ユウだ!だってユウの名前って自分が自分でいられるような安心できる名前なんだろ!?じゃあこれしかないじゃん」

「ユウ…………」


 そのあだ名は……本当に複雑なものだった。

 そもそもユウリの漢字は……悠理なわけで、実はその意味とは大分かけ離れてるわけで。ほんの少しだけモヤモヤする。

 だがそれ以上に言えるのは……やっぱり嬉しさも湧き上がるということ。

 一部分だけでもレイに名前を言ってもらえる……なんで漢字一文字の優という漢字を覚えていたのかはさておいて。

 だけどもどかしさもあるわけで。あと一文字……「り」をつけてもらえれば完全に自分の名前を呼んでもらえる……そのもどかしさのモヤモヤもある。


 だけど……なんだかんだでユウリは嬉しかった。


「ありがとう。レイくん」


 だからユウリはそう言った。

 にこりと笑みを浮かべ、自分の嬉しさを表現するように。


「え、なんでお礼言われたんだ?あだ名を決めただけだぜ?」

「いやいやいやいや、レイくん?レイ氏?マジ?ガチ?」

「え、クモはなんか知ってるのか!?教えてくれよ!」

「だからクモじゃないんですけど!?なんでユウリは可愛らしいのに、あたしのは曇ったような感じなのかな!?ちょっと奥さん!?もう少しお子さんの教育をしっかりした方がよろしくてよ!?」


 この春の雰囲気さえも壊すほどに騒々しい二人のやり取りにユウリの笑みは苦笑いに変わってしまった。

 しかし、それもいつも通りの日常だと思う。

 毎晩のように怪物が出てきては、いつも通りの日常は壊れてしまう。

 キョウコだってそのせいで入院させられた。

 ユウリだって入院させられた。


 それでも、今ここでしているやり取りはいつも通りの賑やかな雰囲気。

 いや、いつも通りではないだろう。

 ここにはレイがいる。

 レイがいるいつも通りとキョウコがいるいつも通り。


 ユウリは嬉しい反面、もう少し静かにしてくれないかなと願うばかりであった。

 ……あともう少し……もう少しだけ「ユウ」というレイがつけてくれた安心できるあだ名を噛み締める時間が欲しいとも願ったが、それは無理そうなので口にはしなかった。


 ♢(Ⅲ)


 春の空はいよいよ黒く淀んだ雲に覆い隠された頃。

 ユウリたち三人は仲睦まじいようにあだ名を考えている傍らで、タダユキとハルカは二人、喫茶店にいた。

 そこはいつも通り、タダユキが営む喫茶店の店内。

 しかしユウリが入院中ということもあって、店は閉店にして休むことにした。

 

 おかげで午前中に来る年配の客たちがいつも通り珈琲が飲めなくて、ぶつくさなにか言っているようだったが、タダユキが「悪いな、爺さん婆さん。ちょっと娘の体調が悪くてな」というと、客たちは納得してさっさと帰っていく。

 どうやら娘の溺愛ぶりは客たちにとってもいつも通りのことらしいとハルカは思わず微笑んだ。


「それほどまでに大事なんですね?」

「ユウリのことがか?当たり前だろ。たった一人の俺の愛する娘なんだからな」


 惜しげもなく言いながらタダユキは淹れた珈琲を、客席に座るハルカの前に差し出す。


「本当にあんたには世話になりっぱなしだな。何から何まで。しかし入院まではやり過ぎだと思わなくもないぞ?」

「念には念をということですよ。話によれば、関町ユウリさんもに言ったのだとか」


 そう言われるとタダユキは返す言葉もなかったのか、黙って自分の額を人差し指でこつんと小突いた。


「検査とかはしたんだろ、あんたのことだから」

「検査とは言っても外傷程度のものですよ。ですが傷などは見当たらなかったようですね」

「ま、俺が守ったんだからな。当然だろう」

「確かにそうですね。あなたがいなければ、レイもユウリさんもどうなっていたか」

「そこは自分で自分を褒めるなと言って欲しかったが……」

「それこそご謙遜ですよ。ホテルの一件、レイとあなたが協力してくれたからこそ成し得たことです。本当にありがとうございますね、タダユキさん」


 そう言ってハルカは微笑み、頭を下げる。

 言葉遣いが丁寧すぎてレイの言う通りではあるのだが、その声色からは毅然としながら優しささえ感じさせる。そんなハルカの態度はタダユキまで恥ずかしくなってしまいそうだった。


「………まぁ、正直だ。レイがいなければやばかったからな。あいつにも感謝はしてるさ」

「その言葉を聞けば、あの子も喜んでくれますよ。なにせまだ生まれて一年しか経っていないらしいのですから」

「またあいつの冗談か……」


 冗談。

 そんなあり得ないことはいつも通りの日常であるなら、冗談と笑い飛ばすことも出来ただろう。

 しかしタダユキは一瞬笑い飛ばそうとしたが止めた。


 なにせタダユキも行ったのだ。

 この世界ではない、別の場所。

 レイの故郷とも思われる場所に。


「……あんたはレイのことをどこまで知ってるんだ?」


 タダユキは唐突にハルカに問いかけた。

 

「全てお話したいところですが……私たち愛衣蔵財団もあの子の全貌は掴めていないのが現状です……」


 ハルカは頭を抱えたように俯いてため息をつきそうになるが、自らの思考を律するように暖かい珈琲を飲む。

 決して甘くはない無糖の珈琲。

 その苦味を口内で味わいながら、ハルカは飲み込んだ。


「神からの挑戦状と言えばいいのでしょうかね……。レイ……いえ、本名すらレイじゃない。そしてその本名はこの世界のどれにも当てはまらない言葉……つまりは私たちが認知し得ない場所から来た、と言うのが現在の推測」

「認知し得ない場所?宇宙とかか?」

「どうでしょう。宇宙じゃない可能性もあります。例えば深海のアトランティス、地下のアガルタ、果ては失われた大陸ハイパーボリア……列挙したのはいずれも架空の存在ですけどね」


 ハルカは困ったように笑った。

 タダユキとしては笑うところではないと思ったが……ハルカのしていることを考えると笑いたくなる気持ちも分からなくはなかった。

 つまり……途方もないのだ。

 レイがどこから生まれ、どこから来たのか。

 何もわかない手探りな状態。

 失われたパズルのピースを一つ一つ探し出して当てはめていくしかないのだ。


「レイの話に少し関わるのですが……一つお尋ねしても?」

「ん?俺とレイの共通点……?」

「刀のことです」

「あぁ。最たる共通点だな」


 刀。

 これはネクロノミコンに現状で対抗できる唯一の力。

 そしてレイとタダユキはそれぞれが戦士に変身することが出来る。


 レイは黄竜。

 タダユキは青龍へと。


 ちなみにレイは神様と言われる存在からもらったのはハルカから事前に聞いていた。


「タダユキさんはその刀をどちらで?」

「これは……先祖代々の代物、だと思うがな……」

「思う、とは?」

「あやふやなんだよ。そこら辺の記憶が。先祖代々か、知り合いにもらったか、どっちかだ」

「……レイの説明も初めて聞いた時はあまりに荒唐無稽な部類と思ったのですが……タダユキさんの説明も……その」

「大雑把だろ?すまんな」


 タダユキもまた、自分の思考を整理する為に冷たい珈琲を飲む。

 しかし味わうことなく一気に飲み干してしまってから、タダユキは額を小指でこつんと小突いた。


「俺もそこはしててな。歳のせいで記憶力が衰えているのか、はたまた別に原因があるのか。それは分からんがな」

「そうですか……」


ハルカは心配そうにタダユキを見つめ、そして隣の椅子に置いていたカバンから書類が入ったクリアファイルを取り出してから机の上に置いた。


「刀に関してはレイと出会った時からずっと調査はしていました。この街に来たのはネクロノミコンの回収もしくは滅却ですが……もう一つあります。それは────」

「刀の回収、か」


 ハルカはその言葉にはっきり頷いた。


「おいおい、そりゃやめてくれ。俺が戦えなくなる」

「タダユキさんに関しては愛衣蔵財団の保護管理対象ということになりますので、特に対応はしませんよ……特に何もなければ」


 その最後のハルカの言葉は少し震えていた。


「それは当然だな。ま、俺が愛する娘の為に戦っている内は何もないと思ってくれていい」

「その点に関しては心配していませんよ。信頼していますから」

「そりゃどうも」


 ハルカの言葉に嘘偽りはないと思いつつ、タダユキはクリアファイルを手にしてから、数枚の書類を取り出す。

 ……そこには絵が描かれていた。

 しかしいつも通りの日常でよく見る現代の絵ではない。

 まるで絵巻のような古の絵画。


「なんだこりゃ。見たことねえな」

「そうでしょうね。私も調査していく中で初めて目にしました。おそらくは妖怪の類と戦う武神の絵なのでしょうが……」


 それは八岐大蛇と戦う素戔嗚スサノオと表現すればいいのだろうか。

 何本も長い首を持った怪物と戦う……五体の戦士たちの姿。


 一体は金色のように見える龍の仮面を被った戦士。

 一体は青い龍の首を右腕に携えた戦士。

 

「…………」


 タダユキは驚いた顔でハルカを見つめた。


「あんたらがでっちあげたものじゃないのか?」

「でっちあげたものなら、この街であなたを探すことは困難だったは思いませんか?」

「参ったな……」


 先祖代々だから相当に歴史があるものだとはタダユキも感じていた。

 しかしその絵巻のような絵柄では想像していたよりも長い年月存在するものだと認めざるをえない。タダユキは項垂れた。


「この絵巻に書かれた刀の戦士は五体。そしてその正体も書かれています。四体だけですけどね」

「一体はどうせ……《エヴィル》ってやつだろ」

「それはご存知だったのですね?」

「まぁな」


 タダユキは自身の額をこつんと突ついた。


「そこそこ一緒にやらせてもらってるからな。碌でもないやつだっただろ?」


 ハルカは一瞬考え込むように黙ってから、再び口を開いた。


「……《エヴィル》以上に危険な存在はいます。例えばこの白虎」


 白虎。

 その絵巻では左肩に虎のような顔の鎧をつけ、腕に巨大な爪のようなものを身につけている、尻尾の生えた戦士。


「これは《ケイオス》。風の力で全てを破壊する戦士。つまり危険な存在と認識してもいいのではないでしょうか」

「ん?じゃあなんでこの絵巻で怪物と戦ってるんだ?」

「一緒に戦わなければいけない状況だったのでしょうね……。絵巻の文字も掠れていて解読が難しい箇所もあったのです……。あとはこの戦士です」


 一体は玄武。

 左肩に下顎に牙を生やした亀の顔のような鎧、そして亀の甲羅に見立てた盾と蛇のようにしなる刀を装備している全身武装したような戦士。


「《オウガ》。支配欲の権化、そして最も戦いを好んだ戦士と記載されています」

「……戦いを望む、か」


 戦い。

 それはこの街で起きていることを思えば、当たらずも遠からずではないだろうか。

 戦士と怪物が毎晩のように戦う、この歪ないつも通りの長谷川市においては。


「もう一体は……」

 

 タダユキは最後の一体を見つめる。

 それは……朱雀の戦士。

 炎のようなものを纏い、胸部には鳥の面を身につける大きな翼の戦士。


「この戦士……」


 タダユキはそれをじっと見つめる。

 額に指をぐりぐりと押し続けながら。


「黄竜の戦士と朱雀の戦士。この二体に関してはあやふやなんです」

「また文字が掠れて読めないのか?」

「それもありますが解読が難航していて……おそらく、どちらかが《ダーク》かと」

「エヴィルにケイオス、オウガにダークか。なんだその安直な悪役の名前は」

「我々にとってはいい言葉ではありませんが……過去の人間たちにはそうでなかったかもしれません。そのような記述はないので断言は出来ませんけどね」

「ま、ネーミングに関しては置いておくとしてだな?一つ気になったんだが」


 タダユキは冷たい珈琲を口につけようとするが、全て飲み干したことを忘れてしまっていたようで、仕方なく溶けた氷に混じった珈琲の出涸らしをすすった。

 そうして思考をほんの少しまとめたところで問いかけた。


「レイに聞けば一発だろ。あいつは黄竜の戦士なんだから」

「そうできれば良かったんですけどね……」


 ハルカは困ったように笑った。

 そしてタダユキも発言して気付いた。

 ……レイが知っているなら最初から答えているだろう、と。


「……しかしタダユキさんもお気付きかと思います。あと三体、残っています。刀の捜索は続けていきますが、注意しないといけません」

「……はぁ」


 まさかネクロノミコンの他にあるのか。

 そう言わんばかりにタダユキはため息を吐いた。


 あと三体。いや、三本と言うべきなのか。

 タダユキは判断に迷っていた。


 そして願った。

 ハルカも同じことを願った。

 願わくば……と。


 ♢(Ⅳ)


 いつも通り営業していないタダユキの喫茶店。

 常連客もタダユキの事情に納得して今日は誰も来ないというのに、長谷川中央の制服に身を包んだ一人の少女が、店の扉の前に立った。


 少女は酷くやつれたように目の下にクマを作っていた。

 けれども校則に違反するほど伸びた前髪がその目元を隠している。

 その細目も、低い鼻も、痩せた顔つきも隠すほどに。

 身長も年頃の少女より低い、細い体つきの少女はおどおどと店内を見渡す。


 そこには二人の男女……タダユキとハルカがいる。

 なにか書類を出して話し込んでいるようで、少女はそれに聞き耳を立てようとした時……ハルカの方が少女を指差した。


 そうするとタダユキはガラス扉の方へと歩き、いつも通り客を招きいれるような態度で扉を開けた。


「すまないな、お嬢ちゃん。今日はちょっと店は休みでねって……」


 タダユキは身長の低い少女の姿を見て気付く。

 長谷川中央高校の制服に。


「学校はどうしたんだ?」

「今日は……休みです……」

「あぁ、そうか。悪い悪い」


 タダユキは自省するように自分の額を指で小突く。


「まぁそれでも今日はうちはやってなくてね。残念ながら小休憩は出来ないよ」

「あ、いえ……そういうんじゃなくて……あの……」


 実におどおどした態度だった。

 この少女にとってこれがいつも通りなわけだから、変に発言するのは野暮かと思ってタダユキはじっと少女を見つめた。


「あの……その……」

「もしかしてユウリに会いに来た、とか?」


 正直、喫茶店以外だとタダユキにはそれしか見当もつかなかった。

 そう思って問いかけると「そうです!」と慌てて答えた。


「あの……ユウリさんに……その……先生から預かったものを渡してこようと……」

「そうだったのか。だが悪いな、ユウリはちょっと入院しててな」

「入院」


 その一言を待っていたように少女は問いかけた。


「ち、ちなみになんですけど………あの……どこに」

「長谷川病院だよ。この街で一番大きな病院」

「わ、分かりました!」


 その答えを聞くや否や、少女はそそくさと去ろうとした。

 ……

 しかし振り返って走ろうとした時、タダユキが「おいおい、ちょっと待ってくれ」と声を発した。


「ひっ」


 その瞬間、少女は立ち止まった。

 ……もしかして……バレた?

 そう思って、おどおどと振り返ると……タダユキが呆れた表情をしていた。


「あ……あの……なんですか……!?」

「そんなに怯えなくていいじゃないか。先生からの預かり物だろ?それは俺が預かっておくよ。今のユウリに渡しても何も出来ないしな」

「い、いえ、大丈夫ですから」

「大丈夫って……ユウリが大丈夫じゃないんだよ」


 そう言いながらタダユキは諭すようにして背を低くかがめて、少女の目を見つめた。髪に隠れたその……怯えた目を。


「ユウリの友達とかクラスメイトとかだと思うけど今は───」

「ッ!!」


 その瞬間───少女の細い目は鋭く変わった。

 まるで憎しみさえ感じさせるほどに睨んだ目に。


「…………ご、ごめんなさい」


 そしてすぐに変わった。

 いつも通りと言わんばかりのおどおどした目に。


「ご、ごめんなさい。本当にごめんなさい。本当にそういうんじゃないんです。本当にごめんなさい。本当にごめんなさい!」


 少女の体は震え、そしてずっと謝罪の言葉を吐き捨てた。

 そして自分の行動を恥じるように……タダユキに背を向けて走り去っていった。

 ずっと「ごめんなさい」と言いながら。


「一体どうしたって言うんだ、あの子は」


 タダユキはただ呆然として、首を傾げた。


「ユウリがあの子に何かしたのか……いや、まさかな」


 額を指で小突きながらタダユキはガラス扉を閉める。


 外は春の太陽が照らないせいでどんよりとしている。

 そして拍車をかけるようにして、ポツポツと小雨が降り始めた。


「午後に降ると思っていたが……早かったな」


 ガラス扉の外を見ながらタダユキは思う。

 ……あの子は大丈夫だろうか、と。

 名前を知らずに去っていった少女のことが気がかりだった。


(第十一話:名前─ミーニング─ 完)

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